matiere

アクセスカウンタ

zoom RSS 世界の建築様式 〜 9.バロック編

<<   作成日時 : 2010/05/24 18:51   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 2 / コメント 0

世界の建築様式

9.バロック編

 スイスにある原子核物理学の研究所セルンで、科学者ヴェトラが何者かに惨殺され、胸には焼き印で奇怪な紋章が押されていた、という事件から物語の幕が開く。ヴェトラは、極秘のうちに核の数十倍のエネルギーを持つという反物質の大量生成に成功していたが、その反物質も殺人者によって奪われていた。これは、長編サスペンス小説「ダ・ヴィンチ・コード」でセンセーションをよんだダン・ブラウンの著作「天使と悪魔」の書き出し部分の要約である。小説をもとにした映画「天使と悪魔」は、2009年5月15日、ソニー・ピクチャーズエンタテインメントから配給され全世界同時公開された。なお、2010年5月30日には wowow からテレビ公開となる。

画像
<Angels & Demons (天使と悪魔)>
画像は、サン・ピエトロ広場の大噴水と
サン・ピエトロ大聖堂の列柱廊に立つ140人の聖人像
(写真撮影:tabi-taro 文字挿入:matiere)


 「天使と悪魔」に“反物質”なる素粒子物理学の概念が登場する。2008年のノーベル物理学賞を受賞された南部陽一郎氏、小林誠氏、益川敏英氏の研究分野であり、その説明を、物理学の専門用語を使わずに、わかり易く書くのは非常に難しいのだが、簡単にいえば、「“反物質”は“(正)物質”と比べて性質が左右反対の物質」とでもいおうか。人間という物質を例にとれば、鏡に映った鏡像を実体化したようなものか -- 実在はしないが、左右が反対の人間のように。“電子”の場合を例に取れば、“電子”はマイナスの電荷(電気量)を持つが、“反電子(陽電子)”はプラスの電荷を持つ。“物質”と“反物質”が衝突すると、両者は一瞬のうちに消滅して、莫大な高エネルギーが発生する。この現象を物理学では“対消滅”という。例えば“電子”の場合、“電子”と“陽電子(反電子)”が衝突すると対消滅が起こり、両者のエネルギーと同じエネルギーを持つ二つの“光子”が放出され、γ線として観測される。「天使と悪魔」では、この“反物質”を放置すると、原子爆弾よりも恐ろしく、人類を破滅させる可能性があるので略奪を阻止しなければならない、というサスペンスが描かれている。

 「天使と悪魔」では、“反物質”がセルン CERN という施設から、何者かによって盗まれる、という設定になっている。セルンは、フランス語で Conseil europen pour la recherche nuclaire(欧州原子核研究機構)の略で、“反物質” を作り出そうと、日本・アメリカ・ヨーロッパが、日夜研究に取り組んでいる核物理学の実在の研究施設である。スイスのジュネーブにある世界最大の研究機関であり、インターネット World Wide Web(WWW)の発祥地でもある。

 さて、死体に押されていた紋章に関して、セルンの所長マクシミリアン・コーラーはハーヴァード大学宗教象徴学者のロバート・ラングドン教授に意見を求めた。17世紀、神の存在を否定し宗教とは相反する科学を広めようとする科学者たちは、カトリック教会の総本山ヴァチカンから弾圧されていた。ガリレオ・ガリレイは地動説を主張したが、それは聖書に反するとして教会から異端者として宗教裁判で有罪判決を受けた。ガリレオは、地動説は誤っていたという屈辱的な宣誓文を教会から書かされた。当時のヨーロッパでは、教会の言うことに異を唱えることはほとんど死を意味していたのだ。しかし、ガリレオは「それでも地球は動いている 」と言って教会から弾圧を受けた。そのため、ガリレオを中心とした科学者たちは、カトリックの総本山であるヴァチカンに対抗するため、秘密結社「イルミナティ」を組織して密かに科学普及活動を続けていた。男の全裸死体の胸に焼印として押されていた紋章は、イルミナティのものだった。

画像
秘密結社イルミナティの名称をアンビグラムにデザインした紋章


 秘密結社イルミナティは、「土、空気、火、水」の四大元素を崇拝し、これらを完全な"アンビグラム"(象徴文字列)にデザインした焼き印を結社の紋章としていた。"アンビグラム"はどの方向からでも読み取れる美しく完成された不思議な文字列。ガリレオが有罪判決を受けたために、イルミナティも消滅したというのが、現代の定説だった。この世にはもう存在しないはずの400年前の秘密結社イルミナティが、ある日突然、復活を遂げたのか。

 ラングドン教授は、ヴェトラの養女であるヴィクトリアとともに、“反物質”を追ってヴァチカン市国に急行する。折りしもその日、ヴァチカンでは、ローマ教皇(ローマ法王)の死去にともなう「コンクラーベ」(ラテン語: Conclave、新教皇選出選挙)が行われようとしていた。
 ヴァチカンに到着したラングドンとヴィクトリアは、次期教皇有力候補である4人の枢機卿が誘拐されたことを知る。4人を誘拐したのはイルミナティの使者を名乗る者であった。イルミナティの目的は、ヴァチカンへの復讐。その犯行予告によれば、かつて科学を弾圧した教会への復讐のため、彼らは新教皇の有力候補である4人の枢機卿を拉致し、胸に焼き印を押しつけた後、ローマ市内の4つの教会で、1時間毎に1人ずつ惨殺して死体をさらしていき、最後には“反物質”をセルンから盗み、どこかに仕掛けてヴァチカンを一瞬のうちに消滅させるというのだ。

 「天使と悪魔」は「科学と宗教の対立」を表している。この科学とはガリレオを代表とする科学者であり、また宗教とはヴァチカンのことである。「ダ・ヴィンチ・コード」が宗教を敵に回したのとは違い、「天使と悪魔」では、ヴァチカンを救おうとする。

 どこで殺されるのか? イルミナティの凶行を阻止する方法が、一つだけあった。ガリレオが400年前に著したとされる謎の書『真実の図表(ディアグラッマ・デッラ・ヴェリタ)』の中の詩に秘められた暗号に基づいて、枢機卿が一人ずつ殺されるという。4つの教会は、イルミナティにつながる道しるべで、ガリレオはその場所を示す暗号を「真実の図表」に隠していたのだ。ラングドンは、殺害を阻止すべく、イルミナティにつながる暗号を「真実の図表」の中の詩から読み解き、殺害場所を発見しようとする。書物が保管してあるヴァチカン記録保管所にラングドンは急ぐ。ラングドンは「真実の図表」に秘められた暗号文をもとに、死体をさらす四つの場所とはどこなのか。反物質はヴァチカンのどこにあるのか。殺害を阻止し、盗まれた反物質を発見すべく、推理と追跡を開始する。

 ガリレオが残した暗号は全部で4つ。ラングドン教授は、「土、空気、火、水」、それぞれを象徴する彫刻が教会にあることを解き明かす。第1のヒントは、「土」。ラングドン教授は「土」に関連する教会を探り当てる。そして、焼き印を押され土に埋められ殺されている枢機卿を発見する。残された時間はわずか。ラングドン教授は、空気、火、水の彫刻がある3つの教会を見つけ出し、枢機卿を救えるのか? 反物質はどこにあるのか? イルミナティの正体とは? ヴァチカンは消滅してしまうのか?

 このブログのサイトは、推理小説の場ではないので殺害阻止や反物質探索については小説に譲って、ラングドンが辿った四つの場所を探訪し、そこに、このブログのテーマに関してどのようなものが隠されているのかを解き明かすこととする。

■ガリレオ・コードの謎を解け!

 ガリレオ・コードの謎を解く鍵は「奇跡の彫刻家ロレンツォ・ベルニーニ」と古代ギリシアで世界を構成する四大元素とされている「土・空気・火・水」である。

 ラングドン教授は、ガリレオの著書「図表」の中の詩に、秘密結社イルミナティにつながる道しるべである4つの教会の場所を示す暗号が隠されていることを見出した。ヒントは、「土、空気、火、水」であり、謎を解く鍵「ベルニーニ」から、四大元素を象徴する4箇所の教会を解き明かす。

 ベルニーニがつくったというイルミナティの秘密集会場所への道しるべは、次の通りだ。
 (1)「土」:サンタ・マリア・デル・ポポロ教会のサンティの土の墓(キージ礼拝堂)にある「ハバククと天使」
 (2)「空気」:サン・ピエトロ広場の「ウェスト・ポネンテ」
 (3)「火」:サンタ・マリア・デッラ・ヴィットリオ教会の「聖テレサの法悦」
 (4)「水」:ナヴォーナ広場の「四大河の噴水」

●ガリレオ・コードの謎:その1(暗号の元素『土』=Earth)

第一の現場:ローマ市内
 広場:ポポロ広場
 教会:サンタ・マリア・デル・ポポロ教会内のキージ礼拝堂
 道標:ハバククと天使

 「サンタ・マリア・デル・ポポロ教会」内にある「キージ礼拝堂」は、「天使と悪魔」では、「サンティの土の墓」と呼ばれている。サンティは、ルネサンスのあの有名なラファエロ・サンティのことで、キージ礼拝堂はラファエロが設計したものである。ラングドンは、「サンテンの土の墓」という詩の一節から、第一の現場がキージ礼拝堂だと解明する。礼拝堂の中に、ベルニーニが手がけた彫刻作品「ハバククと天使」がある。ハバククとは大地の滅亡を告げた預言者である。=暗号の「土」に結びつく。
しかし、礼拝堂にはすでに息絶えた枢機卿が・・・。

●ガリレオ・コードの謎:その2(暗号の元素『空気』=Air)

第二の現場:ヴァチカン市国
 広場:サン・ピエトロ広場
 教会:サン・ピエトロ大聖堂
 道標:ウエスト・ポネンテ

 第二の現場は、ローマ市の西側に置かれている世界最小の独立国ヴァチカン市国にある。サン・ピエトロ大聖堂はルネサンス期のミケランジェロの設計だが、その前面に広がるサン・ピエトロ広場はバロック期を代表するベルニーニの設計による。ラングドンは、ベルニーニがイルミナティの秘密会員だったと推察する。この広場に古代エジプトの記念石柱(オベリスク)があり、その根元に、楕円形のブロックが埋め込まれている。そのブロックに渦巻く風の図柄(ウエスト・ポネンテ)が彫られている。ウエスト・ポネンテとは、「西の風」と呼ばれるレリーフ(浮き彫り)である。ラングドンは、そのレリーフには“空気”が描かれているのだとに気づく。=暗号の“空気”に結びつく。
ラングドンは現場に急行して、人だかりの中で瀕死の枢機卿を発見するが・・・・

●ガリレオ・コードの謎:その3(暗号の元素『火』=Fire)

第三の現場:ローマ市内
 広場:サン・ベルナルド広場
 教会:サンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア教会
 道標:聖女テレサの法悦

 ラングドンは、彫刻家ベルニーニの“火”に関連した作品を探すうちに代表作「聖女テレサの法悦」に辿り着いた。「聖女テレサの法悦」は、サンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア教会に置かれていた。彫刻の台座にはテレサの心臓が描かれている。このテレサの心臓は燃えるような情熱を表している。この彫刻は当初ヴァチカンに置かれたが、あからさまなセックス表現がヴァチカンそぐわないとしてこの教会に移転された。=暗号「火」(情熱)に結びつく。
だが、教会では天井につるされた枢機卿が火あぶりに・・

●ガリレオ・コードの謎:その4(暗号の元素『水』=Water)

第四の現場:ローマ市内
 広場:ナヴォーナ広場
 教会:サンタ・ニェーゼ・イン・アゴーネ教会
 道標:四大河の噴水

 最後の暗号“水”・・・ナヴォーナ広場に彫刻家ベルニーニの代表作「四大河の噴水」がある。この噴水は、四つの川を表現している。このことから第4の場所は、このナヴォーナ広場とラングドンは睨んだ。=暗号「水」に結びつく。
第4の殺人を阻止すべく、ついにラングドンはイルミナティの暗殺者と直接対決することになる!

■そして、第5の事件はどこで起きる!?

 地図で殺害現場となった4つの場所を“線”でつないでみよう。

画像
4つの場所をつないだローマの地図
地図クリックで拡大
地図出典 http://www.geocities.jp/travel_or_die/it/it01.html


 “線”でつなぐと現れたのは・・何と、キリスト教の象徴とも言える「十字架」の印であった。“4大元素”の導きで街に現れたイルミナティの隠れ家への道しるべ“啓示の道”。ラングドンはそれが神の象徴(十字架)だったことに驚愕する。彼は隠れ家を突き止め、24時に迫った反物質の爆発を果たして阻止出来るのか?


■さて、この話の続きは小説に譲るとして、本サイトのテーマである建築物の様式は・・・・
   小説「天使と悪魔」には書かれていないのだが、 調べてみると、
   各現場の建築物または内装は、なんと、全てバロック様式であった!

●第1現場の建築物:キージ礼拝堂

 サンタ・マリア・デル・ポポロ教会のファザード(建物正面)は、ルネサンス様式だが、内部のキージ礼拝堂の内装は、重厚なバロック様式である。

画像
キージ礼拝堂(サンタ・マリア・デル・ポポロ教会内)
左側に彫刻「ハバククと天使」
Picture from Wikipedia


 サンタ・マリア・デル・ポポロ教会は、1099年、聖母マリアに捧げるために建てられた小さな教会。“悪魔の木”と言われたクルミの木から作られ、悪に対抗する聖霊の場所とされてきた。15世紀に再建。内部には計8つの礼拝堂があり、その中の一つの「キージ礼拝堂」はラファエロが建築を設計した。内装の美術品は全てバロック期の彫刻家、建築家であるベルニーニの手による。ベルニーニの彫刻「ハバククと天使」は、ここにある。

●第2現場の建築物:サン・ピエトロ大聖堂

 サン・ピエトロ大聖堂は、ルネサンス時代、バロック時代を通じ、ローマ教皇にふさわしい巨大教会堂として再建された。盛期ルネサンスの時代においてミケランジェロの着想によるドームが1593年に完成したが、ミケランジェロが理想と考えた集中式のプランでは、機能上の理由から不都合が生じたため、カルロ・マデルノの案による十字架型のドームに変更され、最終的に1626年に献堂式が行われた。大聖堂の荘厳性や崇高性のなかにバロック様式の特徴が表れているバロック建築として完成した。

画像
サン・ピエトロ大聖堂
Picture from tabi-taro


 サン・ピエトロ大聖堂の前面には、サン・ピエトロ広場が広がる。広場は、"五芒星(ペンタグラム)"の形の敷地であり、広場のすべての建物を囲んでいる。"五芒星"は、黄金比を数多く含み古来から美しい造形の基本とされている。大聖堂はミケランジェロの設計だが、広場はベルニーニの設計による。広場は正円ではなく楕円形。まさに、バロック様式の先駆ともいえる空間構成となっている。ここに、「ウエスト・ポネンテ」と呼ばれるレリーフがある。

画像
サン・ピエトロ広場
Picture from tabi-taro's site


 バロック建築とは関連はないが、サン・ピエトロ広場中央にオベリスクがある。これは、太陽神のシンボルとして又はエジプト王の権威の象徴として古代エジプトで作られていたのだが、クレオパトラ亡きあとのエジプトを占領したローマ帝国がエジプトから運んだものである。

画像
サン・ピエトロ広場のオベリスク
Picture from tab-taro's site


●第3現場の建築物:サンタ・マリア・デラ・ヴィットリア教会

 サンタ・マリア・デラ・ヴィットリア教会のファザードは、バロック建築の父といわれるカルロ・マデルノの作で、初期バロック様式の作品として有名である。

画像
サンタ・マリア・デラ・ヴィットリア教会
Picture from tabi-taro's site


 17世紀初めに建てられたこの教会は、小さいながら、その内部にもバロック建築の特徴が凝縮されている。左右それぞれに3つの礼拝堂があり、金色に光輝く正面の祭壇も異様な魅力を放つのだ。あまりに美しい天井画を含め、教会自体が当時の人々にとって“最大の娯楽”になっていたことが顕著にわかる内装である。左側奥の礼拝堂にはベルニーニの代表作である「聖テレザの法悦」が収められ、建築と彫刻の完璧なコンビネーションに息をのむばかり。神との一体感を味わった尼僧テレザの恍惚の表情が、当時は批判を受け、当初の設置場所のヴァティカンから、ここに移設されたという説がある。

画像
聖テレザの法悦 (サンタ・マリア・デラ・ヴィットリア教会内)
Picture from tabi-taro's site


●第4現場の建築物:サンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会
 サンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会は、ナヴォーナ広場中央、4大河の噴水前に立つ教会で、1653年に、建築家フランチェスコ・ボッロミーニが設計したバロック様式の建築である。

画像
ナヴォーナ広場
中央:4大河の噴水
中央奥:オベリスク
Picture from tabi-taro's site


 ボッロミーニは、ベルニーニとはライバルだったといわれている。ベルニーニは、四大河の噴水の彫刻を教会の近くに建ててボッロミーニに対抗したのだと伝えられている。

 教会の名称「サンタニエーゼ・イン・アゴーネ」は、「苦悶する聖アグネス」という意味で、信仰を捨てることを拒んだために性的奴隷としての生活を強いられた可憐な十代の乙女、聖アグネスに由来する。A.D.3世紀、アグネスは古来の宗教を重んじたディオクレティアヌス帝時代のローマで、高官の息子からの求婚を退けたため召還され、キリスト教徒であることがわかり、娼家に送られた。このとき全裸にされるが、奇跡により髪が伸びて全身を覆い隠したという。屈辱のあと、火に投じられるが死なず、最後は斬首されて殉教した。死後、彼女の両親は、白い子羊のそばにいる彼女の姿を見たという。バロック絵画に、その処刑場面が多く描かれている。

画像
聖アグネスの死
サンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会内
Picture from "Web Gallery of Art"



■バロック様式
 バロック様式は、簡単にいえば、ルネサンスで復活した古典様式に動きの要素が加わったものである。
 バロック様式は、ルネサンス様式の延長線上に発達した。 整然と調和のとれたルネサンス様式に再び飽きた17世紀の建築家達は、不規則で変化に富んだ動きのある教会建築を創りだした。往々にして聖堂内部は、彫刻、絵画群と建物とが一つに溶け合って人を圧倒するような迫力に満ちている。
 バロックの語源は正確にはわからないが、ポルトガル語の「歪んだ真珠」だといわれる。後の時代の人々が悪趣味で下品な様式として批判を込めて呼ぶときに使い出したのがこの言葉だった。
 ルネサンス時代の端正な形よりも、楕円の平面や捻れ柱のような曲線や歪んだ形、動きのある形が好まれ、決り切った単純な形を避けようとしたのは確かだった。整合性よりも、それを破り、逸脱したところに美しさをみようとするのが、バロックである。そのために、バロックという言葉が合理的な古典主義とは対極にある概念を表すものとして使われることもある。たしかに、バロックはルネサンスから見れば逸脱である。しかしどこから逸脱したかというふうにバロックを見ようとすると、バロックは見えにくい。ルネサンスという円形的で球体的な"中心"の世界観があって、そこから逸れたとみなしすぎることになる。どこから逸脱したかではなくて、むしろどこへ逸脱しようとしたかがバロックなのである。
 バロックには古代ギリシアに始まったすべての「大いなる様式」の最終回答がある。もしバロックがおこらなかったとしたら、時代はつねに古典回帰するだけに終わっていた。そんな歴史はつまらなかったろう。いつまでもルネサンスが追い求められていただけだ。それがバロックでは「大いなる様式」を表現するための「限界」にまで進んだ。

 この時期の建築は、様々な仕掛けで見る者を驚かせ、劇的で強烈な印象を与えようとした。色や形、大きさなど万事に派手好みで装飾も出来る限りたっぷりと施される。反宗教改革ともいえるカトリックの「対抗宗教改革」の中心となった教皇、絶対王政を誇った国王など、強力な権威や力を形にして示そうとするとき、このような表現が生まれてきたのだった。

 感性に直接訴えるバロック建築は、わかり易く、伝わり易かった。ゴシックやもっと以前の様式の時代から、装飾の伝統を保ち続けている地方では、それをバロック様式のなかに生かすこともできた。バロック様式は、ほとんど全ヨーロッパに隈なくいきわたったのだった。しかもそれはヨーロッパが世界に進出する時代でもあった。南北アメリカから、アジア、アフリカまで、バロックの西洋建築が様々な所で建てられていった。

 バロックの時代は、おおむね17世紀から18世紀はじめまでだったが、辺境地域では様式が長い間変化しないこともあり、こうした場所では19世紀までバロック様式が続くこともあった。時と場所、どちらをとってもバロックは空前の広がりをもった様式だったのである。


■バロックの建築家 〜 ベルニーニとボッロミーニ
バロックの音楽家では、ヴィバルディ、バッハ、ヘンデルが代表的であり、画家では、レンブラント、ベラスケスが代表的であるが、建築家では、イタリアのベルニーニとボッロミーニがバロック時代の代表である。

 べルニーニ(1568-1680)
フルネームをジャン・ロレンツォ・ベルニーニという。ミケランジェロに次いで有名なイタリアの彫刻家、画家、建築家である。「ベルニーニはローマのために生まれ、ローマはベルニーニのためにつくられた」と賞賛されたバロック芸術の巨匠である。彫刻家の息子としてナポリで生まれた。幼い頃、父とともにローマに移り、早くから彫刻に天才を発揮していた。建築は、カルロ・マデルノのもとで修行し、師が亡くなると教皇ウルバヌス8世に登用されて、サン・ピエトロ大聖堂の主任建築家となる。以後、ヴァチカンに愛されてローマ教皇の宮廷でも重きをなし様々な建築を手がける一方、噴水や広場、橋などを飾る彫刻をデザインし、ローマそのものを自分の作品で変革していった。現在でもベルニーニの建築は、ローマの景観の大切な部分をつくっている。小説「天使と悪魔」では、ラングドン教授は、ベルニーニをヴァチカンに潜り込んでいた“イルミナティ”の秘密会員で、彼が手がけた作品に密かに“イルミナティ”の象徴を記したのではないかと考える。

 ボッロミーニ(1599-1677)
 フルネームをフランチェスコ・ボッロミーニという。イタリアのバロックを代表する建築家である。サン・ピエトロ大聖堂の建築家マデルノの親戚で、彫刻石工等としてマデルノ、ベルニーニのもとでサン・ピエトロの工事に従事する。ベルニーニのライバル。最初は二人共同で、かのヴァチカンの巨大バルダッキーノ(天蓋付きの祭壇)なども手がけたが、次第にデザイン的にか、思想的にか対立するようになったといわれている。ボッロミーニは、現在のスイス、ティチーノ出身の建築の専門家だった。与えられた仕事は、ベルニーニに比べると小規模なものが多かったが、独創的な造形でひとつひとつ全く新しい世界を創り出していった。1667年に自殺したが、その独創的でドラマチックな建築は、今尚ファンが多い。同じバロック建築でもベルニーニの古典主義的で端正な作風に比べ、曲面を多用し、幻想的な効果を上げることを得意とする。強烈な個性を発揮するボッロミーニ建築にはその後多くの追従者を生んだ。後のバロック建築に与えた影響は大きい。


■それでは、ヴァチカン市国とヴァチカン市国にあるサン・ピエトロ大聖堂を探訪してみよう。

●ヴァチカン市国
画像
ヴァチカン市国の地図


 カトリック教会の総本山であるサン・ピエトロ大聖堂は、ヴァチカンにある。正式には、「ヴァチカン市国」という。ヴァチカン市国は、イタリアの首都・ローマ市内の西側に国土を有する世界最小の国である。ローマ市の公用語がイタリア語であるのに対し、ヴァチカン市国の公用語はラテン語である。ここではまず、ヴァチカン市国を探訪する。

 ヴァチカンの地は、キリスト教以前から一種の聖なる地だったと考えられている。カトリックの伝承によれば、この地にはキリスト教の使徒ペテロの墓所があったところとされており、326年にコンスタンティヌス帝によってこの地に最初の教会堂が建てられた。それが、ヴァチカン市国にあるサン・ピエトロ大聖堂である。聖ペテロの大聖堂という。

画像
サン・ピエトロ大聖堂のペテロ像
Picture from tabi-taro
 

 イエス・キリストの12人の使徒のことを「十二使徒」という。使徒とは、キリストの高弟、すなわち最も優れた弟子のことである。聖ペテロは、十二使徒の中のリーダー的存在でありイエスの側近であった。ペテロがいなければ今日のキリスト教はなかったといわれている。写真はサン・ピエトロ大聖堂にある聖人像、ペテロの像である。

 ペテロはもとの名をシモンといい、パレスティナのガリラヤ湖の漁師だった。イエスはこのシモンにペテロ(岩)という名を与えた。イエスは言った。「あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上に私の教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つ事はない。わたしは、あなたに天国の鍵を授けよう…」(マタイ16-18)。こうして、ペテロはイエスの一番の弟子とされ天国の鍵(天国の扉を開く鍵)を与えられた。そして、ペテロは初代ローマ教皇となったのである。天国の鍵は、教皇のシンボルとされる。サン・ピエトロ大聖堂で右手に大きな鍵を持っている聖人の像、それが聖ペテロである。なお、ペテロ(英語ピーターPeter、ラテン語ペトルスPetrus、イタリア語ピエトロPietro)は、かつては、日本語では、イタリア語に由来してペトロと表記していた時代もある。

 ヴァチカンの地には、568年にゲルマン系のランゴバルド族によって、ランゴバルド王国という王国が建国された。754年から755年にかけて、フランク王国の国王ピピン3世(小ピピン)がランゴバルド王国から領土を奪ってローマ司教ステファヌス3世に献上した。ローマ司教は、この地を自らの領地として住み、教皇(法王)として全カトリック教会に対して強い影響力を及ぼすようになった。こうしてヴァチカンの地は、ローマ教皇領として、またカトリック教会の本拠地として発展していった。

 イタリアは長い間、統一国家が形成されずに中世以来、都市国家の分裂状態がつづいていたが、19世紀になると、イタリア人としての民族意識が高まり、統一運動が活発になった。1861年に、イタリア都市国家群は、ローマ教皇領とオーストリア領ベネツィアを除いて、トリノを首都としてイタリア王国として統一するに至った。その後、1866年の普墺戦争でヴェネツィアを編入し、1870年の普仏戦争の余波でローマ教皇領を占領して、イタリア王国の統一を完成させた。そして、1871年に首都をローマに移した。

 ローマ教皇庁は、教皇領がイタリア王国に接収されたため、イタリア王国政府との関係を断絶した。1870年のイタリア統一までは、ローマ教皇庁はローマを含むイタリア中部の主権者であった。時の教皇ピオ9世は、ローマはローマ教皇庁のものであり、イタリアという国家や民族を超えた存在であるから、イタリアの主権下に置くことはできないと、ローマを含むイタリア統一に大反対したのであった。教皇は「ヴァチカンの囚人」と称してヴァチカンに引きこもって、イタリア王国と対立を続けた。

 しかし、このような不健全な関係を修復すべくイタリア政府とヴァチカンの間で折衝が続けられたが、20世紀、1929年になってようやく教皇ピウス11世の全権代理ガスパッリ枢機卿とイタリア首相ベニート・ムッソリーニとの間で合意が成立し、3つのラテラノ条約が締結された。条約は教皇庁が教皇領の権利を放棄するかわりに、ヴァチカンをヴァチカン市国と称する独立国家とし、イタリアにおけるカトリック教会の特別な地位を保証するものであった。この措置はイタリア国民にも広く支持された。なお、イタリア王国は、第2次世界大戦の敗戦色濃い1943年にムッソリーニ首相が失脚し、大戦後の1946年に王政が廃止されてイタリア共和国となった。

 ヴァチカン市国の面積は44ヘクタール。日比谷公園の3倍程度で皇居よりかなり狭い。時のイタリア政府はもっと広大な領土を提供することを考えていたが、教皇は祈りの場所があればそれで十分ということで、それ以上は辞退したという。現在、ヴァチカン市国の人口は826人(2009年7月推定値)、国民は教会関係者のみである。当然のことながら、永世中立国である。なお、ヴァチカン市国は、国土全域が1984年に世界遺産として登録された。

●サン・ピエトロ大聖堂
 サン・ピエトロ大聖堂はヴァチカン市国にあるカトリック教会の総本山である。ローマ教皇(ローマ法王)との一般謁見は、聖堂の前のサン・ピエトロ広場で行われる。サン・ピエトロは「聖ペテロ」の意で、キリスト教の使徒ペテロのイタリア語読み(ピエトロ)に由来する。

 創建は4世紀。ローマ帝国の皇帝コンスタンティヌス1世の指示で建設された。現在の聖堂は2代目にあたり、1626年に完成したものである。現在見られる大聖堂の建設は、1499年に教皇アレクサンデル6世が、聖堂の老朽化のため改築を思い立ち、1505年の秋頃に教皇ユリウス2世によって改築の決定が行われたことによって始まる。

 ルネサンス期のローマで活動していた建築家ドナト・ブラマンテが主任建築家に任命され、1506年4月1日に起工式典、そして4月18日には基礎石の設置式典が行われている。ブラマンテの死後、1514年に、ラファエロが主任建築家となり、前任者ブラマンテの集中式プランを長大な身廊をもったラテン十字プラン(バシリカ式)に変更して活躍した。ラファエロの死後、主任建築家にラファエロの流れを汲むバルダッサーレ・ペルッツィが任命されたが、ペルッツィが1536年に死去すると、イタリアルネサンスの理念を継承したアントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネが主任建築家に任命された。しかし、サンガッロが1534年に死去すると、大聖堂の主任建築家にはラファエロの最高の弟子ジュリオ・ロマーノが選出されたが、その数週間後にロマーノも死に、ミケランジェロが、1546年に建設工事中であったサン・ピエトロ大聖堂の建築主任となった。そのとき、ミケランジェロはすでにかなりの高齢(72歳)であったが、超人的な能力でこの計画を押し進め、根本的な解決案を作成した。ラテン十字のプランをブラマンテの計画した集中式プランに改編した。

 このように、ルネサンス期の16世紀はじめのルネサンス期から設計の変更を繰り返しながら営々と工事が続けられてきたヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂は、17世紀のバロック期に入ってようやく出来上がった。ミケランジェロ案に基づくドーム、カルロ・マデルノによる新しい正面部分の立ち上げを経て、結局、堂全体は集中式ではなく儀式に便利な縦長、十字架型のものになった。続いて、聖堂の横にあったオベリスクが前の広場の中心に移され、ベルニーニが広場を囲む回廊をつくり、さらに堂内では金色に輝く中央の祭壇と大きな捻れ柱をもつバルダッキーノと呼ばれる天蓋をデザインした。盛期ルネサンスとともに建設が始まった大聖堂は、参詣者たちが息をのむ壮大で華麗な空間として完成し、バロック建築の幕開けを告げることになった。

 列柱の上には140人の聖人像が立つサン・ピエトロ大聖堂は、高さ約120m、最大幅約156m、長さ211.5m、総面積は49,737m2。教会堂の前部には長径200m、短径165mの広場(サン・ピエトロ広場)が存在する。北側にはヴァチカン宮殿、南に教皇謁見所と宝物館が隣接する。ルネサンス時代、バロック時代を通じ、ローマ教皇にふさわしい巨大教会堂として再建され、当時の第一級の芸術家たちがその造営に携わった。その巨大さ、荘厳さ、内部装飾の豪華さを含め、聖堂の中の聖堂と呼ぶにふさわしい威容を誇っている。

画像
サン・ピエトロ大聖堂の列柱廊とサン・ピエトロ広場の大噴水
Picture from tabi-taro


-------------------------------------------------------------------------------
MyPage リンク: 世界の建築様式 8.ルネサンス編 
              http://matiere.at.webry.info/201004/article_5.html
-------------------------------------------------------------------------------
参考サイト: (tabi-taro.com)
        ★天使と悪魔
          http://tabi-taro.com/record/italy/4.htm
                
参照資料/引用資料
         「西洋建築様式」 美術出版社
         「天使と悪魔 (上)(中)(下)」角川文庫
         「サン・ピエトロの立つかぎり」吉川弘文館
         「ローマ ある都市の伝記」朝日新聞社
         「こんなにわかってきた素粒子の世界 」技術評論社

-------------------------------------------------------------------------------
Copyright© 2010 Matiere


テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(2件)

タイトル (本文) ブログ名/日時
ローマ法王が日本人をブロック
1 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2012/12/14(金) 23:01:04.87 ID:JZhwaOJM0 ?2BP(1920)【我慢の限界】日本人Twitterユーザーが暴言を吐きローマ法王にブロックされる / 日本人「ブロック... ...続きを見る
【2ch】ニュース速報嫌儲版
2012/12/15 00:01
VISVIM 通販
世界の建築様式 〜 9.バロック編 matiere/ウェブリブログ ...続きを見る
VISVIM 通販
2013/07/09 20:26

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
世界の建築様式 〜 9.バロック編 matiere/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる