【歴史】ナポレオンについて

画像
ナポレオン・ボナパルト
Napoleon Bonaparte

天才的戦術家にして戦略家

ナポレオン
1769年8月15日~1821年5月5日
フランスの皇帝。砲兵士官としてフランス革命に参加し、その後イタリア征討司令官としてオーストリア軍を破り、エジプト遠征。翌年、クーデターによって統領政府を樹立、自ら第一統領となり帝位につき帝政を開いた。つづいてヨーロッパ大陸征服を企てたが不成功。モスクワ遠征などにも失敗し、エルバ島に流される。後に脱出して帝位に復したが、ワーテルローの戦いに敗れ、セントヘレナに流されて没。


(評価)

18世紀、ヨーロッパ社会は混迷を極めていました。13世紀から数百年にも亘ってヨーロッパの広大な領地を統治してきたオーストリアの名門ハプスブルグ家は、近代国家としての歩みを始め、より強い国際的地位を希望し、かつて世界帝国を築き上げた一族として、もう一度、かの栄光を夢見ていました。一方、ハプスブルグ家に対抗していたのがブルボン王朝フランスでした。フランスは、「太陽王」ルイ14世以来の度重なる戦争や宮廷の奢侈によって、国家財政は破綻寸前で、その国際的地位は大きく崩れようとしていました。そこで、ブルボン家はその財政難を乗り切り、ヨーロッパ一の名家の地位を守るためにハプスブルグ家と急接近しました。1770年、ブルボン家とハプスブルグ家は和解し、ハプスブルグ家は、フランス国王ルイ16世に15歳の皇女マリー・アントワネットを輿入れさせました。結婚が成立し、両家は世界帝国への道を歩むはずでした。

しかし、誤算がありました。ハプスブルグ家が近代国家への道を歩んでいたのに対し、ブルボン家は相変わらず絶対王政を維持し、旧体制(アンシャン・レジーム)の中にどっぷりと浸っていたのでした。しかし、民衆の中ではアンシャン・レジームに対する疑問と不満がありました。
また王妃マリー・アントワネットは国政に介入してオーストリアに有利な展開を要求したり、国民を軽蔑し贅沢な生活を享受したため、民衆の怒りを買っていました。

絶対王政に対する不満というガソリンに、市民革命という火花が近づきました。フランス革命の勃発です。実に4万人の王侯貴族の命が、ギロチンによって消えたのです。フランス革命の規模は明治維新の比ではありませんでした。王制は廃止され、共和制が樹立されました。革命を推進する過激なジャコバン派とパリ民衆の要求に従って、国王ルイ16世は処刑されました。王妃マリー・アントワネットも、38歳で断頭台の露と消えました。

しかし、この後フランスはジャコバン派による恐怖政治と祖国防衛戦争に突入します。この政治的混乱は、やがてブルジョアによる総裁政府により安定を見せましたが、より強力な指導者の登場が必要となりました。中世から近代への大きなうねりの中で、たぐいまれな軍才でのし上がり、血で血を洗う混沌とした時代の救世主と期待された男がいました。その名は、コルシカ島出身の軍事の天才ナポレオン・ボナパルトです。

後にフランス皇帝となるこの英雄は、自由と平等を結晶化させた民法を生み出す一方で、ヨーロッパ全土を一族の帝国にするという野望を抱き、ヨーロッパ統一戦争を重ねていきます。
ナポレオンは軍事学上の天才、戦争を芸術の域にまで高めたとさえ言われている世界史上の不世出の英雄です。 彼は、今日の自由と民主主義の理念を達成させた「フランス革命」を結実させた人物としても広く知られています。まさに彼こそはフランス革命の申し子であり、革命打倒を目論む他の強大な王制諸国からフランスの祖国と自由と市民を防衛した英雄の中の英雄です。

そのフランス革命を明文化した「ナポレオン法典」があります。『後世私が評価されるとしたら、多くの戦勝でなくこの法典によるのだろう』ナポレオンは数奇に満ちた自分の生涯をこの一言で集約しました。「ナポレオン法典」はナポレオンの法政における偉大な成果です。フランス革命の成果を成文化したとも言われています。多くの血を流した末に勝ち取った人間の自由や基本的な権利。フランス革命の申し子といわれるナポレオン。彼の尽力で制定されたナポレオン法典は今なお、世界中の法律の中に生きています。

ナポレオンはコルシカ島の出身。フランスの士官学校を出て、若い頃から戦術の天才として注目されていました。1砲兵士官にしてついにフランス皇帝にまで上り詰めさせた、その要因は数々あります。その中のひとつに、緻密な作戦計画、その立案能力がありました。各指揮官へのナポレオンの指示書は詳細を極めました。イタリア遠征の成功で名を挙げ、その後 エジプト遠征でトルコを破り、この時『ロゼッタ石』を発見します。このロゼッタストーンの発見はエジプト学の緒を開きました。1799年、ブリュメールの反動で頭領となって軍事政権を樹立。その後終身頭領、やがて皇帝となってヨーロッパの大半を支配下に置く大帝国を築きました。

1805年トラファルガーの海戦でイギリスのネルソン提督に破れたものの、破竹の進撃でヨーロッパを席巻しました。そして同年、アウステルリッツの戦いでオーストリア・ロシア両帝国連合軍を破り、ハプスブルグ家とプロイセンを除く全てのドイツ諸侯がナポレオンの保護下に「ライン連邦」を結成しました。ここに「神聖ローマ帝国」は完全に終止符をうちました。

やがてナポレオンの運命に悪魔が訪れます。1812年遠征した冬のロシアで惨憺たる戦績となったのを境に運勢が降下。冬のロシアの気象条件と、大陸であるロシアの広さを彼ほどの人が甘く見ていたなんて信じられません。1814年退位に追い込まれて、地中海のエルバ島に流されました。フランスでは革命で処刑されたルイ16世の弟ルイ18世が即位してフランス王国が復活します。しかし、ルイ18世の復古的な政策は、革命で自由を知った国民にはとうてい支持できるものではありませんでした。それを憂えたナポレオンは流されてから10ヶ月後に、島から脱出。パリに戻り国民の熱狂的な歓迎を受けました。

しかし残念なことに、ナポレオンは知りませんでした。彼の大成功は、封建的束縛から開放されたい民衆の歓迎の上に成り立っていたことを。ナポレオンは、民衆に自由を教えましたが、与えませんでした。もしここでナポレオンが皇帝とならず、民主主義のもとで統領(大統領)として成功していたならば、アメリカが現在の繁栄を迎えていたかどうかはわかりません。その証拠に、ロシア遠征で失敗した後、ナポレオンは一気に落ちてゆくのです。

この時点でナポレオンの運気は既に尽きていました。政権復帰してからわずか100日後、ワーテルローの戦いで敗戦。これが世にいう「百日天下」です。フランス国民はヨーロッパとの戦争再開を望んでいなかったのですが、連合国が結束を固めたため、ナポレオンはフランス皇帝の位にとどまろうとする以上、戦争を再開せざるを得なかったのです。しかし、ワーテルローでイギリス・プロイセン連合軍に破れ、退位を余儀なくさせられました。今度はまず脱出不可能な大西洋に浮かぶ絶海の孤島セントヘレナに流され、そこで一生を終えました。島で生まれて島で英雄の命は消えました。この世に神がつかわした役目を果たしたナポレオンの一生は、死に向かい歴史という記憶の世界の英雄になっていく、まるで放物線を描くかのように英雄の命の火は消えました。

ナポレオンに敵対したジャコバン派で外相のタレーランは、
「彼の天才は信じがたい程のものであった。1000年の間に見られた最も驚くべき生涯である。彼は私が目に得た最も非凡な人間であった」と言っています。

そして、ナポレオン自身が言いました。
Les hommes de genie sont des meteores destines a bruler pour eclairer leur siecle.
「天才は、己が世紀を照らして光り輝くべく運命づけられた流星である」 と。


---------------------------------------------------------------------

=フランス皇帝ナポレオン1世が息子、ローマ王に書き残した遺訓=

「君主の目的は統治することだけではなく、教育・道徳・幸福を普及させることにある。眼を常に大衆に向けよ。欧州は理性によって心服させるべきであって、剣によって征服すべきものではない。おまえは、私が各地に開花させた新思想を継承せねばならない。
欧州を永久に和解統一するという私の理想を、私がやむなく武力で行ったことを、おまえは国民の合意に基づいて行うのだ」

「もし、1812年に、私がロシアで勝利を収めていたら、平和は100年間保たれたに違いない。私は諸国民の難題を断ち切ったが、いまや、これを結び合わす時が来ている。諸国の君主をして理性の声に耳を傾けせしめよ。欧州には国際的憎悪を生む原因はもはやない。偏見は消え、共通の利益は拡大融合しつつある」

この記事へのコメント

にゃー
2011年08月09日 17:54
ナポレオンにそんな事があったなんて知らなかった
安仁屋
2011年08月09日 17:57
ナポレオンサイコー
ひめひめ
2011年08月19日 22:44
ナポレオンの事が好きになりました

この記事へのトラックバック