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zoom RSS 世界の建築様式 〜 11.新古典主義編

<<   作成日時 : 2010/07/22 00:08   >>

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世界の建築様式

11.新古典主義編


 1806年、パリのシャンゼリゼ通りの西端、エトワール広場(現在のシャルル・ド・ゴール広場)に凱旋門の建設がはじまった。ナポレオンが、オーストリア・ロシア連合軍との戦いに勝利した記念によるもので、ナポレオンの命令により着工された。凱旋門の名をエトワール凱旋門という。パリには凱旋門が3つあるが、一般に凱旋門といえば、このエトワール凱旋門を指す。古代ローマの様式を模した凱旋門であり、フランス新古典主義の盛期の建築である。新古典主義とは一言でいうならば古典古代(ギリシア・ローマ)の美術を自分たちの美術の規範しにしようという運動であった。ナポレオンの台頭によって、パリを古代ローマのような壮麗な都にするため、17世紀の古典主義が再評価され、19世紀のパリに古典の主題を取り入れた壮麗な建築が作られていった。

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新古典主義の建築物
パリの凱旋門 (エトワール凱旋門)
Picture from tabi-taro


 このエトワール凱旋門は、前年にフランス皇帝ナポレオン1世率いるフランス軍が、 オーストリア・ロシア連合軍と戦った「アウステルリッツの戦い」での勝利を記念したものである。「アウステルリッツの戦い」は、ナポレオンの指揮は芸術とも評された見事な勝利を収めた戦いといわれるものである。1805年、ナポレオン率いるフランス軍は、神聖ローマ帝国オーストリア領(現チェコ共和国)の町アウステルリッツの郊外でオーストリア・ロシア連合軍と戦い、フランス軍は大勝利を収めた。この「アウステルリッツの戦い」は、ナポレオン伝説の始まりを告げる戦いであり、ナポレオンの全会戦中で最も輝かしいものであったと称えられる。

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アウステルリッツの戦い 1810
画:フランソワ・ジェラール
ヴェルサイユ宮殿美術館蔵


 以下、まずは新古典主義隆盛のきっかけともなった、ナポレオンの戦闘の模様を描写することとし、
その後に新古典主義の建築について記載する。

ナポレオン 大陸軍の編成

 ナポレオンは、1798年にエジプト遠征に乗り出した。目的は、イギリスとイギリスの植民地であるインドとを結ぶルートをエジプトで断ち、エジプトをイギリスに替わって東方(インド)に進出する基点にすることであった。それは、紀元前にアレクサンドロス大王が志した「東方への夢」の実現を目指すものであった。ナポレオン軍は、1798年7月21日にピラミッドの戦いでエジプト軍に勝利し、カイロに入城した。しかし8月1日のナイルの海戦において、フランス艦隊はネルソン提督率いるイギリス艦隊に大敗した。

 エジプトからパリに戻ったナポレオンは、1799年11月9日「統領政府」を樹立して第一統領に就任し、1800年、宿敵オーストリアとの戦争を開始した。ナポレオン率いるフランス軍は、アルプスを越えてオーストリア領北イタリアに侵入、オーストリアを破った。こうして、ナポレオンは1804年5月18日、国民投票で皇帝に選出され、ナポレオン1世と称して第一帝政を開いた。

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ナポレオン戴冠後のヨーロッパ


 ナポレオン1世の支配するフランス帝国の覇権に挑戦するため、ヨーロッパ諸国は、1805年4月11日、軍事同盟を結んだ。「第3回対仏大同盟」である。

 第3回対仏大同盟が結成されると、ナポレオンはスペイン海軍と同盟して、英仏海峡(ドーバー海峡)を越えて、大ブリテン・アイルランド連合王国(日本語でいう”イギリス”。以下、イギリスと書く)の本土への上陸を目指した。しかし、フランス軍は、ジブラルタル海峡西方のトラファルガーの海戦で、ネルソン提督率いるイギリス艦隊に20余隻の艦船が撃沈、捕獲される大敗北をきっしてしまい、イギリス上陸作戦は失敗に終わって、イギリスを占領しようとするナポレオンの企ては挫折した。

 イギリスと海峡を挟んで睨みあっていたフランスの背後で、オーストリアとロシアがフランスを侵略する準備をしていた。両国の動きを知ったナポレオンは、イギリス侵攻作戦をご破算にして対オーストリア戦争にと狙いを一転させた。イギリス侵攻のために海峡沿いに集結していた軍を、1805年に「大陸軍」(グラン・タルメ)と命名し、大陸軍に、ライン川を渡り神聖ローマ帝国南部(現ドイツ南部)に入ることを命じた。大陸軍は、1805年10月に神聖ローマ帝国南部バイエルンのウルムでオーストリア軍を破り、オーストリアの首都ウィーンへ入城した。大陸軍は、この後、「ウルムの戦い」と「アウステルリッツの戦い」で勝利を挙げることになる。

 なお、神聖ローマ帝国は、962年にオットー1世がローマ教皇ヨハネス12世により、古代ローマ帝国の継承者として皇帝に戴冠したときから始まる政体であり、現在のドイツ、 オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた連合国家であった。

 ヨーロッパへ向かうナポレオンの大陸軍の陣容は、次のような編成であった。
  第1軍団 司令官ベルナドット元帥 目的地ヴェルツベルク
  第2軍団 司令官ド・マルモン元帥 目的地ヴェルツベルク
  第3軍団 司令官ダヴー元帥    目的地マンハイム
  第4軍団 司令官スルト元帥     目的地シュビレー
  第5軍団 司令官ランヌ元帥     目的地ストラスブール
  第6軍団 司令官ネイ元帥      目的地カールスルーエ
  第7軍団 司令官オジュロー元帥  目的地ストラスブール
これら以外に、ミュラ元帥の騎兵隊とベシェール元帥の近衛部隊が、総予備として控えた。総兵力は22万を上回る。大砲は合計350門だった。

 1805年8月27日。ナポレオンの作戦命令書が各司令官のところへ届く。いよいよ出撃であった。それに先立って、バイエルンとヴェルテンベルクが、フランスとの同盟条約を結んだ。

ウルムの戦い

 1805年8月、神聖ローマ帝国の皇帝フランツ2世(カール大公)率いるオーストリア軍が動いた。オーストリア軍の軍司令官はフェルディナント大公である。ただ、実際に指揮するのは参謀長のマック将軍だった。マック将軍は、一気にバイエルンへ進出、フランス軍が集結しないうちに叩こうと決めた。彼は、フランス軍の進撃路が「黒い森(シュヴァルツヴァルト)」であると推測し、そこを押える要衝の地として、ドナウ河の源流近くに位置する街ウルムに入った。ウルムはバイエルン近郊の街であり、中世より交通の要所として栄えたところである。

 ナポレオンはウルム包囲作戦にかかった。第1軍と第3軍をミュンヘンに進め、ロシア帝国皇帝アレクサンドル1世率いるロシア軍に備えて布陣させた。第6軍が正面から対陣し、第2軍、第4軍、第5軍、近衛部隊、そして騎馬隊が背後に回る。オーストリア軍はこのフランス軍の巧妙な動きを察知できず、マック将軍は依然としてウルムにいた。彼は動かない。それほど早い段階でフランス軍が進出してくるとは、読んでいなかったのである。ついに、大陸軍は、1805年10月にウルムでオーストリア軍を破った。

アウステルリッツの戦い

 アウステルリッツの戦いとは、1805年12月2日、神聖ローマ帝国オーストリア領(現在のチェコ共和国)のモラヴィアにあるブルノとスラフコフ・ウ・ブルナ(アウステルリッツ)間の地域で、オーストリア・ロシア連合軍とフランス軍とが戦った戦闘である。

 1805年10月にウルムで大敗したオーストリア軍は、打倒フランス軍を目指しロシア軍と合流する。ナポレオンは、合流したオーストリアとロシアの連合軍を追ってウルムからオーストリアの首都ウィーンを目指した。連合軍の兵力は8万に達し、それに対するフランス大陸軍は5万であった。人数だけで見れば連合軍のほうが圧倒的に優位だった。

 1805年11月13日、ナポレオンはウィーンに入城した。そして、市の中心部より少し離れたシェーンブルン宮殿に本営を置いた。のちにナポレオンの2人目の皇后となるマリー・ルイズ(マリア・ルイゼ)は、このとき住んでいたハプスブルグ家のシェーンブルン宮殿を追われることになり、家族とともに避難した(ページ容量の関係で、この物語はここでは省略する)。

 11月19日、ナポレオンはウィーンを出発し、ブルノに司令部を置いた。そして、ブルノからアウステルリッツを経てオリュミュッツに向かう径路の地形を調べて、作戦を固める。

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ウルム攻囲戦〜アウステルリッツ会戦


 ナポレオンはドナウ川を渡ってチェコ東部のモラヴィアへ進出し、アウステルリッツ西方へ布陣した。そのころ、いまだイタリア方面にはカール大公のオーストリア軍部隊がほぼ無傷で残っており、これらの部隊が集結する前にオーストリア・ロシア連合軍主力を叩く必要があった。そこでナポレオンは、敵の攻撃を誘うため、罠を仕掛けた。その罠とは・・・・・

 スルト元帥は、すでにブルノ近郊の町アウステルリッツの町を占領してしまっていたが、よく検討してみると、ブルノからアウステルリッツに向かう途中の、ゆるやかな起伏が続く一帯が適切な戦場となる。アウステルリッツ西方のプラツェン高地だ。ナポレオンは作戦を決めた。プラツェン高地を罠とすることに決めたのである。問題は、ここにいかにして連合軍をおびき出すかだ。まず第一段階として、フランス軍の戦意が低いかのごとく見せかけた。せっかく確保していたアウステルリッツを放棄して、後方へと退いた。連合軍は、ナポレオンの策略にまんまと引っ掛かった。11月29日、連合軍はアウステルリッツを占領した。ナポレオンは、その素晴らしい数学的頭脳を駆使して、決戦の日を12月2日と読む。ベルナドット軍とダヴー軍の到着と同時に、総攻撃に出る腹づもりだ。

 この地方の11月末から12月にかけては、厳寒地を思わせる冷たく強い風があたり一帯を吹き抜ける。ロシア軍の軍使はフランス軍の状況を視察する。ナポレオンは弱気を装う。それを信じた軍使の報告に、ロシアのアレクサンドル1世はすでに勝ったような気でいた。

 フランス軍の布陣は、ブルノからアウステルリッツへの街道が中心で、その右翼が薄く信じられない状況を呈している。ナポレオンは、いよいよ勝利への自信を強めた。フランス軍は、右翼に餌となるスルト軍の一個師団だけを置く。しかし、その背後には息せき切って到着していたタヴー軍の2万が隠れて布陣する。中央から左翼(連合軍からみて右翼)にかけては、ベルナドット軍、スルト軍、ランヌ軍の順で位置した。スルト軍とランヌ軍の中間のやや後方に、ミュラの騎兵隊が突撃の機会を窺う。そして後方の丘に、近衛軍に護られたナポレオンが位置した。オーストリア・ロシア連合軍は、一気に左翼(フランス軍の右翼)を潰して、背後に迂回する狙いを定めた。

 12月2日午前8時、オーストリア・ロシア連合軍8万7千は、アウステルリッツ西方のプラツェン高地へ進出し、優勢な兵力をもって7万3千と劣勢なフランス軍への攻撃を開始した。第3回対仏大同盟戦争(対オーストリア戦役)、つまり「アウステルリッツの戦い」の勃発である。ナポレオン1世の皇帝戴冠式から1周年の記念日にあたる。彼は意図的に決戦の日を合わせて、オーストリアとロシアに仕向けていたのかもしれない。
 この「アウステルリッツの戦い」は、フランス帝国皇帝、神聖ローマ帝国皇帝、ロシア帝国皇帝の3人の皇帝が参加したことから「三帝会戦」とも呼ばれる。

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アウステルリッツの陣営
赤:フランス軍、 黄:オーストリア・ロシア連合軍


 季節的には一番、日の出の遅い頃である。アウステルリッツの西の戦場には濃霧が立ち込めていたが、プラッツェン高地ではその霧もほとんど消えかかっていた。ナポレオンはプラッツェン高地に次いで高い、ズラン高地に立った。その位置から、プラッツェン高地の上の部分が視認できた。ロシア軍が進撃を開始している。プラッツェン高地には、昨日まで連合軍の大軍が陣取っていたが、今その大軍はフランス軍右翼へ機動を開始しており、そのため連合軍中央は数個大隊が点在するのみとなっていた。谷間はまだ霧に覆われていた。その奥に布陣しているフランス軍を、連合軍側は全く把握できていない。ナポレオンは勝利を確信した。

 フランス軍の布陣は、後方との連絡線確保のうえで重要な右翼が手薄であった。ロシア皇帝アレクサンドル1世はこれを好機とみて、主力をプラツェン高地からフランス軍右翼へと向かわせた。最重要拠点プラツェン高地から、連合軍将兵の姿がみるみる少なくなる。フランス軍右翼を守るダヴー元帥の第3軍団は攻撃に耐え切れずに押し下げられたかに見え、さらに多くの連合軍部隊がフランス軍の陣前を横切ってフランス軍右翼へ殺到した。

 だが、これこそがナポレオンの罠であった。ナポレオンが、連合軍主力が出払って発生した中央部の弱点を見逃すはずもなかった。アウステルリッツを占領していたフランス軍スルト元帥が攻撃の機会を待つ。霧が晴れてその真正面の高地の全体が捉えられるようになる。今だ! ナポレオンは、手薄になった連合軍の中央部に、スルト元帥の第4軍団を突入させた。太鼓、クラリネット、フルートといった楽器が一斉に鳴り響く。ナポレオン軍特有のにぎやかな軍楽隊だ。フランス軍が進む。中央を守っていたロシア軍クトゥーゾフ将軍はロシア近衛軍団を投入し激戦を繰り広げたが、フランス軍は、スルト軍団に続行していたベルナドットの第1軍団の援護とナポレオンによる親衛隊を投入した。ついに、プラツェン高地の連合軍は突破され、フランス軍は、午前10時までにプラツェン高地を占領した。

 連合軍はロシア近衛部隊を投入、奪還を企てるが、フランス軍もまた近衛部隊で対抗した。この近衛部隊同士の決戦は、フランス軍側の圧勝に終わる。

 中央突破に成功したスルト軍団は、ダヴー軍団と協力して、フランス軍右翼へ殺到していた連合軍部隊を挟撃した。連合軍は氷結した湖を通って退却しようとしたが、フランス軍の大砲が湖の氷を割ったため、将兵の多数が溺死した。他の連合軍部隊にも、フランス軍のランヌの第5軍団とミュラ元帥の騎兵軍団が襲い掛かった。騎兵対騎兵による対決も、ミュラ元帥のフランス騎兵隊が完璧に勝った。あらゆる局面で連合軍部隊が敗走したのだ。

 夕刻までに連合軍は、死傷者1万6千と捕虜1万1千、大砲180門と軍旗40以上という大損害を受けて壊滅した。これに対してフランス軍の損害は死者1300と負傷者7000に過ぎず、まさにフランス軍の圧勝だった。 ナポレオンがいかに敵や地形を的確に把握し、相手の裏をかくのが得意だったかを知らしめる戦いでもあった。現在のこの古戦場あたりは、チェコ空軍の演習地になっている。

 このアウステルリッツ会戦は、味方の一部に弱点をつくり、そこを総攻撃させて敵の布陣を崩した戦法である。とりわけ、迂回してフランス軍のウィーンへの退路を絶ちたいオーストリア・ロシア連合軍にとって、一見したところ絶好の条件と思えたわけだ。けれど、ナポレオンはそうした狙いを完全に読んでおり、4万5000の敵兵力の前に、8500という一個師団だけを置く。ところがその後方にダヴー軍を増援部隊として隠したところが見事である。そして、この会戦における圧巻は、やはりスルト軍を中心とした中央突破である。それと同時に、戦術的な移動のために、中央拠点をガラ空きにした連合軍側の頭の構造を疑うべきだろう。将棋でも言えることだが、中央を動かした軍隊が勝てる公算は極めて小さいからだ。

 これだけの戦略が立てられるナポレオンが、後ちに、なぜ冬のモスクワで無残に敗退したのか不思議でならない。ロシアの雪を甘くみていたのかもしれない。

 ナポレオンがオーストリア・ロシア連合軍を破ったこのアウステルリッツの戦いはナポレオンの絶頂期とされる。1806年、大敗したフランツ2世はフランスに降伏し、ナポレオンは、神聖ローマ帝国解散の詔勅を発して、フランツ2世から神聖ローマ帝国皇帝の称号を廃棄させた。ここに歴史上900年近く存在しつづけた神聖ローマ帝国は消滅した。神聖ローマ帝国という看板が使えなくなったフランツ2世は、一計を案じてハプスブルク家の領地に「オーストリア帝国」という名前をつけ、オーストリア帝国の初代皇帝に就任し、フランツ1世と名乗った。神聖ローマ帝国という看板がなくなっても、皇帝というタイトルだけは使えたのである。これにはナポレオンは文句は言えなかった。ハプスブルク家はオーストリア皇帝となって第1次世界大戦の終結まで存続した。


新古典主義

 18世紀中頃から以降、19世紀初頭までの時期は新古典主義の時代と呼ばれる。

 新古典主義は、18世紀後半以降、フランスで17世紀の古典主義を再評価し、古代ギリシア・ローマ(古典古代)への美術への回帰運動として登場した。

 フランス革命によって貴族階級が没落し、貴族的なロココ様式とバロック様式の感情的なスタイルが、すたれていった。その代わりに反動で出てきたのが新古典主義である。享楽的で感覚的なロココ様式を批判した新古典主義は、古代ギリシアとローマ文化の、「高貴なる単純と静穏なる偉大」を復興させようという運動であった。

  新古典主義の美術が勃興する前に、古典主義の時代があった。古典主義は、古代ギリシャ・ローマの作品を規範とし、明晰な秩序に基づいた統一的で調和のある表現方法であり、ルネサンス期や17世紀フランス美術に見られる。

 バロックからロココの時期にかけての美術は正統的な古典主義から逸脱していったという批判があったことが、新古典主義登場の背景であろう。また、啓蒙思想が興隆し、ものごとを分析的・経験的・実証的に、いわば合理的に捉えようとする志向が強まったことも、背景としてあげられよう。

 新古典主義のきっかけとなったのは18世紀前半に行われた、火山の噴火で埋没したローマ時代の町、ヘルクラネウムとポンペイの遺跡の発見である。ヘルクラネウムとポンペイの遺跡は、当時のヨーロッパ人の古代への関心を高めることとなった。

 ドイツの思想家ヴィンケルマンがギリシア賛美の評論『ギリシア芸術模論』を書き、各国に影響を与えた。これらが新古典主義の背景にもなっている。この書物は、芸術は自然の理想化であるべきこと、そして理想化をすでに実現しているギリシア芸術を模倣すべきであることを説いてヨーロッパ中に大きな反響を呼んだ。

 古代志向が本格化した底には、それまでのロココ美術の放縦で享楽主義的な内容と感覚的な様式に対する批判と反省があった。ロココ美術があまりに甘美な装飾様式で、絵画等の題材が貴族主義的、退廃的と揶揄され、ギリシア・ローマの古典様式を模範とし、当時なりに解釈し、洗練させた芸術様式が生まれた。形式的な美、写実性を重視しており、その成り立ちから、新古典主義(ネオ・クラシズム、Neo-Classicism)と呼ばれる。

 フランス革命、ナポレオン・ボナパルトの登場によって、古典の英雄主義的な主題はさらに好まれるようになった(ダヴィッドによるナポレオンの戴冠式を描いた作品は新古典主義の代表的なもの)。第一帝政期の様式は帝政様式(アンピール様式、Empire)とも呼ばれる。

 新古典主義美術は第1帝政期に帝政様式への変貌を遂げる。この時期には建築や室内の古典古代風の端正な様式はかつての簡素さを失い、帝国の栄光を誇示する威圧的な雰囲気を漂わせるようになる。ナポレオンが古代ローマの皇帝に自ら擬していたため、ギリシアへの考古学的な関心が後退し、ローマ美術の形式性の模倣が各分野で試みられるようになる。

 新古典主義は、建築、絵画、彫刻、工芸、思想など様々なジャンルで18世紀後半から19世紀にかけて欧州全域に展開した美学上の理念である。17世紀の古典主義など古代趣味を再評価し、ロココ様式の軽快な装飾性とは一線を画した、調和や統一性、自然性、形式美、そして考古学の科学的検証や考察に基づいた理知的で格調高い表現・描写を尊重する。新古典主義の理念・思想は、そのまま19世紀「アカデミズム」に継承される。

<<絵画>>
 新古典主義の主な画家としては、ダヴィッド、アングル、ジェラール、グロ等が挙げられる。 ロココ様式の華美で表層的な表現や、イリュージョニズムに熱狂するバロック様式へのアンチテーゼとして、デッサンと形を重視し、理性を通じた普遍的価値の表現を理想とした。 19世紀に入り、より感性的・情熱的で表現者自身の感覚を重視する「ロマン主義(ロマン派)」が台頭し、新古典主義や新古典主義の理念・思想を継ぐアカデミズムとは真っ向から対峙する事となる。

<<建築>>
 フランスのパンテオン、凱旋門などが代表的。イギリス、ドイツなど各国でも新古典主義的な作品が造られた。ギリシア・ローマ建築を理想とし、調和、均整、重厚などの特徴がある。ロココ芸術の過剰な装飾性や軽薄さに対する反動として荘厳さや崇高美を備えた建築が模索された。

新古典主義様式は息が長く、近代建築や現代の建築までその影響は続いている。

なお、19世紀になると、「新しい芸術」を意味するアール・ヌーヴォー(フランス語: Art Nouveau)が登場する。アール・ヌーヴォーは、19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に開花した国際的な美術運動である。


新古典主義の代表的建築物

〜〜 初期新古典主義建築 〜〜

●パンテオン(パリ)

 パンテオン(Pantheon)は、ギリシア語の「すべての神々」という言葉に由来するが、一神教のキリスト教が信じられるようになると必然的にその役割を失う。人間中心主義的なルネサンスを経た16世紀には宗教的な意味から切り離され、神々ではなく偉人たちを祀る建造物のことをも意味するようになった。ローマとパリのパンテオンが特に著名である。

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パリのパンテオン
Picture from Wikipedia


 パリのパンテオンの初期の名前は、サント・ジュヌヴィエーヴ教会といった。パリの守護聖人、聖ジュヌヴィエーヴに献堂するため、1755年にジャック・ジェルメン・スフロが設計。1756年に起工し、1790年に完成した。ギリシャ建築の純粋性を表現した初期新古典主義建築の傑作とされる。フランス革命期の国民議会によってフランスの偉人たちを祀る墓所として利用されることが決定され、現在に至っている。

●小トリアノン

 小トリアノン宮殿(プチ・トリアノン)は、ヴェルサイユ宮殿の庭園にある離宮の一つ。 1762年から1768年、フランス王ルイ15世の公妾ポンパドゥール夫人のために建てられた。新古典主義初期の代表建築である。

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プチ・トリアノン
Picture from Wikipedia


ポンパドール夫人は、建築家アンジ・ジャック・ガブリエルに依頼し、ネオ・クラシック・スタイル(新古典主義)で建てた。1768年に完成したが、完成前にポンパドゥール夫人は死去した。
 旧王ルイ15世が亡くなって、小トリアノンは新王ルイ16世から18歳の若い王妃マリー・アントワネットにプレゼントされた。

〜〜 盛期新古典主義建築 〜〜

 ナポレオンは、パリを古代ローマ帝国に匹敵する世界一の首都にしようと望み、新古典主義に今まで以上の規模と壮麗さを求めた。1806年、ナポレオンの戦勝を記念して、皇帝の軍隊に捧げるために二つの凱旋門の建設が開始された。一つは、カルーゼル凱旋門で、これは古代ローマのセプティミウス・セベレス帝の凱旋門を真似た。もう一つの凱旋門は、エトワール凱旋門で、高さ50メートル、幅45メートルという規模を誇る。オーダー(古代ローマ建築に使われた装飾柱)の代わりに彫刻群で埋められた外観は、圧倒的な量感に富んでいる。

●エトワール凱旋門

 冒頭に掲載したエトワール凱旋門は、ナポレオンの命を受け、フランスの建築家J.F.TH.シャルグランの設計に基づいて1806年に着工。この凱旋門は、古代に着想を得たものである。ナポレオン政権の崩壊により中断し、工事開始から30年を経た1836年に完成した。ナポレオンは、この凱旋門の完成を見ずに亡くなった。1840年にセント・ヘレナ島から遺骸となってパリに帰還し、盛大な葬儀が催された際に初めて門をくぐったのである。

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エトワール凱旋門
Picture from Dennis Mojado


 この凱旋門を中心に、シャンゼリゼ通りを始め、12本の通りが放射状に延びており、その形が地図上で光り輝く「星=etoile」のように見えるので、この広場は「星の広場(エトワール広場) la place de l'Etoile」と呼ばれていた。そのため、「エトワール広場の凱旋門」の意味の「Arc de triomphe de l'Etoile」との正式名称がある。但し、現在この広場は「シャルル・ド・ゴール広場 la place de Charles de Gaulle」と名称が変更になっている。

 この門は下記の4つの浮彫り彫刻で飾られている。

1.「1792年の義勇兵の出陣(Le Depart, 1792.)」(通称「ラ.マレセイエーズ」)リュード作。
2.「1810年の勝利」(Le Triomphe, 1810.) (ウイーン講話条約を祝う)コルトー作。
3.「抵抗(La Resistance, 1814. )」エテックス作。
4.「平和(La Paix, 1815. )」エテックス作。

 門の下には無名戦士が極めて簡素な平墓石の下に眠っている。そして、毎日18:30に「追悼の炎」が点火される。

 掲載した写真は、オーストリアとの戦闘後のウイーン講話条約を祝った「1810年の勝利」の彫刻であり、ナポレオンが勝利の女神から月桂冠を授かっている様子を描いている。
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エトワール凱旋門の彫刻(1810年の勝利)


●カルーゼル凱旋門

 カルーゼル凱旋門のある場所は、かつてフランス王室の宮殿テュイルリー宮殿があった所である。フランス国王ルイ王室のテュイルリー宮殿の門として建設されたが、宮殿撤去後のカルーゼル広場で最も目立つ建物となった。ルーブル美術館の敷地にあるカルーゼル広場に建っており、ナポレオンのそれまでの戦勝を記念して1806年に建設が始まった凱旋門である。シャルル・ド・ゴール広場の凱旋門と区別するためカルーゼル凱旋門という。1805年、イギリス、オーストリア、ロシアが第三回対仏大同盟を結成し、ナポレオンはこれに挑んだ。「ウルムの戦い」でオーストリア軍を破ってウィーンを陥落させ、「アウステルリッツの戦い」でもオーストリア・ロシア連合軍を破り、勝利を収めた。その一連の遠征における勝利を祝って、1806年に起工し1808年に完成した。壁面の彫刻はナポレオン軍の活躍する場面になっており、てっぺんに乗っているのは兵士の彫像。最初はイタリア遠征で略奪してきたものを飾っていたが、後に返却されたので、代わりの像が置かれたそうである。だが、ナポレオンはこの凱旋門の小ささに不満で、さらに大きな凱旋門の建設を命じた。それが、上掲のエトワール凱旋門である。

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カルーゼル凱旋門
Picture from tabi-taro



〜〜 新古典主義建築のヨーロッパへの伝播 〜〜

●大英博物館

 フランスの新古典主義の建築はイギリスに伝播し、大英博物館(British Museum)となって登場した。
世界最大級の博物館として年間約700万人が訪れるというロンドンの一大観光スポットである。正面から見た姿は、まさにギリシャ神殿そのもの(設計;ロバート・スマーク、1847年完成)。

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大英博物館
Picture from Wikipedia


 エジプト、ギリシア、ローマ、西アジア、東洋の古代美術、ヨーロッパの中世美術、その他コイン、メダル、版画、素描、写本など古今東西の美術品や書籍など約700万点が収蔵されている。


●ウェストミンスター宮殿

 ウェストミンスター宮殿(Palace of Westminster)は、英国ロンドンの中心部テムズ川河畔に存在する宮殿。現在イギリス議会が議事堂(Houses of Parliament)として使用している。併設されている時計塔(ビッグ・ベン)と共にロンドンを代表する景色として挙げられる。

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ウェストミンスター宮殿:イギリス国会議事堂(時計塔;ビッグベン)
Picture from tabi-taro


 ロンドンのテムズ河畔にあるビクトリア朝最初の大規模建築で、新古典主義のゴシック・リバイバルの代表作。16世紀以来国会の議場に用いられてきたウェストミンスター宮殿が1834年焼失したので、〈ゴシックまたはエリザベス朝様式〉という条件で設計を公募して建設されたもの。当時は〈ウェストミンスター新宮殿〉と呼ばれた。

 設計者はチャールズ・バリー。細部の設計はピュージンによる。1940年起工、1960年までに主要部分が完成。屋根の小屋組みは鉄骨造、空調設備も設けられた近代的建築であった。時計塔(高さ約100m)内の大時鐘(直径2.8m、重さが13.5t)は、大男の工事責任者ホール BenjaminHall の愛称をとって〈ビッグ・ベン Big Ben〉と名付けられた。議事堂は第2次大戦で破壊されたが、この議場こそ議会精神の体現であるという首相W. チャーチルの演説によって、旧状どおりに復元された。

●ブランデンブルク門

 ブランデンブルク門(Brandenburger Tor) はドイツ・ベルリンのシンボルとされている門である。1788年にプロイセン王国の凱旋門として、アテネの神殿の門を手本に設計された古代ギリシア風(ドーリア式)の建築であり、ドイツ古典主義建築の傑作と言われる。プロイセン王国フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の命により建築家カール・ゴットハルト・ラングハンスが設計した。1788年から3年間の建設工事を経て1791年8月6日に竣工している。

 ブランデンブルク門は、かつて要塞に囲まれた城郭都市ベルリンを囲む18箇所の都城の門のひとつであった。多くの門は、1868年の城壁の取り壊しとともに消えていったが、唯一、ブランデンブルク門は残された。

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ブランデンブルク門
Picture from tabi-taro


 門の上には、彫刻家ゴットフリート・シャードウが制作した四頭立ての馬車(クァドリガ)に乗った勝利の女神ヴィクトリアの像が乗せられている。この馬車は、1806年にプロイセンを破ったナポレオンが戦利品としてパリへ持っていってしまったが、1814年にベルリンに戻った。

 ブランデンブルク門は、もとは平和の勝利を記念する「平和門」としての位置づけであったが、第2次大戦後のドイツ東西分裂時代には、門のすぐそばに壁が築かれていたため、この門をくぐり通ることは出来なかった。現在は、まさに平和の門として、統一ドイツの象徴となっている。


〜〜 日本の新古典主義建築 〜〜

●明治生命館

 丸の内の馬場先門の目の前にある明治安田生命の「明治生命館」(重要文化財)が、日本における新古典主義様式の最高傑作として有名である。
 三菱財閥の明治生命保険が、1934年(昭和9年)3月、3年7ヵ月の歳月をかけて竣工した。設計は当時の建築学会の重鎮であった東京美術学校(現、東京芸術大学)岡田信一郎教授。施工は竹中工務店。鉄骨鉄筋コンクリート造、地上8階、地下2階のビルである。わが国近代洋風建築の発展に寄与した代表的な建造物と言われている。1997年(平成9年)、昭和の建造物として初めて国の重要文化財に指定された。現在、明治安田ビルマネジメント(株)が管理している。

画像
明治生命館
Picture from Wikipedia


 2001年(平成13年)から改修工事が行われ、隣接地に30階建ての明治安田生命ビルを建設して一体的に利用することで、歴史的建造物を活用しながらの全面保存が実現した。

 親会社の明治安田生命は、三菱グループ(旧・三菱財閥系)の明治生命保険と、芙蓉グループ(旧・安田財閥系)の安田生命保険が、2004年(平成16年)に旧財閥・企業グループを越えて合併し発足した生命保険会社である。現在、総資産では業界第3位。

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MyPage リンク: 世界の建築様式 10.ロココ編 
              http://matiere.at.webry.info/201006/article_1.html

           ナポレオン・ドリーム
              http://matiere.at.webry.info/201006/article_2.html
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参照資料/引用資料
        「詳説 世界史研究」 山川出版社
        「ナポレオンの戦場(ヨーロッパを動かした男たち)」集英社文庫
        「西洋建築様式史」美術出版社
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世界の建築様式 〜 11.新古典主義編 matiere/BIGLOBEウェブリブログ
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