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zoom RSS 世界の建築様式 〜 6.ロマネスク編

<<   作成日時 : 2010/03/31 18:31   >>

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世界の建築様式

6.ロマネスク編

世界遺産 "ピサのドゥオモ広場"

 イタリアを走る高速列車ユーロスター・イタリアは、ローマから1時間40分でフィレンツェに到着する。ルネサンスが花開いた街である。街の名は、イタリア語の "花"(フィオーレ)を語源とする。フィレンツェのことを、英語ではフローレンスという。

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イタリア新幹線 "ユーロスター・イタリア"


 そのフィレンツェでローカル線に乗って1時間、ピサ中央駅に着く。

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ピサ


 中央駅から徒歩25分のところに、世界遺産 "ピサのドゥオモ広場" (Piazza del Duomo,Pisa)がある。別名「奇跡の広場」という。世界遺産とは、先人が残した古代の遺跡や建築物、自然が造った壮大で美しい地形、貴重な動植物など、人類と地球にとってかけがえのない宝のことである。前者を文化遺産、後者を自然遺産という。 "ピサのドゥオモ広場" は、イタリアで最も美しい広場であり、世界文化遺産として国連に登録されている。

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ピサのドゥオモ広場


 ドゥオモ広場に4つの印象的な建築物が建っている。洗礼堂、大聖堂、鐘楼、納骨堂で、主として、ロマネスク様式の代表的建築物である。ピサの街の繁栄を象徴した建物群である。特に鐘楼はピサの斜塔として有名である。

 ピサは、イタリア共和国トスカーナ州ピサ県の県都でティレニア海に面した港湾都市。都市国家ピサは、イタリア中部を流れティレニア海に注ぐアルノ川の両岸に栄え、11〜13世紀にはヴェネチア、ジェノバ、アマルフィと並び地中海商業圏で権勢を誇る4大海洋都市国家のひとつだった。13世紀ころから、このアルノ川を巡ってはルッカやフィレンツェとの衝突もあったが、1509年には、フィレンツェの大富豪メディチ家によって征服されている。

ロマネスク建築

 ロマネスク建築は、西ヨーロッパに10世紀に開花し11世紀以降に発達した建築様式であるが、ロマネスクが開花する以前のヨーロッパの社会は惨憺たる状態であった。

 4世紀末、アジア系遊牧民族であるフン族の圧力によるゲルマン民族の未曾有の大移動によって、衰退期に入っていたローマ帝国は、395年、ついに東西に分裂した。そして、民族大移動開始から1世紀のちの476年に、西ローマ帝国は滅亡する。西ヨーロッパでは、それまでのローマ的社会が一変し、ゲルマン諸部族による「中世ヨーロッパ社会」へと転換していった。ゲルマン民族大移動の後、西ヨーロッパ各地にはゲルマン人国家が建設された。その中でも、特に強国になったのが、東ゴート王国(イタリア)とフランク王国だった。東ゴート王国はやがてビザンツ帝国に征服されるが、フランク王国は発展・分裂しながら、現在の西ヨーロッパ諸国の土台となっていく。

 5世紀にフランク族が建てたフランク王国では、カロリング家が代々フランク王国に仕えており、その当主ピピンが、751年にフランク王国にカロリング朝を創始した。その子カール大帝の頃の8世紀に最盛期を迎え、西ヨーロッパ全域に版図を拡大した。しかしカール大帝の没後の843年に王朝は東フランク王国、西フランク王国、中部フランク王国(ロタール王国)の3つに分裂され、ゲルマン民族の一部族であるノルマン人の移動と建国を経て、ほぼ現在のドイツ、フランス、イタリアの原形がつくられた。

 西ヨーロッパは、カール大帝の出現によりゲルマン民族大移動以来の混乱に終止符が打たれたが、再び動揺の渦に巻き込まれた。9〜11世紀の第2次民族大移動である。その中心をなしたのは、ノルマン人(ヴァイキング)の侵入である。ノルマン人は、ノール人(ノルウェー)、デーン人(デンマーク)、スウェード人(スウェーデン)の3部族からなる北方系ゲルマン部族であった。彼らは、まず、西ヨーロッパの海岸の主要都市を襲い、つづいて河川を遡って内陸諸都市を略奪した。西ヨーロッパの主要都市で、ヴァイキングの脅威にさらされない都市はなかった。

 そのような暗黒の時代が過ぎた後の西ヨーロッパに、人々に活気と創造性を生み出す原動力となった文化が開花した。ロマネスク文化と名づけられている。

 この頃の建築家たちの主な仕事は、荒廃した町や村を復興し、破壊された教会堂を再建することだった。この時代に建造された建築物の様式を、ロマネスク様式という。ロマネスク建築は、 1O-12世紀にかけての中世西ヨーロッパの建築様式である。最初のヨーロッパ建築と言っても過言ではない。

 ロマネスク建築は、西ヨーロッパに10世紀に開花し、11世紀以降に発達したもので、 主に教会堂や修道院建築がある。10世紀にはカロリング朝が衰退、滅亡し、社会的に混乱期であったが、紀元1000年を機に教会堂の復興が進められ、ロマネスク建築の教会堂が多く建設された。同時代の東ヨーロッパのビザンティン建築と同じく、教会堂建築において最高の知識・技術・芸術が集約されており、彫刻や絵画は聖堂を装飾するための副次的要素であった。

  10世紀に、ローマを中心とするイタリア地方で発祥したロマネスク様式は、西ヨーロッパ全体に広まった。ロマネスク様式は、キリスト教の布教が盛んになると共に、建築分野で主流となった。ロマネスク様式の典型的なものは、円形の教会に見られる。当時、白亜が建築資材として用いられていたため、建物の壁は白く、また、石造りの建物を建てるという手法は以前用いられていなかったため職人の技術も未熟で、壁がとても分厚いことからも見て取れる。壁の厚さは平均1メートルから2メートルで、窓もほとんど見られない。天井や扉には、木材や石が用いられていた。

 ロマネスクという言葉は、もともと建築様式の用語であり、東方の初期キリスト教様式にローマ建築の技術を採用して発展したものである。美術史・建築史において、19世紀以降使われるようになった用語であり、直訳すると「ローマ風の」という意味であるが、当初は「堕落し粗野になったローマ風の様式」という蔑称としての側面が強かった。戦乱の中世ヨーロッパで生まれた、修道院や教会のための様式で、巡礼路沿いに発展した。その芸術的・建築的価値が評価されるようになるのは20世紀になってからである。

 ロマネスク建築には格別に際立った技術革新はなく、修道院や聖堂の平面形はバシリカ(古代の集会施設で裁判所などに利用)の建築様式を踏襲する長方形のスタイルとそのアレンジが主流である。ラテン十字形の平面とローマ風の半円形のアーチ形の窓や入口、そして簡素なボールト(アーチ構造による曲面天井)や厚い壁面をもち、どっしりとした重量感を感じさせるのが特徴である。ロマネスク様式はやがて、その技術的進歩と共に、芸術的にも洗練され、ゴシック様式へと移っていく。

 ロマネスク建築の美は、その地方の風土にマッチして建設され、風景の一部として我々の目前にそびえたっている点にある。ロマネスクの時代が地方の自治と独立をもって西ヨーロッパの自立を自覚した時期であることと関連させるならば、この時代だからこそ、地元の職人による地元の材料と構法をもって建設された地方色豊かな建築が生み出されたと考えることができる。

 ロマネスク建築の発展と様式化に重大な影響を与えたと思われるものに、「至福千年」の思想がある。それは、紀元千年がキリスト降誕後千年に当たり、「ヨハネ黙示録」に描かれた世界の終末がその年にあたるのではないかというものであり、恐怖に脅かされ、常に死後の世界を見つめていた当時の西ヨーロッパの人々の中に、聖なるものへの志向が定着し、教会堂建築の中に様式化していったとみなせるのである。

西ヨーロッパ各国の誕生

 前述の通り、カール大帝の没後の843年に、フランク王国は東フランク王国、西フランク王国、中部フランク王国(ロタール王国)の3つに分裂され、ドイツ、フランス、イタリア各国の誕生の元になった。以下、各国のその後の経緯をみてみる。

 東フランク王国は現在のドイツにあたる。ここでは、カロリング家が10世紀はじめに途絶えて、有力諸侯が王位につく。王は有力諸侯による選挙で選ばれた。10世紀に、トルコ系民族に圧迫されたアジアの遊牧民族マジャール人(ハンガリー人)が東方から盛んに東フランク領内に侵入してきた。これを撃退したのが東フランク王国のオットー国王。オットーは「キリスト教国を異教徒マジャールの禍から救った聖なる戦士」として称えられ、ヨーロッパ中の注目を浴びるようになる。オットー国王は、西ヨーロッパ世界を防衛した功労者ということでローマ法王からローマ皇帝の冠を授けられた。「神聖ローマ帝国」のオットー1世の誕生である。「神聖ローマ帝国」の国号が使われ出したのは13世紀以後のことで、まだ後のことであるが、世界史ではこの時をもって神聖ローマ帝国の誕生としている。神聖ローマ帝国は、1806年にナポレオンに解体されるまで、現在のドイツ、 イタリア北部、オランダ、スイス、オーストリア、フランス東部辺りに存在していた諸王国の連合体であり、帝国はそれら各国を統括することになる。

 西フランク王国は現在のフランスにあたる。ここでは、10世紀後半にカロリング家が途絶える。9世紀後半からノルマン人がフランスに侵入して略奪を繰り返すのだが、この時にパリ防衛で活躍した諸侯、パリ伯ユーグ・カペーがフランス王になる。これがカペー朝。10世紀以降のカペー朝のとき、「フランス王国」に統一され、しだいに王権を強めた。のちのフランス革命をへてナポレオンによる第一帝政、ナポレオン3世による第二帝政へと変遷していく。

 中部フランク王国は現在のイタリアにあたる。ここでは、早くにカロリング家が断絶し国家的な統一はなくなった。イタリア半島北部には諸侯や都市が自立化して分裂割拠状態。それに乗じて、東フランク王国のオットー国王が962年にイタリアに遠征し支配権を及ぼすようになった。イタリア半島中部にはローマ教皇領があり、その南、イタリア半島南部とシチリア島はイスラム勢力により占領された。11世紀初頭になるとイタリア中部や北部の都市、特にヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェなどが海運や商業によって繁栄するようになり、名目上は神聖ローマ帝国の傘下にありつつも、実質的には独立した政治的権限を持つ都市国家へと発展する。統一国家としてのイタリア王国の成立が宣言されたのは、1861年になってからである。

"ピサのドゥオモ広場"巡り

 以下、"ピサのドゥオモ広場" の建築物を巡ってみることにする。

 ピサのドゥオモ(大聖堂)は、イタリアにあるロマネスク様式の代表的建築物だ。大聖堂に隣接して鐘楼、洗礼堂、カンポサント(納骨堂、墓所)が建てられており、素晴らしい建築複合体を作り上げている。この大聖堂の隣にある鐘楼は、有名なピサの斜塔である。 ピサの斜塔は傾いた建物として有名で、その姿を見るために世界中から観光客が集まってくる。

 ピサは、イタリア語で Pisa と書く。なお、食べ物のピザは、Pizzaと書き、イタリア語でピッツァと発音する。イタリア語でピザと発した場合、聖堂あるいは斜塔またはそれらがある町のことである。

● 洗礼堂

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ピサの洗礼堂


 洗礼堂は、聖ヨハネに捧げられた建物。大聖堂の西側に建っている円筒形の建物で、直径約35m。着工は1152年で、完成には200年以上を要し14世紀後半に完成。洗礼堂はピサ・ロマネスク様式とゴシック様式で構成され、作られた時代の移り変わりを物語っている。全体は白い大理石で、1層目はロマネスク様式で、向かい合う大聖堂のファサードと同じ列柱とアーチで装飾されている。2層目以上にはゴシック様式のピナクル(小尖塔)とペディメント(三角形の切妻壁)が繊細なレース模様の様に重なりあう珍しい建物で、別名"宝石箱"と呼ばれている。

● 大聖堂(ドゥオモ)

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ピサの大聖堂


 大聖堂(ドゥオモ)は、緑の芝生が生える広場の中央にそびえる。都市国家ピサが、1063年に、パレルモ沖(イタリア南部シチリア島北西部)でサラセン艦隊(イスラム帝国艦隊)を破ったことを記念して、1063年、ギリシャ人の建築家ブスケトスの指導のもとに設計、着工され、1118年献堂された。

 大聖堂の外観は、ビザンティンのモザイク、イスラムの尖塔アーチ、ロンバルディアの小アーケード、古代ローマの列柱など各種の建築要素を融合させて、イタリアらしい風格と明るさに満ちている。

 ロマネスク様式の代表的建築。建物の構造は、奥行きが約100m、幅約30mで、上から眺めるとラテン十字の形をしている。内部は、円柱が密に並び、五廊式となっている。使用された円柱の多くは戦利品として、パレルモの古代遺跡から運ばれたものともいわれ、内装はビサンティン様式の影響も見える。

 建物内部にはピサの人々に愛された、聖ラニエリ (Rainerius) とハインリッヒ7世の墓がある。

 
ガリレオ・ガリレイ
ピサで生まれ育った16世紀のイタリアの有名な物理学者、天文学者、哲学者にガリレオ・ガリレイがいる。

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ガリレオ・ガリレイ


 ガリレオは、ピサの大聖堂で揺れるシャンデリアを見て「振り子の等時性」を発見したといわれている。ただしこれは後世に伝わる逸話で、実際にどのような状況でこの法則を見つけたのかは不明である。

 「振り子の等時性」は、簡単に「振り子の原理」とも言われ、「ひもの長さが同じなら、振り子が大きく揺れているときも、小さく揺れているときも、往復にかかる時間は同じ」という原理である。

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ピサ大聖堂のシャンデリア


 ガリレオの「振り子の等時性」の逸話

 「振り子の等時性」を発見の際の逸話が残っている。ある日、ピサの大聖堂に入ったガリレオは、天井から吊した大きなシャンデリアに何気なく目がとまった。シャンデリアは、大きく揺れたり小さく揺れたりするが、シャンデリアが行って戻ってくるまでの距離に関係なく、1回の運動にかかる時間は変わらない。この時代に時計はないので、ガリレオは手首の脈を取り、時間を計ってみた。そして確信した。シャンデリアの揺れが小さくなっても大きくなっても脈の数はほぼ同じ。つまり振り子が揺れて往復する時間は、振り子が揺れる幅で違うのではなく、おもりの重さでもない。振り子の長さによるものなのだと。

 こうしてガリレオによって「振り子の等時性」は発見された――というような内容であるが、実はこの逸話は創作らしい。ガリレオが何らかの観察によって、振り子の等時性に気づいていたのは間違いないのだが、ピサの大聖堂のランプができるよりも前に法則は発見されていたらしい。この逸話は、ガリレオの助手のビビアーニが書いた「ガリレオ伝」に、ガリレオの物理学での数々の功績を称えるために書き加えたものだと思われる。

 ピサの大聖堂で着想したかどうかは別にして、ガリレオが唱えた「振り子の等時性」は、運動物理学の理論であり機械式の時計に応用された。弓や大砲の弾がどう飛ぶのかなども運動物理学である。この「振り子の等時性」を調べる実験は,小学校5年生の理科において選択単元として取り扱われている。


● 鐘楼(ピサの斜塔)

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ピサの斜塔


 「傾けど倒れず」建設途中から傾き始めてはや700年以上、今も傾斜の美学を誇っている。

 ピサの斜塔が傾いている原因は、地盤の土質が極めて不均質であったことである。南側の土質が相対的にやわらかく年月を経るうちに傾き始め、それにより回転モーメントが増大してますます地盤に対する負担が大きくなり、結果的には塔の南側が大きく沈下するという事態に陥ったのである。

 ピサ・ロマネスク様式の大理石の塔で大聖堂の鐘楼として1173年に着工。工期は、第1工期1173年 - 1178年、第2工期1272年 - 1278年、第3工期1360年 - 1372年で、工事が長引いた原因は、着工直後から始まった塔の傾きである。ピサは、アルノ川が運んできた土砂の上にあり、建物の基礎を深く作るには地盤が大変弱く、傾きが生じた主な原因とされている。このため、塔は本来100m以上の高さを予定されていたが、約半分の高さでの完成を余儀なくされたといわれている。

 1173年8月9日の着工時には垂直であったが1185年に第3層(10mの高さ)まで出来上がった時に地盤沈下のためにすでに傾き始め、工事は一時中断された。第2工期でややその傾斜を修正しつつ建設が再開されたものの、その傾きはなおも止まらず、第3工期を迎えたのである。着工から実に199年もの年月が経った1372年に完成。傾きを修正することはできず、そのまま54メートルの塔が立てらた。塔は傾いたまま、最上階層のみ地面に対して垂直に立てられている。オリジナルの建築計画上では現在あるものよりも遥かに高い鐘楼ができる予定であったという。しかし「ピサの斜塔」として世界で最も有名な不等沈下の事例として現在もその姿を保つこととなった、という。

 塔は白大理石を用いた円筒形の8階建てで、階段は296段(※294段という説も)ある。重さ14453トン、外周の直径は17mに及び、内径は約4.5m。高さは北側で54.8m南側で 55.65m、南へ向かって4m50(5度30分)傾いている。塔の南側の地盤沈下は2.4mに及ぶ。一番下の部分は開口部のないアーチ(ブラインド・アーケード)が並び、菱形模様で飾られている。この様式はピサ独特のもので、そこから上にはドゥオーモの後陣(斜塔側)の装飾にならい、かろやかで優美な細身の円柱による回廊が6層取り巻いている。塔の内部は重心をできるだけ内側に落とすよう工夫がされ、直径7.7mの空洞となっている。建物全体の総重量は、推定14,453t。

 1964年2月27日、イタリア政府はピサの斜塔を崩壊から回避するための支援を求めた。1990年1月7日、安全上の問題により公開を休止し、傾斜角を是正するために改修工事が行われた。当初は沈み込んだ側と反対の北側におもりを載せることでバランスをとろうとしたが、根本的な解決には至らなかった。その後、改修工法には世界各国の建設会社から様々な提案がなされたが、最終的に、北側の地盤を掘削するという工法が採られた。他にも、薬液を注入して地盤改良を行うなどの案もあったが、透水性の低い粘土層への注入は難しく、強引に注入すれば攪乱が起こり前述の鋭敏比の問題は避けられなかった。そして2001年6月16日、10年間にわたる作業が終了し公開は再開された。

 1964年2月27日、イタリア政府はピサの斜塔を崩壊から回避するための支援を求めた。1990年1月7日、安全上の問題により公開を休止し、傾斜角を是正するために改修工事が行われた。当初は沈み込んだ側と反対の北側におもりを載せることでバランスをとろうとしたが、根本的な解決には至らなかった。その後、改修工法には世界各国の建設会社から様々な提案がなされたが、最終的に、北側の地盤を掘削するという工法が採られた。他にも、薬液を注入して地盤改良を行うなどの案もあったが、透水性の低い粘土層への注入は難しく、強引に注入すれば攪乱が起こり前述の鋭敏比の問題は避けられなかった。そして2001年6月16日、10年間にわたる作業が終了し公開は再開された。

 近年傾斜の増加が著しくなったため、1990年に一時立ち入り禁止となった。 そして2001年12月、10年間にわたる傾斜防止作業が終了し、一般公開を再開した。塔は現在、中心線から南に向って約4m(1350年の時は1.8m) 、角度にして約5度傾いている。2008年5月28日、監視担当のエンジニアで地質学者でもあるミケレ・ジャミオルコウスキ教授により、少なくともあと300年は倒れる危険がないとの見解が示されている。


  ガリレオの「落下の法則」の逸話

16世紀に、ガリレオ・ガリレイがピサの斜塔で落下の実験を行い「落下の法則」を発表したという逸話が残っているが、これもガリレオの助手のビビアーニが書いた「ガリレオ伝」に書き加えたもので、ガリレオがピサで実験を行った事実は無いとされている。

 以下、「落下の法則」の逸話の概要である。2000年前、古代ギリシャの偉大な哲学者であるアリストテレスに始まり、キリスト教が認める学問では、地上の世界と天上の世界はまるで違うと信じられてきた。アリストテレスはこう言った。「地上と天上ではものの動き方の決まりが違う。地上では火は上へ行き、土は下へ行く。石を持ち上げ、手を離すと下へ動くのは石を作っている土の元素が元々中心にある土へ帰ろうとするからで、たくさんの土の固まりは少しの土の固まりよりも早く元の所に帰ろうとするから、早く落ちる」。この誤った伝統的理論にガリレオは真っ向から挑戦した。大学の講義でアリストテレスの説に疑問を持ったガリレオは実験を試みる。小さな鉄の玉と大きな鉄の玉を持つと、ピサの斜塔に上っていった。294段の螺旋階段を上り、てっぺんに出ると、ガリレオは2つの玉を同時に落としてみた。地面に着いた音は1つだった。ガリレオは、アリストテレスの理論の誤りを正し、それまでアリストテレスの理論の応用ですませていた学問に、「自分の目で観察して確かめる」という手法を取り入れたのである。

 ピサの斜塔での実験の真偽はともかく、ガリレオは実験や観察を重視し、自分の正しい考えを証明するには実験するしかないと結論づけた。今では当然のこととされている手法だが、当時は伝統やカトリック教会という大きな壁が立ちはだかっており、誰も伝統に口を挟むことが困難な時代だった。それでもガリレオは屈することなく自分を信じて研究を続けた。


● 納骨堂(カンポサント/墓所)

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ピサのカンポサント


 大聖堂の北側にはアーチの連続する回廊付の美しい中庭を持つ墓所がある。回廊の壁には14世紀に描かれたフレスコ画があった。しかしながら、第二次世界大戦での空襲でほとんど消失してしまった。


<<エピソード:地動説を唱えたガリレオ>>
 古く、紀元前の古代ギリシアのアリストテレスの時代からコペルニクスの登場する16世紀まで、地球は宇宙の中心にあり、まわりの天体が動いているという天動説が信じられてきた。ところが、ポーランドのコペルニクスは、地動説を提唱し、教会の権威に抗して科学的精神への道を切り開いた。コペルニクスは、フィレンツェのプラトン学園に学び、古代の地動説に接し、1543年に地動説に立った天体の体系を構築した。それは、カトリック教会が認めていたプトレマイオスの説に基づく天動説を否定するものであった。

 ガリレオは望遠鏡で天体を観察し、天動説に疑問を持ち、コペルニクスの地動説を認めた。1597年、ガリレオはドイツの天文学者ケプラー宛の手紙で、地動説を信じていると記した。ガリレイは、地動説に有利な証拠を多く見つけた。代表的なものは1610年に発見した、「メディチ家の星」と名づけた木星の衛星である。この発見はもし地球が動くなら、月は取り残されてしまうだろうという地動説への反論を無効にするものだった。ガリレオは、これを『星界の報告』として出版、発表した。この頃から、ガリレオは、積極的に地動説へ言及していった。ケプラーは『星界の報告者との対話』を発刊して、ガリレオを擁護した。

 ガリレオはまた、ガリレオは金星の満ち欠けも観測。これは、地球と金星の距離が変化していることを示すものだった。またガリレオは太陽黒点も観測。太陽もまた自転していることを示した。ガリレオはこれらを論文で発表した。これらはすべて、地動説に有利な証拠となった。ガリレオは潮の干満も地動説の証拠と思っていたが、後に潮の干満は月の引力によるものだとして、否定された。

 古代ギリシアのアリストテレスは「地上のものは土・水・空気・火の4つの元素からできており、動き方はまっすぐ直線である。しかし天上は第5の元素エーテルでできていて動き方は太陽のようにまるく円を描く」と言っている。アリストテレスに間違いがあると困るのは、尊い神のいる天上と罪深い人間のいる地上を分けておかねばならないキリスト教だった。そのため、ガリレオの実験はアリストテレスの著作を批判するとして認められなかった。

 ローマ教皇庁は1616年に、コペルニクス説を禁ずる布告を出した。地動説を唱えたガリレイは、自分の主張を曲げずにいたため、キリストの教えに背くとして裁判にかけられ、1616年と1633年の2度、ローマの異端審問所に呼び出され、有罪の判決を受け地動説を唱えないことを宣誓させられた。ガリレオが亡くなった時、彼の亡骸は家族の墓地に葬ることも、弔辞を読むことも、碑を建てることも禁止された。

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裁かれるガリレオ
ルーヴル美術館所蔵


 しかし、ガリレオの学問は「実験によって数学上の理論を証明する」という、近代自然科学の基礎を築いた。1989年、現在のローマ法王ヨハネス=パウロス2世によりガリレオの宗教裁判が見直され、法王庁は「裁判は間違いであった」と正式に謝罪し、17世紀の裁判の誤りを認めた。ローマ法王によりガリレオの破門が解かれたのはなんと、その死から350年もたった1992年のことであった。現在ガリレオの墓は、フィレンツェのサンタ・クローチェ教会に多くの偉人達と並んで置かれている。


ロマネスク様式の代表的建築物

 ロマネスク様式の建築物は、10世紀から12世紀にかけてヨーロッパ各地で盛んに建築された。しかし、それを純粋に年代的に、類型論的に一貫したシステムで概観することは不可能である。ここでは、フランス、イタリア、ドイツにおける重要度の高い大規模建築物の名称を列記するにとどめる。

●フランス
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ノートルダム・デュ・ポール教会(クレルモン・フェラン)


* ル・トロネ修道院(1160−1190年頃)
* クリュニー修道院第3教会(1088−1130年)
  壮大な規模のロマネスク聖堂。現在は一部のみ残る
* サント・マリー・マドレーヌ教会(ヴェズレー教会堂)(1120-60年頃)
* サン・セルナン(トゥールーズ)教会堂
* サン・フィリベール教会(1066−1108年頃)トゥルニュ

●イタリア
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サン・フランチェスコ大聖堂(アッシジ)


* サン・フランチェスコ大聖堂(アッシジ)
* ピサ大聖堂(1063年-)ピサの斜塔で有名
* サン・ミニアト・アル・モンテ教会(1018-62年、フィレンツェ) 
* ルネサンスを予感させるプロト・ルネサンスの教会堂

●ドイツ
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アーヘン大聖堂


* アーヘン大聖堂(世界遺産)
* シュパイアー大聖堂(世界遺産) ドイツロマネスクの初期作例
* トリーア大聖堂(世界遺産)
* ヴォルムス大聖堂
* マインツ大聖堂
* バンベルク大聖堂
* ヒルデスハイムの聖マリア大聖堂と聖ミヒャエル聖堂(世界遺産)
* ロルシュ修道院(世界遺産)
* クヴェトリンブルクの聖堂参事会教会(世界遺産)
* ライヒェナウ島の修道院群(世界遺産)

日本におけるロマネスク風建築物

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一橋大学 兼松講堂(東京都国立市)
ロマネスク建築


 日本においては、20世紀にロマネスク風に建設された建築物がある。日本基督教団 大阪教会(1922年竣工、大阪府大阪市、W・M・ヴォーリズ設計)や東京商科大学(現一橋大学、1927年竣工、東京都国立市、伊東忠太設計)、神戸商業大学校舎群(現神戸大学、1932年〜1935年竣工、兵庫県神戸市灘区)等である。信仰や学問の場にふさわしいと考えられたものかもしれない。

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                (参照資料/引用資料)
                  詳説 世界史研究」 山川出版社
                  「西洋建築様式」 美術出版社
                  「西洋建築様式史(上)」鹿島出版会

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             http://matiere.at.webry.info/201003/article_4.html
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コメント(1件)

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ロマネスク建築とかっこいい命名なのに、結局 "Bisilica" という点が気に食わないですが、外見は本当に綺麗ですね。
本当にわかりやすい説明ですね。いいと思います。
名無し
2013/02/25 08:56

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