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船中八策(せんちゅうはっさく)とは、坂本龍馬が土佐藩重臣の後藤象二郎に示した8ヶ条の新国家構想。 大政奉還、五箇条の御誓文のもととなっている。 山内容堂公の命により京都へ上るため、長崎から兵庫へ向けて航行する船中で提言されたので 船中八策の名がある。 四侯会議 慶応3年(1867年)5月、風雲急を告げる幕末の京都、徳川幕府の政庁・二条城で、島津久光(しまづひさみつ:薩摩藩)、松平春嶽(まつだいらしゅんがく:越前藩)、山内容堂(やまうちようどう:土佐藩)、伊達宗城(だてむねなり:宇和島藩)により四侯会議(しこうかいぎ:列候会議)が開かれていた。 四侯会議は、将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)や摂政二条斉敬(にじょうなりゆき)への諮詢機関として設置された会議体である。幕末に構想された公議政体論の流れの中で設けられた国事を審議する諸侯会議である。会議において、慶喜と久光の歩調が合わず、春嶽は2人の間の調整役をつとめた。しかし結果的には薩摩側は四侯会議に政権を移行させようという意図が慶喜に阻止されたものと判断し、その後は西郷隆盛、大久保利通ら薩摩藩士の画策で武力により朝廷を掌握し、長州復権による倒幕路線を推進した。(公議政体論=公卿・徳川を含む諸侯・諸藩士の参加による議会制を導入して国政の意思統一を図ろうとする幕末の政治思想) 四列候のうちの山内容堂は、土佐藩の前藩主であるが当時の土佐藩政の実権を掌握している実力者である。容堂は勤王家でありつつ、先祖山内一豊が関ヶ原戦の功績により徳川家康から土佐一国を拝領した恩義を重んじており、日々倒幕へ傾きつつある時勢にどうしたものかと悩んでいた。このままでは幕府は薩摩が主導する四侯会議に撃滅されかねない事態に立ち至ると危惧した。 そのため、容堂は、土佐藩参政(重臣)の後藤象二郎に自らを補佐させるため、急ぎ京へ上れと命じた。 龍馬ら 藩船「夕顔」で京に向かう 象二郎は、坂本龍馬に相談した。いま、藩としての身の処し方を誤れば、土佐は出遅れた日本の孤児となる。いや、藩そのものが滅ぶ。象二郎といえども、京都でこの時流の怒涛を乗り切る智略はない。容堂公のお召しに対し、どのように応えればいいのか。龍馬は海援隊の業務に多忙をきわめていたが、象二郎は、龍馬に共に京に上ってくれ、生涯に一度でいいから、藩の危難を救うために働いてくれと必死に頼み込んだ。こうして、象二郎は、龍馬を相談役として同行を要請し京都に上ることとする。 慶応3年(1867年)6月9日、龍馬は、海援隊文司長岡謙吉らを伴って、象二郎とともに、土佐藩船「夕顔」に乗り込み肥前長崎を出港した。6月12日に播磨兵庫(神戸)へ入港して、京都に急いだ。 四侯会議は、最終的に、慶喜が主導して徹夜の朝議で兵庫開港の勅許が幕府に下された。このことは、一連の政局における慶喜の完全勝利と四侯会議側の敗北を意味した。 薩摩藩の西郷・大久保らは四侯会議の失敗を受け、戦略の変更を余儀なくされる。すなわち、もはや四侯会議で幕府(および慶喜)を牽制するのは不可能であるとして、島津斉彬(しまづなりあきら)以来維持してきた公議路線を放棄し、武力倒幕路線を指向することとなる。薩摩藩は秘かに公卿・岩倉具視(いわくらともみ)と結び倒幕の密勅降命に向け、工作することとなる。 土佐藩の山内容堂は、幕府を擁護し続けたが、倒幕へと傾いた会議の流れを止めることは出来なかった。四侯会議の途中から欠席するなど薩摩と距離を置き始めた容堂は、むしろこの後徳川家擁護の姿勢へ傾斜を深めていく。 「船中八策」成る 幕府と倒幕勢力の全面対決が迫っていた。京に向かって急ぐ夕顔船内で、龍馬は象二郎に一触即発の幕府と薩長の戦いを回避させるには一大奇策をもって臨む必要があると説いた。その奇策とは「大政奉還」。「武力倒幕をさけるには大政奉還しかない」と説いたのである。龍馬は、無血革命を実現すべく、同乗の象二郎に大政奉還を含む八つの王政復古案を披露したのである。幕府に代わる新政権の骨格であった。象二郎は思いもよらない龍馬の案に『絶妙』と驚嘆した。 それは、龍馬が用意していた素案を朗読したのではない。頭の中に思い描いていた構想が、次々と口をついて出てきたものとされている。龍馬は日頃から新しい政治体制をつくるための策について、資料収集や研究を重ねていたのであろう。 龍馬は、列強諸国から日本を守るためには開国して新しい日本を作る必要があると考えていた。そのためには、今の幕府を一新し、幕府と諸藩と朝廷が一体となった政治組織を構築したいと思っていたのである。 象二郎は興奮を抑えながら龍馬の言葉に耳を傾けていたが、最後に『さっそく老公に献じ、大政返上建白をもって藩論と決しよう。』と言い、『それをもうちっくと建白案として綱領仕立てにしてくれせんか(それをもう少し建白案として綱領仕立てにしてくれないか)』と要望した。『ちっくと時間をとおせ(少し時間を下さい)』と龍馬は言った。 船が瀬戸内海の平戸島の沖にさしかかった時、龍馬は側にいた海援隊文司の長岡謙吉を呼び、象二郎に話したことを洋上で書き取らせた。謙吉は概要を簡潔に書きとった。 夕顔は6月11日夕刻、兵庫に入港した。一行は翌12日朝、兵庫に上陸し、大坂まで陸行し、14日に京都に入った。6月14日、象二郎は京都河原町三条の醤油商・壷屋に投宿。続いて、龍馬と長岡謙吉が河原町三条の酢屋(中川嘉兵衛宅)に入った。ここの2階は、京都における海援隊の屯所(海援隊京都本部)になっている。酢屋は、繁華街の三条河原町と高瀬川との間にある、土佐藩邸出入りの材木屋である。現在も同じ屋号で創作木工芸の店を営んでいる。 その晩、龍馬は象二郎に話した大政奉還論の腹案を練り、それを長岡謙吉に成文化させて「船中八策」と名づけた。15日、謙吉の筆記により、現在伝えられている「船中八策」の体裁に仕上がった。時勢救済策として8ヶ条の案、それが有名な「船中八策」である。この船中八策は、近代日本のあるべき姿〜新国家体制をまとめあげたものである。 龍馬は、慶応3年4月23日に海援隊の雇船・いろは丸と、紀州藩船・明光丸とが衝突した「いろは丸沈没事件」の件で、6月15日に酢屋に同志の中岡慎太郎の来訪を受け、このとき「船中八策」についても話している。慎太郎の日記について「坂本龍馬海援隊始末」(昭和4年、土陽新聞・坂崎紫瀾編述)に次の記述がある。「一、慶応三年丁卯六月十五日、後藤初テ大政返上建白ヲ藩論トスルニ決ス。龍馬為ニ長岡謙吉 ヲシテ、八策ヲ草セシム。中岡日記ニ曰ク、同十五日晴、後藤面会聞、昨夜政府議論決ス云々。 ○才谷(筆者、龍馬)面会云々、所謂八策ナルモノ左ノ如シ」とあり、次に八策が続いている。 【船中八策】 (慶応3年6月15日) 「船中八策」は、8行の非常に簡潔な文章でまとめられているが、それは、成文化した長岡謙吉が医者修行を通して身につけていたカルテの作成技術によるものである。 長岡謙吉は、2ヶ月前に海援隊士になったばかりであるが、 「船中八策」の筆記と文書化という歴史的な大仕事をやってのけたわけである。 長岡謙吉は土佐藩出身者。高知城下の浦戸町の医師・今井孝順の息子として生まれる。別名は今井純正。幼少期は河田小龍のもとで蘭学に励んだ。家業の医師を継ぐために、長崎にいるシーボルトから医学を学ぶが、坂本龍馬のもとで海援隊に参加した。龍馬は長岡の才能を高く評価し、海援隊の通信文書の作成など、事務処理のほとんどを謙吉に一任していたという。 象二郎はこの八策を、山内容堂に示し、四侯会議での土佐藩の方針として議題にしていこうと意気込んだ。しかしながら、龍馬と象二郎が京に着いた時には、容堂は病のためと称し、帰国を願い出て既に土佐へと帰ってしまっていたのである。それは、四侯会議において容堂が、倒幕を実行しようとする薩摩藩の方針に反発したためである。容堂は自身を藩主にまで押し上げてくれた幕府を擁護し続けたが、倒幕へと傾いた流れを止めることは出来なかった。 以下、この八策の解説を掲載する。
大政奉還と王政復古は慶応3年の10月、12月に実現した。また、海軍、陸軍の創設は明治初年、内閣制度の創設は明治18年、大日本国憲法の発布は明治22年、帝国議会の開設は明治23年、不平等条約の撤廃、関税自主権の回復は明治44年に、それぞれ実現している。 第一策の大政奉還論は、幕府の外国掛(外務大臣)であった大久保一翁(いちおう)や龍馬の師匠で幕府の軍艦奉行並だった勝海舟といった開明派の幕閣の影響を受けている。 第二策に議会の開設があるが、このとき龍馬が想定したのは土佐藩主・山内容堂を首班とする上下議会制であって、そう遠くない将来にアメリカ合衆国大統領制に近い体制を指向したものだった。ところが、当時、その意味を明治の元勲たちは理解できなかったのだろう。 第八策は、まさに、貿易商社「亀山社中、そして海援隊」の経営者 ”商人”龍馬らしい政策である。 「船中八策」は、19世紀に書かれたのもかかわらず、21世紀の今に立派に通用する先見的感覚で、中には、行政改革、平等条約、為替レートなど、今日の課題となっているものもある。 龍馬が「船中八策」を作成したことは通説になっているが、その史料的根拠は見当たらない。「船中八策」には原文書も写本も存在しないため、本当に龍馬が提起したのか疑問視している歴史学者も存在する(青山忠正、松浦玲など)。なお、「船中八策」の元になる様な文章は、長岡謙吉が記した「海援隊日史」(重要文化財)に残されており、そのことが、前述の「坂本龍馬海援隊始末」(昭和4年、土陽新聞・坂崎紫瀾編述)にも記述されている。なお、「海援隊日史」は京都・国立博物館に所蔵されている。 「新政府綱領八策」について 龍馬は、大政奉還が実現した後、公議政治の成立に向けて懸命になっていた。 それに向けて、慶応3年11月に龍馬は「新政府綱領八策」をしたためている。 「新政府綱領八策」は、「船中八策」をもとに坂本龍馬が起草して 土佐藩重役の後藤象二郎に示した政体案と言われている。 「新政府綱領八策」は現在写本が二葉残っており、 国立国会図書館と下関市立長府博物館(山口県)に所蔵されている。 比較のために「新政府綱領八策」を示し、「新政府綱領八策」と同じ項目と思われる「船中八策」の項目を 各項目の下に青字で記載する。 【新政府綱領八策】(慶応3年11月) ここで、直柔(なおなり)は龍馬の本名(諱:いみな)であり、龍馬という名は通称である。 文中の伏せ字「○○○」は諸説があるが、「慶喜公」を指してるのではという説が有力のようだ。 なお、「新政府綱領八策」作成より前の慶応3年10月16日、龍馬は長岡謙吉、戸田雅楽とともに、 新政府の人事案として「新官制擬定書」を作成し、 新政府の総裁(関白)を三条実美、副総裁(内大臣、副関白)を徳川慶喜としている。 「船中八策」の第一条前半の大政奉還条文は「新政府綱領八策」では書かれていない。 これは、すでに10月15日に、大政奉還勅許が降りているのだから当然である。 同条後半のいわば天皇絶対主義の表明ともいえる 「政令よろしく朝廷より出づべき事」も 「新政府綱領八策」では削除されている。 この部分は大政奉還を成すための名分あるいは対案として示したに過ぎず、 大政奉還が成ったからには不必要となる。龍馬の言う王政復古は、 岩倉具視も含めた天皇絶対主義的な他の倒幕派と天皇観を異にする。 近年の学説では「新政府綱領八策」こそが龍馬が後藤象二郎に提案したものであるとの見解がある。 しかし、「新政府綱領八策」は慶応3年(1868年)11月に坂本の直筆で書かれているので、 時期的に見れば、夕顔船中では、「船中八策」が書かれ、「新政府綱領八策」は新政府の構想会議用資料として 複数作られたものとの推測もされている。 逆に、「船中八策」のほうが「新政府綱領八策」より完成度が高く、 「船中八策」は、坂本龍馬を英雄視させるために後年になって創作された可能性があるとの説もある。 リンク@:船中八策 http://ja.wikipedia.org/wiki/船中八策 リンクA:新政府綱領八策 http://www2.odn.ne.jp/kasumi-so/bakumatu/jiken/hassaku.htm リンクB:[PDF] 船中八策 http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/sovereignty/pdf/sakamotoryoma.pdf リンクC:幕末マガジン(船中八策と新政府綱領八策) http://www.melma.com/backnumber_100238_1977091/ --------------------------------------------------- 大政奉還へ動く 四侯会議の決裂と容堂の帰国を知った龍馬と象二郎は驚愕し、疾風のように行動した。龍馬は、象二郎に、『おんしゃー土佐にいき容堂公を説け。おらは、京で薩摩を説く。』といった。 象二郎はすばやく土佐藩全体を動かした。いい手腕をしている。龍馬は大物であり、大政奉還政策の為に動くのは当然であるが、象二郎も大政奉還政策の理解と支持を得るために精力的に各藩を回った。すでに龍馬の船中八策、すなわち大政奉還政策を理解した象二郎は龍馬の分身の如く大奮闘した。大政奉還政策を説く象二郎に対してどの藩も不可能だと驚いたが、土佐藩がそれほど力を入れるなら反対はしないと一応支持はしてくれた。難関である薩長は龍馬が必死で頼んだ。 武力による倒幕に絶対反対の象二郎は、龍馬の示した「船中八策」こそが、それを阻止する有効な手段と考えていた。象二郎は、京の土佐藩邸で容堂側近の3人の重役に、龍馬の案を元にした「大政奉還を幕府に働きかけ、議事院を設立し政治を公議で決する」という策を進言した。朝廷に政治を行う能力などないのを見越し、武力倒幕派の先手をうって大政を奉還。その後有力諸候たちによって議会を構成し、議長に徳川慶喜を就任させれば徳川家の権力を保ち続けられる、と説いたのである。 『天下は今や四分五烈じゃ。すべてを一新して大政を朝廷に返し、王政復古、万国と足並みを合わす大業を立てねばならん。この大条理を、各藩主が協力して幕府に建言し、政権を解かさんといかんがじゃ。方今、天下の諸侯のうちにこれほどの大事をなすことができるがは、容堂公のほかにはない。それやったら国に戻(も)んて、老公にこの大義を申し上げ、ご下命を待って尽くそうじゃないか』。 3人の重役は、その場で象二郎に同意した。 6月20日の夜、象二郎と龍馬は京都二本松の薩摩藩邸に出向いた。象二郎と龍馬が薩摩藩城代家老・小松帯刀(こまつたてわき)に大政奉還建白について語ると、予想のとおり帯刀は直ちに同意した。 『よかごわんそ。無益な血を流すことはなか。吉之助(西郷隆盛)、一蔵(大久保利通)にも申し付けておきもそ。明後日頃、今一度お運びなさってやったもんせ』。 しかし、薩摩藩は四侯会議の決裂後から倒幕挙兵を画策したが、既にこの時点で薩摩藩の大半は、武力による倒幕を決意していた。無論、「船中八策」には武力による倒幕を是とする条文はないのだが、『政権を朝廷に奉還』という条項は、武力による倒幕を推し進めるのに適した内容であった。龍馬の思惑とは正反対に、隆盛、利通らの薩摩藩は武力による倒幕へと突き進んでいく。隆盛、利通は、倒幕を行わなければ新政体の編成は無理だと見ていた。だが、象二郎、龍馬の大政奉還論は無視できない。それは、天下の諸藩を納得させる公論である。もし、無視すれば、薩摩藩は大義名分を失い、倒幕運動を行えなくなる。 幕府が土佐藩の献策を採用しない場合には、土佐藩はそれを機に幕府と断交する決意があることから、6月22日、隆盛、利通らは、様々な問題を語らず象二郎の言うところに同調した。そして、小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通ら薩摩藩幹部と後藤象二郎ら土佐藩幹部は「薩土盟約」を結んだ。この席には龍馬も同志の中岡慎太郎も同席した(中岡慎太郎は、海援隊設立にやや遅れて同年7月29日、京都で「陸援隊」を設立した)。 【薩土盟約書】 さらに龍馬と慎太郎は公卿・岩倉具視を訪ね、公家たちにも大政奉還についての理解を求めた。広島の芸州藩(=安芸藩)も、これに賛同した。 7月7日、象二郎ら土佐藩重役は、大坂から藩船「空蝉」に乗って、国元の土佐に向かった。 土佐に戻った象二郎は龍馬の「船中八策」の考えを容堂に建言した。 象二郎は容堂の前に進み出て、大政奉還の一件を述べるや、容堂は眉をあげ、膝をたたいて、 『象二郎、よおぞ気づいた』と、ほとんど叫ぶように言った。 容堂は、この案を薩長主導の武力倒幕を回避し徳川家を存続させるための妙案と考えたのである。 象二郎は、誰がこの八策を立案したかということを、ついに容堂に言わなかった。象二郎自身の案として容堂に建言したのである。維新後、容堂はそれを知った。なぜ龍馬の名前を出さなかったのかというと、2度目の脱藩を赦免されて間もない龍馬の名前は出し得なかったのだろう。 9月7日、薩摩島津久光の三男・島津珍彦(うずひこ)が倒幕のため兵約1000名を率いて大坂に着いた。 9月9日、象二郎が西郷を訪ねて、龍馬案にもとづく大政奉還建白書を提出するので挙兵を延期するように求めたが、西郷は拒否した(後日了承した)。6月以来すでに武力による倒幕を決意していた薩摩藩は、9月に大久保利通 らを長州に派遣、倒幕の具体策を協議していた。さらに、これに安芸藩も参加することになり、薩・長・芸三藩の盟約へと発展した。徳川家が力を温存したままの大政奉還に反対する武力倒幕派の薩摩藩の大久保らは、倒幕の密勅を得るよう画策していくことになる。 慶応3年10月3日(1867年11月9日)、山内容堂は、後藤象二郎と福岡孝悌とに、容堂が署名した船中八策の本文と、象二郎ら4人の土佐藩幹部連名の別紙の2通の大政奉還建白書を託して老中・板倉勝静を通じて幕府へ提出し、15代将軍・徳川慶喜に建白を行った。建白書作成の実務作業は、象二郎や長岡謙吉が担当したと伝えられている。「船中八策」を文書化した謙吉だから、迫力ある建白書を書くことが出来たのだと思う。 いうまでもなく、容堂が大政奉還の建白書を提出したのは、龍馬が提示した「船中八策」の第一策(第一条)に基づいた行動だった。 薩摩藩大久保利通は、朝廷より倒幕の密勅を降下してもらうために、岩倉具視と共に執拗な運動を続けた。 (10月6日、大久保利通、品川弥二郎、岩倉具視、中御門経之らが王政復古の方略を謀議。10月8日、西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀は連署して、倒幕の宣旨の降下を中山忠能・中御門経之・正親町三条実愛(さねなる)らに請願する。10月9日、岩倉具視が王政復古の意見書を密奏)。ついに、10月13日、薩摩の島津久光・忠義父子に対して朝廷から倒幕の密勅が下った。また、翌14日、正親町三条実愛邸において、大久保利通に、徳川慶喜の討滅を命じた詔書が下された。同日、長州の毛利敬親・定広父子にも倒幕の密勅が下った。 容堂から将軍慶喜への大政奉還建白の結果、くしくも薩長に倒幕の密勅が下った10月14日、慶喜は京都二条城で在京40余藩の代表の前で、政権を朝廷に奉還することを発表した。慶喜の大政奉還の発表を聞いて、龍馬は『よおぞ決断されたものだ。あしは誓って慶喜公のために命を落とす。』と感涙した。 10月14日、徳川慶喜は、陛下(のちの明治天皇)に対して政権の返上(大政奉還)を上奏し、翌15日に陛下は上奏を勅許した。 上奏文は次の文面である。
この大政奉還により、薩摩側の倒幕の密勅工作の機先を制し、薩摩藩をはじめ倒幕派は武力行使ができなくなった。この慶喜の思い切った行動は、朝廷や薩摩、長州藩に衝撃を与えた。江戸幕府開府以来、政権を幕府に委任してきた朝廷は、突然慶喜から政権を返上され、その対応に困った。慶喜が大政奉還に踏み切った理由でもあり、政治を運営する能力や事務処理能力などあるはずもない朝廷は、幕府が政権を奉還したとしても結局その処置に困り、また幕府に政権を委任してくるだろうとの読み筋であった。この慶喜の策略は的中する。朝廷内部では、取りあえず政権をもう一度幕府に委任してはどうかという論も出てくる。 以下、その後の流れを列記する。 10月21日、朝廷、薩長に倒幕の猶予を命じる。10月22日、朝廷、徳川慶喜に庶政を当分委任する。10月24日、徳川慶喜、将軍の辞表を提出する。10月25日、江戸薩摩藩邸が焼き討ちされ90人が戦死する。11月13日、密勅を持ち帰った西郷は、桂久武らの協力で藩論をまとめ、藩主・島津忠義を奉じ、兵約3千名を率いて鹿児島を発した。 大政奉還後の11月15日、京都四条河原町の醤油商近江屋で、龍馬と、陸援隊長の中岡慎太郎が、何者かによって命を狙われた。龍馬は切り込まれて即死。慎太郎は、その場では一命をとりとめたが、後に死亡した。龍馬33歳、慎太郎30歳、夢半ばの短い生涯だった。龍馬は、慶喜の大政奉還の英断を評価し、慶喜に新政府の副関白の地位を与えようとしたほどである。 大政奉還により倒幕の名分を失った薩長などの倒幕派は、岩倉具視ら急進派の公家と連携して巻き返しをはかった。薩長藩士の西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允らの一派が中心となり、ク−デタ−の形をとって新政権から慶喜を排除すべく画策した。「王政復古の大号令」である。11月13日に鹿児島を発した薩摩勢は途中で長州と出兵時期を調整し、三田尻を発して、11月20日に大坂、23日に京都に着いた。長州兵約700名も29日に摂津打出浜に上陸して、西宮に進出した。またこの頃、芸州藩も出兵を決めた。諸藩と出兵交渉をしながら、西郷は、11月下旬頃から有志に王政復古の大号令発布のための工作を始めさせた。 将軍慶喜の大政奉還により、政権が徳川将軍から天皇に移管されたが、大政奉還に反対する会津藩、桑名藩や旧幕府勢力の強硬な幕府権力奪還の動きもあり、次の新政権に慶喜が擁立される可能性が高かったので、岩倉具視らはそれを完全に排除するために、ついに12月9日に参内し、15歳に満たない御年の陛下(のちの明治天皇)は「王政復古の大号令」を発し、徳川慶喜が慶応3年10月24日に申し出ていた将軍職辞職を勅許し、江戸幕府を廃止して天皇を中心とした新政府を樹立したのである。西郷隆盛と大久保利通はその旨を後藤象二郎に伝えた。 1868年(慶応4年、明治元年)1月に、新政府軍と旧幕府軍は鳥羽・伏見で激突することになる。国内史上最大の内戦となる鳥羽・伏見の戦いである。鳥羽・伏見の戦いは戊辰戦争の緒戦となった戦闘である。戊辰戦争の歴史は翌年の函館五稜郭の戦いに至るまで一年半にわたる内戦へとつながる。結局、龍馬が回避につとめていた武力による倒幕が開始され、薩長軍が勝利したのである。龍馬の「船中八策」を容堂に説いた象二郎らは、敗北感に打ちひしがれたに違いない。薩長両藩への倒幕の密勅降下、王政復古の大号令などの過程で、薩摩の大久保利通は公卿・岩倉具視と結んで倒幕への動きに指導的な役割を果した。 元号が慶応4年9月に明治と改元され、1月に遡って慶応4年は明治元年と改められた。明治維新である。 五箇条の御誓文へ 龍馬の「船中八策」は、後に明治新政府の大方針を示す「五箇条の御誓文」(ごかじょうのごせいもん)に受け継がれ、新政府樹立後の国政の指標となる。五箇条の御誓文とは、慶応4年(明治元年)3月14日(1868年4月6日)に明治天皇が公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針である。この五箇条の御誓文は、龍馬の船中八策と似ている部分が多く、最初の三ヶ条など船中八策にそっくりである。司馬遼太郎が「竜馬がゆく」で書いているように、五箇条の御誓文は龍馬の船中八策から出ていることは間違いないだろう。 【五箇条の御誓文】 五箇条の御誓文は、当初、諸侯会盟(諸侯が天皇の前で盟約を結ぶ会合)の議事規則として、龍馬と交流のあった由利公正(ゆりきみまさ:越前藩士)・福岡孝悌(ふくおかたかちか:土佐藩士)によって起草された。後に、龍馬との親しい関係にあった長州藩士の木戸孝允(きどたかよし:桂小五郎)が国として進むべき基本方針を示す条文に作り変え、五箇条の御誓文となった。由利公正、福岡孝弟、木戸孝允と龍馬は深い付き合いがあったので、「船中八策」の内容を熟知していたはずである。「五箇条の御誓文」が「船中八策」と似ているのも無理からぬ話と言えるだろう。当初、公正・孝悌が書いた五箇条の御誓文の原文(「会盟」)の第一条は、「列侯会議を興し」となっていたが、孝允は「広く会議を興し」に改定した。孝允のこの改定は、龍馬の「船中八策」を参考にしたものと思われる。 この後、木戸孝允は龍馬の構想を受け継ぐかたちで、列候=諸藩の権限の削減を企図した版籍奉還を断行している。 国是七条 = 船中八策のモデル さて、「龍馬は日頃から新しい政治体制をつくるための策について、資料収集や研究を重ねていたのであろう。」と前述したように、この「船中八策」の案は、すべてが龍馬のオリジナルではなく、龍馬と交流のあった横井小楠(よこいしょうなん)が唱えた「国是七条」がモデルになっているといわれている。「国是七条」は、文久2年(1863年)、松平春嶽が徳川幕府の政事総裁職に就いたとき、春嶽のブレーンとして幕政に参加した小楠が春嶽に建議した幕政改革の方針である。 龍馬は文久2年(1862年)8月に初めて小楠と出会って以来、文久3年(1863年)5月、7月、文久4年(1864)2月、元治元年(1864年)3月、4月、慶応元年(1865年)5月にも会って、小楠と天下の情勢や国の将来について話をしている。元治元年3月以降の会談は、龍馬の師匠である勝海舟の命で使者として、国元の肥後熊本に閑居していた小楠のを訪ねたものである。海舟のみならず龍馬もまた、江戸幕府崩壊後の新しい国家体制の樹立には、小楠の力が不可欠と考えていたものと推察される。 なお、「国是七条」と、「船中八策」との間には、根本的な違いがあった。それは、「国是七条」が幕政改革のために立案された方針であるのに対して、「船中八策」は新しい政治体制の構築のために立案された国家の基本構想であるという点である。 【国是七条】 横井小楠 横井小楠は勝海舟とともに、龍馬の思想に最も影響を与えた人物である。 龍馬は1862年(文久2年)12月5日、江戸城常盤橋にある越前福井藩邸で幕府政事総裁職の松平春嶽に謁見したとき、春嶽の相談役である横井小楠と幕府軍艦奉行並(のち奉行)の役目にあった勝麟太郎(勝海舟)に面会したいので紹介状を書いて欲しいと春嶽に求めた。春嶽の紹介で、龍馬は1862年(文久2年)8月に江戸で横井小楠に会い、以後、小楠を師と仰ぎ密接な関係になっていった。 小楠は、肥後熊本生まれ、藩校一の秀才で、遊学や講師で、長崎、江戸、福井、江戸と回り、その後は熊本に居たのだが、多くの志士たちが「小楠思想」に触れるために訪ねて来た。彼らの考えや世の情勢を熟考し「富国」「強兵(海軍)」「士道」を中心とする考えを「国是三論」にまとめた。これにより、松平春嶽は越前藩(福井藩)の財政再建に成功し徳川幕府の総裁職に付き、徳川幕府の再建に関わった。 維新後、小楠は副大臣や次官に相当する新政府の参与に登用されるが、明治2年(1869年)1月5日に刺客の襲撃を受けて落命した。 小楠は坂本龍馬とは都合6回会っている。 幕末の5年間で、ヒーローになる坂本龍馬の思想的根源は、熊本の儒家・横井小楠の「公共の政」と言う考え方に出会い、衝撃を受けたことにあると考えています。人は、何かのきっかけで、居ても立っても居られない衝動に駆られる気分を持ちます。 ------------------------------------------------------------------------------- リンク 幕末通史1(ペリー艦隊来航以降の国情) http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/bakumatuishinco/history1.htm 幕末通史2(改革か回天か、新政体創出を廻る激闘) http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/bakumatuishinco/history2.htm 幕末通史3(薩長同盟から大政奉還まで) http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/bakumatuishinco/history3.htm 幕末通史4(大政奉還から江戸城無血開城まで) http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/bakumatuishinco/history4.htm ------------------------------------------------------------------------------- MyPageリンク: 【龍馬伝】龍馬と弥太郎 http://matiere.at.webry.info/200912/article_1.html 【龍馬伝】龍馬の生涯 http://matiere.at.webry.info/200912/article_2.html ------------------------------------------------------------------------------- 主な参考・引用文献: 司馬遼太郎「竜馬がゆく」(第7巻) 文春文庫 津本陽「商人龍馬」日経ビジネス人文庫 津本陽「幕末京都血風録」 PHP文庫 川口素生「坂本龍馬と海援隊101の謎」PHP文庫 ------------------------------------------------------------------------------- |
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坂本龍馬の歩いてきた道
坂本龍馬の歩いてきた道を紹介します ...続きを見る |
坂本龍馬の歩いてきた道 2010/02/15 23:00 |
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