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奥羽の覇者・伊達政宗 ---------------------------------------------------------------------------------------- ♪広瀬川流れる岸辺、思い出はかえらず〜、『青葉城恋歌』で有名な青葉城は、仙台城ともいう。青葉城は伊達政宗によって築かれた。 戦国物語「天地人」に、主人公・直江兼続の永遠のライバルとして伊達政宗が登場する。 1987年のNHK大河ドラマ・山岡荘八原作「独眼竜政宗」では、当時まだ無名に近かった渡辺謙が政宗を演じ、一気にスターダムにのし上がり、渡辺謙以外が演じる政宗など考えられないともいわれるほどの強烈なインパクトを残した。大河ドラマ「独眼竜政宗」は最高視聴率47.8%、平均視聴率39.7%を得て、平均視聴率ではNHK大河ドラマとしては最高の記録となった。このドラマによって、仙台と伊達政宗の知名度は高まった。 今回の大河ドラマ「天地人」では、政宗を松田優作の息子で俳優の松田龍平が演じ、政宗の正室愛姫(めごひめ)には、渡辺謙の長女で女優の杏(あん)が演じ、毅然とした態度で政宗を支え続ける。 【伊達政宗 居城の変遷】 1.米沢城 (山形県米沢市) 誕生〜22歳 2.黒川城(会津若松城) (福島県会津若松市) 23歳〜24歳 3.岩出山城(岩手沢城) (宮城県岩出山町) 25歳〜34歳 4.仙台城(青葉城) (宮城県仙台市) 35歳〜61歳 5.若林館 (宮城県仙台市) 62歳〜70歳 【米沢に生まれた伊達政宗】 伊達氏は、藤原姓魚名中納言山陰をもって流祖とし、山陰の子孫朝宗が文治5年(1189年)、源頼朝の奥州征伐(藤原泰衡追討)のために4人の子供を従軍させ、軍功によって伊達郡を賜り「伊達」と称し、初代となった。伊達は古くは「イダテ」と読み、のちに「ダテ」に転じたとされる。 伊達政宗は、戦国時代・安土桃山時代から江戸時代初期の武将。陸奥国仙台藩62万石初代藩主。伊達家17代当主。 政宗は、永禄10年(1567年)8月3日、米沢城主伊達輝宗(てるむね)の嫡男として米沢城(山形県米沢市丸の内)に生まれた。生母は、山形城主最上義守(もがみよしもり)の娘・義姫(よしひめ:出家後は保春院[ほしゅんいん])。幼名梵天丸(ぼんてんまる)。 伊達政宗は米沢城で生まれ育ち、黒川城(会津若松城)へ移転するまで米沢を支配した。
伊達政宗は7歳頃、疱瘡を病み、毒のために右目を失明し、のちに「独眼竜」と畏怖される。「独眼竜伊達政宗」「奥羽の覇王」という呼称は、いずれも、伊達政宗存命中の呼称ではなく、後世の命名である。 「独眼竜政宗」は、1987年のNHK大河ドラマから由来する。ちなみに「独眼竜」は、中国の後唐の第一世昭宗・李克用が、片目でありながら英傑で、独眼竜と呼ばれた故事に発している。 政宗は、天正7年(1579年)、陸奥国田村郡三春(現・福島県田村郡三春町)の城主・田村清顕(たむらきよあき)の娘愛姫(めごひめ:出家後は陽徳院[ようとくいん])と結婚。天正12年(1584年)家督相続した。 【秀吉、全国統治に動く】 天正11年(1583年)、豊臣秀吉は、織田信長の安土城を模範に巨大な大阪城の築城を開始し、日本国内での戦に終止符を打ち、全国を統治しようとする意思を示した。秀吉は、朝廷から関白の地位を得て、天皇から全国の統治をまかされたとして、「惣無事令(そうぶじれい)」を発した。「豊臣平和令(とよとみへいわれい)」と呼ぶ事もある。これによって大名間の領土紛争などは私戦とみなして禁じ、調停は全て豊臣政権がその最高機関として処理にあたり、これに違反する大名には厳しい処分を下す事を宣言したものである。秀吉は、この命令をもとに、これに従わない九州の島津氏を討伐したのち、関東、奥羽の諸大名に「関東奥州惣無事令」を発した。 【政宗、会津を攻略するも惣無事令違反行為だった】 米沢の伊達政宗と会津の芦名義広との間に争い事が起きた。天正17年(1589年)、芦名軍1万6千と伊達軍2万3千が磐梯山麓の摺上原(すりあげはら:現在の福島県磐梯町・猪苗代町)で激突した。政宗は、芦名氏を破って芦名氏の居城「黒川城」(福島県会津若松市)を奪取した。 黒川城(会津若松城)を奪取した政宗は、南奥における最大の領土を得て伊達氏の奥州制覇はほぼ成った。だがそれは秀吉の出した「惣無事令」を無視する行動であった。
芦名氏を滅ぼした伊達政宗は、現在の山形県・宮城県・福島県の三県にまたがる広大な領地を得て奥州の覇権を確立し、さらに関東への進出をねらっていた。伊達政宗は、若くして奥州の覇者の名をほしいままにしていたが、豊臣秀吉の台頭により天下人になるという野望は挫折した。秀吉の奥州仕置(おうしゅうしおき)によって、会津攻略は秀吉の出した「惣無事令」に違反しているとして、政宗が獲得した会津領ほかを召し上げられた。奥州仕置とは、天正18年(1590年)7月から8月にかけて行なわれた、豊臣秀吉による東北地方における領土統治の処置のことをいう。会津の地は芦名氏に復帰することはなく、秀吉の腹心である蒲生氏郷(がもううじさと)に与えられた。 【秀吉の小田原征伐に参戦】 信濃国上田の真田昌幸(さなだまさゆき)の領地である沼田城をめぐって北条氏と真田氏が争奪戦を演じ、この事がきっかけで、天正18年(1590年)、北条氏の家臣猪俣邦憲(いのまたくにのり)が、真田昌幸の家臣・鈴木重則(すずきしげのり)が守る上野国 名胡桃城(こうずけのくに なぐるみじょう:現在の群馬県利根郡みなかみ町)を奪取した。真田昌幸の訴えを受けた秀吉は、惣無事令違反で北条を糾弾し、諸国に軍役を発した。秀吉は征討軍を関東に派遣し、北条氏の本拠小田原城を包囲した。世に言う「小田原征伐」である。秀吉は、東北諸大名にも、臣下としての小田原参陣を要求。 伊達政宗は同年5月9日、会津を発ち北条の領地をさけて回り道して、6月5日に小田原に到着したが遅参であった。これに秀吉は激怒する。はじめ秀吉は、政宗の謁見を許さず、底倉(そこくら:神奈川県足柄下郡箱根町)に蟄居を命じ、前田利家ら五人に服属の遅延理由を詰問させた。あわてた政宗は、すでに死を覚悟したように白装束(死装束)をまとい秀吉の元に赴き謝罪した。また、幽閉中に、秀吉に仕えていた茶人・千利休(せんのりきゅう)に茶の湯を習いたいと申し出たりしていた。この開き直りともいえる態度が秀吉の興味をひいたのか、6月9日、政宗は遅参を許され、旧芦名領(会津)は取り上げられたものの、本領(米沢)は安堵された。この時、秀吉は平伏する政宗の首を扇子で軽くはたき、「もう少し来るのが遅ければここが危なかった」とつぶやいたとも言われている。6月25日会津に帰国したが、秀吉の命によって会津は没収され、米沢に移った。 7月5日に小田原城が落ち、小田原征伐は終結した。ここに秀吉の天下統一は完成し、応仁の乱から始まった長い動乱の戦国時代は終わりを告げた。 【政宗、減封され岩出山城に移る】 陸奥国の中部(宮城県北部〜岩手県南部)に勢力を持った豪族に葛西氏と大崎氏がいた。両氏は、小田原征伐に参陣しなかった事を理由に、天正18年(1590年)の秀吉による奥州仕置によって、領地を没収された。旧葛西領には織田信長の娘婿である蒲生氏郷、旧大崎領には明智光秀の家臣だった木村吉清(きむらよしきよ)・清久(きよひさ)父子が入ってきた。天正19年(1591年)、葛西氏と大崎氏は一揆を起こした。政宗は蒲生氏郷とともにこれを一揆を鎮圧をしようとしていた。ところが、氏郷のもとに、伊達家家臣須田伯耆(すだほうき)が「政宗が一揆を煽動している」と書状を持参して訴えた。このため、氏郷は蒲生軍だけで大崎氏の居城だった名生城(みょうじょう:岩手県東磐井郡)を落とし、そこに立てこもり動かなくなった。そこで、政宗は伊達軍のみで葛西氏の居城だった佐沼城(さぬまじょう:宮城県登米市)に向かい、木村父子を救出した。 秀吉から上洛の命令が来た。政宗は白装束を着ていくだけでなく、黄金の磔柱(たっちゅう)を押し立てていた。 秀吉の面前で弾劾裁判が始まった。須田伯耆が氏郷のもとに持ち込んだ書状が、証拠として提出された。それを見た政宗は、「これは偽物であり、自分を陥れるために誰かが仕組んだものだ。」と潔白を申し立てた。「自分の花押(かおう)によく似せているが、自分の花押には鶺鴒(せきれい)の目に針で穴をあけているが、この鶺鴒は盲目である」。この鶺鴒の目により、政宗の嫌疑は晴れ、事なきを得た。 しかしこの後、天正18年(1590年)、政宗は秀吉の命により領地の会津、仙道六郡を取り上げられ、旧大崎・葛西十二郡が与えられるという移封が行われた。政宗は、70万石から減封されて、陸奥国玉造郡(現・宮城県大崎市)の岩出山城(いわでやまじょう)58万石余に移封された。ちなみに政宗が追い出された後の会津、仙道十一郡は、蒲生氏郷に与えられ、氏郷は92万石という大大名になった。会津は、関東、奥羽、北陸の要(かなめ)にあたり、守護の大任を果たせる武将は氏郷をおいてほかにはいなかったのである。 【秀吉の朝鮮出兵に出陣】 文禄元年(1592年)、秀吉は朝鮮に出兵。「文禄の役」(ぶんろくのえき)である。政宗は秀吉の命によって文禄の役に出陣し、他の武将を救援するため朝鮮各地を転戦した。秀吉から1500名の人数が割り当てられたが,倍の3000人を率いて出兵。文禄の役の後、華麗な軍装で京を行進した。政宗は派手好きで、家来の鎧までが絢爛豪華な姿をしていたという。カッコイイ男を意味する「伊達者」「伊達男」の言葉が生まれた由来である。 【関白秀次事件】 文禄4年(1595年)、関白秀次事件が起こる。秀吉の弟の関白豊臣秀次(とよとみひでつぐ)が謀反の疑いで高野山に蟄居、次いで切腹を命じられた。この事件で、政宗や最上義光(もがみよしあき:出羽山形藩初代藩主。伊達政宗の伯父)が連座しているという疑いが持たれた。秀次が各大名に対して、自分に忠誠を尽くすように命じた「連判状」の存在が露見。ここに、秀次と秀吉、両者の対立は決定的となった。秀次に近かった伊達政宗、細川忠興、最上義光、浅野幸長らの諸大名たちは厳しい詮議を受けた。 政宗は、秀吉の後継者である秀次に接近していた。一緒に鹿狩りに行ったり、帰国にあたって餞別を受け取ったりしていた。弟小次郎の傳役(もりやく)だった粟野木工助(あわのもくのすけ)が秀次に召し抱えられていたという事情もあった。秀吉の怒りは強く、改易はほぼ確実、よくても政宗は遠島で長男秀宗が減封されて伊達家存続という情報だった。政宗は、呼び出しの前に上洛し事態の改善を図った。このとき、政宗は次のように弁舌した。「秀次を関白にしたのは、太閤である。だから、自分は秀次に奉公した。太閤でさえ、目がね違いをしたのだから、自分が片目で見損じたのも当然だ。太閤の信任厚い者に奉公したのが自分の不明。それを罪というなら、いつでも自分の首を刎ねるがいい。」 政宗は、辛くも危機を脱した。 いずれも、政宗の20歳代から30歳代前半にかけての血気盛んなときのことであり、ひとつ処置を誤れば伊達氏は滅亡の運命にあった。 【徳川家康の上杉征伐】 豊臣秀吉死後の慶長5年(1600年)、徳川家康は次の天下を狙う動きを見せ他の大老らと対立。豊臣五大老の一人上杉景勝は家康の専横を苦々しく思い、家康との直接対決を決意して、家老の直江兼続に命じて軍事力の増強に乗り出した。家康は景勝に対して、叛意ありとして問罪使を派遣したが、上杉家執政・直江兼続は、「直江状」と呼ばれる挑戦状を送り返した。「内府(家康)様又は中納言(秀忠)様御下向の由候間、万端御下向次第に仕るべく候」という文面で、兼継は「来るなら来い」という挑戦状をたたきつけたのである。これに家康は激怒、諸将に、「上杉景勝、豊臣家に逆心の意あり」として、上杉征伐つまり会津攻めを決意した。当然のように、諸国からは、各大名が家康の下に兵をつれて参集。一路東海道を東下した。この家康の上杉征伐が関が原の戦いの引き金となった。 【石田三成が挙兵】 家康が上杉征伐に向かっている隙に、これを好機とみた豊臣五奉行の一人石田三成(いしだみつなり)が、かねてから交流の深かった上杉景勝・直江兼続と連携し、五大老の一人毛利輝元(もうりてるもと)を総大将として家康打倒のために上方で挙兵した。この報は急を以って家康のもとに知らせられた。家康がそれを知ったのは、下野小山(しもつけおやま:現在の栃木県小山市)でのことだった。 三成決起の急報を受けた家康は、下野小山の陣に諸将を召集して大坂方の挙兵に関する評定を行った。「小山の評定」といわれる軍議である。「わしが先陣を承る!!!」という福島正則(ふくしままさのり)のこの一言で評定は決した。実は、家康は前日、黒田長政(くろだながまさ)を通じて福島正則に言い含め、それを受けて正則は直ちに反転三成を征伐すべしると口火を切らせたのである。家康は直ちに会津上杉攻撃を中止し、軍勢を反転させ西に急いだ。これが関ヶ原開戦につながることになる。 【関が原開戦、伊達政宗は「百万石のお墨付き」で上杉景勝を牽制 】 家康は軍を三成征伐に転じたものの、天下第一の精強を誇る上杉勢が会津に無傷で残っている。家康は上杉と伊達に結ばれては適わないから、伊達政宗との連携が不可欠と考え、伊達政宗が東軍に付き、家康が勝利した暁には、政宗の旧領7郡58万石に加え、新たに49万石を加増し百万石の領地を与えるという世に言う「百万石のお墨付」を与えた。これにより、関ヶ原の戦いでは、政宗は、最上義光とともに家康率いる東軍に属し、徳川軍の後方を衝かれ無いように会津の上杉景勝を牽制するよう家康に命じられた。そのため、伊達政宗は関が原の戦いには参戦しなかった。 上杉攻めでは、陸奥岩出山に拠る伊達政宗隊は、上杉領白石城を攻撃して破り、信夫口から会津上杉領へ侵攻した。しかし、伊達勢は上杉領の白石城を攻撃し占領するも、これを返還することを条件に上杉勢と和睦を結んで、伊達政宗はさっさと兵を退いた。このため、関ヶ原後、政宗に不審な行動ありとして「百万石のお墨付」は家康によって反故にされる。 関が原の戦いでは、秀吉の正室・寧々(ねね)が、豊臣家の存続を考えた結果、情勢を冷静に判断して家康に味方し、加藤清正、福島正則、小早川秀秋ら、彼女が育てた豊臣家子飼の大名たちは家康に組した。この結果、家康を勝利に導くことになる。 家康は、関ヶ原の戦いに勝利し天下人の地位を確立した。徳川政権成立までの政宗の半生は、戦国大名の姿そのものであり、幾多の危機を乗り越えた危機管理能力は、伝統的な奥州探題として誇りと意地の発露といえる。政宗は、関ヶ原の戦い以降も徳川家に仕えつつ、幕府転覆の機会をうかがっていた。 【政宗、仙台青葉城へ】 陸奥国和賀郡(むつのくにわがぐん:現在の岩手県和賀郡)の領主和賀忠親 (わがただちか)が、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため、秀吉の奥州仕置によって所領を没収され改易され、領地は南部藩のものとなっていた。 これに反発して和賀氏は伊達政宗を頼り、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの折に、南部藩へ挙兵し一揆を起こした。「和賀一揆」といわれるもので、これは伊達政宗が扇動したと言われている。 南部藩主は、家康に訴え、家康は和賀忠親を喚問することになったが、真相の露見を恐れた政宗は、翌年、一族の主従計8名を陸奥国分尼寺に呼び出し、自刃をさせたとも、殺害したとも言われている。和賀忠親が死亡したことにより、政宗の責任は問われなかったが、関ヶ原の戦いの前に授けられた「百万石のお墨付き」は反故にされた。政宗には白石城を落として自分で攻め取った刈田郡のみが加増された。 政宗は報酬として与えられるはずだった会津領は見送られ、更に、城を岩出山から仙台に移された。慶長6年(1601年)、仙台城(青葉城)築城の普請が始まり、同8年(1603年)落成し、岩出山城より青葉城に移った。政宗は、ここに名実ともに外様の雄藩・仙台藩の藩祖となった。政宗は青葉城建築の際、天守閣を建造すれば家康に刃向かうつもりと矛先を向けられる事を回避するため天守は作らず、屋敷を建てるだけの自然の要害として青葉城を建築したのである。
【支倉常長を遣欧使節として派遣】 慶長14年(1609年)、イスパニア(スペイン)の軍人でフィリピンの長官だったドン・ロドリゴの一行がメキシコへの帰途、台風に遭い上総国海岸で座礁難破した。救助された一行に、徳川家康が船を贈り送還した。この事をきっかけに、日本とスペインとの交流が始まった。世界に開眼した政宗は、海外貿易を試みるべくスペイン人の宣教師ルイス・ソテロを正使、支倉常長(はせくら つねなが)を副使として、遣欧使節を派遣した。使節団は、慶長18年(1613年)に出帆し、スペイン経由でローマに至った。 【大坂の陣、豊臣軍最強の真田幸村と対峙】 政宗は大坂の陣では徳川軍として参戦。大坂落城を先読みし、豊臣家からの調停の要請には応えなかった。 慶長19年(1614年)、政宗は大坂冬の陣に出陣。政宗は、豊臣軍最強の武将真田幸村(さなだゆきむら)が大坂城の平野口に築いた出城「真田丸(さなだまる)」の制圧を目指し、真田丸の南西に長男秀宗(ひでむね)とともに陣を張り、真田丸に侵入した。真田丸は、大坂城唯一の弱点といわれた南側に幸村が構築した出城である。この攻防は慶長19年(1614年)12月4日、前田利常勢、井伊直孝勢、伊達政宗・秀宗勢ら徳川方の有力なる部隊が、怒涛の如く勢いで真田丸に攻め寄せ、戦いは始まった。打ち寄せる徳川勢を、幸村は真田丸にできるだけ引き寄せて鉄砲や火薬によって攻撃を行い、徳川勢に多大な損害を与えた。 この鮮やかな一戦で「真田幸村」の名は天下に轟きわたるのである。 この戦いで徳川方にはこれといった成果はなかった。冬の陣で、政宗は大阪城南の松屋町口で豊臣家臣の大野治長(おおの はるなが)と対峙。堀から10m程まで陣を進めるが和議となる。激突には至らなかったが忠勤を認められ、戦後、長男・秀宗が伊予宇和島10万3千石に取り立てられた。 慶長20年(1615年)、大坂夏の陣では、家康の六男であり政宗の婿の松平忠輝(まつだいらただてる)を後見し、徳川軍別働隊の主力として「道明寺の戦い」(どうみょうじのたたかい)で200余の敵首を挙げた。最後の「天王寺・岡山の戦い(てんのうじ・おかやまのたたかい)」では300余の敵首を挙げたといい、計520余の首を得たという。道明寺の戦いで、敵将後藤基次(ごとうもとつぐ:後藤又兵衛)、薄田兼相(すすきだかねすけ:薄田隼人)の軍と激突。後藤又兵衛、薄田隼人らを討ち取った。さらに、真田幸村軍と激突。騎馬鉄砲隊が威力を発揮した。鉄砲隊斉射の間、地に伏せるという真田軍の作戦で両軍とも被害が大きくなり、兵を引く。真田軍は「影武者」作戦を使い家康の本陣まで切りかかったものの、「繰り引き」といわれる撤退戦術で兵を退いた。伊達軍は深追いしなかった。 真田隊とは痛み分けで、翌日は傍観した。伊達の騎馬鉄砲隊は、かつて武田騎馬軍団と恐れられた武田信玄の騎馬隊からヒントを得た戦法を披露。伊達の騎馬隊は火縄銃をもっている 騎馬隊であった。これに大坂方は打ちのめされる事になる。しかし、裏話では天下を狙う政宗がポルトガルの軍船を大阪湾に呼び寄せ大阪湾から関東軍を砲撃して、家康を倒し、世を混乱させ天下を奪おうとした。政宗の思惑とは別に軍船が大阪に到着せず、大阪城は炎上して豊臣秀頼が死ぬ姿を見て男泣きに泣いたという。果たして政宗が本当に軍船を呼び寄せようとしたかは謎である。 大坂の陣は徳川軍が勝利した。政宗は、戦功が認められ正四位参議に昇格する。この戦いで戦国の世はいよいよ終わりを遂げ、徳川の天下は安定してゆく。家康は大阪城をめぐる天下動乱の種を我が寿命の尽きる前に摘み取ることができ満足であった。しかし、それは家康が豊臣家の滅亡を願っていたことではない思う。とにかく豊臣秀頼の命は助け移封することで、太閤秀吉との約束を守って豊臣家だけは残しておきたかったのだと思う。もし豊臣家を滅ぼしてしまってはこの冬・夏の陣で動員した全国の大名に恩賞を150万石は出さなければならない。豊臣家は5〜60万石なのだから到底足りない。道義的にも合理的にも豊臣家を滅ぼしてはならないとの理由である。しかし、豊臣秀頼・淀殿母子は大坂城内で自害し、太閤秀吉の誇った大坂城も落城し炎上してしまった。 【夢も空しい支倉使節団】 伊達政宗が派遣した支倉使節団は、スペイン国王、ローマ教皇パウルス5世に謁見するが通商交渉は成功せず、元和6年(1620年)帰国した。政宗の期待のもと出国した常長ではあったが、出国直後から日本国内でのキリスト教環境は急速に悪化した。支倉の帰国後の扱いを危ぶむ内容の政宗直筆の手紙が残されている。果たして帰国時には日本ではすでに禁教令が出されており、支倉常長は失意のうちに世を去った。壮大な政宗の夢もむなしい志に終わった。 政宗が詠んだ「欲征南蛮時作此詩」と題する漢詩に「邪法迷国唱不終・欲征蛮国未成功・図南鵬翼何時奮・久待扶揺萬里風」という一節がある。政宗が支倉常長をヨーロッパに派遣した目的は何だったのか。彼の詩の中からは親善のための単なる派遣とは考えにくい。信長から始まったキリシタン弾圧は秀吉、家康と続いたがキリスト教の信者は一向に無くならず、国の存亡を危惧した為政者たちは、鎖国という強行手段に出ざるを得なかった。その中にあって政宗は本気でキリスト教の本国を攻撃する必要を感じ取っていたのだろう。 【遅れてきた戦国武将】 伊達政宗は聡明な頭脳と先見の明を持ち、数々の戦にも功績を残す程の力を持ちながらも、「天下の副将軍」で生涯を終わらせてしまった。政宗が元服し、初陣を果たした翌年、織田信長が本能寺の変に倒れる。政宗がその勢力を拡大して、天下へ名乗りを上げようとした頃には既に豊臣秀吉が、次いで徳川家康が統一を成し遂げようとしていた時代であり、結局政宗は、その統一政権下の一大名の地位に甘んじるしか無かった。政宗は秀吉、家康でさえその勢力と野望に一目置き、危険人物として畏れられた人物であり、豊臣政権下でも、徳川政権下でも、重用されつつも、常に警戒されていた。しかし、その野望は遂に成就される事無く天下人の補佐として終わった。「もう少し早く生まれていれば…」下剋上の戦乱の中、天下人になれるだけの素質はあった。自分の力をもっと試したかったのではなかったろうか。 寛永3年に権中納言、従三位に昇る。同5年、仙台城の南東の小泉の地に城を築き、若林館と名づけ、政宗はここに隠居して花鳥風月を友とした。寛永11年(1634年)、江州(滋賀県)に5千石を加増され、併せて62万石となる。2代将軍徳川秀忠、3代徳川家光の頃まで仕え、寛永13年(1636年)5月江戸で死亡。享年70歳。死因は癌性腹膜炎あるいは食道癌(食道噴門癌)と推定されている。辞世の句は、「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」。
伊達家は、のち伊達騒動などの危機もあったが、安泰に明治を迎えた。 ----------------------------------------------------------------------------------------
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伊達の家臣、濱田伊豆守のHPを作りました。 |
ふるーと 2009/06/26 14:06 |
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ふるーと 2009/06/26 14:08 |
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