世界の建築様式 ~ 10.ロココ編

世界の建築様式

10.ロココ編


 18世紀の後半、ヨーロッパの覇権を巡って、フランス・ブルボン家とオーストリア・ハプスブルク家とは激しく対立していた。しかし、1756年5月2日、長年敵対してきた両国は今までの怨恨を忘れ、突如として、仏墺同盟(ふつおうどうめい)を結んだのである。不幸は、このとき始まった。

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オーストリア女帝 マリア・テレジアの肖像 1759年
画:Martin van Meytens(マルティン・ファン・メイテンス)
ウィーン造形美術アカデミー付属美術館蔵


 オーストリアは、ヨーロッパの強国プロイセン(現在のドイツ北部)との戦争(1740~48:オーストリア継承戦争)で、1742年に、豊かな鉱工業地帯シュレジェン地方をプロイセンから奪われてしまっていた。オーストリア・ハプスブルク家で唯一の女帝だったマリア・テレジア(英語名:マリア・テレサ、仏語名:マリー・テレーズ)は、シュレジェン地方を奪還すべく、それまで対立していたフランス、ロシアとの同盟に向けて動いた。ハプスブルク家の生き残りを賭けた外交であった。まず、1746年、オーストリアはロシアと同盟を結んだ。フランスとの同盟は、ハプスブルク家とブルボン家は200年以上にわたって覇権を争ってきた宿敵であったために交渉は難航した。1755年、ウィーンのベルヴュー城館庭園内の小亭で、フランス、オーストリアの秘密会談が行われ、両国が同盟を結ぶことが決められた。このとき、立ち会ったフランス側の実力者は、時のフランス国王ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人だった。フランスはポンパドゥール夫人の意見に大きく影響され、この結果、ハプスブルク家とブルボン家とは提携することとなり、両国の同盟が1756年5月2日にやっと成立したのである。これはヨーロッパの外交における一大変化であり、この両家の提携は「外交革命」と呼ばれている。こうして、マリア・テレジアは、ポンパドゥール夫人と交流を深めていった。1756年、フランスのポンパドゥール夫人、オーストリアのマリア・テレジア女帝、ロシア帝国のエリザヴェータ女帝は通じあって、反プロイセン包囲網を結成し、プロイセン王国のフリードリヒ大王を震え上がらせた。

 仏墺同盟の証に、マリア・テレジアは、ブルボン王家皇太子のルイ・オーギュスト(のちのフランス国王ルイ16世)とハプスブルク家の末娘マリア・アントーニア(のちのフランス王妃マリー・アントワネット)との間の政略結婚を画策した。オーストリアでは、マリア・テレジア女帝の指令を受けてパリのオーストリア大使メルシー・アルジャントー伯爵が動いた。フランスでは、ポンパドゥール夫人の重臣だったエティエンヌ・フランソワ・ド・ショワズール公爵が、オーストリアとの同盟関係を強化すべく両家の婚姻に腕を振るうことになった。1766年、アルジャントー伯爵は、ショワズール公爵に打診した。かくて、曲折を経て、1769年6月、ルイ15世から、ようやくマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。

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12歳の頃のオーストリア大公女 マリア・アントーニア 1767
(のちのフランス王妃 マリー・アントワネット)
画:Martin van Meytens(マルティン・ファン・メイテンス)
Schonbrunn Castle, Vienna (ウィーン、シェーンブルン宮殿)


 翌1770年4月21日、ハプスブルク家の令嬢マリア・アントーニアはウィーンのシェーンブルン宮殿を出発しパリに向かった。340頭の華麗な馬車行列が、沿道の群衆に祝福されつつ進む。ライン川中流の中州に建設された仮宮殿が、一行を待っている。その広間で引渡しの儀式が行われて、大公女マリア・アントーニアはオーストリアの随員と別れて、フランス側の随員と合流する。これからは、アントーニアの世話役となる女官長ノアイユ伯爵夫人がかしずく。ラインを渡ればフランス・アルザス地方の街道の町ストラスブールである。アントーニアはガラス張りの儀装馬車から沿道の群衆に会釈する。その微笑の美しさ。

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ウィーン ハプスブルグ家 シェーンブルン宮殿
Picture from Wikipedia


 一行はつつがなく、ウィーン出発から24日目に、パリ北方コンピエーヌの森に着いた。ルイ15世以下のブルボン王家一族が待ち受けている。5月の森は、きらびやかな服装に彩られ、目が醒めるように輝いている。ラッパの吹奏が花嫁行列の到着を知らせると、国王ルイ15世は馬車から降り立った。それを見て、アントーニアは足早に王に近づき、優雅に腰を沈めて初対面の挨拶をした。

 1770年5月16日、パリの西南約20kmのヴェルサイユの地にあるヴェルサイユ宮殿において、当時16歳のルイ・オーギュストと当時14歳のマリア・アントーニアとの婚儀が盛大にとり行われた。以後、マリア・アントーニアは、マリー・アントワネットと名乗る。なお、ルイ・オーギュストは、ルイ15世が1774年5月9日に崩御したため、翌5月10日に、フランス国王として即位した。ルイ16世の誕生である。

 2人が婚儀を行ったヴェルサイユ宮殿は、思い出の場所となるべき宮殿であったのだが、悲劇の始まりの場所となってしまった。2人の結婚式は、ヴェルサイユ宮殿のロココ文化花開く王室礼拝堂で、華やかに行われたのであったが・・・。

リンク:
  ---- ほろびゆくものは美しい
   Tabi-taroの言葉の旅 「マリーアントワネットの結婚式」
    http://blog.goo.ne.jp/tabi-taro/e/4bfe75a7d90154cb68a4579073747972


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ヴェルサイユ宮殿
Picture from Wikipedia


 ロココとは、18世紀フランスを中心としたヨーロッパの繊細優美な装飾美術や生活様式をのことをいう。フランス革命の悲劇の王妃マリー・アントワネットは、そのロココ様式を愛しロココの薔薇と讃えられた。

 一般的に、ロココ時代とは、ルイ15世の晩年までとされ、ルイ16世とマリー・アントワネットの時代は、新古典主義とされている。しかし筆者は、それは新古典主義の萌芽期であり、フランス革命までをロココ時代と呼び、ルイ16世とマリー・アントワネットが断頭台の露と消えたフランス革命によって、ロココ時代が終焉したとみるのが妥当ではないかと考える。

 このブログを書いていくにあたって忘れてはならないものが「歴史」だ。文化を知るために、その時代の歴史的背景を無視することはできない。その時代だからこそ、生まれたもの、流行したものが、文化には必ず存在するはずだ。

 パリ郊外にサン・ドゥニ大聖堂という教会堂がある。イングランドにおけるウェストミンスター寺院と同様、歴代のフランス国王のほとんどがここに埋葬されている。ここに、フランス革命で1793年に、革命派によってギロチンにかけられて処刑されたルイ16世と王妃マリー・アントワネットの墓がある。以下、革命に飲み込まれた王妃マリー・アントワネットの悲劇の物語である。

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サン・ドゥニ大聖堂にあるルイ16世とマリー・アントワネットの像


●フランス革命

 17世紀、フランスでは、ブルボン朝のルイ14世の治世下(1661-1715)において、国王の権力があらゆる権力に優先した絶対王政が確立された。ルイ14世は、「朕(ちん)は国家なり」と称して専制君主となり、貴族を朝廷に仕えさせ、官僚制とヨーロッパ最大の常備軍を整えるなど、その権勢はまさしく頂点に達し、「太陽王」と呼ばれるようになった。ルイ14世の下で、フランスはヨーロッパにおいて圧倒的な勢力を誇っていた。またルイ14世は、バロック様式の典型であるヴェルサイユ宮殿を建設した。それは、贅の限りを尽くして立てられた豪華絢爛な宮殿であり、宮廷は栄華を極めていた。この浪費と贅沢が、やがてはフランス革命に繋がっていくのだが・・・・

 18世紀になるとヨーロッパ各国では、平等、人民主権など人間の解放を唱える啓蒙思想が広まってきた。しかし、フランスでは18世紀後半に至っても、君主主権が唱えられブルボン朝による絶対君主制の支配が続いていた。当時のフランスの社会は、アンシャンレジーム(旧制度)という伝統的な身分制度を残しており、第一身分といわれた聖職者、第二身分といわれた貴族がさまざまな特権を持つのに対し、第三身分といわれた平民は、市民や農民などで生産活動を通じて経済を支えているにもかかわらず、何らの政治的権利を与えられていなかった。第三身分はフランス国民そのものであるのだが・・・

 当時のフランスは、ルイ14世が作り上げた王朝文化の余香がまだ残っていた時代であった。しかし、国家財政はルイ14世の晩年頃から陰りを見せていた。ルイ16世の1780年代になって、45億リーブルにもおよぶ財政赤字が大きな問題になった。赤字が膨らんだ主な原因は、国王ルイ14世時代以来の対外戦争の出費、アメリカ独立戦争への援助、宮廷の浪費などである。財政赤字は王政の危機につながる。ルイ16世はこれをなんとか建て直すべく、はじめ経済学者のテュルゴーを財務総監にして国政改革に力を入れたが、1776年、聖職者と貴族の抵抗でテュルゴーが辞任に追い込まれると、ルイ16世はスイスの銀行家ネッケルを財務長官に任命して、改革路線を更に推進した。しかしネッケルに対しても聖職者と貴族の抵抗は強く、国民から人気のあったネッケルは、1781年、ルイ16世によって罷免された。

 そんな時、1785年、王室の権威を失墜させ、フランス革命の遠因となった事件が起きた。世に言う「首飾り事件」である。事件は、ラ・モット伯爵夫人と自称する女性がストラスブールの大司教に、王妃マリー・アントワネットの名前を出して160万リーブルのダイヤの首飾りを購入させ騙し取るというものであった。完璧な詐欺事件で、この事件に関してはマリー・アントワネットには何の責任も無いのだが、国民に大きな衝撃を与えた。「王妃の名前をかたれば、そんな高額の買い物ができるのか?」「国民がこんなに苦しんでいるというのに、王妃はそんな贅沢をしているのか?」と。この事件でマリー・アントワネットの人気は急落してしまう。

 1787年、打つ手がなくなったルイ16世は、名士会、三部会を召集した。名士会とは、国王の諮問機関であり、三部会とは、聖職者、貴族、平民の三つの身分の代表者による議会である。そして、1788年、ネッケルが国民の声に押されて再任された。しかし、平民代表と貴族代表の対立は解決できず、三部会で平民代表の勢力が強くなっていくのを懸念したルイ16世は、1789年、憲法制定を強く誓った有名な「テニスコートの誓い」を行った。これにより、ルイ16世は、聖職者と貴族に平民と合流することを勧告し、平民代表が要求していた国民議会を承認した。しかし、貴族たちはこれに抵抗した。ルイ16世は、貴族たちの圧力に押されて、愚かにも軍隊をヴェルサイユに集結させ、またもや、財務長官ネッケルを罷免した。

 7月12日、ネッケル罷免のニュースは、強風のようにパリ全市に広がった。ネッケル放逐はパンの値上がりを意味する。いつもなら2キロのパンは9スーなのに、なんと今は15スーもするのだ。太陽王ルイ14世の死去した1715年以降の最高値であって、パン代が下層民の家計の4分の3を占めつつあった。

 前年からの凶作でパンの値上がりに苦しんでいたパリの民衆は、ネッケルの罷免や数万の軍隊がパリを包囲しつつあることに反感を抱き、パリのあちこちに集まり不満や不安をもらしていた。群衆はオルレアン公フィリップ(ルイ14世の弟)の公邸パレ・ロワイヤルに集結した。オルレアン公は、王位を狙う野心家であったが、進歩的ポーズをとったので、大衆の間に爆発的人気があった。王政とくにアントワネット王妃を批判する世論は、オルレアン公が陰で指導しているらしかった。オルレアン公は公邸を革命家になる思想家たちのアジトとして提供した。パレ・ロワイヤル界隈では、扇動者が市民に武装を呼びかけた。

 我々は、フランス革命は起こるべくして起こった、と単純に思い込みがちである。しかし、それは後付けの理解である。旧来の王政は、決して反動的で市民を一方的に抑圧していたわけではなかった。身分制の社会で自由が抑圧されていた市民たちの堪忍袋の緒がついに切れて、それが革命の勃発となったというのは間違った解釈である。パリ市民は、はじめから王政の否定などを求めたわけではなかった。王政の否定ではなく、イギリスのような立憲王政を求めていたのだ。それが、宮廷側の対応の誤りや、過激派の煽動、いくつかの偶発的な出来事の重なりなどによって、革命という悲しい事態に至ったのだ、と筆者は理解している。

 7月12日、オルレアン公の宮廷のあるパレ・ロワイヤル広場で、革命派ジャーナリストのデムーランが6000人の群衆を前に「市民諸君、武器をとれ!」と演説し、民衆は武器商を襲い市民軍が結成された。「武器をとれ、武器をとれ!」と群衆は連呼しつつ、行進を始めた。やがて、パリは大混乱におちいった。

 7月13日の早暁5時、パリ市民は早鐘と非常太鼓の乱打によって、眠りを破られた。これは全市武装の合図である。だが、武器が足りない。群衆は、武器弾薬を徴発するのに鉄砲店に踏み込み、総額11万リーブルを超える武器を奪った。他方、市民数千は、慈善給食事業で知られる裕福なサン・ラザール修道院を襲って備蓄食糧を略奪して運び出した。この襲撃の背後には、パレ・ロワイヤル派すなわちオルレアン公一味の煽動工作があったらしい。

 やがて、パリの群衆は、アンヴァリッド(廃兵院) に小銃が蓄えられていることを知った。7月14日午前6時、パリの空は晴れわたっていた。怒ったパリの暴徒は廃兵院を襲って、32,000挺の小銃と、20門の大砲を奪った。

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「廃兵院襲撃」 作者 不明


 続いて弾薬が当時は火薬庫であったバスティーユ要塞にあることを知った。午前10時、猛暑のパリ。暴徒は、バスティーユ要塞を襲撃した。要塞は牢獄としても使用されていた。2万人以上のパリ市民は、100人ほどのバスティーユ要塞守備隊と2時間をこえる砲撃・銃撃戦の末、午後8時、要塞の守備隊は降伏した。そして、バスティーユ牢獄につながれていた囚人7名が解放された。この日、要塞を守っていたのは、司令官ローネエ侯爵、32人のスイス人傭兵と約80人のフランス兵であった。暴徒は、ローネエ司令官の首を槍先に刺してパリへ凱旋した。世にいう「フランス革命」の勃発である。ルイ16世は、リリアンクール公爵から要塞陥落の報告を受けた。聞き終わったルイ16世の「暴動か?」という言葉に、公爵は答えた「いいえ、陛下、革命でございます」。7月15日、国民議会は、バスティーユの暴徒を「光栄に満ちたもの」「正義は民衆にあり」と評価した。

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バスティーユ襲撃
「バスティーユの占領/勝利の直後の絵」 作者 不明


 バスティーユ襲撃は、圧政から市民の解放を告げるのろしである、という解釈がじきに流されはじめた。しかし、これは、どうやら現実というより、革命派の一部による神話化といったほうが正しそうである。詰めかけたパリ市民が、パリに駐屯した国王軍の脅威に対峙しようとしていたこと、これは確かである。武器弾薬を求めて、廃兵院やバスティーユ要塞を襲ったのも事実である。しかし、彼らの頭には、王政そのものの打倒計画などはなかった。暴動は不測の事態であった。しかし、この不測の出来事が、誰しもが予想もしていなかった革命への急速な展開に、道を開いた。

 バスティーユでの事件が各地に伝えられると騒乱はフランス全国に飛び火し、農民暴動が起こった。農民達が貴族領主や大地主の館を襲撃し、封建的な租税や賦役の根拠となった土地台帳を焼却、抵抗した場合は館に火を付け領主を殺害するという暴動が、フランス各地で発生した。このような情勢に一部の貴族は国外へ逃亡を始めた。

 革命が進む中、マリー・アントワネットはこのままパリにいるべきではないと考えた。1791年6月20日、遂にパリからの脱出が決行される。国王一家は、庶民に変装して居城のテュイルリー宮殿を抜け出しパリを脱出し、王妃の故郷オーストリアへ向かった。しかし、これは取り返しのつかない、死を招く結果となったのである。国境近くの町ヴァレンヌで馬車を止められ、庶民に変装していたとはいえ身元がばれてしまう。6月25日、国王一家はパリに連れ戻された(ヴァレンヌ逃亡事件)。パリの民衆は、国王の逃亡を初めて聞かされたとき、国王がいなくても朝の太陽が昇ったといって驚いたくらい素朴だった。しかし、この素朴な信頼はすぐに激しい怒りに変わっていった。この事件をきっかけに、国王一家は親国王派の国民からも見離されてしまう。

 1793年1月16日、フランス国民公会は、361票対360票の一票差で国王ルイ16世の処刑を決定した。罪状は、国民に対する裏切りの罪。1月21日、2万人のパリ市民が見守る中、国王はパリの革命広場(現在のコンコルド広場)でギロチンによって公開処刑された。

 王妃マリー・アントワネットは提示された罪状についてほぼ無罪を主張し、革命裁判は予想以上に難航した。革命派による裁判の汚い企みに対し、王妃は裁判の傍聴席にいた全ての女性に自身の無実を主張し大きな共感を呼んだ。しかし、この出来事も判決を覆すまでには至らず10月15日、マリー・アントワネットは死刑判決を受け、翌10月16日、コンコルド広場においてギロチンが下ろされ王妃は断頭台の露と消えていった。

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マリー・アントワネットの処刑
Marie Antoinette's Execution 1793 Concorde


 マリー・アントワネットは、処刑の前日、ルイ16世の妹エリザベト宛ての遺書を書き残している。内容は「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」というものであった。遺書には「人生で最も大切なことは、自分の主義を守り義務を果たすことです」と訓戒も記している。この遺書は看守から経由して、後に革命の独裁者となるロベスピエールに渡されたが、ロベスピエールはこれを自室の書類入れに眠らせてしまう。遺書はフランス革命後に発見され、娘マリー・テレーズがこの文章を読むのは1816年まで待たなければならなかった。マリー・アントワネットの名誉回復には、結局死後30年以上を要した。現在では、彼女に対する「浪費家」「浅はか」「この上なく軽薄」といった悪評は、その殆どが中傷やデマだということが判明している。例えば、飢餓に陥って反乱を起こしている民衆に向かい、マリー・アントワネットは「パンがなければお菓子(ケーキ)を食べればいいのに」と発言したと言われているが、ことの真相は、反マリー・アントワネット派貴族による噂だったり、当時の文献の誤訳や誤解が元になっているようだ。「お菓子を食べればいいじゃない」の発言の原文は、仏: “Qu'ils mangent de la brioche”、直訳すると「彼らはブリオッシュを食べるように」となる。ブリオッシュは当時は、バターと卵を普通のパンより多く使った、いわゆる「贅沢なパン」であったようだ。残念なことであるが、市販の書籍にも、インターネットの記事にも、かつての文献の悪評に基づいて書かれているものが散見される。

 フランス革命後の独裁者ロベスピエールによる恐怖政治やその後のナポレオン帝国の崩壊によって、フランス革命は問い直され王政復古が行われて、フランス革命によって途絶えていた王政は、1814年にルイ18世が即位しブルボン朝の王政が復活した。ルイ18世は、ルイ16世とマリー・アントワネットの遺骸を捜すよう命じた。2人の遺体は1815年1月21日に発見されて、共同墓地となっていたマドレーヌ寺院に葬られたが、それから22年後、ナポレオン1世の命令によりサン・ドゥニ大聖堂へと改葬された。

 マリー・アントワネットは、幼少の頃から、18世紀の宮廷栄華の環境の中で育ち、波瀾万丈の生涯を過ごした王妃である。政治的に利用され、栄華を極めそしてどん底を味わい、それでも毅然と生きて行った。革命勃発からは、弱気になる王をたすけ宮廷内の反革命の星となる。王妃という置かれた立場をよく理解し、死の瞬間まで王妃として気高く振舞い悲劇の最期を遂げた。文化的には、彼女はその置かれた時代、環境のなかで、秀逸な感性、美意識を100%ロココに向けた。それがゆえに、その名を永遠に歴史にとどめることになった王妃だった。得がたい「気高さ」に通じる。

●ロココ様式

 ロココとは、ヴェルサイユ宮殿の庭園を飾った貝殻模様の人口大理石のロカイユと言う名称に基づいている。その曲線模様のモティーフは、貝殻装飾、紋章の縁飾りとして使われるカルトゥーシュ、アカンサスなどから採られ、それらを自在に変形させ組み合わせてつくられる。

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ロカイユ装飾


 ルネサンス様式は、ローマカトリックの締め付けからの人間性の解放を、バロック様式はその逆に、ルネサンスで解りづらくなった宗教芸術を、より簡潔に解りやすくするためにドラマチックに描いた芸術である。ここで、18世紀になって新たに台頭したのが王侯貴族の文化である。バロックの様式を採用しつつ、よりカトリックの宗教色を薄め、曲線と柔らかで優しく煌びやかな色彩を多用した絵画や建築の様式が好まれるようになった。これがロココ様式である。

 太陽王といわれるルイ14世時代は確立された絶対王政の特徴を示して荘重で豪華絢爛なバロック様式だった。それが太陽王の尊厳と栄光を表していた。ところがルイ15世になると、荘重さよりも軽快で優雅なロココ様式が愛好された。壁面の文節には柱ではなく、曲線を描く額縁を用いるところに特徴がある。これは、ヨーロッパ各国の宮廷芸術に大きな影響を与えた。従来の大きな広間よりも小さな部屋の快適さが好まれ、宮廷は優雅な社交の場になった。さらにルイ16世時代になると、ロココ芸術の過剰な装飾性に対する反動として荘厳さや崇高美を備えた建築が模索された。これは新古典主義といわれている。一般に、新古典主義とは、18世紀後半以降、フランスで見られた古代ギリシア・ローマ(古典古代)への回帰運動を指して使われるようになった言葉である。しかし、前述したように、筆者はフランス革命によってルイ16世とロココを愛した王妃マリー・アントワネットが倒れ「ロココ」が終焉を迎えたと認識するのが妥当なような気がする。

 これに基づいて、ロココ時代を区分すると次のようになろう。
*ロココ初期:オルレアン公フィリップ(ルイ14世の弟)の摂政時代(1715-23)。「レジャンス(摂政)様式」ともいう。
*ロココ盛期:ルイ15世の治世(1723-74)。「ルイ15世様式(ルイ・カーンズ スタイル)」ともいう。
*ロココ末期:ルイ16世の治世(1774-91)。「ルイ16世様式(ルイ・セーズ スタイル)」ともいう。

 ルイ16世の治世とルイ16世紀様式の時代は必ずしも一致しないのだが、一般的にルイ16世様式というと、1770‐1775年頃以降を指す。この時代をネオ・クラシック・スタイル(新古典主義)の時代のはじまりとみる。

 なお、ヴェルサイユ宮殿には、ルイ14世時代のバロック様式から始まり、以上の各ロココ様式が重なり合って存在している。

 「ルイ15世様式」は、自由奔放で享楽的な生活をのぞんだ貴族達にふさわしく優美で洗練されたスタイルを持っている。上流社会の生活の場も婦人中心のサロンに移り、家具もそれに合わせて小ぶりで使いやすいものが求められ、家具の種類も豊富になり中国趣味(シノワズリー)の家具も好まれた。「ルイ16世様式」は、古典的なスタイルが基調となっている。シンメトリーで古典的もチーフがあしられ、簡素で古典的な格調を特色とするネオクラシシズム(新古典主義)の主導的な役割を果たした。ロココ時代における新古典様式の芽生えを読みとることが出来る。なお、パリのパンテオンは紛れもなく新古典主義の傑作である。

 なお、ロココ様式は、フランス革命によって貴族階級が没落し衰退していった。

 
ロココの華 ポンパドゥール夫人

 ロココの確立に貢献したのは、ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人だ。

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ロココの華 ポンパドゥール夫人
絵:フランソワ・ブーシェ (1756年)


 本名をジャンヌ・アントワネット・ポワソンといい、彼女は、平民という身分ながら(パリの銀行家の娘)ブルジョワ階級の娘として貴族の子女以上の教養と才能を持った女性だった。ル・ノルマン・デティオール(徴税請負人)と結婚し、タンサン夫人やジョフラン夫人の超一流サロンに出入りした頃、その美貌がルイ15世の目に留まる。彼女は夫と別居し、1745年、ポンパドゥール侯爵夫人の称号を与えられ正式にルイ15世の公妾になりヴェルサイユ宮殿にやって来る。学芸的な才能に恵まれていた彼女は、サロンを開いてヴォルテールやディドロなどの啓蒙思想家を招いて親睦したり、芸術家のパトロンとして、様々な芸術家と親交を持ち、フランスを中心としたロココ様式の発展にも大いに寄与した。一方怠惰なルイ15世に代わり、冒頭に書いたブルボン家とハプスブルク家の和解や、フランス、オーストリア、ロシアの同盟による反プロイセン包囲網の結成など、19年間事実上政治の中枢でフランスを動かした。ルイ15世の寵を一身に集め、43年に満たない生涯を華やかに、生き生きと生きた女性だった。

 ロココ時代の代表的な工芸に、「セーヴル磁器」がある。ポンパドゥール夫人の最も輝かしい功績は、このセーヴル磁器の事業だ。ポンパドゥール夫人はフランスが世界に誇れるセーヴル磁器を生み出した。この磁器を彩る色彩のひとつに、彼女を讃える「ポンパドゥール・ピンク」ないし「ポンパドゥール・ローズ」という色が誕生した。今現在は約6000ピースに限定生産され、全てオフィシャルギフトへ流れてしまうので手に入れることは難しく、そのことから幻の磁器といわれている。

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ポンパドゥール夫人が生み出した「セーヴル磁器」



■■ ロココ建築の代表的な建物 ■■

●ヴェルサイユ宮殿王室礼拝堂 (フランス) 1710

 フランスの世界遺産であるヴェルサイユ宮殿は、ルイ14世治世下のバロック様式の建築物であるが、宮殿内の王室礼拝堂は、ロココ様式である。ここで、ルイ16世とマリー・アントワネットの結婚式が行われた。

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ヴェルサイユ宮殿王室礼拝堂
Picture from wasalaam's site


 この王室礼拝堂は、ジュール・アルドゥアン=マンサールの考案によるものだが、1710年、建築家の死後2年目にやっと献堂された。

●シェーンブルン宮殿内装 (オーストリア) 1743

 宮殿は、ウィーン郊外にあるハプスプルク家の離宮。 1695年オーストリアのレオポルド1世がハプスブルク家の狩猟の森に建てた。1743年に女帝マリア・テレジアが改築をはじめ、実際に彼女が居城として用いた。絶大なる勢力を誇ったハプスブルク家の栄華を示す建物である。マリー・アントワネットは結婚までの日々を家族とともにここで過ごした。

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シェーンブルン宮殿内装
Picture from imagevienna's site


 外壁をマリア・テレジアがイエローに塗り替え、マリア・テレジア・イエローと呼ばれている。内装はロココ様式で統一されていてとても華やかである。


●オテル・ド・スービーズ 冬の間 (フランス)1735~1740

 パリのスービーズ侯爵邸。ジェルマン・ボフランが設計したフランスロココの傑作。貴族たちは、宮殿を離れ、オテルやパピヨンと呼ばれる居館に住むようになった。

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オテル・ド・スービーズ 冬の間
Picture from icoffice


壁から天井にかけて局面で構成され一体的に扱われている。金色の装飾がされている。また、椅子では、より特徴的なスタイルが作られている。有名なカブリオール・レッグ(猫足)。

●フォンテンブロー宮殿会議室 (フランス)

 フォンテンブロー宮殿は、フランス屈指の広さと美しさを誇り、フランスを支配した歴代の王たちが最も愛した。11世紀以来、王家の狩猟場として愛されたフォンテーヌブローの森に、16世紀前半、フランソワ1世がイタリアルネサンスのレオナルド・ダ・ヴィンチの影響を受けて建築したフランス初の本格的なルネサンス様式の豪華な宮殿である。

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フォンテンブロー宮殿会議室
Picture from icoffice

 
 この宮殿の「会議の間」は天井、壁などが18世紀、ルイ15世のロココの時代に煌びやかに改築され、会議に使用される部屋となった。

●ヴィース巡礼教会 (ドイツ)1745~1754

 ロマンチック街道の南端、ノイシュバンシュタイン城で名高いフュッセンから20キロほどのヴィースにあるロココ建築の最高傑作といわれるキリスト教教会。1745年から54年にかけてヨハン・バプティストとドミニクス・ツィンマーマンによって建てられた。
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ヴィース巡礼教会
Picture from tabi-taro's site (Tabi-Taro 旅の記録 訪問(宿泊)都市別リストより)

 この教会は、変哲もない草原に突如現れる信じられないほど美しい教会でした。その天上を見上げた人々は、誰でもが一瞬声を失います。Tabi-Taro 


内装はロココ装飾でも著名である。
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ヴィース巡礼教会の天井画
Picture from Wikipedia


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MyPage リンク: 世界の建築様式 9.バロック編 
              http://matiere.at.webry.info/201005/article_2.html
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参照資料/引用資料
         詳説 世界史研究」 山川出版社
         「西洋建築様式」 美術出版社
         「物語 世界史への旅」山川出版社
         「興亡の世界史13 近代ヨーロッパの覇権」講談社
         「ヴェルサイユ宮廷の女性たち」文藝春秋社

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