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<<   作成日時 : 2010/03/04 22:06   >>

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世界の建築様式

3.古代ギリシア編

 2004年のアテネオリンピック。2004年8月13日から29日までギリシアの首都アテネで行われた第28回夏季オリンピックである。このとき、各競技のメダリストには、オリーブの枝で作った冠が贈られた。

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2004 アテネオリンピック


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オリーブ冠


 これは、紀元前776年から古代ギリシアのエリス地方の都市オリンピアで、ゼウス神を祭る宗教行事としてオリンピック競技(オリンピア祭典競技)が開催され、優勝者にゼウスの神木オリーブの枝で編んだ葉冠が与えられたことに倣うものであった。

 オリーブは地中海沿岸に多く見られ、ギリシアを象徴する植物である。2004アテネオリンピックの際には、約180個のオリーブ冠がアテネ市内の花屋によって一つ一つが手作りで作られたという。

 オリーブの木は、人類が最も古くから利用してきた樹木だけに、伝説にも事欠かない。神が起こした大洪水の後、ノアが放った鳩がオリーブの小枝をくわえて帰ったことから、地上に平和が戻ったことを知ったという旧約聖書の「ノアの箱舟」の話は有名で、オリーブは鳩とともに「平和」の象徴とされている。平和の象徴として、オリーブは国連の旗のデザインにも使われている。オリーブの花言葉は「平和・知恵」だ。

 オリーブは地中海東岸からギリシアに伝わったのだが、ギリシアへ伝来したときの故事として、ギリシア神話で語り継がれているアテナ女神の伝説があげられる。ギリシア神話では、ギリシアのアッテカの支配権を巡って、知恵と勝利の女神・アテナと海神ポセイドンとが対決した際に、オリーブはアテナに勝利をもたらした樹とされる。大神ゼウスは最も人々の役に立つ贈り物を贈った者に支配権を認めることにした。こうしてアテナはオリーブを、ポセイドンは馬を贈った。結局、人々は戦のための馬ではなく、平和な生活のためのオリーブを選び、アテナが勝者となった。こうしてアッティカの首都はアテナイ(アテネ)と名付けられ、野生種のオリーブの木に囲まれたアクロポリスのパルテノン神殿で、女神アテナが守護神として祭られるようになったのである。

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アッティカ地方の領有権争い
アテナと海神ポセイドンがアッティカ地方の領有権争いをする有名な場面。
アテナはこの時オリーブの木を大地にもたらして勝利した。


 アテネのアクロポリスの丘の北側にあるエレクテイオン神殿ではアテナの植えたオリーブが「聖なる木」として祭られ、各都市国家ポリスに株分けされたという。

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エレクティオン (アテネ アクロポリス)
Picture from Wikipedia


アテネ
 アテネ・・・そこは、古代ギリシア時代から続く、長い歴史を誇る街。特産品はオリーブのほか、良質の大理石も産する。アテネのアクロポリスの丘にはパルテノン神殿がそびえる。

 アテネはギリシアのポリス(都市)の中でも歴史的に中心的な役割を果たしてきただけに、写真で見ても威風堂々としている。紀元前12世紀に北方からドーリア人が攻め込んできて、ギリシア諸都市が滅んでいった時、アテネのモコドロスは自らの命を捨てて守ったと言われている。ギリシアといえば、エーゲ海。エーゲ海といえば、青い空と海、そして白い家。何ともロマンチックであるが、近代民主主義の起源といわれるギリシアにも、苦難の歴史が多々あったのだろう。

ギリシアの民主制
 ギリシアの政治体制は、君主制、貴族制(元老院制)、民主制と変遷したが、貴族制から民主制に移行した要因の一つが、ペルシア(現イラン)との戦争で勝利を収めたことであった。それには、ギリシア市民の共同体意識があると思う。
 共同体意識は、ギリシア市民共同体である都市国家ポリスを生み、ポリスはギリシア民主主義による平和の根源となった。神殿や彫刻の多くはポリスの守護神のために造られたものであり、喜劇も悲劇もポリスあげての祭典で市民が享受するものだった。市民は守護神をまつり、共通の宗教意識を基とする強い連帯感を持った。しかもポリス間の経済的・文化的交流は盛んであり、ギリシア人であることの共通意識はきわめて強かった。

 ギリシア民主制の構築には、アテネの最盛期を築き上げた政治家ペリクレスという偉大な民衆派の指導者がいた。ペリクレスのもと、アテネは、民主政治の完成期を迎え、建築、彫刻、文学、哲学等の文化も頂点を極める。ペリクレスこそアテネの「黄金期」を築いた最大の功労者といってよい。

パルテノン神殿
 アテネ市の守護神アテナを祭るパルテノン神殿が建つアクロポリスの丘。アクロポリスとはギリシア語で「小高い丘にある都市」を意味し、当初は軍事上の拠点だったが、やがてはアテネ市民の信仰の中心となった。アクロポリスは海抜154mの岩山の上にあり、エーゲ文明のミケーネ時代(紀元前1600年ごろ)から人が生活していたようである。その後アテネの守護神アテナ女神の聖域とされ神殿が建てられた。

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アテネ アクロポリス遠景
Picture from tabi-taro


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パルテノン神殿での記念撮影
写真手前左はゼウス神、右はアテナ神
Picture from tabi-taro



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パルテノン神殿 (アテネ アクロポリス)
Picture from Wikipedia


 アクロポリスの丘にそびえたつ古代アテネの象徴・パルテノン神殿は、度重なる戦いで何度も壊され、今は、建物外部の柱と天井しか残っていないが、かつては高さ10mのアテナ像があったという。アクロポリスに建っている建物は文明のシンボルにふさわしい。

 パルテノン神殿は、アテネの守護神アテナに捧げられた神殿で、紀元前5世紀半ばのペルシア戦争の際に破壊されたが、ペルシア戦争勝利を感謝して、ペリクレスが友人のフィディアスを総監督に起用し、紀元前432年に大工事が行われ、当時最高の建築家・彫刻家の手によって再建されたアテネ市民のための神殿である。壮大且つ華麗に再建されたアクロポリスの姿は、当時のアテネの国力を内外に誇示するのに役立ったようである。1987年に国連世界遺産に文化遺産として登録された。

 基壇は幅約31m、長さ70m、高さは約10.5m。正面と後ろは8本づつ、両横から見ると177本づつ、計46本のドーリア式の柱が取り巻いており、正面と後ろにはさらに内側に6本づつ柱が立っている。内陣は壁で囲まれており、中には東から前房、内室、乙女の間、後房の4部屋があった。 現在は眩しい白亜の神殿だが、かつては外も内も彫刻も色鮮やかに塗られていたという。

 パルテノン神殿に用いられている円柱下部から上部(もしくは中部から上部)にかけて徐々に細くした形状は日本の法隆寺にも用いられている。

 パルテノン神殿の現在ある部分から元の建築物の復元図を作ってみると、「宇宙空間で最も美しい数値」とされている縦と横の比がほぼ1:1.6の黄金比となっているそうだ。神殿を建てた時代の人々は黄金比のことを知っていたわけではなく、安定感を感じる、落ち着くデザインにしたら黄金比になっていた、ということのようである。

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パルテノン神殿の黄金比
5:8=1:1.6


ギリシア建築
 ギリシア建築はパルテノン神殿に代表される調和と均整を重視した直線的、かつ重厚でどっしりとした建築様式だ。
 紀元前11世紀から紀元前4世紀末までのギリシア建築は、その対象を神殿建築のみに限定していったといってもよい。そこでは、石材を材料とし、柱・梁といったきわめて簡素な構造形式が作り出しうる建築美、その一点のみをひたすら追求し、そこにすべてのエネルギーが集められた。すなわち、ギリシアの神殿は、きわめて限られた特定の建築タイプを洗練させることで、いかなる建築美に到達し得るかを最も端的に示している。
 古代ギリシアの建築活動は、エーゲ文明まで、すなわち紀元前2000年頃のミノア文明中期まで遡り、ギリシア本土では紀元前1400年頃のミケーネ文明を発祥としている。しかしクレタ建築(ミノア建築)、ミケーネ建築(ミュケナイ建築)、ギリシア建築との間にある程度の共通性が認められると言え、関連性は必ずしも明確ではない。
 そのためギリシア建築と呼べる建築は紀元前8世紀頃が出発点だと考えられているが現在でも少しずつ形を変えながら世界中に広がり様々な所で目にすることができる。
 また沢山の柱が狭い間隔で並んで屋根を支えていることも特徴の一つである。

 ギリシア建築の建築様式は、主に次の3つのスタイルがある。

  ●重厚で太い印象で飾り気のない「ドーリア式」
  ●やや細めで柱頭に羊の角のような飾りがついている「イオニア式」
  ●柱頭に技巧的で華美な装飾がついた「コリント式」

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ギリシア建築の様式


 ギリシア建築の代表的な建物には、次のものがある。

  ◆クレタ文明期の建築(紀元前3000年〜紀元前1100年頃)
    ・クノッソス宮殿(クノッソス)
  ◆ミケーネ文明期の建築(紀元前1600年〜紀元前1100年頃)
    ・獅子門(ミケーネ)
  ◆幾何学文様時代の建築(紀元前1050年〜紀元前600年)
    ・ヘラ神殿(オリンピア)
  ◆アルカイック時代の建築(紀元前750年〜紀元前480年)
    ・アポロン神殿(オルティージャ島:ドーリア式)
  ◆クラシック時代の建築(紀元前480年〜紀元前323年)
    ・パルテノン神殿(アテネ:外部ドーリア式+内部イオニア式)
    ・エレクティオン神殿(アテネ:イオニア式)
    ・ポセイドン神殿(パエストゥム:ドーリア式)
    ・アテナ. ニケ神殿(アテネ:イオニア式)
    ・ゼウス神殿(オリンピア:コリント式)
  ◆ヘレニズム時代の建築(紀元前323年〜紀元前31年)
    ・アポロン神殿(ディディマ:イオニア式)
  ◆ギリシア通期の建築(紀元前174年〜紀元132年)
    ・オリュンピエイオン. ゼウス神殿(アテネ:コリント式)

 ギリシア建築において、建築と彫刻を融合する動きが古くからあり、ギリシアでポリスが形成されはじめた紀元前8世紀から紀元前7世紀のアルカイック期にも丸掘りの彫刻が建築を装飾するために設置された。宗教建築の彫刻による装飾方法は、エジプト、メソポタミアなど明らかに古代オリエントの影響を受けているもので、豪華さと格式の高さを補強するものであった。

 紀元前306年以降のヘレニズム時代にマケドニア/ギリシア系の王朝であるプトレマイオス朝があり、エジプトが王朝を支配していた。当時、ギリシアはその統治下にあったが、紀元前30年にエジプトの女王クレオパトラの死去とともにローマ帝国の統治下に入った。これにより、ヘレニズム建築あるいはヘレニズム化されたギリシア建築は、ローマに多くのことを伝えていった。


古代ギリシアの歴史とその文明


 ギリシアは西洋文明発祥の地として知られる。英語では通称 "Greece"(グリース)と表記される。ヨーロッパの南東、バルカン半島の南端に位置していてペロポネソス半島とエーゲ海を中心とした島嶼によって形成されている。アルバニア、マケドニア、ブルガリア、トルコと国境を接しており、それ以外の部分は地中海、エーゲ海、イオニア海によって囲まれている。

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古代ギリシア地図 (古代の地名をあてはめた地図)
エーゲ海の右側(東側)は小アジア(トルコ)


 古代ギリシアとは、一般的に、古代ローマ支配下以前のギリシアをいう。短期間に文明が発達し、ヨーロッパは勿論のこと、アフリカやアジアにも大きな影響を与えた。

 古代ギリシア文明は大きく分けると、エーゲ文明とギリシア文明に分けられる。

(1)エーゲ文明
 古代ギリシアにおける最古の文明は、「エーゲ文明」である。19世紀後半ドイツの考古学者シュリーマンのミケーネ遺跡発掘により存在が確認された。エーゲ文明は、紀元前3000年期〜紀元前2000年期に、エーゲ海を中心としてその海域の島々や周辺の諸地域に栄えた青銅器文明の総称である。エーゲ海周辺を中心とする一帯において、エジプト文明やメソポタミア文明の影響を受けて文明化が進んだ。

 エーゲ文明においては、紀元前3000年頃〜2000年頃のキクラデス文明(初期ヘラディック文明)、紀元前2000年頃〜紀元前1650年頃のミノア文明=クレタ文明(中期ヘラディック文明)、紀元前1650年頃〜紀元前1200年頃のミケーネ文明=ミュケナイ文明(後期ヘラディック文明)と、紀元前2600年頃〜紀元前1300年頃のトロイア文明が各々の文明と共存した。

 ヘラディック文明は、古代ギリシアの青銅器文明である。
 キクラデス文明は、ヘラディック文明初期のエーゲ文明であり、新石器時代から青銅器時代初期にエーゲ海のキクラデス諸島に栄えた文明である。

 エーゲ文明の前半期に栄えたのがキクラデス文明・ミノア(クレタ)文明であり、後半に栄えたのがはミケーネ文明である。トロイア文明はエーゲ文明通じて全体的に長く隆盛していた文明と考えられる。

 (ミノア文明=クレタ文明)
 ミノア文明(クレタ文明)は、紀元前20世紀頃から紀元前15世紀頃にクレタ島を中心に 地中海の海上貿易によって栄えた海洋文明、青銅器文明である。伝説上のミノス王にちなみミノア文明とよばれる。彼らは絵文字と線文字Aを発明したが、それらは今なお解読されていない。クノッソスの 大宮殿の遺跡から強い権力を持った王がいたことなどが分かるが、この文明を つくりあげた民族系統などは不明である。最古の海洋文明として繁栄したが、紀元前15世紀頃ペロポネソス半島からエーゲ海に進出したアカイア人(古代ギリシア人の種族の一つ)の侵入によって滅んだ。

 (ミケーネ文明=ミュケナイ文明)
 ミケーネ文明(ミュケナイ文明)は紀元前15世紀頃から紀元前13世紀頃、最も栄えた文明で、ペロポネソス半島のミケーネを中心に栄えた青銅器文明である。その中心は シュリーマンの発掘で有名なギリシア本土のミケーネ・ティリンスである。この文明の小国家は巨石で造られた城壁を持っているところから小規模ながら 専制国家であったと考えられている。代表的な王の名前をとって、ミケーネ文明という。この文明はアカイア人がオリエントやクレタの文明の影響を受けてつくった青銅器文明だが、ギリシア的な要素も濃い。ミケーネ人は、クレタ文明にふれて線文字Bをつくった。紀元前12世紀頃、ドーリア人の侵入を受けて滅亡した。

 (トロイア文明)
 トロイア文明は小アジアの都市国家トロイア周辺に栄えた青銅器文明である。トロイはただの神話(架空の話)だと思われていたが、19世紀にシュリーマンが遺遺を発見して、トロイは実在する都市であり伝説は歴史的事実だと実証した。伝説によると、紀元前1270〜1183年の間に起こったと推測されるトロイア戦争(都市国家トロイア[トロヤとも。英語読みトロイ]とアカイア人のギリシア連合軍との間の戦争)により、ギリシア軍の木馬戦略(トロイの木馬)によりトロイアが敗れて滅亡したとされる。なお、「伝説どおりのトロイ戦争の有無」などの確実な証拠が発見されてはいない。

 (暗黒時代〜幾何学文様時代)
 紀元前1200年頃、北方からギリシア人の一派ドーリア人が鉄器を持って南下してきた。その民族移動の波を受けて、先住のアカイア人はエーゲ海の島や小アジアに移住し、栄華を誇ったミケーネをはじめとする諸市は崩壊した。ミケーネを滅ぼしたのは、ドーリア人のほかに、紀元前12世紀頃にヒッタイトを滅ぼし、エジプトなどを攻撃した東地中海諸種族の「海の民」ではないかとの説もある。こうして、ミケーネ文明は壊滅した。クレタの宮殿の倒壊後、大規模な建造物だけでなく、定住地の消滅と文字記録の消滅をもたらし、その後の400年間歴史資料のない時代に入った。紀元前1200〜紀元前800年頃までは、文字で書かれた史料がなく、ギリシア史上の暗黒時代と呼ばれている。エーゲ文明の終焉により、ギリシア周辺は青銅器時代が終わって鉄器時代が始まり、この時代は初期鉄器時代とも言われる。暗黒時代には、紀元前1050年から紀元前700年頃を指して「幾何学文様時代」と呼ばれる時代を含む。これは、陶器に幾何学模様が描かれていることから来る名称である。

(2)ギリシア文明
 エーゲ文明に次いで、古代ギリシアに「ギリシア文明」が開花する。ギリシアの文明は、はじめはオリエントやミケーネの影響を強く受けたが、やがて独自の文化をつくりだしていった。そして、度重なる形で政治体制で、その文化の内容も変貌していった。以下、ギリシア世界の政治体制の変化を概観してみる。

 ギリシア文明においては、紀元前750年頃〜480年のアルカイック時代、紀元前480年頃〜紀元前323年の古典時代(クラシック時代)、紀元前323年〜紀元前31年のヘレニズム時代に分かれ、紀元前31年のアレクサンドロス大王の死によりローマ時代に移る。

 (アルカイック時代=前古典時代)
 エーゲ文明が滅び暗黒時代が続いた後、紀元前750年頃に古代ギリシア文明が急速に開花しギリシアにポリス (都市国家)が成立するようになった。ポリスが成立した紀元前750年頃〜紀元前480年をアルカイック時代(前古典時代)という。

 (クラシック時代=古典時代)
 次に紀元前480年頃- 紀元前323年、ギリシアはクラシック時代(古典時代)に入る。

 ---- 強豪ペルシアの脅威とギリシア世界の団結
 紀元前492年から紀元前449年の三度にわたり、ギリシアは、アケメネス朝ペルシア帝国に攻められた。アケメネス朝ペルシャの脅威に備えて、紀元前478年に古代アテナイ(アテネ)を中心として軍事同盟(デロス同盟)が結成された。ペルシャとの戦争に勝利をおさめ、デロス同盟の結成によって、各ポリスには政治的安定と相互の結束の強化がもたらされた。つまり、ここにポリスは古代民主政治による平和を享受するのである。ペルシャとの戦争で勝利を収めた背景には、ポリスを中心としたギリシア市民の共同体意識があったのだと思う。

 ---- ギリシア世界の分裂
 アテネが次第に支配権を強化していったのに対して、デロス同盟に加わらず、従来からあったペロポネソス同盟を守っていたコリントやスパルタは、これに脅威をおぼえ、コリントとアテネの間の紛争をきっかけに、ギリシアポリスはアテネを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟の二大勢力に分かれて長期で大規模な戦争に突入した。紀元前431年から紀元前404年にかけての古代ギリシア全世界を巻き込んだ戦争、つまりペロポネソス戦争である。

 ---- ペロポネソス戦争
 ペロポネソス戦争では、アテネ軍がシチリアで全滅する事態になって、ついにスパルタを中心とするペロポネソス同盟側が勝利した。戦争後、スパルタの強大化を嫌ったペルシアはアテネの復興を援助した。速やかに民主政が復活し、農民たちも自営力を回復してアテネはまた指導的ポリスへの道を歩みだした。

 ---- ギリシアでマケドニア王国が浮上
 紀元前359年、ギリシア北部のマケドニア王国でフィリッポス2世が即位。これが混乱続くギリシア世界に大きな変革の波をもたらすことになる。 マケドニアは、紀元前357年よりギリシアの各ポリスに侵攻を開始。その勢いはとどまるところを知らず、紀元前338年、カイロネイアの戦いでギリシア連合軍と戦いこれに圧倒的な勝利を収める。マケドニアはギリシアの各ポリスとコリントス同盟(ヘラス同盟)を結び、ギリシアをマケドニア下に統一した。(スパルタは参加せず。また、テーベは徹底的に破壊される)。ところが、理由は不明だがフィリッポス2世は紀元前336年に暗殺されてしまう。

 ---- アレクサンドロス大王が強豪ペルシアを打倒
 そこで即位したのは20歳のアレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)である。 ヘラス同盟を結んでギリシアの諸ポリスと同盟したアレクサンドロスは、紀元前334年に父の遺志を継いでギリシア軍を率いてペルシア帝国への遠征に着手した。その名目は、かつてのペルシアによるギリシア侵入への報復であった。 アレクサンドロスに率いられるギリシア軍は、小アジアに駐屯するペルシア軍を蹴散らしながら東進を続けて行き、シリア・エジプトを占領した。紀元前333年、ギリシア軍は、イッソスの戦いでアケメネス朝ペルシャのダレイオス三世を破り、紀元前331年ティグリス川上流のガウガメラにて再びペルシャ軍を大破した。ここに最強を誇ったペルシア帝国は滅亡した。

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アレクサンドロス大王とイッソスの戦い
B.C.333、ダレイオス3世率いるペルシア軍を破った。
(ナポリ国立考古美術館・ポンペイ出土)


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イッソスの戦いにおけるアレクサンドロス大王


 ---- アレクサンドロス大王の東方遠征と死去
 ペルシア帝国を征服したアレクサンドロスは次にインドへの遠征を目指した。
しかし、部下が疲労を理由にこれ以上の進軍を拒否したため、やむなく兵を返すことにした。アレクサンドロスはバビロンまで戻ってきたが、故郷マケドニアに帰りつくことは出来なかった。バビロンに戻ったアレクサンドロスはアラビア遠征を計画していたが、ある夜の祝宴中に突然倒れ、10日間高熱に浮かされ「最強の者が帝国を継承せよ」と遺言し死去してしまった。紀元前323年6月10日、32歳と11ヶ月の短くも激しい生涯であった。

 (ヘレニズム時代)
 アレクサンドロスの東方遠征によって、ギリシアの文化・文明は一挙に東方の広大な地域に広がった。アレクサンドロスの死から、エジプトのクレオパトラの死去によってプトレマイオス朝エジプトの統治下にあったギリシアがローマ帝国によって占領されるまでの約300年(紀元前323年〜紀元前31年)の時代をヘレニズム時代という。ヘレニズムというのは、ギリシア(ヘレネス)という言葉から近代になってつくられた用語で、ギリシア風とかギリシア文化という意味である。ちなみに、ギリシャ人は自らを「ヘレネ」 と呼んで、ヘレニズムという言葉は、ここから来たようだ。ヘレニズム文化の中心地はプトレマイオス朝エジプトであり、古代エジプトのヘレニズム王朝ともいわれるプトレマイオス朝はギリシアでの大統治を行った。エジプト女王クレオパトラの死去とともに、ヘレニズム時代は終焉した。

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クレオパトラの死
レジナルド・アーサー 1892年
古代エジプトと古代ギリシアの終焉


 (ローマ時代)
 以後、エジプト、ギリシアともローマの属州になり、ローマ時代(紀元前31年 - 330年)に入って、ローマ帝国の統治下で歴史を歩むことになる。古代ギリシアの建築様式や文化はローマに色濃く影響を与えていった。

 歴史的には目まぐるしい変化を辿ってきたギリシアだが、その文化は、ヨーロッパの古典として後々まで深い影響を与え今なお尊重されている。古代ギリシアの文化・文明の特徴を総括すると、何よりも人間的で明るく、合理性を重んじたことにあると思う。


古代オリンピックの起源

 世界の平和を希求する世界最大の公式の競技大会オリンピックの起源は、古代ギリシアの宗教行事にある。
 古代ギリシアにおいて伝染病の蔓延に困ったエーリス王イーピトスがデルポイ(デルファイ)の町にあるアポロン神殿で伺いを立ててみたところ、争いをやめ、(神話に残る)競技会を復活せよ、という啓示を得た。イーピトスはこのとおり競技会を復活させることにし、仲の悪かったスパルタ王リュクールゴスと協定を結んだ。オリンピアの地に武力を使って入る者は神にそむくものである、というものであった。

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デルポイ(デルファイ)に残るアポロン神殿のドーリア式円柱
ここでデルポイの神託が行われ、古代オリンピックの開催が決まった。
Picture from Wikipedia


 第1回大会が紀元前776年にエーリス領域内のオリンピアでゼウス神を祭る宗教祭事(オリンピア祭典競技)として開催され、以後4年毎にオリンピアで開催された(なお、古代オリンピックはローマ時代の西暦395年まで続いた。近代オリンピックの第1回大会は、1896年にアテネで開催されている)。競技会はどのポリスも共有し、デルポイのアポロンの神託には、全ギリシアのポリスがこれを求めて集まり、オリンピック競技の開催中は休戦する習わしとなったのである。ここにもギリシア人の連帯意識がある。
 
 <<古代においては祭典の数ヵ月前から、オリンピアのあるエリス地方の使者が、馬に乗ってギリシア全土にオリンピック休戦(エケケイリア=聖なる休戦)を触れ回ったといわれる。休戦とは言っても、必ずしもこの期間にギリシアが完全に平和だったわけではない。オリンピア祭典の成功と各地からの参拝者の旅行の安全を図るのが目的であった。しかし、27年にわたったペロポネソス戦争の間も祭典は中止されなかったといわれる。>>


                                     (参照資料)
                              「詳説 世界史研究」 山川出版社
                              「西洋建築様式」 美術出版社


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