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zoom RSS ナポレオン・ドリーム

<<   作成日時 : 2010/06/19 22:55   >>

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ナポレオン・ドリーム

 まずは、フランス新古典主義の画家、ドミニク・アングルによる皇帝ナポレオン1世の肖像画である。

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玉座のナポレオン1世
(アングル画、1806年、フランス軍事博物館蔵)



 1769年8月15日、灼熱の太陽が照りつける地中海西部の美の島コルシカ島・・・・・

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中央の赤色部分:フランス領コルシカ島


 ナポレオン・ボナパルトはコルシカ島のアジャクシオという街で生まれた。出生時の名前はコルシカ語でナブリオーネ・ブォナパルテといった。真夏の陽光を受けて、コルシカ原産の「天使の涙」といわれる愛らしいベビーティアーズの葉の輝きに祝福されての誕生だった。

 コルシカ島は、イタリア半島のジェノヴァ共和国(現在のイタリア共和国リグーリア州ジェノヴァ県)が領有していたが、ナポレオンが生まれる1年3ヵ月前に、ジェノヴァはフランスに島全体を売却した。コルシカ人にとっては許しがたいことだった。コルシカに独立運動が起こり、1769年、コルシカ軍とフランス軍との間で戦争が始まった。1769年5月にコルシカは敗れて、フランス領に組み入れられた。したがって、ナブリオーネ・ブォナパルテつまりナポレオン・ボナパルトは、生まれながらのフランス人であった。

 ナポレオンというと、軍人のイメージが強い政治家であるが、フランス革命の幕引きをし、かつ、革命の成果を取り入れて、近代社会の基盤を整備したという歴史的功績がある。ナポレオンの最終目標は「ヨーロッパの統一」だった。「遠からず、ヨーロッパは、正真正銘の統一国家となり、誰もがどこに旅しても共通の祖国にいると実感するようになるだろう・・・」。傑出した分析力と想像力を併せ持ち、鋭い現実感覚で両者を巧みに操っていた彼が、営々たる努力の末、皇帝の座に上り詰め、天命とさえ見なすようになっていた「ヨーロッパ合衆国」の実現も夢ではないと感じはじめた。しかし、その頃から、現実より幻想を優先させるようになる。そして、やがて落日。坂道を転がり落ちていく。「余は、未だ天命を果たしていない。ことは緒についたばかりだ。余はこれを完遂したい。我々には、全ヨーロッパ法典が、全ヨーロッパ最高裁判所が、統一通貨が、普遍的度量衡制度が、同一の法律が必要だ。だから、余は、ヨーロッパ諸国民を同一国民にする必要がある・・・・・」と言いながら・・・・・

 ナポレオンがセント・ヘレナで死の間際に口述した息子ローマ王(ナポレオン2世)への助言は、真情の吐露以外の何ものでもないはずだ。「戦争は時代錯誤だ・・・。いつの日か、勝利は大砲も銃剣もなしに達成されるであろう・・・・」と。そして、「余は、やむなく武力でヨーロッパを統治する必要があった。だが、これからは、国民の合意によらなければならない・・・・」という言葉を最後に嗜眠状態に陥ったのである。ナポレオンの見果てぬ夢は、「欧州連合(EU)」という形で21世紀の今もなお続いているといえよう。

 ナポレオンの一家は、イタリアからの移民で、コルシカの最下級の貴族の家柄であった。1778年、9歳のとき、奨学金を得てフランス本土に渡った。1779年5月15日、10歳のとき、パリの東方、プリエンヌ陸軍幼年学校に入学し、1784年10月、15歳で同校を卒業し、パリ陸軍士官学校に入学した。かくして、ナポレオン・ボナパルトの軍人への道が開かれたのである。

 たいていの生徒は、平均3年から4年間、在学し卒業試験に臨むのだが、ナポレオンは、入学後わずか11ヶ月後の1785年9月に合格してしまう。 そして、陸軍士官学校を卒業後、砲兵連隊に配属され陸軍砲兵少尉に任命される。なんと16歳と1ヵ月に満たない陸軍少尉の誕生である。

 ナポレオンは、士官学校では軍事教育が終わると図書館にこもって軍事学、数学、地理学、歴史の図書を読破したといわれる。特に数学に抜群の才能を発揮した。そして、読書が当時の最大の関心事であった。自分のやるべき課題を決め、そこにすべて関心を集中する性格は、この少尉任官後も少しも変わらなかった。

 ナポレオンは、歴史に対しても関心を抱いていた。彼は、人間というものの本質について、何世紀を経ようがいささかも変化しないと見抜く。歴史に真理があるという結論を得ている。人間が時代を経るにつれて高度になってゆくなら、犯罪者も減少の一途をたどり、より良好な社会が期待できるはずだ。けれども、現代においてもそんな傾向はどこにも見当たらない。彼は、人間の本質を徹底的に追求するため、歴史を学んでいったのである。これは、彼がのちに多くの部下を指揮する際に、大変役立ったはずだ。戦うのは組織や武器でなく、あくまで人間だからなのだ。

 こうした集中的な勉学を通じてナポレオンは、紀元前4世紀にヨーロッパ、アフリカ、アジアの3大陸にまたがり大帝国を建設したマケドニアのアレクサンドロス大王に心酔し、第2のアレクサンドロスたらんとして、「東方進出の夢」を抱いた。

(ナポレオン欧州制覇への道)

  1789年にフランス革命が勃発し、1793年、フランス国民公会は国王ルイ16世の処刑を議決すると、新憲法を制定し秩序の安定をはかった。国民公会によって、二院制の議会と5人の総裁による総裁政府の設立が決められた。1795年、総裁政府が成立し、フランス革命は一応の終結をみた。しかし、国内では左・右両勢力が激しく対立していた。対外的には、ルイ16世処刑によるフランス革命を脅威と感じたヨーロッパの王制諸国が、フランスに対抗するために軍事同盟(第1回対仏大同盟)を結成した。弱体な総裁政府は、軍部に依存せざるを得なかった。また、国民の大多数も強力なリーダーシップを求めていた。

 ナポレオンは、そのような期待を背負って登場した。

 1792年8月10日の朝、ナポレオンはパリにいた。カルーゼル広場の家具商の店先から、テュイルリー宮殿の前で繰り広げられている戦闘を、じっと見つめていた。その前年、革命政治クラブのジロンド派による内閣が、革命に対して干渉の構えをみせるオーストリアに宣戦すると、フランス革命は一部に対外戦争を組み込むことになった。対外危機が迫るなかで、議会は非常事態を国民に訴え、祖国を守るための義勇軍が各地からパリに集まった。勇ましい軍歌を歌いながら最後に到着したのが、マルセイユの義勇兵である。この軍歌は「ラ・マルセイエーズ」とよばれて、義勇兵のあいだに広がった。今日のフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」が生まれたのは、この時のことである。義勇兵が集まったパリでは民衆が過激化し、1792年にテュイルリー宮殿に乱入して国王を拘束して、王権を停止した。ナポレオンは、この戦闘を傍観者として注視していたのである。このころのナポレオンは、行動する民衆を「賤民のやつら」と軽蔑する一方で、王の無気力を「あのバカめ!」と、無作法に言い切る男であった。

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パリ凱旋門  『1792年の義勇軍の出陣(ラ・マルセイエーズ)』


 この頃、フランス議会の政治党派は、王政の維持を主張する王党派と、王政廃止を唱える共和派が対立していた。共和派では過激派のジャコバン派が絶対的な指導権を握っていた。やがてジャコバン派は、穏健派のジロンド派と急進的な山岳派(議場で左方の高い席に座ったグループ)に分裂し、権力抗争は激化していった。ナポレオンは、王政廃止を主張するロベスピエールが指揮する山岳派に接近した。

 地中海のトゥーロン湾にフランス海軍の基地がおかれているトゥーロン港がある。ここを、王党派とジロンド派の要請でイギリス海軍が統治していた。山岳派はイギリス軍を撃退することをナポレオンに要請した。ナポレオンはトゥーロン奪還作戦において、作戦面に優れた才能をみせた。1793年12月19日、砲兵隊を指揮してイギリス海軍をトゥーロン港から撃退し、トゥーロンをイギリスから奪還することに成功する。12月22日、トゥーロン奪還の手柄によってナポレオンは師団長に昇進した。さらに翌1794年3月に、25歳の若さでイタリア方面軍砲兵隊司令官にまで昇進した。

 1794年7月27日(革命暦テルミドール[熱月]9日)、ロベスピエール率いる山岳派の恐怖政治に対し、反対派がクーデターを起こした(テルミドールのクーデター)。国民公会は、ロベスピエールを告発し、ロベスピエール派の逮捕を決定した。このクーデターにより、ジャコバン政府は倒された。ナポレオンはロベスピエール派と見られ投獄されたが、間もなく釈放された。

 1795年10月5日、王党派が、総裁政府発足直前に政権を一気に倒そうと企て、反乱を起こした。驚いた議会は、ナポレオンを思い出し、鎮圧の指揮を依頼した。ナポレオンはこの任務を引き受け、5倍の敵に実弾を打ち込んで蹴散らした。議会はよろこび、ナポレオンを国内軍最高司令官に任命した。

 この当時、フランスに国境を接するイタリア北部の地域がフランスに脅威を与えていた。その北イタリアは神聖ローマ帝国オーストリア領であった。フランス軍は不安を除去するために、北イタリアへ侵攻していたが、3年間近く成果が挙がらなかった。そこで1796年3月2日、ナポレオンが大抜擢される。トゥーロン攻略など名声のあったナポレオンが27歳の若さで「イタリア遠征軍総司令官」に任命されたのである。以後1797年にかけて、イタリア北部で行われたフランス軍とオーストリア軍の諸戦闘を「イタリア戦役」というが、ナポレオンはそのイタリア戦役(オーストリア攻略作戦)を指揮することになる。

 この頃、ナポレオンは、ある貴族の未亡人と知り合った。二人の子をもつ女性で、33歳とは思えぬ、ジョセフィーヌという名のこの未亡人の若々しい魅力に、ナポレオンは夢中になった。ジョセフィーヌのほうも、この青年将校の未来に賭けてみてもいい、と思ったようである。1796年3月9日、2人は結婚した。ナポレオンには何人かの女性との交流はあるが、ナポレオンの運命に一番大きな影響を与えた女性といえば、このジョセフィーヌである。

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ナポレオン・ボナパルトの妻
フランス皇后 ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ
画:フランソワ・ジェラール Francois Pascal Simon Gerard 1808年


 その2日後、ナポレオンはイタリア遠征軍総司令官として、オーストリア攻略に向かって出発した。多くの会戦でフランス軍はオーストリア軍を打ち破り、北イタリアの諸都市を解放した。ナポレオンは首都ウィーンに迫り、ついにオーストリアはナポレオンを恐れて講和を申し入れた。1797年10月、カンボ・フォルミオ条約が結ばれ、これによって、第1回対仏大同盟は解消された。ナポレオンは征服した土地の全てを、王国から共和国に変えてフランスに服従させた。連戦連勝の「イタリア戦役」は、それ以後繰り返されるナポレオンの征服戦争の原型となった。

 ナポレオンはイタリア遠征を大成功でおさめて、1797年12月、パリに凱旋帰国した。パリ市民は彼を凱旋将軍として迎え入れた。外務大臣タレイラン(タレーラン)は、ナポレオンの功績を称えてこう言った。「フランスは、ただ彼の力によってのみ自由になるだろう」。

 イタリアから帰国後、ナポレオンはイギリス方面軍司令官に任命された。ナポレオンは、対イギリス戦略として、イギリスとイギリスの植民地であるインドを結ぶルートをエジプトで断ち、地中海を制圧しようという作戦に着手した。もちろんエジプトを手中にすれば、イギリスに替わってフランスが東方=インドに進出する基点になる。アレクサンドロス大王に憧れを抱いていたナポレオンとしては、「東方への夢」に掻き立てられてもいたことだろう。1798年にナポレオンは、「東方への夢」の実現を目指し、エジプト遠征に乗り出した。

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ピラミッドの戦い
画:アントワーヌ・ジャン・グロ 1798年


 エジプト遠征には兵員5万4千、馬2千頭、砲71門、大型戦艦13隻、中型7隻、小型38隻、輸送船280隻が動員されたが、このほかにも160人にのぼる学者、技術者、画家ら知識人が随行した。エジプト遠征は軍事的には竜頭蛇尾に終わったが、文化面では、古代エジプトの遺跡発見やロゼッタ・ストーンなどの発掘に起因する「エジプトロジー」(エジプト学)の創設といった偉大な成果を挙げたことは周知の通りである。

 1798年5月19日、ナポレオンを司令官としたエジプト遠征軍は、トゥーロン港からエジプトに向かって出発し、7月2日にアレクサンドリアに上陸した。上陸後、カイロを占領した。ナポレオンが「ピラミッドの上から、4000年の歴史が諸君を見ている」と兵士たちを鼓舞したのはこの時である。ナポレオンはエジプトを占領はしたが、フランス艦隊は、ネルソン提督率いるイギリス艦隊に敗れて全滅し、ナポレオンのエジプト遠征軍はエジプトに閉じ込められてしまった。

 ナポレオンの不在を好機と見たイギリスは、同年12月24日にオーストリア、ロシアなどと第2回対仏大同盟を結成した。国内の政治状況とイギリスの動きをエジプトで知ったナポレオンは、あとをクレベール将軍に託し、軍をエジプトに残したまま急いで帰国した。(なお、エジプトに残されたフランス軍は、その後イギリス・オスマントルコ連合軍に悩まされたが、1801年に休戦条約が結ばれ1802年に帰国した)。

 パリに戻ったナポレオンは、1799年11月9日(革命暦ブリュメール18日)、外相タレーランらの協力を得て、ナポレオン軍を指揮してクーデターを実行、総裁政府を倒し、「統領政府」を樹立して第一統領に就任した。

 1800年、ナポレオンはオーストリアとの戦争を再開した。ナポレオン率いるフランス軍は、アルプスを越えて北イタリアに侵入、「マレンゴの戦い」でオーストリアを破った。1802年にはイギリスと和約を結んで、第2回対仏大同盟を解体させた。掲載した画像は、1800年5月に第2次イタリア戦役が開始された際、アルプス山脈を越えてイタリアに攻め込もうとするナポレオンの姿を描いたものである。絵は、新古典主義絵画の大家で皇帝付筆頭画家であった、ルイ・ダヴィットの作品である。ナポレオンは実際には白馬ではなく、ラバに乗って雪の残るサン・ベナール峠を越えたといわれているのだが、ダヴィッドは若き日のナポレオンの勇姿を見事に描いてみせてくれている。ナポレオン30歳のときだった。

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サン・ベルナール峠を越えるナポレオン
画:ジャック=ルイ・ダヴィッド 1800年


 つかの間の平和が訪れる。1802年に、ナポレオンは国民投票で終身統領となり、フランス銀行を創設し、国民教育制度を確立した。1804年には「ナポレオン法典」(フランス民法典)を発布し、市民社会の秩序の確立に努めた。

 1804年5月18日、ナポレオンは国民投票で「フランス人民の皇帝」に選出され、ナポレオン1世と称して第一帝政を開いた。同年12月2日、彼はローマ教皇ピオ七世を招いてノートルダム大聖堂で戴冠式を行った。戴冠式において、帝冠は教皇が授けることになっていた。しかしナポレオンは、教皇が帝冠に手を触れる前に祭壇の上の帝冠を取って、自分の頭上に置いた。帝位は自分の実力で獲得したものなので、祝辞は受けても教皇からの帝冠の授与は拒んだのであろうといわれている。

 掲載した画像は、豪華絢爛たる皇帝戴冠式の様子を描いたものである。絵は、前記に同じく新古典主義の画家ルイ・ダヴィットの作品である。5月に皇帝に推挙されたナポレオンは、この戴冠式によって、名実ともに「皇帝ナポレオン1世」となる。ナポレオンが高く掲げているのは皇后冠であり、前にひざまずいている皇后ジョセフィーヌに今まさに冠を授けようとしている。

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ナポレオンの戴冠式
画:ジャック=ルイ・ダヴィッド
ルーヴル美術館蔵


 ナポレオンの権力は、戦争の勝利と栄光によりもたらされたものであった。この後、更なる戦争により、ナポレオンは大陸制覇へと歩みだす。ナポレオン1世の支配するフランス帝国の覇権に挑戦するため、ヨーロッパ諸国は1805年4月11日、第3次の軍事同盟を結んだ。「第3回対仏大同盟」である。

 第3回対仏大同盟が結成されると、ナポレオンはスペイン海軍と同盟して、英仏海峡(ドーバー海峡)を越えてイギリス本土への上陸を目指した。1805年10月、フランス軍は数的に優勢であったにもかかわらず、ジブラルタル海峡西方のトラファルガーの海戦で、ネルソン提督率いるイギリス艦隊に20余隻の艦船が撃沈、捕獲される大敗北をきってしまい、イギリス上陸作戦は失敗に終わり、イギリスを占領しようとする企ては挫折した。

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トラファルガー海戦
画:William Clarkson Stanfield


 イギリスと海峡を挟んで睨みあっていたフランスの背後で、オーストリアとロシアがフランスに対峙した。ナポレオンは、イギリス侵攻を諦め、海峡沿いに集結していた軍を内陸へ向けて前進させた。「大陸軍」と名を変えたナポレオンの軍隊は、1805年10月にドイツ南部バイエルンのウルムでオーストリア軍を破り、オーストリアの首都ウィーンへ入城した。

(ヨーロッパの覇者ナポレオン)

 皇帝ナポレオン1世は、その治世の大半を戦争で過ごすことになるが、これはナポレオンが望んだことではなく、ヨーロッパ諸国が執拗な敵意をもち続けたことが第一の原因だった。

 既に書いた通りナポレオン1世の支配するフランス帝国の覇権に挑戦するため、ヨーロッパ諸国は1805年4月11日、「第3回対仏大同盟」を結んだ。なお、第1回同盟は、1793年のルイ16世処刑によるフランス革命を脅威と感じたヨーロッパ諸国が、フランスに対抗するために結成した同盟であり、第2回同盟は、1798年にエジプト遠征に乗り出したナポレオンに脅威を感じたヨーロッパ諸国が、ネルソン提督率いるイギリス艦隊に敗北しエジプトから動くことができなくなったフランス艦隊の立ち往生とナポレオンの不在を好機と見た諸国が、同年12月24日に結成した同盟である。

 ナポレオン1世の皇帝戴冠式から1周年の記念日にあたる1805年12月2日、オーストリアとロシアがフランスに対して宣戦布告した。「第3回対仏大同盟戦争(対オーストリア戦役)」、つまり「アウステルリッツの戦い」の勃発である。ナポレオン率いるフランス軍に立ち向かうは、神聖ローマ帝国(のちのオーストリア帝国)皇帝フランツ2世(カール大公)率いるオーストリア軍とロシア帝国皇帝アレクサンドル1世率いるロシア軍との同盟軍であった。人数だけで見れば同盟軍のほうが圧倒的に優位だった。(これにプロイセン王国=現在のドイツ北部=が入っていればなお強大だったようだが、プロイセンは、ナポレオンのイギリス戦後の巧みな交渉で、同盟に加わらなかった)。この「アウステルリッツの戦い」は、フランス帝国皇帝、神聖ローマ帝国皇帝、ロシア帝国皇帝の3人の皇帝が参加したことから「三帝会戦」とも呼ばれる。

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アウステルリッツの戦い
画:フランソワ・ジェラール Francois Pascal Simon Gerard


 ナポレオン率いるフランス軍は、オーストリア領(現チェコ領)の町アウステルリッツの郊外でオーストリア・ロシア連合軍と戦い、大勝利を収めた。連合軍はナポレオンが仕掛けた罠にはまったのである。アウステルリッツの戦いは、“ナポレオンの指揮はもはや芸術”とも評された見事な勝利を収めた戦いといわれる。

 ヨーロッパを席巻したナポレオンは、1806年7月12日、南ドイツ、ライン右岸のドイツの16の邦をまとめてナポレオンを盟主とする「ライン同盟」を結成させた。この結果、8月6日、神聖ローマ帝国を統治していたオーストリア・ハプスブルグ家の皇帝フランツ2世は退位させられ、神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。(神聖ローマ皇帝を退位したフランツ2世は、フランツ1世の名でオーストリア皇帝たることを自ら宣言した)。

 フリードリッヒ大王以来の強力な軍団を有するプロイセン王国(ドイツ北部)はナポレオンに脅威を感じ、ロシアと同盟してフランスに宣戦したが、フランス軍は、1806年10月14日、プロイセン軍を破り領土の半分を奪って、ヨーロッパの覇権を手に入れた。10月27日、ナポレオンはプロイセン王国の首都ベルリンに入城した。

 ナポレオンは、唯一抵抗していたイギリスに対し、大陸諸国との通商を禁じる「大陸封鎖令」を1806年11月21日に発した。イギリスに経済制裁を加えようとしたのである。しかし、イギリスへ穀物を輸出し生活必需品や工業製品を輸入していた諸国では、経済のバランスが崩れて困窮し、反フランスを叫ぶナショナリズムが巻き起こった。

 ナポレオンは、オランダ、イタリア、スペインなどで兄弟を国王に任命した。こうしてヨーロッパの大部分がナポレオンの支配下におかれた。1809年12月、男子のない皇后ジョセフィーヌを離婚したうえで、1810年4月にはハプスブルグ家オーストリアの皇女マリー・ルイーズと結婚し、ヨーロッパの旧勢力との結びつきをはかった。

(ナポレオンの落日)

 ナポレオンのヨーロッパ支配は、「スペインの反乱(半島戦争)」から崩れ始める。

 1808年4月、ナポレオンはスペイン王室の混乱に乗じて、自分の兄のジョゼフを王位に就けた。これに反発したスペインの民衆は、5月2日にマドリードで蜂起。やがて反乱はスペイン全土に拡大する。反乱を支援するためイギリスはウェルズリー(後のウェリントン公)らの部隊を派遣した。11月、ナポレオンは自ら20万の大軍を率いてスペインへ侵攻、1809年1月までにイギリス軍を駆逐し、後をスルト元帥に託して帰還した。だがその後もスペイン側はゲリラ戦とイギリスの支援により根強い抵抗を続けた。

 この半島戦争(エスパニア戦争:1808年-1814年)は泥沼の戦争となり、フランスは大軍を貼り付けにした挙句、最終的には敗退した。常勝のフランス軍も、イギリスから武器の支給を受けたスペイン民衆のゲリラ戦(ゲリラというのは、スペイン語で小戦争)をどうしても鎮圧できず、ナポレオン率いるフランス軍の不敗の神話は崩されたのである。

 ロシアのアレクサンドル1世は、ナポレオンの大陸支配を警戒と不信の目で眺めていた。ナポレオンの大陸封鎖令はロシアの穀物とイギリスの生活必需品との貿易をとめ、ロシアの農業経営を破滅させるものであった。ロシアは1812年、大陸封鎖令を破ってイギリスとの通商を再開した。政治的対立により一食触発状態にあったロシアが、フランスとの戦いの準備を進めていることを察知したナポレオンは1812年6月23日、60万の大陸軍を率いてロシア遠征へと出発した。

 ナポレオンには初めから本気でアレクサンドル1世と戦う気がなかった。アレクサンドル1世とは2度逢い、抱擁し合った仲だった。アレクサンドルを気に入り、幻想を抱いていた。同じ君主仲間だから話し合いで解決するはずだ、とナポレオンは思っていた。ロシア遠征は比較的短時日で決着がつくという見通しだったので、たいした冬用の装備も持たずに出発した。

 フランス軍はモスクワを占領したものの、ロシア軍は撤退にあたってモスクワに放火し、建物を破壊した。フランス軍は宿泊所の不足と食糧難に苦しめられた。冬の到来、激寒のモスクワ、フランス軍は寒気に敗れて降りだした雪の中の退却を余儀なくされる。このままモスクワにいれば、全軍が飢えと凍死で全滅してしまう。フランス軍のモスクワからの撤退は、軍事史上の悲劇の一つとなった。撤退するフランス軍に対してロシア軍は怒濤の追撃戦を開始した。寒さと飢えと追い討ちをかけるロシア軍の攻撃で、フランス軍は徹底的な敗北を喫した。フランス軍の多くの兵士がコサックの追撃と、ロシア平原の冬に倒れた。ロシア領内に入ったフランス軍は、47万5千人の兵士だったが、6月23日にロシア領から帰還したときの兵士の数は、わずか9万3千人だったという。ナポレオンは3人の従者がしたがうのみで、命からがらパリに逃げ帰った。完全なフランス軍の敗北である。

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ナポレオン モスクワからの退却
画:Adolph Northen


 ナポレオンの天才的な戦略は、この頃から影を潜めた。ロシア遠征のこの敗北が引き金となって、ヨーロッパ各国の反ナポレオンの動きが急速に強まり、イギリス、プロイセン、オーストリア、スウェーデンはロシアと結び、新しい対仏大同盟を結んだ。ナポレオンは、敵が結束する前に叩くという彼の得意の戦略を用いようとしたが、今度は遅きに失した。1813年10月にドイツの「ライプツィヒの戦い」で決戦となり、同盟軍がフランス軍を決定的に撃ち破った(諸国民の戦い)。1814年、同盟軍はナポレオンに年金を与え、地中海のエルバ島に隠退させた。代わって、ルイ16世の弟がルイ18世としてフランス国王に即位し、ブルボン朝の王政復古となった。

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エルバ島


 全ヨーロッパにまたがっていたナポレオン帝国の領土の処理を行うための国際会議が、1814年にウィーンで開催された。ところが、「会議は踊る、されど進まず」と表現されたように、列国代表の利害は対立し、この「ウィーン会議」の議事はまとまらなかった。こうした情勢を知ったナポレオンは、1815年3月、エルバ島を脱出した。ナポレオンがパリに入ると、パリの多くの兵士はナポレオンの配下に入り、ルイ18世はベルギーに逃亡、ナポレオンは再び帝位に就いた。

 ヨーロッパ諸国は、対仏大同盟を結成して、復活したナポレオンと対決した。ナポレオンは同盟軍とのサバイバルを賭けた決戦に迫られ、1815年6月18日、ナポレオンは2万5千の軍を率いて、ベルギーのブリュッセルの南、ワーテルローで、ウェリントン将軍率いるイギリス軍、ブリュッヘル将軍率いるプロイセン軍との大決戦に挑んだ。この戦いを「ワーテルローの戦い」という。フランス軍は壊滅的な打撃を受け、無残な敗北のうちに退却する羽目になった。

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ワーテルローの戦い
画:William Sadler


 このワーテルローは、フランス語読みであり、英語読みは「ウォータールー」という。1940年のアメリカ映画、ヴィヴィアン・リーとロバート・テイラー主演の名画「哀愁」の舞台となったところで、映画の原題は「ウォータールー・ブリッジ」。第一次大戦下のロンドン。空爆にさらされるテームズ川にかかる橋、ウォータールー・ブリッジで運命的に出会い、その日のうちに結婚を約束するほど激しい恋に落ちる二人の男女を、大戦は無残に引き裂くという映画である。

 さて、ナポレオンがワーテルローからパリに戻ったのは1815年6月21日のことで、翌日にナポレオンは「フランスの平和のために」再び退位を決意した。この天下は約3ヵ月しかもたなかったので「百日天下」といわれる。

 ワーテルローで敗れたナポレオンは、イギリスに投降した。皇帝としての処遇を期待していたナポレオンだが、イギリスは彼を大西洋上の孤島、セント・ヘレナ島(アフリカのガーナの南沖合約200キロ)に幽閉した。風雲児ナポレオン・ボナパルトはこの島で5年半の幽閉生活を送り、胃ガンのため51歳の波乱の人生を終えた。ときに1821年5月5日。最後にナポレオンが口にした言葉は、「フランス」「軍隊」、そして最初の妻「ジョセフィーヌ」であったという。センチメンタルだった一介の文学青年を、皇帝まで登りつめた一人前の男にしたのは、ジョセフィーヌだったといってよい。

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セント・ヘレナ島


 時をへてナポレオン伝説が生まれた。人々は彼の専制や失敗を忘れ、その栄光と業績のみを思い出した。ナポレオンは、虚栄と野心の独裁者ではなく「よき皇帝」「革命の真の愛国者」に姿を変えた。1840年、イギリスはナポレオンの遺体をパリに返すことを認めた。現在、その遺体はルイ14世が建てたアンヴァリッド(廃兵院)のドームに安置されている。

 後に、ロシアの文豪トルストイは、大作「戦争と平和」にナポレオン戦争の模様を描いた。

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ユーロスター
 
 ナポレオンが、ヨーロッパの統一を目指して志したイギリスへの上陸。それは英仏海峡(ドーバー海峡)によって隔てられており、ネルソン提督率いるイギリス艦隊に守られており達成することができなかった。夢のまた夢、ナポレオン・ドリームであった。

 ナポレオンの時代から約200年後、イギリスとヨーロッパ大陸とを結ぶ構想は現実のものとなった。

 1994年11月14日に登場した「ユーロスター」。同年に開通したユーロトンネルを使用し、ロンドン〜パリ/ブリュッセル間の運行を開始した。

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ユーロスター


 最高時速は300Km/h、ロンドンからパリまでは約2時間を達成した。洗練された車両、サービスの行き届いたアテンダント、そして快適な空間。イギリス、フランス、そしてベルギーの3カ国の威信をかけて共同経営されているユーロスターは他の追随を許さない。数ある高速列車の中で、常に星彩を投げかけるユーロスターはヨーロッパを代表する列車である。それは、まさにナポレオン・ドリームの一つの実現だ。

 ユーロトンネルは英仏海峡の海底に掘られたイギリスとヨーロッパを結ぶトンネルである。ナポレオン時代からの夢といわれるこの海底トンネルは、イギリスのフォークストンとフランスのカレーを結ぶ前長50.5kmにおよぶ長大なトンネルである。ユーロトンネルは1986年から着工され、1991年に先進導坑が貫通、その両脇に2本の本坑が掘られ、現在のユーロスターを走らせている。

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統一通貨「ユーロ」

 ナポレオン・ドリームの一つであったヨーロッパ通貨の統一。1995年の欧州首脳会議でEU域内の統一通貨名を「ユーロ」とすることが決定された。

 しかし問題が残った。イギリスのユーロ導入についてである。イギリスは、EUに加盟している欧州共同体の一国であるが、ユーロ導入について国内で意見が分かれた。

 2006年当時、イギリス労働党内閣のトニー・ブレア首相はユーロの採択に積極的だったが、財政の権限を一手に握るゴードン・ブラウン財務相の抵抗で実現できなかった。そのブラウン氏が首相の座に着いて、ユーロの導入はますます難しくなった。世論調査が行われたが、その結果、国内に反対が多く通貨統合は見送られた。しかし、最近では、製造業を中心に産業界から早期参加を求める意見が強いといわれている。先般2010年5月6日に英下院選挙の投票が行われ、保守党が第1党になり、デービッド・キャメロン党首が新首相に任命された。キャメロン首相は、5月21日、イギリスには安定したユーロを必要とすると述べるとともに、ドイツのメルケル首相との共同会見で「イギリスはユーロ圏が強く安定することを望む」と述べた。国民投票の再実施も検討されようか? 今後の展開が注目される。

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イギリス人のナポレオン感

 14世紀の百年戦争の昔から、イギリスとフランスは犬猿の仲でライバル関係にある。ところが、イギリスでは、ナポレオンが偉大なリーダーにして軍事的天才であると見る者が多く、ナポレオンの評価が高いといわれる。イギリスでナポレオンの評価が高いのは、一つには、イギリスは戦勝国たる余裕を持って仇敵ナポレオンを眺められることもあって、ナポレオンが戦争を通じて数百万人の人々を死に至らしめたとはいえ、彼が、スターリンが生み出した収容所ともヒットラーのようなホロコーストとも無縁であったことを評価しているからであり、二つには、ナポレオンが、先進アングロサクソン文明のイギリスに敬意を払い、イギリスを尊敬していた男だったからだといわれる。

 実際、ナポレオンは、イギリスの様々な制度をまずフランス、そして更に欧州全域への移植に努めた。その中には、イギリス的王制の移植も含まれている。

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MyPage リンク:
【歴史】ナポレオンについて
   http://matiere.at.webry.info/200407/article_10.html
【歴史】ネルソン提督とトラファルガーの海戦
   http://matiere.at.webry.info/200511/article_1.html 

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参照資料/引用資料
       「詳説 世界史研究」 山川出版社
       「物語 世界史への旅」山川出版社
       「ナポレオンの戦場(ヨーロッパを動かした男たち)」原書房 柘植久慶
       「ナポレオンを創った女たち」集英社 安達正勝
       「ナポレオン・ミステリー」文藝春秋社 倉田保雄
       「ナポレオン(上)(下)」講談社 エミール・ルートヴィヒ(仏) 北澤真木訳
       「フランス革命(ヴェルサイユ落日からナポレオン配流まで」ナツメ社 安達正勝
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ハイエク マルクス主義を殺した哲人 3/3〜平和的商業主義
お金の自由こそが幸福の源 貨幣はこれまで発明されてきた自由の道具のうち最も偉大なものだ 計画経済は独裁的な方法を必要とするから、責任と権力を一人の統制者の手に委ねるべきであり、統制者の行動は民主主義的手続きから解放されなければならない、という計画主義の主張があります。そういう議論が出てくるとき、統制経済は生活の心配がないようにするものであり、ただ経済問題にだけ適用して他のことには関与しないとか、生活の不安がなくなりもっとレベルの高い価値を追求する自由を得るだろう、というようなことが、計画主義者の... ...続きを見る
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2015/07/08 21:12

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