世界の建築様式 ~ 4.古代ローマ編 (続)

世界の建築様式

4.古代ローマ編 
       
         前編は、こちら→ http://matiere.at.webry.info/201003/article_2.html

  (3) 簡単古代ローマの歴史概要

 古代ローマの建築とは直接関係ないが、ことのついでに(あらかじめ調べておいたついでに)、以下、古代ローマの歴史を簡単にまとめる。古代ローマの歴史は1,229年間だが、そんなに時間をかけず1日で読めるように略記する。なお、ローマ人等の人名は、ここでは、原則として、慣例によりイタリア語の元祖ラテン語の読みで表記する(例えば、英語読みのシーザーは、ラテン語読みではカエサルである)。
(以下、紀元前をB.C.と略記し、紀元後をA.D.と略記する。)

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イタリア 州別地図
(地図 クリックで拡大)


 古代ローマとは、イタリア半島中部に位置した多部族からなる都市国家から始まり、領土を拡大して地中海世界の全域を支配する世界帝国になった国家の総称である。ここでは、B.C.753年のローマ建国(伝説)からA.D.476年の西ローマ帝国滅亡までの1229年間を古代ローマとする。

 ローマは、イタリア半島の中央ティレニア海沿岸に定着したラテン人(=イタリア半島中西部に居住していた民族)がつくった集落のひとつ(都市国家)から起こった。なお、現在イタリアではイタリア語が使われているが、イタリア語はラテン語から派生してできた言語である。

 古代ローマの詩人ヴェルギリウス(B.C.70年~B.C.19年)が大叙事詩「アエネイス」で建国伝説を詠っている。それによると、トロヤの英雄アエネアスが、トロヤ落城後、長い漂浪をへてラティウム(ローマ近郊のラテン人の町)にローマ建国の基礎を築き、その子孫ロムルスは 双子の兄弟レムスとローマ市内を流れているティベル川に捨てられたが、牝狼に拾われ育てられ、後にロムルスがB.C.753年にローマ市を建て、ローマ初代の王となったという。

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ローマ建国の始祖ロムルスとレムスを育てた雌狼
「カピトリーノの雌狼」のブロンズ像
(ローマ建国の伝説による)
ローマ カピトリーニ美術館


 イタリア半島に最初に文明を持ち込んだのは、B.C.9世紀ころギリシアから南イタリアに植民したギリシア人と、B.C.8~1世紀、半島中央から北部にかけて居住していた先住民族エトルリア人であった。

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エトルリア人の遺跡


 エトルリアとは、B.C.7世紀~B.C.1世紀、現在のイタリア共和国の中部を中心とした地域の呼称。主にエトルリア人の居住した地域を指す。エトルリア人は、B.C.7世紀から1世紀にかけて、イタリア地域に所在し、最盛期にはポー川(イタリア北部の川)流域からポンペイ(ナポリ近郊にあった都市)の近くまでを勢力圏におさめていた。未だに不明確な点が多いが、エーゲ文明の流れを汲む幾何学文をもち、ギリシアや近東風の土器を作成したので、小アジア(トルコ近辺)を起源とする海洋民と推測されている。B.C.7世紀頃にエトルリア人は先住民のヴィラノーヴァ人を征服し、ローマを手中に入れ、イタリア北半を領有したことが判明している。

 ヴィラノーヴァ人は、ヴィラノーヴァ文化が栄えていた時代である紀元前10世紀のイタリック先住民であり、イタリアで一番古い民族だといわれている。

 エトルリア人については、その起源は明らかではないが、東方からの移住民族とイタリアの土着民との混交により、イタリアで生まれた民族であろうといわれる。その文化は地中海とオリエントの融合から、独自性を持った文化が創出された。エトルリア人は先住民のヴィラノーヴァ文化を継承したとも考えられている。その文化はギリシアの影響を強く受けており、紀元前9~8世紀にはいくつもの都市を形成し、独自のすぐれた文化を発展させた。エトルリア人は他の民族に征服されることはなく、徐々に古代ローマ人と同化し消滅していった。彼らはギリシア美術の影響のもとで独自のすぐれた芸術を発展させた。その芸術は、のちのローマ芸術の基本の1つをなしている。彼らが信じた神々や、重視した卜占、役人が用いた標識、凱旋式や剣闘士競技などはそのままローマに受け継がれた。

 ローマはB.C.8世紀頃から、パラチーノの丘を中心とする、テヴェレ川流域の七つの丘にラテン語を話す人々が住みつき都市国家を作ったのを起源とする。最初は王をいただく部族国家だったが、貴族(パトリキ)と平民(プレプス)の別があり、貴族は土地などの所有で平民を圧倒していたが、平民は隷属的な農民ではなかった。伝統的に、貴族階級をメンバーとする元老院と、市民の選挙により為政者を選ぶ民主政が絶妙のバランスを保つ政治システムの下、周辺国家エトルリアの優れた土木技術をフルに活用し、大いに発展し、地中海世界、南部ヨーロッパを含む大帝国を作り、約1000年の間繁栄をほしいままにした。

 ローマ帝国は、紀元395年に西ローマ帝国と東ローマ帝国に分離しており、西ローマ帝国は紀元476年に、東ローマ帝国は紀元1453年に滅亡している。

 西ローマ帝国は首都をローマとし、その領土範囲は、イタリア(現在のイタリア半島)、ガリア(現在のフランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルグの一部)、ヒスパニア(イベリア半島)であり、東ローマ帝国は、首都をコンスタンチノーブル(現在のイスタンブール)とし、その領土範囲は、バルカン半島(ギリシア)と小アジア半島(トルコ)を中心に、西はイタリアから東はシリアまでの版図を有し、東洋と西洋の文明の十字路に位置した。首都コンスタンチノーブルがギリシアの植民都市ビュザンティオンと呼ばれたことから、ビザンツ帝国あるいはビザンチン帝国とも呼ばれる。

 ローマ帝国の滅亡年については、かなり意見が分かれる。これは西ローマ帝国、東ローマ帝国をどう認識するか、また双方とも末期に皇帝権の混乱が発生していることに起因する。代表的にはローマ帝国が東西に分裂した395年、西ローマ帝国が事実上滅亡した476年、東ローマ帝国が滅亡した1453年のいずれかの時点を持って滅亡年とすることが多い。

 東ローマ帝国は、正式な国号は「ローマ帝国」であるが、日本で通常「古代ローマ」と言う場合、中世におけるローマ帝国である東ローマ帝国は含まないことが多い。ここでは、東ローマ帝国はローマ帝国に含めず、紀元前753年のローマ建国から紀元後476年の西ローマ帝国滅亡までの1229年間を古代ローマとする。

 一般に、古代ローマの歴史は、為政者の選び方の違いにより、次の3つの時代に区分される。

(1)王政の時代(ローマ誕生期)   B.C.753年~B.C.509年
(2)共和政の時代            B.C.509年~B.C.27年
(3)帝政の時代             B.C.27年~A.D.476年

 以下、各時代を簡単に概観してみる。

(1)王政の時代(ローマ誕生期)   B.C.753年~B.C.509年

 ローマという都市名は、先住民エトルリア人の「ルモン(川の町)」に由来するとも、この都市を建設したとされるロムルスに因むとも言われている。

 伝説によると、B.C.753年4月21日に一人の若者ロムルスと彼に従う3千人のラテン人により、ローマは建国されたとされる。

 ローマ建国までの伝説は概ね次のよう伝えられている。「トロイア戦争で敗走しイタリア半島に住みついたトロイア人の末裔に、双子の兄弟がいた。兄弟は狼に、その後羊飼いに育てられ、ロムルスとレムスと名づけられた。兄弟は自らが育った丘に戻り、テヴェレ川の畔に新たな都市を築こうとする。しかし兄弟の間でいさかいが起こり、レムスは殺される。この丘、パラティヌスに築かれた都市がローマであった。B.C.753年4月21日をもって都市国家ローマの建設とされる。こののちローマは領域を拡大させ、七つの丘を都市の領域とした。」

 七つの丘とは、「ローマの七丘(しちきゅう)」のことであり、ローマの市街中心部からテヴェレ川東に位置する古代ローマ時代の七つの丘のことである。イタリア語読みで書くと、次の7つである。

1 カピトリーノの丘、2 パラティーノの丘、3 クィリナーレの丘、4 ヴィミナーレの丘、5 エスクィーノの丘、6 チェリオの丘、7 アヴェンティーノの丘。

 B.C.7世紀末にエトルアル人の王によって、丘の間の平地をフォルム(公共広場)とし、神殿・集会所などをもつ市(都市国家)が形成された。現在においては、当時の丘の間の谷間が、建築を重ねることによって埋め立てられたことにもより、ただ地図を眺めているだけでは、7つの丘の存在を実感することは、なかなか難しい。

 7代続く王のうち、ロムルスを含め最初の4代はラテン系(またはサビニ系)で、あとの3代はエトルリア系とされている。王の在位は次の通りと伝えられている。

 1.ロムルス B.C.753年 - B.C.715年:ラテン系
 1.ティトゥス・タティウス(ロムルスと共同統治したサビニ人王):サビニ系
 2.ヌマ・ポンピリウス B.C.715年 - B.C.673年:ラテン系
 3.トゥッルス・ホスティリウス B.C.673年 - B.C.641年:ラテン系
 4.アンクス・マルキウス B.C.641年 - B.C.616年:エトルリア系
 5.タルクィニウス・プリスクス B.C.615年 - B.C.579年:エトルリア系
 6.セルウィウス・トゥッリウス B.C.579年 - B.C.534年:エトルリア系
 7.タルクィニウス・スペルブス B.C.534年 - B.C.509年:ラテン系

 初期のローマ人はエトルリアの高度な文化を模倣したとされる。ローマは7代続く王政の下で国家としての形態を整えてゆく。王政時代初期の頃は、現在の市街地である低地は湿地帯で居住には適さなかった。王による灌漑工事が進み、低地にも住めるようになり、政治の中心は現在も残るフォロ・ロマーノに移った。

 フォロ・ロマーノがいつごろからローマ市の中心となったのかは、はっきりしない。伝承では、ロムルスとレムス兄弟に率いられたラテン人がローマを建設したのは紀元前753年頃とされる。フォロ・ロマーノの整備は紀元前6世紀頃に始まる周辺の土地の先住民と抗争を繰り返し、徐々に版図を広げ、王政末期には、イタリア半島の有力な国家の一つに発展した。略奪を目的とする異民族の襲撃から町を守るため6代目の王セルヴィウスが七つの丘を取り囲む城壁を作った。この城壁は、カエサルによって取り壊され、現在はテルミニ駅の前にわずかに残っている。B.C.509年に専制的な王を追放することによってローマは初期の貴族共和制に移行した。


年表(王政の時代)

B.C.753年  ティベル河畔にラテン人が、小都市国家を建てる
         ロムルス、ローマを建国(伝説)。王政時代始まる
B.C.615年  先住民族エトルリア人によるローマ支配始まる(~B.C.534年)
         貴族(パトリキ)と平民(プレプス)が分裂
B.C.509年  王政廃止(7代目の王、タルクィニウスを追放)


(2)共和政の時代          B.C.509年~B.C.27年

 7代目の王タルクィニウスがあまりに専横だったため、平民(プレプス)が王権強化に反発する貴族(パトリキ)の呼びかけで決起し、国王をローマから追放して貴族共和政を発足させた。

 ここでは、市民の選挙と、元老院の承認により選ばれる1年任期2名並立の執政官(コンスル)が政務を取り仕切ることになる。戦時には、市民が軍務につき、執政官がこれを指揮する。ただし、軍事力による政治支配が起こらないよう軍の編成・解散は必ずローマ市外で行なわれねばならなかった。執政官は、プレプスからも選ばれたが、解任後は元老院議員の資格が与えられ、政治の実権は元老院の有力者が握っていた。そのため、プレプスの権利を守るため執政官に対し拒否権をもつ護民官制度が設けられた。また、非常時には執政官の1人に6ヶ月を期限とする独裁官権限が与えられることもあった。

 445年頃には、プレプスのうちの有力者が執政官になり、元老院に入って新貴族(ノビレス)となり、政権に参加していたため、元老院が権威と実権をもつ貴族寡頭的なローマの政治体制は維持されており、ギリシアのアテネにみられたような民主政はローマでは実現しなかった。

 ローマは強力な国家となってついにシチリアを支配していたフェニキア人の植民市カルタゴ(現在のチュニジア北部)と衝突することになり、初めて海外に進出して3度にわたる戦争を引き起こした。ポエニ戦争という(B.C.264~B.C.146)。共和政ローマとカルタゴとの間で、地中海世界の覇権を賭けて争われた一連の戦争である。

 第1次戦争は、シチリア島メッシーナの領有をめぐって、カルタゴとローマが戦った戦争である。カルタゴ軍を撃破したローマ軍は、シチリアなどの海外領土を得て、そこに総督を送って統治させ、住民からは税を徴収した。これを「属州」という。

 第2次戦争は、第1次戦争の結果シチリア島をローマに割譲したカルタゴがその損失を補うためローマと戦った戦争である。カルタゴのハンニバルによるローマ侵攻であり、別名ハンニバル戦争という。カルタゴは地中海最高の海軍パワーを誇る国であったため、ローマは海戦に向けて準備をしていた。しかし、思いもかけないことが起こった。海から攻撃をかけてくると思っていたカルタゴは、ハンニバルを先頭に5万の兵と37頭の戦象を率い、途中で遭遇するガリア人を懐柔あるいは服従させつつ、はるか彼方のピレネー山脈を越えて攻めてきたのである。ローマはハンニバルの攻撃は予測していたが、まさかアルプス山脈を越えて侵攻してくるとは思ってはおらず、イベリア半島での戦闘準備を行っていた。これには、さすがのローマも度肝を抜かれた。ローマがハンニバルの進路に気付いたころには、カルタゴ軍は既にローヌ川付近に到達していた。ついにハンニバルはイタリアへ進軍し、ローマの元老院を驚愕させる。あわや!と思ったが、ここで大スキピオと略称されるローマの将軍スキピオ・アフリカヌスがカルタゴ本国を攻め、ハンニバルを北アフリカのザマの戦いで破ってローマの勝利を導いたのである。

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ハンニバル (カルタゴ軍)


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スピキオ (ローマ軍)


 第3次戦争は、ローマがカルタゴを再起不能にするために挑んだ戦争である。カルタゴは二度の戦争で領土の大半を失ったにもかかわらず、貿易によって繁栄を取り戻して、ローマへの高額の賠償金を繰り上げて完済した。しかし、過去連年ライバル・カルタゴに悩まされてきたローマにとっては、カルタゴの驚異的な経済力や復興力は脅威であり、ローマへの将来の禍根を断つ為、いつかカルタゴを徹底的に破壊すべき、という意見が増え始めた。ローマは、カルタゴに言い掛かりを付けて、軍事的に無力になったカルタゴを完膚なきまで叩き潰した。ローマ軍に包囲されたカルタゴの町は陥落し、多くのカルタゴ人が餓死した。残されたカルタゴ人は全て奴隷として売られることになった。そして町の壁や建物は焼き払われ、港は完全に破壊され、周辺の土地は作物が育たぬようにと塩が撒かれたといわれる。カルタゴの領土はローマに併合され、ローマの「アフリカ属州」を形成した。

 ローマとカルタゴが死闘を繰り広げたポエニ戦争は、地中海世界全体の将来まで決することになった。
 なお、カルタゴはローマ軍によって完全に破壊されてしまったため、現存するカルタゴの遺跡は、その後カエサルが再建させた植民都市時代以降のものである。

 ローマは、B.C.2世紀にはギリシア方面にも進出し、ギリシア都市の要請に応じてマケドニアと戦った。はじめはマケドニアからギリシア都市を開放して自由を与えて撤退するなど、ローマは侵略的ではなかったが、第3次ポエニ戦争でカルタゴを滅ぼした同じ年(B.C.146)、ギリシア都市同盟を破ってコリントをも破壊するなど、侵略的姿勢が強まっていた。マケドニアや小アジアの一部をも属州として総督やローマの商人は属州民を激しく搾取した。このようなローマの地中海への進出は、しばしば「ローマの帝国主義」といわれている。

 B.C.1世紀のローマでは内乱が絶えなかった。都市国家ローマと同盟を結んでいたイタリア各地の同盟都市がローマ市民権を求めて蜂起した同盟市戦争(B.C.91年~B.C.88年)が起こったが、これによりローマに深刻な対立の時代が始まった。その主役は平民派の指導者マリウスと、元老院と貴族の擁護派(閥族派)の指導者スッラであった。最終的にスッラが勝利を収め、スッラの独裁体制が始まった。B.C. 78年にスッラが没しポンペイウスが台頭。B.C. 73年に剣奴(剣闘士)のスパルタクスが指導した奴隷の反乱事件が起きたが、ローマ軍のクラッススがこれを鎮圧した。社会不安が大きくなったため、B.C. 70年にポンペイウスとクラッススが執政官(コンスル)として選出された。2人は独裁者スッラが定めた諸法規を廃棄した。のちの帝政ローマの基礎を築いた政治家にユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)がいる。カエサルは有能で聡明だった。B.C.60年、元老院の権力を弱めようと、カエサルはポンペイウス、クラッススと話し合い、3人で元老院を抑えて国政を分かち合うことを決意した。そこで、この3人による第1回三頭政治(B.C.60年~B.C.53年)によって実力による支配体制を敷き、カエサルは翌B.C.59年にコンスルに選出された。しかし、B.C.53年、クラッススが出征先のメソポタミアで戦死すると三頭政治の権力バランスは崩れ、ポンペイウスとカエサルの2巨頭間で政治闘争が表面化した。カエサルは各地の戦争で連戦連勝を重ね、ローマ市民からも絶大の人気を誇っていた。そして、カエサルは元老院を味方につけたポンペイウスの軍をギリシアで退けた後、B.C.45年に終身独裁官(ディクタトル)、任期10年のコンスルとなって事実上の独裁君主に君臨した。しかし、終身独裁官としての絶対的な権力に対し、ローマの共和主義者は共和政崩壊の危機感を抱いた。B.C.44年3月15日、ポンペイウス劇場で開かれる元老院会議へ向かうカエサルは、ついに元老院議員によってポンペイウス劇場に隣接する列柱廊で暗殺された。その暗殺団の中には、カエサルが信頼していたマルクス・ブルトゥスがいた。シェイクスピアの作品『ジュリアス・シーザー』のカエサル暗殺時の名台詞「ブルータス、お前もか」のブルータスは、このマルクス・ブルトゥスを指すと言われている。

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カエサル


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カエサルと、エジプト女王クレオパトラ
19世紀フランスの画家ジャン=レオン・ジェローム作


参照:【歴史】ヘレニズム世界を背負った美女~クレオパトラ
http://matiere.at.webry.info/200409/article_2.html


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世界遺産フォロ・ロマーノの元老院(クーリア)
腹心のブルータスの謀反により、ローマ皇帝カエサルが
殺されたのは、この建物の前だった。


 カエサルの死後、ローマは内乱に突入していった。統治はカエサルの養子オクタヴィアヌス、カエサルの弟子アントニウス、カエサルの弟子レピドゥスの三頭体制に引き継がれていた。B.C.36年、レピドゥスはオクタヴィアヌスと対立し、政界から引退した。アントニウスは東方に関する全権を獲得し、他方、オクタヴィアヌスは西方を管轄とした。これにより、アントニウスの人生は大きく転換することになる。エジプト女王クレオパトラは、カエサル亡きあとの自分の命とエジプトの命運をアントニウスに賭けた。アントニウスはエジプトに赴いた。黄金で飾った船に乗り込んだクレオパトラは、その美貌でたちまちアントニウスを虜にし、アントニウスはクレオパトラに贈り物として、エジプトと当時ローマの支配下にあったシリアの一部をクレオパトラに与えた。すぐさまローマは反応した。オクタヴィアヌスはライバルのアントニウスを取り除くこの好機をとらえ、B.C.31年、ギリシア西部のアクティウムで会戦した。戦争を目前にしたクレオパトラは恐怖を覚え、戦場から逃走してしまった。アントニウスはこれを追い、戦場から離れてしまった。指揮官を失って取り残されたエジプト艦隊はローマ軍のなすがままとなり、完全に壊滅した。
 B.C.30年、オクタヴィアヌスはエジプトに攻め込み、全てを失ったと感じたアントニウスは自殺した。これを聞いたクレオパトラは毒蛇に自分を噛ませ、彼のあとを追った。栄華を誇ったエジプトは、ここにローマの属州となった。

 B.C.29年、オクタヴィアヌスはローマに帰国し、その戦勝の祝いは3日に及んだ。B.C. 27年、元老院はオクダヴィアヌスにアウグストゥス(尊厳者)の尊称を与えた。オクダヴィアヌスは、実質独裁者の座につき、共和政の時代は永遠に幕を閉じた。

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オクタヴィアヌス
(のちのアウグストゥス帝)



年表(共和政の時代)

【イタリア半島の統一期】B.C.509年~B.C.212年
B.C.509年  共和制樹立
B.C.494年  護民官設置--聖山事件(プレプスがパトリキ層に抵抗)
B.C.471年頃 平民会設置
B.C.449年  十二表法制定(ローマ最古の成文法)
B.C.445年  カヌレイウス法(執政官権限の武官を設置、プレプスに執政官が解放され、パトリキとプレプスの通婚が認められる)
B.C.390年  ケルト族、ローマを略奪
B.C.367年  リキニウス・セクスティウス法(執政武官を廃止、執政官の1名
       をぷれぷすより選出、パトリキなど有力者による公有地占有を制
       限、政務官職のプレプスへの解放)
B.C.338年  ラテン戦争に勝利してローマ連合成立
B.C.326年  サムニウム戦争始まる(~B.C.304年)
B.C.312年  アッピア街道敷設
B.C.311年  ローマ艦隊創設
B.C.287年  ホルテンシウス法(身分闘争終結。ローマ民主政の確立)
B.C.212年  イタリア半島全域を支配下に置く
【地中海世界の征服期】B.C.264年~B.C.27年
B.C.264年  第一次ポエニ戦争(~B.C.241年 対カルタゴ シチリアを最初の
属州とする)
B.C.218年  カルタゴ将軍ハンニバル、アルプス越えでローマを攻める
B.C.218年  第二次ポエニ戦争(~B.C.201年 対カルタゴ 西地中海の覇権を
掌握)
B.C.202年  ザマの会戦でスキピオ、ハンニバルを破る
B.C.196年  第二次マケドニア戦争でローマの司令官フラミニヌス、ギリシア諸都市の開放を宣言する
B.C.192年  ローマ・シリア戦争始まる(~B.C.188年)
B.C.149年  第三次ポエニ戦争(~B.C.146年 大カトー没、カルタゴ滅亡)
B.C.146年  アフリカ北部のマケドニアがローマの属州となる
B.C.133年  グラックス兄弟の改革(~B.C.121年 無産市民に公有地割当て、植民)
B.C.107年  マリウスの軍政改革(~B.C.101年)
B.C. 95年  ドルススの改革(~B.C. 91年 イタリア同盟市に市民権付与)
B.C. 91年  同盟市戦争(~B.C.88年)
B.C. 89年  全イタリア同盟市民に市民権付与
B.C. 88年  スッラ(閥族派)が執政官になりマリウス(平民派)と対立、内乱状態になる(~B.C.82年)
B.C. 82年  スッラ独裁(~B.C.79年 元老院支配体制再建)
B.C. 78年  スッラが没しポンペイウスが台頭 
B.C. 73年  剣奴スパルタクスの乱(~B.C.71年)
B.C. 70年  ポンペイウスとクラッスス、執政官(コンスル)に就任(スッラの諸法規を廃棄)
B.C. 63年  キケロ、カティリーナの陰謀を弾劾
B.C. 60年  第一次三頭政治始まる(カエサル、ポンペイウス、クラッススによる新政治体制)
B.C. 59年  カエサル コンスルに就任する
B.C. 58年  カエサル、ガリア(現フランス、ベルギー)に遠征し征服(~B.C.51年)
B.C. 53年  クラッススが戦死
B.C. 49年  カエサル、ルビコン川を渡り、内乱始まる
B.C. 48年  ファルサロスの戦い(ポンペイウス敗れる)
B.C. 46年  カエサル、終身独裁官に就任する(~B.C.44年)
B.C. 44年  カエサル、ブルータスらによって暗殺さる
B.C. 43年  第二次三頭政治(アントニウス、レピドゥス、オクダヴィアヌスによる政治体制)
B.C. 31年  アクティウムの海戦(クレオパトラと手を結んだアントニウスをオクダヴィアヌスが破る)
B.C. 30年  ローマ軍エジプト遠征、オクダヴィアヌスがアレクサンドリアに入城、クレオパトラ自決(エジプトがローマの属州となる)
B.C. 27年  元老院、オクダヴィアヌスにアウグストゥス(尊厳者)の尊称を与える


(3)帝政の時代           B.C.27年~A.D.476年


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ローマ帝国の最大領域


 その政治的才能をカエサルに見込まれ、養子に指名されていた姉方の甥のオクタヴィアヌスはカエサル亡き後、混乱期の政争と内戦を勝ち抜き、元老院から終身の全軍指揮権と護民官特権、アウグストゥス(尊厳者)、プリンケプス(市民の第一人者)、インペラトール(軍人の第一人者)という称号を与えられ事実上の皇帝が誕生した。以後の皇帝は全てこれらの権限と称号を与えられた人物のことで、皇帝という位があった訳ではない。これらの権限は終身のもので、皇帝を退位させる合法的な手段はなく、暗愚で暴虐な皇帝は暗殺か自殺により除くしかなかった。また、皇帝位の継承は、原則的には執政官と同じく市民の選挙と元老院の承認によるが、実際は、皇帝の実子、養子などが生前に要職を占めることにより実績を積み、次期皇帝に選ばれることが多かった。従って、五賢帝時代のように、有能な養子が皇帝となった場合は政治は安定し国勢は発展したが、実子や血統を重んじ、若くして皇帝になった場合(ネロ[オクタヴィアヌスの子孫・クラウディウス帝の子]、コモドス[マルクス・アウレリウス帝の実子]など)悪政となりがちで、暗殺や自殺に追い込まれる羽目になることが多かった。

 カエサル亡きあと、政敵を排除したオクタヴィアヌスは、実質独裁者の座についたが、カエサルが王になろうとしたことで共和主義者によって暗殺されたことから、王になろうとはしなかった。その代わり、「第一の市民」(プリンケプス)と名乗り、元首制を敷いた。実質は独裁政権であったが、オクタヴィアヌスは長い内乱によって乱れていた政治を建て直し、軍備を再整備し、文化の奨励を図った。これ以後、ローマは安定し、華やかなローマ文化が花開いた。

 ローマ建築は、進んでいたギリシア建築をもとに発展していった。ギリシア建築は創造的で華やかな文化を生んだのに対し、ローマ建築はいたって現実的であった。ローマ人の土木建築技術は大いに発展し、数々の大建築物を造った。コンスタンティヌス帝を称えた凱旋門、ローマ市民の楽しみである入浴、観劇、闘技のための大浴場、野外劇場、闘技場などや、市民に水を供給する水道橋、軍隊を迅速に運ぶためのローマ街道、それに付属する橋梁のような非常に実用的なものなど数多くの建築物が造られた。

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コンスタンティヌス帝の凱旋門
パリの凱旋門のモデルになったといわれる
Picture from tabi-taro


 ローマは1日にして成らず、と言われる通り、ローマ人の造った大建築は、国家ローマ帝国そのものであった。ローマ帝国の最盛期は五賢帝(ネルバ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウス)の時代(A.D.96-A.D.160)でトラヤヌス帝のときにその版図が最大となった。また、ローマ市の人口は100万人を数え当時世界最大の都市となった。

 これほどまでに発展し繁栄したローマ帝国は、なぜ衰退し滅亡したのであろうか。どの文明発祥の地でもそうであるが、桁外れに偉大な文明の辿り着く先として避けられない結果であったと思う。すべての存在は、誕生・発展・頂点・下降・消滅というライフサイクルを描いて推移する。平和と繁栄によってローマ人は、貪欲、贅沢、美食、浪費、堕落、買収、快楽、退廃、暴力、殺人、離婚、等々の悪夢の中を彷徨っていった結果、大建造物を支えていた各部分が揺らぎはじめるや、見事な大建築は自らの重量によって崩壊していったのである。その原因は、人々の気力の衰え、自信と覇気の喪失に辿り着くのだと思われる。それを活性化させるには、指導者のリーダーシップに大きくかかっているような気がする。現在の日本の社会情勢は、このような悪夢の中にあるのではなかろうか?


年表(帝政の時代)

【帝国の形成期】B.C.27年~A.D.96年

B.C. 27年 初代皇帝オクタヴィアヌスの誕生(~A.D.14)
       (元老院よりアウグストゥスの尊称を受ける)
       元首政(プリンキパトゥス)--皇帝と元老院の共同統治
A.D. 9年 トイトブルクの森の戦い、属州ゲルマニア放棄
A.D. 14年 アウグストゥスが没し、ティベリウス帝が第2代皇帝に即位。
  アウグストゥスからカリグラ帝、クラウディウス帝、ネロ帝までをユリウス・クラウディウス朝という。
A.D. 43年 クラウディウス帝(A.D.41~A.D.54)、ブリタニアを属州とする
A.D. 54年 クラウディウス帝が暗殺され、ネロ帝(A.D.54~A.D.68)が即位
A.D. 64年 ローマの大火→ネロ帝、キリスト教徒を処刑する
A.D. 68年 ネロ帝、元老院より死刑宣告を受け、自殺
A.D. 68年 第1次四帝乱立期(各地の軍団指揮官が軍隊によって皇帝に擁立され、元老院と対立)
A.D. 69年 内乱期をへてヴェスパシアヌス帝(A.D.69~A.D.79)が即位。
以後、ティトゥス帝、ドミティアヌス帝までをフラヴィウス朝(~A.D.96)と呼ぶ。
A.D. 70年 イェルサレム陥落
A.D. 79年 ヴェスヴィオ火山が大噴火し、都市ポンペイが埋没
A.D. 80年 コロッセオの建設
A.D. 81年 ドミティアヌス帝(A.D.81~A.D.96)、リーメス(長城)建設

【パックス・ロマーナ期】A.D.96年~A.D.180年

A.D. 96年 ネルヴァ帝が即位。
       以後、トラヤヌス帝、ファドリアヌス帝、アントニヌス・ピウス帝、マルクス・アウレリウス帝までを
       五賢帝時代(~A.D.180)と呼ぶ。ネルヴァ帝が即位以後、パックス・ロマーナ(ローマの平和)が
       2世紀あまり続く。
A.D. 98年 トラヤヌス帝(A.D.89~A.D.117)即位。属州出身の最初の皇帝。

画像
トラヤヌス神殿
トルコ ベルガマ遺跡


A.D.117年 トラヤヌス帝がアッシリアを属州として、ローマ帝国の領土は最大になる。
A.D.122年 ハドリアヌス帝、ブリタニアに遠征し、長城を建設
A.D.135年 ハドリアヌス帝、ユダヤ戦争に勝利し、以後、ユダヤ人のディアスポラ始まる。
A.D.161年 マルクス・アウレリウス・アントニウス帝(A.D.161~A.D.180)、哲人皇帝と称される。
       パルティアやゲルマン人の侵入で脅威深刻化
A.D.180年 マルクス・アウレリウス帝死去。五賢帝時代の終わり

【帝国の動揺と再建期】A.D.193年~A.D.235年
A.D.193年 セプティミウス・セヴェルス帝(A.D.193~A.D.211)が即位。元老院を排除。
        ローマとイタリアの特権を除去。セヴェルス朝(~A.D.235年)が始まる。
A.D.211年 カラカラ帝(A.D.211~A.D.217)が即位。
A.D.212年 カラカラ帝、アントニウスの勅令を発布し、属州の全自由民にローマ市民権を与えた。
A.D.217年 カラカラ帝、カラカラ浴場を建設

【帝国のたそがれと崩壊期】A.D.235年~A.D.476年

A.D.235年 軍人皇帝時代(~A.D.284年)が始まり、約50年の間に18代の皇帝が交代した。
A.D.250年 デキウス帝(在位349~251)、大規模なキリスト教徒迫害を行う。
A.D.271年 アウレリアヌスの城壁、ローマを囲う。
A.D.284年 ディオクレティアヌス帝(在位284~305)が即位。大規模な貨幣制度改定。
A.D.293年 ディオクレティアヌス帝、二分した帝国に正・副の皇帝をおき四分割統治
A.D.301年 ディオクレティアヌス帝、最高価格令
A.D.303年 キリスト教徒の大迫害(~A.D.304年)
A.D.306年 コンスタンティヌス帝(在位306~337)即位。
A.D.313年 コンスタンティヌス帝、キリスト教を公認(ミラノ勅令)
A.D.324年 コンスタンティヌス帝、共和帝リキニウスを倒し、ローマ帝国を再統一
A.D.325年 キリスト教の教義統一(ニケーア宗教会議)
A.D.330年 コンスタンティヌス帝、都をビザンティウムに移し、コンスタンティノポリス(コンスタンチノーブル)と改名(現在のイスタンブール)。
A.D.337年 コンスタンティヌス帝が没し、帝国を三分割
A.D.375年 西ゴート族がローマ領内に移住(ゲルマン民族の大移動にさらされる)
A.D.378年 ハドリアノポリスの戦いでファレンス帝が西ゴート族に敗れる
A.D.379年 テオドシウス帝(在位379~395)即位
A.D.392年 テオドシウス帝、キリスト教を国教とする(異教の祭礼を禁止)。
A.D.395年 テオドシウス帝死去、ローマ帝国が西ローマ帝国と東ローマ帝国に分裂
A.D.476年 ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルの侵攻によって西ローマ帝国滅亡。

東ローマ帝国は独自の文化を築きながら1453年まで続く(オスマン・トルコに滅亡される)。


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                                    (参照資料)
                              「詳説 世界史研究」 山川出版社
                              「ローマ人への20の質問」塩野七生著 文春新書

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