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zoom RSS 【龍馬伝】 龍馬と弥太郎

<<   作成日時 : 2009/12/04 00:18   >>

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♪ 土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし買うを見た  
   よさこい よさこい


 二人の土佐人、龍馬と弥太郎 ---
 龍馬(りょうま)とは、坂本龍馬のことで、幕末史の奇跡と呼ばれた謎多き風雲児。
幕末を―大転換の時代と見抜き、海外交易で世界に雄飛することを志して
開国日本の前途を構想した幕末の志士である。
 弥太郎(やたろう)とは、岩崎弥太郎のことで、龍馬と衝突しながらも龍馬に憧れた
幕末屈指の経済人。龍馬の夢を実現し、世界に雄飛する現在の三菱グループの基礎
を築いた近代日本の生みの親である。
 もし明治維新に岩崎弥太郎がいなければ、日本の経済活動やモノ造りは大き
く遅れたであろう。同じく龍馬がいなければ三菱は誕生しなかったはずだ。

よさこい節
2009.2.27 宮崎市民プラザ オルブライトホール チートコパートコライブ
Chii-toko par-toko LIVE 太陽じょんがらバンド


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 坂本龍馬は剣術修行に通っていた京橋桶町千葉道場(小千葉道場)の師範代で友人でもある
千葉重太郎の紹介で、1862年(文久2年)12月5日、同志の近藤長次郎とともに、
江戸城常盤橋(現:千代田区大手町)にある越前福井藩邸を訪れ、
越前藩の前藩主で幕府政事総裁職の松平春嶽-しゅんがく-(慶永-よしなが-)に謁見した。
 龍馬は春嶽に、海軍振興のために兵庫に海軍操練塾の設置を要請した。
春嶽は龍馬に海防にはなぜ軍艦が必要であるのかを問い、龍馬はその必要性を説いた。

 龍馬の説明に春嶽は頷いて微笑み、龍馬に「よさこい節」を所望した。
龍馬は驚いたが、手をたたいて郷里の歌を歌った。その一部を抜粋する。

 ♪ 土佐の高知の はりまや橋で
    坊さんかんざし買うを見た  
    よさこい よさこい
 ♪ 御畳瀬(みませ)見せましょ 浦戸を開けて
    月の名所は桂浜   
    よさこい よさこい
 ♪ わしの恋人(といち)は 浦戸の沖で
    雨にしょんぼり 濡れて鰹釣る 
    よさこい よさこい

 この頃、土佐では「よさこい節」が好んで歌われていた。
尊王攘夷運動にかげりが見え、倒幕論が盛んになった頃である。

 よさこい節は、関ヶ原戦の功績により徳川家康から土佐一国を拝領した山内一豊が、
1601年(慶長6年)から2年間かけて高知城を築いたとき、 その工事場で唄われた
”木遣り節”が変化したものだという。
 現在の歌詞は、土佐のお坊さんが町娘を好きになった「かんざし事件」が元になって
土佐藩15代藩主山内容堂(豊信)の代の1855年(安政2年)に作られた。
今では、南国土佐、高知県の代表的民謡になっている。

 春嶽は龍馬の歌を楽しむとともに、龍馬の合理的な考え方と心意気に惚れ込んだ。

 そのとき龍馬は、春嶽の相談役である横井小楠(-よこい しょうなん-)と
幕府軍艦奉行並(のち奉行)の役目にあった勝麟太郎-かつ りんたろう-(勝海舟-かいしゅう-)に
面会したいので紹介状を書いて欲しいと春嶽に求めた。
春嶽は龍馬の申し入れを快諾した。
 この横井小楠と勝海舟は、以後の龍馬の思想に最も影響を与えた人物である。
 龍馬は、春嶽の紹介で1862年(文久2年)8月に江戸で横井小楠に会い、
以後、小楠を師と仰ぎ密接な関係になっていった。
 勝海舟との出会いは、1862年12月9日。龍馬が春嶽の紹介状を携え、
同志とともに赤坂氷川町の勝邸を訪問したときである。このあと、龍馬は海舟の弟子となる。

 1863年(文久3年)5月16日、龍馬は勝海舟の命によって、神戸海軍操練所(勝の私塾
の神戸海軍塾)の運営資金の援助を春嶽に懇請するために、越前福井へ赴く。
このとき、千両の予定だったが、春嶽は五千両をポンと出したという。
春嶽に口添えしてくれたのは、ほかならぬ横井小楠である。
 
 坂本龍馬は、土佐藩郷士。幕末維新の志士。実業家。
龍馬は、1836年(天保6年)11月15日、土佐藩の下士(町人郷士)・坂本八平の次男として、
高知城下本町に生まれた。 坂本家は、土佐の豪商・才谷家の分かれで、軽格の郷士ながら、
身代は裕福だった。もともと商家なので、龍馬は自由で合理的な町人気質に触れながら育った。
 龍馬は子供の頃は痩せっぽちの泣き虫だった。
12歳の時に母が病死、姉の坂本乙女が母代わりに弟龍馬の面倒をみた。
 1848年(嘉永元年)、乙女はひ弱な龍馬を強く鍛えるため、龍馬を高知城下の小栗流剣術の
日根野弁治の道場に入門させた。ここで、龍馬は剣術の腕をめきめき上げた。

 龍馬は、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中・海援隊の結成、薩長連盟締結の斡旋、
大政奉還の成立に尽力するなど、幕末維新の志士として活動した。
近代日本の構造を策定したが、志半ばにして何者かに暗殺され、33年の短い人生の幕を閉じた。

 岩崎弥太郎は、土佐藩の下士(地下浪人)岩崎弥次郎の長男として、土佐の貧困な家庭で生まれた。
土佐藩の重臣・後藤象二郎に才能が認められ、海援隊への土佐藩からの資金提供窓口として、
龍馬との交流を深めていく。

 弥太郎は龍馬によって視野が世界へ開かれ龍馬の海援隊の考えを、
弥太郎が設立した三菱商会に取り入れて三菱財閥の基礎を築き、
近代日本を促進させた。

 二人は衝突を繰り返す中で急接近。
龍馬の志は、龍馬の死後、弥太郎に引き継がれていく。
龍馬の海援隊は、やがて弥太郎の尽力によって、
世界をまたにかける三菱財閥の礎となっていく。

 以下、この2人の足跡と出会いについて触れる。

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坂本龍馬

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長崎市亀山社中跡の近く風頭公園に立つ
坂本龍馬の銅像


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大河ドラマ「龍馬伝」で
坂本龍馬を演じる福山雅治



岩崎弥太郎

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高知県安芸市の江ノ川上公園に立つ
岩崎弥太郎の銅像


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大河ドラマ「龍馬伝」で
岩崎弥太郎を演じる香川照之


 幕末、開国論と尊皇攘夷論がモザイク状に絡み合って激しく対立していた頃、
長崎の港に海運商社「亀山社中」が創設された。
社中とは、同じ会社や結社に属する「仲間」という意味で、
亀山社中は、仲間が集まった日本初の「会社組織」であった。
それは、貿易会社を兼ねた政治結社であった。
 設立したのは、幕末維新の志士で土佐藩浪士の坂本龍馬である。

 尊王攘夷派は、幕府との戦闘を予想し、軍備の洋式化に邁進する。
長崎の武器商人グラバーなどから大量の新式銃を購入した。
この武器購入の仲介、輸送を担当したのが、龍馬の亀山社中であった。

 龍馬は、列強諸国から日本を守るべく、近代的統一国家を構築しようと指向していた。
しかし、龍馬の夢は新国家の建設に留まらず、海運業をもって世界に繰り出すことだった。
その内容は、貿易の振興、海軍力の整備などと見られる。
だから本音は、
「喧嘩はやめて、サッサと開国して、朝廷と幕府を合体して新しい国をつくろうよ。
幕府とか藩とか、古いぜよ〜」といったところだろうか。
亀山社中の設立を契機に、龍馬の革新運動は活発化していった。

 そのようなわけで龍馬は、薩摩、長州、幕府の調整役をやって、
あとは自分の夢を追って行こうとした。
 龍馬は維新の政治家になるつもりなど
まるでなかったと思われる。

 龍馬は、いわゆる尊王攘夷の「志士」とは違った。
天下国家を論じながら、つねにビジネスと結びつける現実派だった。
ベンチャー起業家といってもよいだろう。

 今は社中の同志とともに薩長の必要とする武器・雑貨の購入を行っているが、
戦が収まれば蝦夷、下関から長崎、上海を行き来して、
さらに広東からルソン、パシフィック・オセアン(太平洋)を渡ってアメリカにも出向き、
貿易をしようと考えていた。蒸気船という文明の利器を使えば、そのような夢が
達成できるのである。その夢は、以下のような経緯から生まれてきたのであろう。

 1852年(嘉永5年)、アメリカに漂流して戻ってきたジョン万次郎が、
土佐藩の絵師で蘭学者の河田小龍(かわだ しょうりゅう)にアメリカでの様子を話した。
小龍は万次郎から聞いたことを龍馬に話して聞かせ、
龍馬はここから「外国」に目を向けるようになる。

 土佐藩には上士、下士という身分差別があり、下士は屈辱的な差別を受けていた。
 龍馬は、「身分制度を無くしたい。しかしそれにはどうしたら良いのか」と悩んでいた。
世の中を知るために江戸に行きたいと思った。
時代はもはや武者修行の時代ではなかったが、
父八平は、龍馬に剣術修行という目的を与え江戸に行くことを許した。

 龍馬は、翌1853年(嘉永6年)3月に土佐を離れて江戸遊学に向かった。
 龍馬の江戸遊学の目的は、表立っては先ずは、剣術修行だった。
次に、江戸遊学の本来の目的として、見聞を広めるため、
龍馬は要人や、新進気鋭の志士、学者などに知遇を得たいと考えていたようだ。

 まず、剣術の腕を磨くため、同年4月頃、北辰一刀流の総師範千葉周作の弟・千葉定吉が経営している
京橋桶町の道場(小千葉道場)に入門した。龍馬は、定吉や嫡子・千葉重太郎に師事する一方で、
定吉の次女で重太郎の妹・佐那に心を寄せる。
1854年6月に龍馬は土佐に帰国するが、1856年8月に再び千葉道場の世話になる。
この頃、24歳の龍馬と21歳の佐那は相思相愛の仲になり婚約したが、
2人の結婚は実現に至らなかった。

 龍馬が千葉道場に入門するや、1853年6月4日の朝、
アメリカの黒船が浦賀沖に現れたという知らせが届いた。ペリーの艦隊である。
 ペリー一行は、日本にアメリカと通商条約を結んで欲しいというアメリカ大統領の国書を預かっているので
受け取って欲しいというものであった。

 黒船の脅威を目の当たりにした龍馬は、砲術を学ぶ必要性を感じて
1853年12月1日に、江戸木挽町(中央区銀座)にあった佐久間象山の佐久間塾に入門した。
龍馬は、ここでオランダ式砲術を会得した。

 龍馬は、佐久間塾に入門した後、勝海舟という幕府の小普請組みの旗本の存在を知る。
勝海舟は、砲台、様式小銃などを諸藩の注文に応じて使っていた。
龍馬は、佐久間象山や勝海舟がオランダ原書によって大砲鋳造を立派に成し遂げていることに
ひたすら感心するばかりであった。

 黒船来航により江戸幕府は狼狽した。
土佐の商家で育った龍馬は、外国と通商することがなぜいけないのかと考えていた。
彼の本家である才谷家や親戚の下田屋は土佐の物産を長崎へ運んで売り、
鉄材を買い入れてきて収益を得ている。隔たった土地を船を持ち往来して商えば、
物価の相場が各地によって違うので、収益が大きくなることを龍馬は知っていた。
 アメリカ人がどんな考え方をしているか知らないが、どっちも喧嘩をしないで商売をすれば
お互いに利益が得られえると龍馬は思っていた。

 龍馬は言う。
「幕府はアメリカやイギリスに振り回されちゅう。老中らは何の能力もないがじゃ。
大名は幕府に気兼ねばっかりしちゅう。才気ある下級人民が頭をあげにゃあ、世間は変(か)〜らんき。」

 江戸で黒船騒動を体験した龍馬は時勢に衝き動かされ、土佐に帰国後、1861年(文久元年)、
当時、土佐を支配していた土佐勤皇党に加盟した。
しかし、首領の武市半平太が唱える「一藩勤王」(藩全体をあげての過激な尊王攘夷の考え)に
賛同することができず、翌年3月、土佐藩を脱藩し、再び江戸に赴いた。

 冒頭に書いた通り、龍馬は1862年12月5日、同志の近藤長次郎を連れ立って、江戸の越前藩邸
へ赴き、前藩主で現幕府総裁職(大老職と同等職)の松平春嶽に謁見した。
そして、幕府軍艦奉行並の勝海舟に面会したいので紹介状を書いて欲しいと春嶽に求めた。
12月9日、龍馬は春嶽の紹介状を携え、同志の近藤長次郎、門田為之助とともに勝邸を訪問。
海舟に入門した。これ以降、龍馬は開国思想を持つ幕臣・勝海舟に育てられる。

 海舟の著書「追賛一話」や「氷川清話」などから、
龍馬と長次郎は海舟を暗殺しようと乗り込んだものの、
わが国を取り巻く危機を延々と海舟に説かれ、一転して海舟の門を叩いた、
という説が一般には流布している。
しかし、実際は、龍馬達は海舟を暗殺に行ったのではないようだ。

 さて、1863年(文久3年)1月15日、土佐藩前藩主・山内容堂が軍艦「大鵬丸」に乗船し、
江戸を立って上方に向かっていた途中で嵐に遭い伊豆下田に寄港し、この地の宝福寺に宿泊していた。
このとき、勝海舟や、土佐を脱藩し重罪人の身だった龍馬や海舟門下生らが乗った軍艦「順動丸」が
江戸に向かって航海中であり、嵐を避けて下田に入港した。
これを知った容堂は海舟を寺院に招いた。嵐がなければ、伊豆半島沖ですれ違っていたはず・・・
海舟は龍馬が依然として脱藩者であるという立場を危惧して、
容堂に申し出て龍馬の脱藩の罪の許しを懇願。
容堂は、「ならば、この酒を飲み干してみよ」 と大杯を渡した。
海舟は酒が飲めなかったが、容堂が差し出す酒の杯を一気に飲み干した。
それを見た容堂は上機嫌になり、龍馬らの赦免を約束した。 粋な計らいである。
龍馬は、下田の遊郭・住吉楼で海舟からの吉報を待っていたと言われている。
その後、龍馬は正式に脱藩が赦免され、まるで足かせが取れたかのように
維新回天の活躍が始まったと言われている。
この下田も、坂本龍馬 飛翔の地といっても過言ではないだろう。

 ところで、龍馬はこの年の6月29日付けの姉・乙女に当てた手紙の中で、
「日本を今一度せんたくいたし申候事にいたすべくとの神願にて候」と書いている。
ここで「せんたく」とは洗濯のことであるが、ここでは根本的な改革、政治の刷新を指しているもの
とみてよいだろう。この「日本を洗濯する」という有名な言葉を龍馬に教え説いたのは横井小楠である。
龍馬の「船中八策」は、徳川慶喜の「大政奉還」や維新後の新政府の国家構想に影響を与えているが、
その船中八策は横井小楠の綱領「国是七条」、殊にその中の「公共の政」の思想の影響が色濃い。

 1864年(元治元年)2月、龍馬は2度目の脱藩をしている。といっても、土佐藩の江戸藩邸への
出頭命令を無視したのである。そのため、藩当局から脱藩という扱いになった。

 龍馬は新しい日本を作るためには、今の幕府を一新しなければならないと考えていた。
倒幕に有力な薩長両藩がお互いにいがみ合う事は幕府を利するだけとの思いで、
薩長が倒幕に協力する6か条の同盟を締結するために立ち上がり、薩長に働きかけ
1866年(慶応2年)1月21日、薩長同盟の締結を成功に導いた。

 薩長同盟を成し遂げた龍馬は、翌々日の1866年(慶応2年)1月24日、
長州藩の三吉慎蔵と一緒に、懇意にしていた京都伏見の船宿・寺田屋の二階にいた。
そのとき、寺田屋を仕切っていたのは寺田屋伊助の未亡人で女将のお登勢であった。
龍馬の所在を探知した伏見奉行所では、幕府方約100名の捕り方を動員し、寺田屋を囲んだ。
お登勢が玄関で捕り方の問い質しにしらばくれて対応している間に、
同宿に奉公していたお龍(りょう)が異変に気づき、龍馬を救った。
お龍は入浴中だったが、風呂を飛び出し濡れ肌に合わせを一枚羽織っただけの姿で
龍馬のもとに行き、異変を知らせた。
龍馬と三吉は伏見の薩摩藩邸に逃れて難を逃れた。
龍馬はのち、姉乙女への手紙の中で、この時お龍がいたからこそ命が助かったと述懐している。
お龍はこの事件のあとすぐに龍馬の妻となり、薩摩藩家老小松帯刀の斡旋で、
龍馬の湯治に薩摩に行っている。
これが日本初の新婚旅行だといわれている。

 この後、龍馬は妻のお龍とともに長崎に移り住み、本業である貿易の仕事で東奔西走した。

 さて、亀山社中は、やがて土佐藩直属の結社「海援隊」に改組、改変される。
1867年(慶応3年)1月12日、土佐藩士後藤象二郎が長崎の料亭清風亭において、
龍馬と会談した。会談は劇的な進展を遂げた。
1. 亀山社中は正式に土佐藩直属の海運業として新発足する。
2. 亀山社中の名称を「海援隊」と改称する。
3. 海援隊の隊長は坂本龍馬とする。
4. 隊の会計部門と経済的な支援は、
  土佐藩の海軍貿易を取り扱う「開成館長崎出張所(土佐商会)」が担当する。
このようなことが取り決められた。
 海援とは、「海から(土佐藩を)援ける」という意味で、土佐藩の遊撃隊の役割を
担う。龍馬と同志の中岡慎太郎が後に設立した「陸援隊」も同様な趣旨である。

 1867年6月9日、龍馬は後藤象二郎と共に土佐藩船夕顔丸に乗り込み、
長崎を出港し京都へ向かった。このとき船中で龍馬は象二郎に8つの方策を提示した。
横井小楠の「国是七条」から影響を受けて作った有名な「船中八策」である。
この「船中八策」をもとに、やがて将軍徳川慶喜の「大政奉還」が成り、
明治天皇の「五箇条の御誓文」に至ることになる。

 龍馬の部下に、伊達小次郎という人がいる。通称は陸奥陽之助、
のちの外務大臣陸奥宗光である。陽之助は海援隊に参加し、
龍馬を敬愛し龍馬の右腕として常に龍馬と行動を共にした。

 その陽之助が後に龍馬を回想している。
あるとき、西郷隆盛に龍馬が「船中八策」を提示した際、
「世界の海援隊でもやりましょう」と発言し、
その場に同席していた陽之助は非常な感銘を受け、
「この時の龍馬は、体の大きい西郷の何倍も大きく見えた」と、
後世ことあるごとに回想していることが伝えられている。

 その龍馬の夢「世界の海援隊」は、やがて岩崎弥太郎の尽力によって
三菱グループの礎となっていく。

 弥太郎は1844年、10歳の頃、初めて土佐で龍馬と出会ったが、
以来、龍馬と衝突を繰り返してきたといわれている。
 弥太郎が土佐で龍馬と別れたのは、1859年(安政6年)、
弥太郎が土佐藩参政・吉田東洋の推挙で下横目(郷廻り)の役に就き、長崎へ出張したときである。

 1867年に至り、岩崎弥太郎は、上司・後藤象二郎の命により
土佐藩の商務組織・土佐商会主任、長崎留守居役に抜擢され、
同年3月、長崎の土佐商会に出向となって赴任し藩の貿易に従事する。
弥太郎が8年ぶりに見る長崎は、以前にも増して活気にあふれていた。
この出向が弥太郎にとって人生最大の転機だったといえる。
このとき、1864年(元治元年)の龍馬脱藩の罪は許され、
龍馬の海援隊は土佐藩の外郭機関となった。
そして、弥太郎は藩命により海援隊の経理を担当した。
以後、弥太郎は龍馬を支援していくこととなる。

 弥太郎と龍馬は不仲であったといわれることもあるが、弥太郎の日記には、
龍馬と酒を酌み交わすなど親交があった様子が記されている。
 弥太郎が長崎に赴任してからほどなく、
坂本龍馬が、唐突に、ふらりと土佐商会に入ってきた。
弥太郎に目を止めると、龍馬は人懐っこい笑顔を見せながら歩み寄り、
手を差し出した。弥太郎と龍馬が土佐で別れて以来の8年ぶりの再会である。
 弥太郎は握手が欧米人の挨拶であることをすでに知っており、
差し出された龍馬の手をためらいもなく握った。
維新史に不朽の名を刻んだ男と、明治の実業界に風雲を起こした男、
異彩を放つ二人の土佐人が、ここに握手を交わしたのである。
二人は近くの鰻屋に出かけ、蒲焼を肴に酒を飲み、四方山話に耽った。

 弥太郎は、龍馬の茫洋とした態度に度量の大きさを感じて魅せられた。
一方の龍馬も、弥太郎の頭の回転の速さに驚いた。
どんな話題になっても、弥太郎は打てば響くような核心を掴んでしまう。
「はしこい長州人にも、ひけをとらん男ぜよ」と感心したのである。
 微薫を帯びて鰻屋を出たときには、二人は百年の知己のように打ち解けていた。

 1867年4月から6月にかけて、弥太郎はたびたび龍馬と酒を酌み交わしている。
龍馬は当然、壮大な夢や国家の将来像を弥太郎に話したことだろう。
龍馬によって弥太郎の目が世界へ開かれたことはほぼ確実だろう。

 「世界の海援隊」の内容について、龍馬はその記録を残していないが、
世界中に航路を持つ海運会社兼総合商社のことだったと言われている。
そんな龍馬の描いた壮大な夢を、弥太郎はそれからわずか10年で実現してしまう。

 1867年11月15日、その日は京都は灰色の雲が垂れ込め、比叡おろしが肌を刺す
寒い天候だった。龍馬は京都河原町の旅寓・近江屋の二階にいた。
昼下がりに同志の中岡慎太郎がひょっこり訪ねてきた。
龍馬は喜んで、「寒いから軍鶏(しゃも)鍋でも食おう」と、
峰吉という少年に鍋の材料を買いに行かせた。
二人が火鉢を挟んで話し込んでいるところへ、疾風のように刺客の一団が階段を駆け上がってきた。
龍馬は北辰一刀流の皆伝を持ち、剣の腕は立つ。しかし不意を衝かれた。
いきなり一太刀、前頭部に切りつけられた。これが致命傷となった。
身をよじって床の間の刀架けに手を伸ばしたところを、肩に二の太刀を受けた。
抜き合わせる間もなく、三撃目は鞘ごと受け止めたが、そこで力尽きて倒れた。
「脳をやられたきに、もういかん」と慎太郎に言ったのが、最後の言葉になった。
龍馬は業半ばにして、ついに命を落とした。中岡慎太郎は2日後に死んだ。
龍馬33歳、慎太郎30歳。若すぎる死であった。国家にとっても大きな損失といえる。
刺客は、幕府見廻組の佐々木只三郎ら七人という説もあるが、
刺客、黒幕とも誰であったか謎に包まれている。
歴史に「イフ」はないが、もし龍馬が明治の世にも生きていたら、海運を取り仕切り、
貿易を手掛け、産業を興して、三菱(岩崎弥太郎)の強力なライバルになっていただろう。

 翌1868年(慶応4年=明治元年)、明治維新を迎える。

 坂本龍馬が暗殺されたことで、土佐藩は海援隊を後藤象二郎に委ねた。
後藤象二郎は海援隊を解散し、海援隊の事業を土佐商会の事業として、その運営を
岩崎弥太郎に託した。

 1868年、明治維新により長崎の土佐商会は閉鎖され、
その業務は大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷(現在の土佐稲荷神社付近)の
「開成館大阪出張所(大阪商会)」に移った。
弥太郎はこの大阪商会において海運業を従事するに至った。
 1869年10月、大阪商会は「九十九(つくも)商会」と改称した。
九十九は土佐湾の別名に因む。
1870年(明治3年)、土佐藩は九十九商会の監督を弥太郎に任じた。 
1871年(明治4年)、明治政府は廃藩置県を実施し、土佐藩は高知県となった。
九十九商会は同年、土佐藩から独立し、弥太郎が経営する個人企業となった。
これが三菱の創業である。

 弥太郎が九十九商会を興した時に作られた鋳鉄製天水桶に、今日の三菱マーク
の原型がみられる。このマークは、九十九商会が船旗号として使用していた。
これは岩崎家の家紋「三階菱」と、土佐藩主山内家の家紋「三ツ柏」の組み合せに由来する。
後に社名を三菱と定める機縁ともなった。

画像


 1872年(明治5年)1月、九十九商会の名称を「三川商会」と改称した。
 続いて、 1873年(明治6年)3月、弥太郎が社主となり、社名を「三菱商会」と改称した。
三菱の名称は、九十九商会の船旗号として使用していた三角菱のマークにちなんだ。

 翌1874年(明治7年)春、三菱商会は本店を大阪から東京日本橋の南茅場町に移し、
社名を「三菱蒸汽船会社」とした。弥太郎は、この時初めて「社長」を名乗った(それ
までは「旦那」という呼称だった)。

 1875年(明治8年)、三菱蒸汽船会社は明治政府の海運助成策を機に、社名に国策の
意味を含めて「郵便」を入れて「郵便汽船三菱会社」と改称し、日本有数の海運会社と
して発展していった。後の三菱財閥「日本郵船会社」(現:日本郵船株式会社)である。

 郵便汽船三菱会社は明治政府の援助で仕事の幅を広げていき、1874年(明治7年)の
台湾出兵や1877年(明治10年)の西南戦争で軍需物資の輸送などを行って、巨万の富を
掌中にした。郵便汽船三菱会社は、主力事業である海運業においては外国勢力や中小の
船会社を徹底的に駆逐して独占的な地位を得た。

 海運部門の全盛期に弥太郎は着々と事業の多角化を図っていた。1873年(明治6年)の
吉岡鉱山や1881年(明治14年)の高島炭坑の買収に始まる鉱業(三菱鉱業の前身、現・
三菱マテリアル)、1884年(明治17年)の官営長崎造船所を借り受けて進めた造船業
(三菱造船の前身、現・三菱重工業)がそれである。また、東京海上保険(現・東京海
上日動火災保険)、明治生命保険(現・明治安田生命保険)、三菱銀行(現・三菱東
京UFJ銀行)も、その前身が弥太郎の時代に設立された。

 ここに、龍馬の夢は弥太郎によって結ばれた。

 龍馬の夢を実現した土佐の風雲児・岩崎弥太郎は、1885年(明治18年)2月7日、51年の生涯を閉じた。

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龍馬の愛妻 お龍(おりょう)

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龍馬の妻 伝 お龍


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大河ドラマ「龍馬伝」で
おりょうを演じる真木よう子


YouTube「龍馬とお龍」
新しい国づくりを目指して奮闘する龍馬!それを支えるお龍との幕末・運命の愛
ナレーションは、NHKの松平定知キャスター


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司馬遼太郎「竜馬がゆく」について

  歴史小説家の司馬遼太郎氏は、「彼(竜馬)はその最終目標を幕府から
朝廷への平和的政権委譲、すなわち無血革命においていた」のだと考え、
それに基づいて「竜馬がゆく」を執筆し、作品のなかで坂本龍馬を英雄視した。
 だが、それは正確な認識とはいえない。
 龍馬の手紙を読むとわかるが、彼は無血革命などに全くこだわっていない。
 龍馬の目標は、早急に近代的統一国家を樹立し、強大な海軍をつくって
列強諸国の爪牙から我が国を守ることに置かれていた。
 そのためには、統一政権の核になるものが薩長であっても徳川家であっても
かまわないと考え、また、あえて武力革命を回避しようとも考えていなかった。
討幕派と佐幕派の争いが生じることを十分に視野に入れ、もし内戦が勃発した際
には、列強諸国がこれに付け入らぬよう速やかに戦いを収束させるべく苦心して
いたのだ。そうした高所に立って龍馬の行動を見れば、薩長連合も大政奉還も、
終始一貫した方策であることがわかる。
        (出典:河合敦著「維新のリーダー」光文社)
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NHK大河ドラマ「龍馬伝」の予告概要

 2010年1月3日より放送されるのNHK大河ドラマ第49作、青春群像劇「龍馬伝」は、
「幕末維新史の奇跡」と呼ばれた風雲児・坂本龍馬33年の生涯を、
後に三菱財閥の礎を築いた幕末の経済人・岩崎弥太郎の視線から、
フリーライターで脚本家の福田靖が、歴史小説家の作品を原作とせず、
独自に描くオリジナルの作品である。

 NHK大河ドラマで原作がないのは「新撰組」以来だとのことだそうだ。
今回のNHK大河ドラマ龍馬伝は、岩崎弥太郎の視点で描いていくものであるため、
今までにない坂本龍馬の生涯になることが予想される。

 司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」でもなく、津本陽の小説「龍馬」でもなく、
武田鉄矢原作・小山ゆう作画による漫画「お〜い!竜馬」でもない。

 坂本龍馬は、司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」の主人公とされて以来、
国民的人気を誇った人物ではあるが、
それらは実際の龍馬とかけ離れているのではないか
という指摘も多いようだ。

 司馬遼太郎の「竜馬がゆく」で竜馬は国民的英雄になった感があるが、
司馬遼太郎によって印象づけられた竜馬像の「思い込みや先入観」で
見ないほうがよいと思う。
福田靖独自の「福田龍馬」であるので、
原作通りに描かれていないという批判は意味が無くなる。

NHK大河ドラマ「龍馬伝」ホームページ
http://www9.nhk.or.jp/ryomaden/

龍馬伝は、岩崎弥太郎の目を通して、龍馬の側面が描かれる。 

大河ドラマ「龍馬伝」役柄と出演者

★★★ 坂本家 ★★★
坂本龍馬・・・・・・福山雅治(幼年時代 濱田龍臣)
坂本乙女・・・・・・寺島しのぶ
坂本八平・・・・・・児玉清
坂本権平・・・・・・杉本哲太
坂本伊與・・・・・・松原智恵子
坂本千野・・・・・・島崎和歌子
坂本幸・・・・・・・・草刈民代
坂本千鶴・・・・・・大鳥れい
坂本春猪・・・・・・前田敦子

★★★ 岩崎家 ★★★
岩崎弥太郎・・・・・香川照之 (幼少時代 渡邉甚平)
岩崎弥次郎・・・・・蟹江敬三
岩崎美和・・・・・・・倍賞美津子
岩崎弥之助・・・・・須田直樹
岩崎さき・・・・・・・・野口真緒
岩崎喜勢・・・・・・・マイコ

★★★ 武市家 ★★★
武市半平太・・・・・大森南朋
武市冨・・・・・・・・・奥貫薫

★★★ 平井家 ★★★
平井収二郎・・・・・宮迫博之
平井加尾・・・・・・・広末涼子

★★★ 千葉道場関係 ★★★
千葉佐那・・・・・・・貫地谷しほり
千葉定吉・・・・・・・里見浩太朗
千葉重太郎・・・・・渡辺いっけい

★★★ 京都・伏見関係 ★★★
楢崎龍・・・・・・・・・真木よう子
お登勢・・・・・・・・・草刈民代
三条実美・・・・・・・池内万作

★★★ 長崎関係 ★★★
お元・・・・・・・・・・・蒼井優
大浦慶・・・・・・・・・余 貴美子
小曽根乾堂・・・・・本田博太郎
グラバー・・・・・・・・ティム・ウェラード 

★★★ 土佐藩関係 ★★★
山内容堂・・・・・・・近藤正臣
吉田東洋・・・・・・・田中泯
後藤象二郎・・・・・青木崇高
河田小龍・・・・・・・リリー・フランキー
岡田以蔵・・・・・・・佐藤健
近藤長次郎・・・・・大泉洋
沢村惣之丞・・・・・要潤
池内蔵太・・・・・・・桐谷 健太
溝渕広之丞・・・・・ピエール瀧
中岡慎太郎・・・・・上川隆也
那須信吾・・・・・・・天野義久

★★★ 土佐勤皇党 ★★★
望月亀弥太・・・・・音尾琢真
望月清平・・・・・・・本田大輔
島村衛吉・・・・・・・山ア雄介
川河原塚茂太郎・原田裕章

★★★ 長州藩関係 ★★★
桂小五郎・・・・・・・谷原章介
高杉晋作・・・・・・・伊勢谷友介
吉田松陰・・・・・・・生瀬勝久
井上聞多・・・・・・・加藤虎ノ介
三吉慎蔵・・・・・・・筧 利夫
伊藤俊輔・・・・・・・尾上寛之

★★★ 薩摩藩関係 ★★★
西郷隆盛・・・・・・・高橋克実
小松帯刀・・・・・・・滝藤賢一

★★★ 越前藩関係 ★★★
松平春獄・・・・・・・夏八木勲

★★★ 紀州藩関係 ★★★
陸奥陽之助・・・・・平岡祐太

★★★ 徳川幕府関係 ★★★
徳川家茂・・・・・・・中村隼人
徳川慶喜・・・・・・・田中哲司
勝海舟・・・・・・・・・武田鉄矢


大河ドラマ「龍馬伝」〜人物相関図
http://www9.nhk.or.jp/ryomaden/cast/?from=toppage_spothp4

出典:NHK大河ドラマ「龍馬伝」Webページ



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龍馬伝の元になったと思われる原作本について

 NHK大河ドラマ「龍馬伝」は、脚本家福田靖独自のオリジナル作品である。
したがって、原作となった小説は無い。
 
 いくら名脚本家の福田靖と言えども、何も見ず、また参考にせずに
龍馬伝を書くということはないはずだ。

 龍馬伝の脚本作成にあたり、福田靖がどのような書籍を参考に
龍馬伝を手がけているのかはわからないが、
たくさんある坂本龍馬について書かれた本の中から「龍馬伝」の参考に
なると思われる代表的な小説をピックアップしておく。


●司馬遼太郎著「竜馬がゆく」初版:1963年〜1966年 新装版:1974年
             (文春文庫全8巻)各660円
 司馬遼太郎の【竜馬がゆく】は、国民小説といっていいほどの評価を得ている。
  「竜馬がゆく(一)」 〜 「竜馬がゆく(八)」

●津本陽著「龍馬」(角川文庫全5巻)
     1993 年に中央公論社より単行本発刊. 1997 年に角川文庫に収録される。

 司馬「龍馬」の存在ゆえか、後続する「龍馬小説」がなべて小粒に見られがちだが、
 その壁に、歴史小説家としてすでに第一人者である津本陽が挑んだ作品。
 【龍馬 一、青雲篇】 660円
  時代を超えて、日本人を魅了し続ける坂本龍馬の実像に迫った力作!
  江戸遊学を控えた龍馬は、ジョン万次郎から西洋文明の発達を聞き、到来する激動
  の予感に胸を弾ませていた。しかし江戸では折しも来航した黒船に屈服する日本の
  現実を痛感する。土佐に帰った龍馬を思わぬ悲劇が襲う。
 【龍馬 二、脱藩篇】780円
  史実を踏まえ、限りなく龍馬の実像に迫った渾身の大作、待望の文庫化!
  桜田門外で井伊大老が暗殺された。龍馬は武市半平太の土佐勤王党に参加するが、
  藩執政の暗殺計画を知り煩悶する。捨て石になることにも人を殺めることにも同調
  できない龍馬は、脱藩して我が道をゆくことを決意する。
 【龍馬 三、海軍篇】800円
  攘夷か開国か。国論を二分する幕末、龍馬は独自の視点で時代を捉えていた!
  勝鱗太郎(海舟)に共鳴し世界との貿易の夢に燃える龍馬は海軍操練所の塾生募集
  に奔走する。しかし、尊王攘夷派と公武合体派の対立は激しさを増し、容赦なく
  龍馬の仲間たちを奪っていく。おりょうとの出逢いが救いだった。
 【龍馬 四、薩長篇】800円
  禁門の変、長州征伐。薩摩への恨み尽きない長州。主導権にこだわり和解をはばか
  る薩摩。互いに譲らぬ両藩の仲裁に龍馬が起つ。ついに成る、薩長同盟! 
  しかし、龍馬の夢はあくまで「海」にあった。
 【龍馬 五、流星篇】700円
  事態が混迷を極めるなか、海援隊を結成した龍馬は船中八策を起案、あくまで平和
  的な政権交代を主張する。遂に徳川慶喜が大政奉還を表明するが、新国家建設に夢
  をふくらませる龍馬のもとに、魔の手が忍び寄っていた。

●津本陽著「商人龍馬」(日経ビジネス人文庫)出版日: 2009/11 700円
 司馬遼太郎の「竜馬がゆく」は政治経済両面から維新期の竜馬の功績を詳細に描いて
 いるが、こちらの「商人龍馬」は、海運・商業など、もともと商人の出だった坂本家
 という側面を強調し、龍馬の商業における貢献面に焦点をあてた面白い試みだ。

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MyPage リンク:

【龍馬伝】坂本龍馬の生涯
http://matiere.at.webry.info/200912/article_2.html

【龍馬伝】弥太郎亡き後の三菱財閥
http://matiere.at.webry.info/200912/article_3.html

【龍馬伝】船中八策
http://matiere.at.webry.info/201001/article_1.html

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主な参考・引用文献:
 津本陽「商人龍馬」日経ビジネス人文庫
 河合敦「維新のリーダー」光文社知恵の森文庫
 立石優「岩崎弥太郎」PHP文庫
 川口素生「坂本龍馬と海援隊101の謎」PHP文庫
 一坂太郎「わが夫 坂本龍馬」(おりょう聞書き)朝日新書
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