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zoom RSS 世界の建築様式 〜 5.ビザンティン編

<<   作成日時 : 2010/03/30 22:12   >>

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世界の建築様式

5.ビザンティン編 (ビザンチン編)

「第二のローマ」誕生

 黒海から流れ出た水は、ボスポラス海峡を通っていったんマルマラ海に入り、また細長いダーダネルス海峡を通ってエーゲ海の水と一緒になる。

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第二のローマ 〜 コンスタンチノープル(現・イスタンブール)周辺
地図上の地名は現在の地名
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 この二つの海峡と一つの海が、アジアとヨーロッパを分ける境界線であった。これらの海峡と海の東側、かつては小アジア、今はアナトリアといわれているトルコ共和国の大半島である。そこは、古代のフェニキア人やギリシア人が、アッシリア語の「日の出」(アス)という言葉を使って「アシア」と呼んだ。
 だから、アジアの元祖は、最初の文明の誕生地メソポタミアからバルカン半島のほうに突き出された、大きい握りこぶしのようなこの大半島なのである。
 ヨーロッパの突端は、ボスポラス海峡とマルマラ海が接する位置に細く伸びた小半島である。ここには、トルコ第2の大都市イスタンブールがある。イスタンブールは、東西文化の架け橋といわれる。街全体がボスポラス海峡を境にふたつに分かれており、一方がアジア、もう一方がヨーロッパに属している。ここは、世界で唯一アジアとヨーロッパにまたがる街である。だが、この名は、この町にとって3度目の呼び名である。

 2度目の名は、コンスタンティノープル(コンスタンチノーブル)。
 A.D.330年5月11日のこと、時のローマ帝国の皇帝コンスタンティヌス1世(大帝)は、都をローマからビザンティウムに移し、コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)と改名した。皇帝は自ら主宰して盛大な開都式をあげた。世界の帝国として永遠の繁栄を願うこの皇帝は、ヨーロッパとアジアの接点であるこの地に、首都を移したのである。かつてのこの町の呼び名であるビザンティオン(ビザンティウム)を廃し、自分の名前コンスタンティヌスをとって、都の名をコンスタンティノープルとした。すなわち「コンスタンティヌスの都」と名づけられた。しかし、すでにローマ帝国の挽歌が微かに聞こえだしていた。

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金貨のコンスタンティヌス帝


 A.D.337年、コンスタンティヌス帝が没し、帝国は三分割された。A.D.379年にテオドシウス帝が即位、A.D.395年にテオドシウス帝死去後、ローマ帝国は西ローマ帝国と東ローマ帝国に分裂した。西ローマ帝国は、A.D.476年 ゲルマン人の侵攻によって滅亡したが、東ローマ帝国は独自の文化を築きながら繁栄していった。

 東ローマ帝国は、後世、「ビザンティン(ビザンチン)帝国」あるいは「ビザンツ帝国」と呼ばれるが、正式な国号は「ローマ帝国」のままであった。西ローマ帝国、東ローマ帝国という名称の国が存在したわけではなく、後世になって区別のために付けられたものである。東ローマ帝国とは、ローマ帝国の東方地域を指す通称と考えればよいと思う。また、ビザンティンは、東ローマ帝国の首都であったコンスタンティノポリスの旧名ビュザンティオンを語源とする東ローマ帝国およびその文化を指す名称である。しばしば、「ビザンティン帝国」「ビザンツ帝国」のいずれが正しい呼び方なのかという議論があるが、当の帝国政府や住民は自国を単に「ローマ帝国 」と称しており、「ビザンティン帝国」「ビザンツ帝国」といった呼び方は、いずれも後代に用いられるようになった用語であり、東ローマ帝国時代から用いられていた呼称ではない。

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ビザンツ帝国 (東ローマ帝国)


 都市名のビザンティオン(ビザンティウム)は、B.C.667年頃にギリシアの都市国家メガラからの植民者たちによって建設され、彼らの王ビュザンタスにちなんでギリシア語でビュザンティオンと名づけられたとされている。ビザンティオンから変ったコンスタンティノープルは、それから1100年以上も続いた。西ローマ帝国が476年に滅びてしまっても、コンスタンティノープルは中世のローマ帝国の首都として、15世紀の半ば、1453年にトルコ軍(オスマントルコ)に攻略されるまで続いた。

 勝利者のトルコ人は、この町に3つめの名前を与えた。その名がイスタンブールである。トルコ語ではIstanbul(イスタンブル)と書かれるが、日本では一般に「イスタンブール」と呼ばれることが多い。

町の名前の変遷: (1)ビザンティオン(ビザンティウム)→(2)コンスタンティノープル→(3)イスタンブール

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イスタンブールの地図


 さて、ローマ帝国の都がローマからコンスタンティノープルに移されるに及んで、新首都建設のための大がかりな建築活動が開始された。これ以降、東ローマ帝国の地域を中心に発展した建築様式を「ビザンティン様式(ビザンチン様式)」と呼んでいる。

イスタンブールに残るローマ時代の遺跡

 イスタンブールには東ローマ帝国時代の遺跡がそこかしこに残っている。その1つにヒッポドロムス跡(大競技場跡)がある。今は公園であるが、かつてはここで、徒競走・競馬・模擬戦・武芸競技、そして市民に最も人気があった戦車競技が行われた。

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ヒッポドロムス跡(大競技場跡)


 戦車競技というのは、2頭ないし4頭立ての馬にひかせた戦車を走らせ、競技場を7周して速さを競う試合である。戦車と御者は、青・緑・赤・白の色を目印にした4つの競技団体(それぞれ青党・緑党・赤党・白党と呼ばれた各団体)から出される。
 御者は、自分の団体の色のヘルメットをかぶって馬を走らせる。スタンドを埋めた観衆は、それぞれ自分のひいきする党を応援し、勝負をめぐって選手・ファンがいりみだれての乱闘を、しばしば繰り広げた。

ニカの反乱と皇后テオドラの対応

 532年1月、真冬のコンスタンティノープルの競技場で、戦車競技が行われた。競技が終わったあと、突然大事件が巻き起こった。青党と緑党が一緒になって「ニカ(やっつけろ)!」「ニカ」と怒号し、群衆も巻き込んで皇帝に対する反乱に立ち上がったのである。時の皇帝ユスティアヌス(コンスタンティヌス2世)の専制政治と重税政策に対する民衆の日頃の不満が爆発したのであった。

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ユスティアヌス帝(コンスタンティヌス2世)


 群衆は競技場を出ると、市内のあちこちで放火・打ち壊しなど、手が付けられないほど暴れまわった。船に避難した皇帝は、怒りたける群衆の暴行に成すすべを知らず、小アジアからイタリアへ逃げのびようと決心した。鎮圧軍さえ群衆に追い返される始末で、なみいる将軍たちも声がなかった。

 このとき、皇后テオドラの気丈な声が競技場内に響いた。

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テオドラ皇后


「逃げ隠れして生きるのは、皇帝の恥です。私はここで帝国と運命を共にします。」
 この一言が、皇帝や将軍を我に帰らせた。ペリサリウス将軍らは鎮圧作戦を練り直し、強行方針で反乱と対決することにした。数日後、「ニカの反乱」は、3万人の犠牲者を出して鎮圧された。

 皇后テオドラは、キプロス島出身の競技場動物飼育係を父とする美貌の女性であった。小さいころから舞台で道化役を演じたパントマイムの名手で、23歳のとき、ユスティアヌスに見初められて妃の座を手に入れたという幸運な女性であった。そのテオドラが、ユスティアヌスの即位5年後に起こったニカの反乱で果たした役割は、まことに大きかったといってよいだろう。

壮大な建造物 聖ソフィア大聖堂の再建

 ニカの反乱で官庁や教会が焼け落ちたのを機会に、ユスティアヌス帝は、首都の大々的な改造に乗り出した。なかでも壮大な建築事業となったのが、聖ソフィア大聖堂再建であった。聖ソフィア大聖堂は、日本語では慣用的に「ハギア・ソフィア」と呼称されるが、厳密にはトルコ語読みは「アヤソフャ」、古典ギリシア語読みは「ハギア・ソピアー」、現代ギリシア語読みでは「アギア・ソフィア」に近い。ギリシア正教会では「アギア・ソフィア大聖堂」と呼ばれ、「ハギア・ソフィア大聖堂」と表記されることも多い。

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聖ソフィア大聖堂(アヤ・ソフィア/ハギア・ソフィア)


 聖ソフィア大聖堂は、元来キリスト教の大聖堂である。最初の聖堂は360年、首都コンスタンティノープルに、コンスタンティヌス大帝の子コンスタンティウス2世の手によって建立された。404年にコンスタンティノープル主教ヨアンネス・クリュソストモス追放に伴う争乱でこの聖堂が焼失すると、テオドシウス2世によってすぐに再建が行われ、415年に献堂された。その聖堂は現在のものとは全く違うバシリカ(列柱廊)であり、現在でも一列の円柱と柱基、装飾された梁が残っている。しかし、この聖堂も532年1月の首都市民の反乱(「ニカの乱」)における大火で再び焼失してしまった。二度の焼失を経た後、ユスティニアヌス帝はただちに再建することを決定した。工事は5年と10ヶ月を費やしてほぼ完成した。537年12月27日、皇帝自らが主宰する献堂式が行われたこの大聖堂は人類が作り上げた奇跡的傑作である。

 ビサンティン建築の特徴は矩形プランの上に大きなドームを架ける技術に見られる。ビザンティン建築の様式には、初期キリスト教時代のバジリカ形式(バジリカ様式)と、 東方に残る伝統的な八角堂形式や円堂形式のものが多く、又、この両者を総合した円蓋バシリカ彩式が生まれた。バジリカとは広場の一角にある屋根付きの集会場を指し、これが教会建築の基本型となった。バシリカはギリシア語で「王の列柱廊」を意味するバシリケーに由来するとされる。バシリケーはギリシア語でアテネにあった王の執務所を意味する。バジリカ様式とは、公会堂をまねた建物で、長方形の建物で、内部は縦に2列又は4列の柱が並んでいる。この様式は、裁判所や取引所などにも用いられている。教会の場合、一番奥に聖壇を設け、 聖壇の正面にはカタコンベにあったような絵を描いたという。バジリカ様式により、教会堂は次第に華美になっていった。また、バジリカ様式教会には数多くの不屈の名作が刻まれている。

 聖ソフィア大聖堂の建設は、前例のない極めて困難な大事業となったのだが、ユスティニアヌス帝は通常の建築家ではなく、数学・幾何、機械工学に精通した学者を起用することで、帝国の威信を顕示する画期的な大ドーム空間を完成させた。ユスティニアヌス帝の命により建築史上最大のモニュメントを設計したのは、トラレスの人アンテミウスとミレトスの人イシドロスだった。かれらは建築家というよりも数学や幾何学に精通した技術者であり、学者だったといわれる。彼らの明晰な頭脳によって計算された計画に従って、100人の親方が現場を指揮し、その下に10,000人の職人が働いていたといわれ、532年に起工し、537年には完成するという奇跡的な早さで完成している。

 長さ77メートル、幅71.2メートルのほぼ正方形のプランの上に直径31メートル、高さ55メートルの大ドームを戴き、ビザンティン建築の課題であったバシリカ式プランとドームの結合を完全に成功させたのである。この大ドームを支えているのは、身廊上で東と西から寄り添うように脇を固めている2つの半ドームであり、ペンデンティヴの技術とこれらの半ドームによる合理的な構造処理が、アヤ・ソフィアの流動感溢れる室内空間を作り上げたのである。

 聖堂には、勾配のゆるやかな螺旋型の回廊がついていて、ここを上ると2階のギャラリーに出る。廊下の広間と聖堂の内陣が一番良く見える場所には、美しい角型の大理石が床にはめ込まれている。ドームの天井には、赤と黒と金を基調としたフレスコ画で描かれた主イエス・聖母・聖者・聖書物語などが、天空にある神の御座の象徴として、堂内を荘厳と神秘で包んだ。冬の弱い日ざしが、ドームの明り窓から堂内にこぼれていた。

 以上のような構造的魅力だけではなく、ビザンティン建築には色大理石やガラス・モザイクによる装飾性も忘れてはならない。アヤ・ソフィアは、ユスティアヌス帝の命令で東ローマ帝国の領地から集められた珍しい色大理石やガラス・モザイクで美しく飾られていた。青緑色を中心とした下層の大理石と金色の強い色彩が鮮やかな上層の壁面とドームのガラス・モザイクが織り成す色彩の動きも、このアヤ・ソフィアの魅力を生み出しているのである。

世界の都〜〜コンスタンティノープル
 ユスティアヌス帝は、階下の広間をぎっしり埋めた聖職者や元老院議員たちの間を、ゆっくり進み、内陣に入った。わが身をつつむ栄光に感きわまったユスティアヌス帝は、
「余をかかる事業の完成者にふさわしい者たらしめた神に栄光あれ! ソロモンよ、われはなんじに勝てり!」と叫んだという。
 ユスティアヌス帝によって、コンスタンチノープルは、6世紀の世界では、ほかに比べるものがない、世界の都となった。
 この頃から、帝国では公用語としてギリシア語が使われることが多くなり、すべての面でギリシア風になってきた。この帝国を、首都の最初の呼び名、ビザンティオンにあやかってビザンツ帝国というのは、そのためである。

ビザンティン建築の伝播とサン・マルコ大聖堂

 ユスティアヌス帝によるビザンティン前期の教会堂に続いて、9世紀のバシレイオス1世によるギリシア十字型プランの新しいタイプの教会堂が建てられる時代がやってくる。中央ドームを支えるためにギリシア十字の腕の部分にもドームを架けて合理的に構造処理するものである。このタイプのビザンティン建築の代表例が、サン・マルコ大聖堂である。イタリアのヴェネト州の州都ヴェネツィア(ベニス)に建っている。ビザンティン建築を代表する記念建築物ともいえる。

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サン・マルコ大聖堂とサン・マルコ広場(ヴェネツィア)
Photo: Mr.tabi-taro


 サン・マルコ大聖堂のあるヴェネツィアは十字軍に関連する。十字軍とは、中世に西ヨーロッパのキリスト教、 主にカトリック諸国が、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のことである。第1回十字軍は、トルコ人のイスラム王朝であるセルジューク朝に聖地エルサレムのあるアナトリア半島を占領された東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の皇帝が、1095年にローマ教皇に救援を依頼したことが発端である(1095年)。ローマ教会側としては、東方教会を吸収し皇帝より優位に立つ絶好の機会だった。そこで教皇は、聖地奪還のための遠征を宣言し、各地から遠征に参加する諸侯や騎士を募った。これにドイツ・フランス・イギリスの国王やフランス・イタリアの騎士軍団が集まり、エルサレムを目指した。そして聖地を回復し、エルサレム王国を建国した。しかし、その後、エルサレムはエジプトによって奪還された。

 西ヨーロッパ世界を熱狂させた十字軍はヨーロッパ社会を大きく変化させた。
 ビザンツ帝国は衰退し、教皇権が強大になった。1202年、権威の絶頂期にあったローマ教皇は、第4回十字軍を派遣する。ところが、十字軍は当初の目的から逸脱しスポンサーの商圏拡大のために利用される。すなわち、輸送船を提供したヴェネツィア商人の要求で、聖地ではなく商売敵の拠点だったコンスタンティノープルに向かって進軍し、これを占領して、フランドル伯ボードワンを皇帝としてラテン帝国を建ててしまった。このため、ビザンツ帝国は一時ニケーアに遷都している。
 ヴェネツィアは、コンスタンティノープルの一角と沿岸の島々、およびそこでの通商権を手に入れた。ローマ教皇も、十字軍を唱導することで当初威信を高めたが、後期十字軍以降しだいに指導力の限界を感じさせ、威信はゆらいだ。結局、十字軍遠征で得をしたのは、北イタリア諸都市のイタリア商人だった。イタリア商人は東地中海・黒海の交易の主導権をビザンツ帝国から奪い取り、ヴェネツィアなどのイタリア諸都市が急速に勃興し、イスラム商人を取引相手として成長を遂げていった。イタリア商人は、ライバルのビザンツ商人にかわって東地中海に商圏を拡大し、東方貿易から莫大な富を得ることとなった。

 ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルは、キリスト教徒将兵の猛攻にあって、1204年4月、ついに陥落し、狼のような十字軍兵士の略奪・暴行の巷と化した。第4回十字軍とともにヴェネツィア艦隊はコンスタンティノープルを攻略、援助への代償としてクレタ島などの海外領土を得て東地中海最強の海軍国家となり、アドリア海沿岸の港市の多くがヴェネツィアの影響下におかれた。ヴェネツィア共和国は東ローマ帝国分割で莫大な利益を獲得し、政治的にも地中海地域でヨーロッパ最大の勢力をほこるようになった。東地中海から黒海にかけての海域が、いわば「イタリア商人の海」ともいうべき状況になったことは、おなじ13世紀に、ヴェネツィアのマルコ・ポーロが黒海北岸から中央アジアを経て元へ向かうことを容易にさせた。

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十字軍のコンスタンティノープル占領
パリ、ルーヴル美術館蔵


 さて、ヴェネツィアのサン・マルコ聖堂は、ビザンツ帝国のコンスタンティノープルにあった聖諸使徒大聖堂が基になっていると言われている。その聖堂は現存しないが、十字形平面で、中央部に円蓋を持つ典型的なクロス・ドーム形式で、その意味では由緒正しいビザンティン建築であった。

 なぜ、ヴェネツィアにとって聖マルコなのか。
 828年、ヴェネツィア人の心に永遠に残る出来事が起こった。それはエジプトに出向いていた2人のヴェネツィア商人がアレクサンドリアにいた時のことである。本当はローマ教皇によって異教徒との貿易が厳禁とされていたのだが、いうことを聞かないのがヴェネツィア人だった。その時サラセン人がアレクサンドリアに攻め寄せて来た。この2人はチャンス到来と福音史家・聖マルコの遺体をまつる正教会の修道院を訪れ、イスラム教徒サラセン人の略奪から守るという名目で、聖マルコの遺体(頭部が無い)を金で買い取ってしまった。あるいは盗み出したという説もある。

 この2人はヴェネツィア商人魂を発揮していく。次の難関、サラセン人の軍隊の目から逃れるために、聖マルコの遺体を、イスラム教徒が忌み嫌う豚肉の詰まった大きなかごの底に隠して、港まで運んだ。そして船に乗せてヴェネツィアへ向かう。その間、大変な苦労があった。嵐やら海賊やらの危険な事件が続発し、常に聖マルコの保護のもとで奇跡的に難から逃れたという。ヴェネツィアにたどり着いた時は、市民の大歓迎が待っていた。お祭り騒ぎであったという。聖マルコの遺体は、荘重にドゥカーレ(総督)宮殿の横の教会に納められ、サン(聖)・マルコ教会の誕生となった。2人のヴェネツィア商人はアラブ圏と商業取引は違法であったが、このことは無に帰され、そればかりかヴェネツィアの歴史に残る英雄になってしまった。こうしてヴェネツィア人の心のよりどころサン・マルコ教会が生まれ、ヴェネツィアは発展と栄光の歴史を刻んでいく。こうしてヴェネツィアは自分たちにふさわしく決定的な聖人を得た。

 これを契機にヴェネツィアは聖マルコを守護聖人に戴き発展の道を歩むこととなったのである。その守護聖人サン・マルコの遺体を安置するために832年にヴェネツィアに建立されたのがサン・マルコ聖堂である。設計はギリシアの建築家が行い、ビザンツ帝国にあった聖諸使徒大聖堂を模したといわれている。ギリシア十字形のプランのそれぞれの正方形柱間に直径13メートル、高さ30メートルの大ドームを5個架けたものである。サン・マルコ広場に面して建ち、ドージェの館であるドゥカーレ宮殿に隣接し繋がっている。建物内は、黄金に煌く壁や天井と、祭壇には2,000個もの眩い宝石が埋め込まれた黄金の衝立がある。サン・マルコ聖堂の正面テラスを飾る四頭立ての青銅馬像は、第4回十字軍のとき、ヴェネツィアがコンスタンティノープルの競技場から持ちさらったものである。

ビザンツ帝国の終焉と第三のローマへ

 ビザンティンの歴史を区分すると、おおむね初期(4〜8世紀初め)、中期(8世紀初め〜11世紀)、後期(11世紀末〜15世紀半)の3期に分けられる。
 9世紀から12世紀のビザンティン中期の時代が過ぎると、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)は、イスラムの侵略と十字軍の海上封鎖によって衰退し、そしてついに、1451年のトルコ人(オスマントルコ)によるコンスタンティノープル陥落で滅亡する。ここに、ビザンツ帝国はその1000年に及ぶ歴史を閉じることになった。

 建築も含めビザンツ文化の特色は、ヘレニズム文化を基調にギリシア・ローマの古典文化とオリエント(西アジア)の文化を融合した独自の文化を形成したことである。

 ビザンツ文化の歴史的意義は、

 第一に、ギリシアの古典をよく継承・保存したことである。それは、イスラム世界に伝えられるとともに、イスラムを通して12〜13世紀の西ヨーロッパにおける学問の発達(12世紀ルネサンス)を促し、さらにイタリア・ルネサンスの開花にも影響を与えた。
 第二に、東ヨーロッパ一帯に広がっていたスラヴ諸族に、ギリシア正教とビザンツ文化を伝えることにより、西ヨーロッパとは異なる異質で独自の東ヨーロッパ文化圏を形成したことである。

 ヨーロッパのキリスト教は、ゲルマン民族大移動のなかから台頭したフランク王国が主導した「ローマ・カトリック教会」と、ゲルマン民族による攻撃の影響が少なく、ギリシアやローマの伝統を受け継いだビザンツ帝国が普及させた「ギリシア正教」の2つの流れに分かれていった。
 フランク王国はまもなく東西フランク王国に分裂するが、ノルマン人の移動と建国を経て、西ヨーロッパ地域にはほぼ今日のドイツ・フランス・イタリア・イギリスなどの基礎がつくられていった。一方、ビザンツ帝国が採用したギリシア正教とギリシア文化は、東方世界に西ヨーロッパ世界とは異質の東ヨーロッパ世界を形成していった。
 とくに、ギリシア正教はロシアに広まり、ロシアを本拠地として、後期ビザンティンの教会が開花することとなる。ビザンツ帝国がオスマン帝国に攻められ、攻略されたコンスタンティノープルの名が、トルコ(オスマン帝国)の都イスタンブールと改められた後、モスクワが、ギリシア正教の総本山として、「第三のローマ」として、東方正教会の中心を担っていくことになる。

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ロシアのクレムリン
第三のローマ


 なお、東京・お茶の水にあるニコライ堂もビザンティン建築である。
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ニコライ堂 (東京・御茶ノ水)


 ニコライ堂は東京都千代田区神田駿河台にある正教会の大聖堂である。イイスス・ハリストスの復活を記憶する大聖堂であり、正式名称は「東京復活大聖堂」。「ニコライ堂」は別名であり、日本に正教会の教えをもたらしたロシア人修道司祭(のち大主教)聖ニコライにちなむ。建築面積は約800平方メートル、緑青を纏った高さ35メートルのドーム屋根が特徴であり、日本で初めてにして最大級の本格的なビザンティン様式の教会建築といわれる。 1891年に竣工し、駿河台の高台に位置したため御茶ノ水界隈の景観に重要な位置を占めた。関東大震災で大きな被害を受けた後、一部構成の変更と修復を経て現在に至る。1962年6月21日、国の重要文化財に指定された。
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                (参照資料/引用資料)
                  詳説 世界史研究」 山川出版社
                  「西洋建築様式」 美術出版社
                  「西洋建築様式史(上)」鹿島出版会
                  「物語 世界史への旅」山川出版社

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