matiere

アクセスカウンタ

zoom RSS 【龍馬伝】 弥太郎亡きあとの三菱財閥

<<   作成日時 : 2009/12/06 23:20   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

 坂本龍馬の夢は岩崎弥太郎によって結ばれた。

 三菱の創始者・岩崎弥太郎を啓発したのは、幕末維新の志士で実業家の坂本龍馬である。
龍馬は土佐出身であるが、かなり前から蝦夷地に強い関心を持っていた。
彼がいつごろから蝦夷に関心を持つようになったのかは不明だが、土佐と蝦夷は意外に近かった。
1857年(安政4年)、土佐藩の藩主・山内容堂は、蝦夷との交易の可能性を探るために
家臣団を蝦夷に派遣している。土佐の特産品を売り込み、北の海産物を買い付けることにより
交易の利を得ようとする意図だった。
そこで、龍馬は1864年(元治元年)30歳のときに、蝦夷地開拓と北海交易を計画した。
それは龍馬が率いる海援隊でのプロジェクトのひとつであった。
龍馬は、1864年(元治元年)、海援隊の隊員による蝦夷地移住計画を実行に移そうとしていたが、
その年の池田屋事件発生で計画は中止。1867年(慶応3年)に龍馬は暗殺されてしまい、
蝦夷地移住と開拓の夢は叶わなかった。

この龍馬の壮大な夢を弥太郎が引き継いだ。
弥太郎は、長崎土佐商会で武器調達の仕事を担うとともに、北海交易という龍馬の壮大な夢を実行した。
岩崎弥太郎は1866年(慶応2年)閏4月、アメリカのウォルシュ商会と共同で、
土佐藩船「大坂」をカムチャッカ半島のペトロパブロフスクへ派遣して交易を行ったのである。
龍馬の生前は確執のあった二人だが、弥太郎は龍馬の夢に心中深く共鳴し、
その実現こそが自分の道であると悟り始めたのであろう。

参考:【龍馬伝】 龍馬と弥太郎
               http://matiere.at.webry.info/200912/article_1.html


  1867年、坂本龍馬が暗殺されたことで、土佐藩参政(重臣)・後藤象二郎は、
龍馬の海援隊の事業を土佐藩の土佐商会の事業として、その運営を岩崎弥太郎に託した。

 1868年、明治維新により長崎の土佐商会は閉鎖され、その業務は大阪にある土佐藩蔵屋敷の大阪商会
(開成館大阪出張所)に移った。弥太郎はこの大阪商会において海運業を従事するに至った。

 1869年10月、大阪商会は「九十九(つくも)商会」と改称した。九十九は土佐湾の別名に因む。 
1870年(明治3年)、土佐藩は九十九商会の監督を弥太郎に任じた。 
1871年(明治4年)、明治政府は廃藩置県を実施し、土佐藩は高知県となった。
土佐藩がにわかに地上から消滅したため、九十九商会は同年、土佐藩から名実ともに独立し、
弥太郎が経営する個人企業となった。
これが三菱の創業である。

 1872年(明治5年)1月、九十九商会の名称を「三川(みつかわ)商会」と改称した。
三川商会の社名の由来は、商会の代表者である川田小一郎、石川七財、中川亀之助(森田晋三)の
3つの川という苗字をあわせた名称である。
商会の性格は、廃藩で官職を失った土佐士族を授産するための、
士族による組合会社的なものだったと伝えられている。
代表者の名に岩崎弥太郎がないが、それは、士族組合という得体の知れない組織が
弥太郎にとって不満であり、弥太郎は引退を表明して同社に加わらなかったからだと思われる。
士族の持ち合い商社は、経営の足枷になることが弥太郎の目に見えていたのであろう。

 明治政府は、日本の海運業を国益のためにも育てたかったので、
1872年8月に、政府の意向に財界が応えて「日本国郵便蒸気船会社」が設立された。
三井、鴻池、島田組、小野組などの有力な金融業者が出資した。
汽船会社の設立に寄与したのは、以後、岩崎弥太郎のライバルとなった渋沢栄一である。
大蔵省租税頭(主計局長)であった渋沢栄一は、三井系の吹田四郎兵衛に働きかけ、
国策海運会社の設立を実現させたのである。
やがて、渋沢栄一と岩崎弥太郎、そして三井と三菱の宿命の対決が始まることになる。

参考: 【歴史】渋沢栄一 〜 日本の将来を決定づけた明治の大実業家
               http://matiere.at.webry.info/200511/article_4.html


 この「親方日の丸会社」と外国商社の間隙を縫って、素人商法の三川商会が業績を
伸ばしていくには困難を極めた。
 商会の経営が行き詰ってくるにつれ、岩崎弥太郎の経営手腕、折衝能力、個人信用などが、
いかに得がたいものであるか実感されてくる。
 商会の三代表は、岩崎弥太郎に代表就任を請いに行った。こうなることを予期していた弥太郎は、
士族組合と一切の関わりを断ち、すべての権限と責任を自分に与えることを条件に、
代表就任を承諾した。  

 1873年(明治6年)3月、弥太郎が社主となり、社名を「三菱商会」と改称した。
三菱の名称は、九十九商会の船旗号として使用していた三角菱のマークにちなんだ。

 1873年(明治6年)、弥太郎は、後藤象二郎の肝煎りで土佐藩の負債を肩代わりする
条件で、土佐藩の船2隻を高知県から入手した。ここに、弥太郎は、商事に加え、龍馬
によって夢を与えられた海運業に邁進したのである。

 翌1874年(明治7年)春、三菱商会は本店を大阪から東京日本橋の南茅場町に移し、
社名を「三菱蒸汽船会社」とした。弥太郎は、この時初めて「社長」を名乗った(それ
までは「旦那」という呼称だった)。

 1875年(明治8年)、三菱蒸汽船会社は明治政府の海運助成策を機に、社名に国策の
意味を含めて「郵便」を入れて「郵便汽船三菱会社」と改称し、日本有数の海運会社と
して発展していった。後の三菱財閥「日本郵船会社」(現:日本郵船株式会社)である。

 蝦夷地(北海道)開拓という坂本龍馬の壮大な夢を実現するには、
北海道の商品の輸送が必要になる。そのためには、商船、船員が必要である。
この海運に従事したのが、龍馬の海援隊を受け継いだ弥太郎の郵便汽船三菱会社である。
郵便汽船三菱会社は、1875年(明治8年)に東京〜函館間に定期航路を開いた。
西回りの大阪航路、青函航路(明治41年国鉄に移管)、北海道各地への航路も加わった。
北海道の玄関・函館を三菱はずっと支えてきた。
函館に明治15年に郵便汽船三菱会社が建て明治42年に日本郵船が建て直した倉庫があるが、
今はレトロ調の金森赤レンガ倉庫群(花畑牧場函館店)の一画をなす観光スポットになっている。




三菱の創業者・岩崎弥太郎は、1884年(明治17年)の夏頃から体調を崩した。
進行性の胃ガンであった。年が改まると、病状は急速に悪化した。
1885年(明治18年)2月7日、土佐の風雲児・岩崎弥太郎は51年の生涯を閉じた。
三菱会社の二代目社長には、副社長だった弟の弥之助が就任した。

画像
三菱財閥の祖・岩崎弥太郎


●弥太郎亡き後の三菱財閥

画像
“スリーダイヤ”で親しまれている三菱マークのうつりかわり


 1885年(明治18年)、三菱の創業者岩崎弥太郎の死去後、その弟・弥之助が事業の後
を継いだ。

画像
三菱二代目社長 岩崎弥之助


 岩崎弥太郎が創設した「郵便汽船三菱会社」は大発展していったが、郵便汽船三菱
会社と三井系国策海運会社の共同運輸会社との間に激しい競争が起こった。両者共倒れ
を懸念した政府の方針により、1885年、三菱は共同運輸との合併を余儀なくされた。
こうして両社が合併して「日本郵船会社」が創設され、郵便汽船三菱会社は閉鎖、三菱
は独自の海運業を失うことになった。
 日本郵船会社は、1893年、株式会社として「日本郵船株式会舎」と改称。現在の
「日本郵船株式会社」である。

 1886年(明治19年)、弥太郎のあとを継いだ弥之助は新たに「三菱社」を設立した。
そして、石炭・金属鉱山・造船・銀行業を中心にして三菱の再興を図った。
 弥之助は、1881年(明治14年)に買収した高島炭鉱と1884年(明治17年)に借り受け
た官営長崎造船所(後の三菱重工業)を中核として、事業を展開していった。
 1887年(明治20年)の長崎造船所の払い下げとその後の積極的な造船業の拡充、
「東京倉庫」(後の三菱倉庫)の設立、1885年(明治18年)の「第百十九国立銀行」の
買収(後の「三菱銀行」の前身)による銀行業務への本格展開を行った。


 弥之助は、明治23年(1890年)に政府の要請で、買い手が居なくて困っていた丸の内と
神田の地10万余坪を買い取り、オフィス街の建設を計画した。
買い取った野原は通称「三菱ヶ原」と呼ばれていた。当時、ここは何もない野原だったが、
4年後の明治27年(1894年)、丸の内初のオフィスビルとして「三菱1号館」が竣工された。
「三菱1号館」は三菱合資会社の本社の建物となった。

 「三菱1号館」は、1877年(明治10年)に来日し、多くの近代建築を残した英国人建築家
ジョサイア・コンドルによって設計され、、明治27年(1894年)6月に竣工(部分落成)した。

 なお、74年後、歴史ある「三菱1号館」の建物は建て替えのため解体されてしまい、そ
の跡にはごく普通のビル、三菱商事ビルが建設された。時は流れ、その39年後に今度は三
菱商事ビルが取り壊され、2年の月日をかけ丸の内パークビル「三菱1号館」が復元され、
2009年9月3日に初公開された。復元には当時の設計図面や保管部材を使用し、創建当時
と同じく230万個の赤煉瓦を積み上げ、明治時代に造られた建物を忠実に復元したという。

 「三菱1号館」の中に赤煉瓦造りの美術館『三菱1号館美術館』が2010年4月に開館する
予定となっている。19世紀を中心とした近代美術に焦点をあてつつ、現代に通じるテーマの
展覧会を開催する予定だそうである。主要収蔵作品はロートレックによるポスター、リト
グラフ二百数十点、世界的に貴重なコレクションだそうだ。

 明治23年に丸の内の払い下げを受けた三菱社は、丸の内オフィス街建設のため、直ちに
「丸ノ内建築所」を立ち上げた。イギリス人建築家J.コンドルが顧問として就任し、彼の弟子
である曾根達蔵が建築士として入社、丸の内の建設計画がスタートした。
 明治25年(1892年)1月に着工、2年半の工期を経て、明治27年(1894年)6月、馬場先通り
と大名小路との交差点北東角に、煉瓦造3階建て、地下1階の第1号館(のちの東9号館)が
竣工した。

 設計にあたって、馬場先通りの幅20間に対して軒高さを50尺(15m)とした。
のちに馬場先通りに建ち並ぶ建物はすべてこの軒高さとなり、「一丁倫敦」と呼ばれる
高さの揃った赤煉瓦建物が並ぶ景観が形成さる。


 1893年(明治26年)、旧商法の一部が改正され「三菱社」は、持ち株会社として、
「三菱合資会社」に改組した。同時に弥太郎の長男・久弥が三菱合資会社の三代目社長
に就任。総務、銀行、営業、炭坑、鉱山、地所の各部を設置して分権体制を敷き、
「長崎造船所」の拡張と神戸、下関造船所の新設、「麒麟麦酒」の設立など、事業が
いっそう拡大された。

 同年、三菱社の営業部が「三菱商事」となり、総務部の保険部門が「三菱海上保険」
(現在の東京海上ホールディングス)、造船部が「三菱造船」(現在の三菱重工業)、
銀行部が「三菱銀行」(現在の三菱UFJフィナンシャルグループ)と分離し、戦後の財
閥解体を経て、現在の各社につながっている。

 三菱合資は、事業の発展とともに基幹部門の分離独立を開始、1917年(大正6年)に
「三菱造船(株)」「三菱製鉄(株)」を、続いて「三菱鉱業」「三菱銀行」を独立さ
せた。「三菱鉱業」は、三菱合資会社の炭鉱部、鉱山部、研究所が独立し1918年(大正7
年)4月に設立された(現在の三菱マテリアル)。「三菱銀行」は、1919年(大正8年)、
「三菱為換店」が第百十九国立銀行の業務を継承して設立されたものである(現在は、
東京銀行、UFJ銀行と合併して、三菱東京UFJ銀行となっている)。

 三菱合資は、1899年に営業部を設置した。営業部は一度廃止されるが、1911年に復活、
これが後に「三菱商事」へと発展していくことになる。
 1902年には、三菱合資として初めての海外拠点となる漢口出張所が開設された。
これを皮切りに、上海、香港、北京、ロンドン、ニューヨークに次々と海外拠点が設置
され、三菱商事誕生の条件が整えられていった。

 三菱合資は、1918年に営業部の一切の事業を分離して、「三菱商事(株)」として
独立させた。三菱商事は日本の生産品の輸出や、海外からの生産品・資源の輸入、最新
の工業技術の日本への導入などを通じて発展していったが、第2次世界大戦後の1947年
(昭和22年)、GHQの財閥解体によって解散、1954年に再興を果たし、現在の「三菱商
事」が発足した。総合商社は、生産者と消費者を仲介するものとして誕生したが、鎖国
が終わり明治が始まって日本が工業化の道へ向かい始めた頃から、日本と海外との仲介
役として機能するようになる。三菱商事も創立以来こうした役割を果たしながら発展し
てきたが、戦後、日本の経済発展とともに、その機能は日本の大半の企業にとっても、
ますます重要なものとなっていった。

画像
東京名所、旧岩崎邸庭園(台東区池之端)
下車駅:湯島(地)、上野広小路(地)、上野御徒町(地)、御徒町(JR)
1896年(明治29年)に三菱創設者・岩崎家本邸として建てられた。
岩崎家の邸宅を都立公園として整備したもので、
園内の建造物は国の重要文化財に指定されている。


画像
三菱一号館 明治27年(1894年)竣工


画像
2009年に復元された三菱一号館


画像
2010年4月に丸の内に開館する三菱美術館のロゴマーク


-------------------------------------------------------------------------------
MyPageリンク:

【龍馬伝】龍馬と弥太郎
http://matiere.at.webry.info/200912/article_1.html

【歴史】渋沢栄一 〜 日本の将来を決定づけた明治の大実業家
http://matiere.at.webry.info/200511/article_4.html

-------------------------------------------------------------------------------

主な参考・引用文献:
 河合敦「維新のリーダー」光文社知恵の森文庫
 立石優「岩崎弥太郎」PHP文庫

-------------------------------------------------------------------------------
Copyright© 2009 Matiere

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
【龍馬伝】 弥太郎亡きあとの三菱財閥 matiere/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる