【名言】水五訓~黒田如水
●水五訓(水五則)
一つ、自ら活動して他を動かしむるは水なり
一つ、障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり
一つ、常に己の進路を求めて止まざるは水なり
一つ、自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり
一つ、洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり
雪と変じ霰と化し疑っては玲瓏たる鏡となりたえるも其性を
失わざるは水なり

名文である。水五則ともいわれる。
「水」の部分を「人」に置き換えても意味の通じる教訓となる。
この水五訓は豊臣秀吉の知恵袋と言われた黒田官兵衛(黒田如水)の教えである。
水五訓は福井県永平寺に掲示されている。(←これは間違いのようである)
水五訓の話は、大和ハウス工業の会長・樋口武男さんの”熱湯経営”(文春新書)に書かれている。
樋口会長が敬愛する大和ハウス工業の創業者・石橋信夫(故人)が、創業時に永平寺を訪れ、
当時の永平寺管長から聞いた「水五訓」に惹かれ、迷ったときの道標として常に心に刻んでいる言葉だったという。
石橋会長は、この水五訓を自身の人生と経営の指針としておられたという。
なお、石橋会長は、戦後日本の急成長を象徴する経営者の一人だった。
黒田官兵衛(黒田如水)
58歳まで生きた官兵衛の号は黒田如水、「水の如く」という意味から名付けたもの。
播磨姫路城主・黒田美濃守職隆の長男として姫路城で生まれた。
信長の命を受けて秀吉の中国征伐に従軍。秀吉の軍師として戦勝に貢献。
秀吉のもとで、和歌を細川幽斎(藤孝)に、茶の湯を千利休に学んだ。
築城の名手であり、息子・黒田長政とともに筑前に福岡城を築城。
「黒田節」で有名な、福岡黒田家の家祖となる。
天正17年(1589年)長政に家督を譲り、文禄2年(1593年)出家し「如水」と号し、
慶長9年(1604年)博多で永眠。
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●NHK そのとき歴史は動いた
秀吉に天下を取らせた男~黒田官兵衛 戦国最強のナンバー2~より
放送日 平成15年9月17日(水)21:15~21:58
黒田官兵衛が小田原城の北条氏を降伏させ、豊臣秀吉の天下統一を確実なものとする 。
織田信長が褒め称え、豊臣秀吉が頼りにし、
徳川家康が恐れた戦国最強の軍師・黒田官兵衛。
官兵衛は秀吉の軍師として、秀吉が苦境におちいるたびに、的確な助言と戦術を与え続け
る。高松城水攻め、中国大返し、天王山の戦い、賤ヶ岳の戦い、九州平定…。
秀吉が天下統一へと進んでいくそのかたわらには、常に官兵衛の姿があった。
しかし秀吉は、官兵衛の才能に惚れ込むと同時に、やがて自分の地位を脅かすのではない
かと恐れ、官兵衛につらくあたるようになる。ところが官兵衛の関心は、秀吉や他の武将の
ように天下を取ることにはなかった。自らの戦術の才覚を発揮できる場でベストを尽くし、
乱世にその名を刻むこと。官兵衛は、秀吉が自分を疎むのに気づくと、さっさと引退してしま
い、茶の湯や句会といった趣味の世界に生きようとする。
しかし秀吉が天下統一の最終局面 を決める小田原攻めで、またも苦境におちいった秀吉が
最後に頼ったのは、やはり官兵衛だった。官兵衛は単身、小田原城へ乗り込んでいく―。
誰もがナンバー1を目指して悪戦苦闘した時代に、「自分は自分」とオンリーワンの生き方を
目指した、史上最強のナンバー2・黒田官兵衛の颯爽とした生き方を描く。
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●官兵衛の辞世の歌:(『黒田家譜』より)
「おもひおく 言の葉なくて つひに行く 道はまよはじ なるにまかせて」
(訳)
この世に思い残すことは、もう何もない。今は迷うことなく心静かに旅立つだけだ。
●リンク
【名字】福井姓の話題とルーツめぐり
一つ、自ら活動して他を動かしむるは水なり
一つ、障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり
一つ、常に己の進路を求めて止まざるは水なり
一つ、自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり
一つ、洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり
雪と変じ霰と化し疑っては玲瓏たる鏡となりたえるも其性を
失わざるは水なり

名文である。水五則ともいわれる。
「水」の部分を「人」に置き換えても意味の通じる教訓となる。
この水五訓は豊臣秀吉の知恵袋と言われた黒田官兵衛(黒田如水)の教えである。
水五訓は福井県永平寺に掲示されている。(←これは間違いのようである)
水五訓の話は、大和ハウス工業の会長・樋口武男さんの”熱湯経営”(文春新書)に書かれている。
樋口会長が敬愛する大和ハウス工業の創業者・石橋信夫(故人)が、創業時に永平寺を訪れ、
当時の永平寺管長から聞いた「水五訓」に惹かれ、迷ったときの道標として常に心に刻んでいる言葉だったという。
石橋会長は、この水五訓を自身の人生と経営の指針としておられたという。
なお、石橋会長は、戦後日本の急成長を象徴する経営者の一人だった。
黒田官兵衛(黒田如水)
58歳まで生きた官兵衛の号は黒田如水、「水の如く」という意味から名付けたもの。
播磨姫路城主・黒田美濃守職隆の長男として姫路城で生まれた。
信長の命を受けて秀吉の中国征伐に従軍。秀吉の軍師として戦勝に貢献。
秀吉のもとで、和歌を細川幽斎(藤孝)に、茶の湯を千利休に学んだ。
築城の名手であり、息子・黒田長政とともに筑前に福岡城を築城。
「黒田節」で有名な、福岡黒田家の家祖となる。
天正17年(1589年)長政に家督を譲り、文禄2年(1593年)出家し「如水」と号し、
慶長9年(1604年)博多で永眠。
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●NHK そのとき歴史は動いた
秀吉に天下を取らせた男~黒田官兵衛 戦国最強のナンバー2~より
放送日 平成15年9月17日(水)21:15~21:58
黒田官兵衛が小田原城の北条氏を降伏させ、豊臣秀吉の天下統一を確実なものとする 。
織田信長が褒め称え、豊臣秀吉が頼りにし、
徳川家康が恐れた戦国最強の軍師・黒田官兵衛。
官兵衛は秀吉の軍師として、秀吉が苦境におちいるたびに、的確な助言と戦術を与え続け
る。高松城水攻め、中国大返し、天王山の戦い、賤ヶ岳の戦い、九州平定…。
秀吉が天下統一へと進んでいくそのかたわらには、常に官兵衛の姿があった。
しかし秀吉は、官兵衛の才能に惚れ込むと同時に、やがて自分の地位を脅かすのではない
かと恐れ、官兵衛につらくあたるようになる。ところが官兵衛の関心は、秀吉や他の武将の
ように天下を取ることにはなかった。自らの戦術の才覚を発揮できる場でベストを尽くし、
乱世にその名を刻むこと。官兵衛は、秀吉が自分を疎むのに気づくと、さっさと引退してしま
い、茶の湯や句会といった趣味の世界に生きようとする。
しかし秀吉が天下統一の最終局面 を決める小田原攻めで、またも苦境におちいった秀吉が
最後に頼ったのは、やはり官兵衛だった。官兵衛は単身、小田原城へ乗り込んでいく―。
誰もがナンバー1を目指して悪戦苦闘した時代に、「自分は自分」とオンリーワンの生き方を
目指した、史上最強のナンバー2・黒田官兵衛の颯爽とした生き方を描く。
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●官兵衛の辞世の歌:(『黒田家譜』より)
「おもひおく 言の葉なくて つひに行く 道はまよはじ なるにまかせて」
(訳)
この世に思い残すことは、もう何もない。今は迷うことなく心静かに旅立つだけだ。
●リンク
【名字】福井姓の話題とルーツめぐり
この記事へのコメント
水五訓は、以前に創業者の座右の銘として拝見したことがあります。
そのときに、とても感銘を受けました。
記事で紹介された永平寺に掲示してあるという文、
欲しくて、永平寺に問い合わせましたが、
掲示してないとのことでした。
記事の写真は、どちらを参考にされたのでしょうか。
差し支えなければ、教えてください。
なお、こちらのサイトにも出ていました。
http://ameblo.jp/gokan0008/entry-10413841290.html
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