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<<   作成日時 : 2008/12/10 18:27   >>

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2009年の大河ドラマ「天地人」のお話を書きましょう。

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「天地人」の主人公・直江兼続が着用していたという甲冑の兜には「愛」の文字


「利を見て、義を聞かざる世の中に、利を捨て義を取る人」
それが、武将・直江兼続(なおえ かねつぐ)。

2009年のNHK大河ドラマは「天地人」。
越後の名門、上杉家の知将・直江兼続と、彼を支えた女性たちが描かれます。
歴史上の人物としての直江兼続の知名度は低いのですが、
NHKは、出演者に民放ドラマや朝ドラでおなじみの顔ぶれを動員する堅実な戦略に打って出ました。

直江兼続は、上杉景勝の家臣として、その下で辣腕をふるい、
徳川家康にまでも反旗を翻した戦国の猛将で、
豊臣秀吉、徳川家康らを魅了し、また、最も恐れられた武将です。
兼続は優れた武将であると同時に、詩歌をよくし、書籍を愛した文人でもありました。
後の江戸時代に米沢藩の藩政建て直しに成功した名政治家・上杉鷹山(ようざん)は、
藩政改革の折、直江兼続の政策をお手本にしたといいます。

NHKは、なぜこの物語を大河ドラマに取り入れたか。
利益の追求が当然の原理とされ「勝ち組」「負け組」の格差が開く一方、
そのひずみも問題となりつつある現在。
直江兼続が生きた戦国時代も、まさにそんな時代でした。
NHKは、現在の世相に警鐘を鳴らしたのでしょうか。

少年時代、兼続は上杉謙信(長尾景虎→上杉輝虎)から、
「目先の利に心を曇らされず、不利益を承知の上で背筋を伸ばして生きる事が“義”の精神」
と諭され、この言葉を深く心に刻み稀代の義将へと成長し、
謙信の死後、主君上杉景勝を支えながら「義」の意味を自分なりに解釈し、
慈愛の「愛」と言う言葉にたどり着きます。

上杉謙信を師と仰ぎ、兜に「愛」の文字を掲げた兼続は、
その波乱の生涯を通じて、民・義・故郷への愛を貫きました。
「利」を求める戦国時代において、「愛」を信じた兼続の生き様は、
弱者を切り捨て、利益追求に邁進する現代人に鮮烈な印象を与えます。

小説は、
日本放送出版協会発行、火坂雅志著、「天地人(上)」「天地人(下)」。
いずれも、税込み1,890円です。
今、本屋さんに並んでいます。
「日本の品格」を守り通した武将・直江兼続の波瀾万丈の人生を描く作品です。

大河ドラマ「天地人」は、
失われつつある「日本人の義と愛」を描き出します。
小説家・火坂雅志さんの同名小説をもとに、
NHKチーフプロデューサーの内藤愼介さんが制作統括。
選ばれた脚本家は、小松江里子さん。初めての大河ドラマといいます。
戦国乱世にありながら「愛」という字を旗印に、
人を信じ、人に尽くした直江兼続の波乱万丈な生涯を、
ともに生きた男たち、支えた女たちの人間模様を合わせて、
小松江里子さんが、女性の視点でダイナミックに描いているそうです。

「天地人」のテーマは、
喜平次(のちの上杉景勝)と与六(のちの直江兼続)との、主従の絆です。
現代社会から喪失された人の信頼関係の構築の話です。
話は、府中長尾家内の派閥抗争から、喜平次(景勝)の父長尾政景が野尻池で溺死し、
それを上杉輝虎(初名:長尾景虎、のちの上杉謙信)の責と思い込んだ喜平次の復讐心から始まりますが、
喜平次は謙信の心に心酔し、その養子になって以後の上杉家を導いていきます。
また、与六(兼続)は、謙信に見込まれて、暖かく育てられた両親の元を離れて
景勝の近習となり、厳しい戦国の世に景勝を支えていきます。
義に厚く清廉な謙信の薫陶を受けた二人は、何者にもへつらわず、
君臣ながら兄弟のような交わりをまっとうした主従の生き方は爽やかであり、心暖まります。
裏切りと謀略が渦巻く戦国の世の奇跡といってもよいでしょう。

ドラマの脚本は小松江里子さんであり、女性の視点からも描かれるので、
「篤姫」に続いて、女性のファンも増えそうですね。
東京・原宿のショップでは、直江兼続の「愛」Tシャツがオシャレな若者女性に大人気であるといいます。
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直江兼続が残した「愛」のロゴをバックプリント。
とてもかっこいいTシャツで、色は黒のみ

兼続の妻お船(せん)と景勝の妻お菊(武田信玄の六女:菊姫)も姉妹のような信頼で結ばれていきます。
景勝が兼続に心をゆるしていったように、お菊も6歳年上のお船を姉のように慕っていきました。
また、お菊は、夫景勝にとって心のなぐさめともなったのでしょう。
たとえ政略のための結婚であっても、その中で最善を尽くしたのです。
お船は、身命にかけて、このおかしがたい気品のある姫様を守りたいと思っていたのでしょう。
この才色兼備の2人の女性も、謙信なきあとの上杉の歴史を鮮やかに彩っていきます。


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直江兼続の生まれは、越後国魚沼郡上田庄坂戸(現在の新潟県南魚沼市坂戸)。
当時の名前は、樋口与六でしたが、直江津発祥の直江家を継ぎ、
越後国三島郡与板(現在の新潟県長岡市与板町)の与板城城主となりました。
その後、主君上杉景勝が、秀吉の命で、越後から会津に移封された後は、
景勝に従って会津に移るとともに、上杉家の家老として米沢に6万石を得ました。
また、後年、関が原敗戦後、米沢移封となった上杉家の執政として米沢城下を整備し、
現在の城下町米沢の基盤を築きました。
これから、南魚沼も直江津も長岡も会津も米沢も観光名所になり、
「こしひかり」と「米沢牛」の年になりますね!

小説『天地人』は読んでいませんが、
今読んでいる小説 『花に背いて (直江兼続とその妻)』 から推測すると、
ドラマの前半は、新潟県の「南魚沼」「直江津」「長岡」あたりが物語の舞台となろうかと思います。
後半は、主君上杉景勝の移封先の福島県「会津」と、
直江兼続の知行地となり、その後、上杉家の城下町となる山形県「米沢」が舞台となるのでしょう。
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大河ドラマ「天地人」主演者のプロフィール  
                     今回の大河ドラマは、若手の俳優さんが多く出演します。

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「天地人」で主人公・直江兼続役を演じる妻夫木 聡

妻夫木 聡(つまぶき さとし)
福岡県山門郡三橋町(現・柳川市)&横浜市戸塚区出身。
1998年「すばらしい日々」でデビュー。テレビドラマに出演を重ね人気を集める。映画「GTO」「富江re-birth」などに出演。2001年の矢口靖史監督の青春映画「ウォーターボーイズ」で一躍脚光を浴び、実力と人気を兼ね備えた若手俳優の仲間入りを果たす。同映画で、日本アカデミー賞(2001年)第25回 新人賞受賞。近年のドラマの代表作に「ロング・ラブレター漂流教室」「ランチの女王」などがある。日本だけでなく、香港、韓国、台湾などアジアでも人気が高い。


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上杉景勝役を演じる北村一輝

北村一輝 (きたむら かずき)
大阪市東住吉区出身。
19996年、サトウトシキ監督作品「LUNATIC」で映画デビュー。その後、三池崇史監督作品、望月六郎監督作品などに多数出演。野性味溢れるマスクと、狂気の殺人者からオカマまで演じ分ける確かな演技力で、将来を嘱望される若手俳優の一人。最近では「皆月」「JOKER・厄病神」等話題作で好演。そしてテレビでも「奇跡の人」「ボーダー」「神様のいたずら」などに出演し、幅広い人気を獲得。映画、テレビと今後の活躍が注目されている。元々は本名北村 康(きたむら やすし)で俳優活動をしていたが、出演していた作品「岸和田少年愚連隊」「日本黒社会」の監督であった三池崇史監督から「北村一輝」の名をつけてもらった。2007年の第53回ドラマアカデミー賞で助演男優賞を受賞。


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直江兼続の妻・お船役の常盤貴子

常盤貴子(ときわ たかこ)
横浜市港北区及び兵庫県西宮市出身。
1994年秋のTBS系ドラマ『私の運命』で不倫と純愛の間をさまよう上昇志向の強い看護師役を演じた。1995年夏のTBS系ドラマ『愛していると言ってくれ』では、耳が不自由な青年画家(俳優豊川悦司)の恋人役を演じ、ドラマは大ヒットした。その後も数々の連続ドラマで主演を務め、1996年春から1997年夏までは5作の連続ドラマにおいて主役級を務め、撮影を連投した。コメディーからシリアスまで様々な役柄を演じ出演作の全てがヒットしたため、この時期から「連ドラの女王」に大成長し、独自の地位を築いた。2004年、映画「赤い月」で第28回日本アカデミー賞で主演女優賞を受賞。 デビュー直後の1991年に大河ドラマ「太平記」に2話だけ登場する侍女役で出演したが、18年ぶりに大河ドラマに起用され、三歳年下の夫・直江兼続を支えた「お船(おせん)」を演じる。


大河ドラマ「天地人」主なキャスト(NHKのサイトより転載)

直江兼続     (妻夫木聡)   上杉景勝  (北村一輝)
お船の方     (常盤貴子)   初 音    (長澤まさみ)
樋口惣右衛門 (高嶋政伸)   お 藤    (田中美佐子)
樋口与七     (小泉孝太郎) 泉沢久秀  (東幹久)
上杉景虎     (玉山鉄二)   華 姫    (相武紗季)
菊 姫       (比嘉愛未)  仙桃院    (高島礼子)
上杉謙信     (阿部寛)    織田信長  (吉川晃司)
豊臣秀吉     (笹野高史)   北政所   (富司純子)
徳川家康     (松方弘樹)   石田三成  (小栗旬)
淀 君        (深田恭子)   真田幸村  (城田優)
小早川秀秋   (上地雄輔)   福島正則  (石原良純)
伊達政宗    (松田龍平)  愛姫     (杏)
毛利輝元     (中尾彬)    前田利家  (宇津井健)

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直江兼続を演じる主演の妻夫木 聡
産経ニュースより転載


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「天地人」の主なキャスト


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喜平次と与六
 喜平次とは、長尾喜平次顕景で、のちの上杉景勝。与六とは、樋口与六で、のちの直江兼続。
 越後国(新潟県)上田庄(南魚沼市)坂戸の地でともに研鑽を積み叡智を育んで、上杉謙信(長尾景虎→上杉輝虎)が生涯掲げた「義」を尊び、「義」の精神によって怒涛の戦国時代を生き抜いた。二人の高潔な精神は、混沌の時代を生きる現代人に今日も強く清冽な印象を与え、深く愛され続けている。戦国時代・越後の名主従の人間の絆の物語であり、殺伐とした現代社会の中で希薄となった人の信頼関係の構築の大切さを訴えるものである。

 坂戸城主・長尾政景は長尾為景としばしば対立関係にあったがのちに和睦、上杉謙信の姉・仙洞院を娶る。長尾喜平次顕景(のちの上杉景勝)は、弘治元年(1555年)、長尾政景と妻・仙洞院との間に生まれた。一方、樋口与六(のちの直江兼続)は、5年後の永禄3年(1560年)、長尾家の家臣・樋口惣右衛門兼豊の長男として生まれた。

 二人は血を分けた兄弟のように互いに切磋琢磨して雪深い魚沼の地で育ち、永禄11年(1568年)、仙洞院の勧めにより与六は喜平次の近習となる。天正3年(1575年)喜平次は上杉謙信の養子となり上杉景勝と改名、近習・兼続と共に、上杉謙信の本拠である越後の春日山城に入った。謙信急死までの4年間、二人は共に公の深い薫陶を受け、利によって動く戦乱の世にありながら「義」を尊び重んずる気骨に溢れた若者に成長し、戦国時代を清爽な風のように生き抜いた名主従である。

直江兼続(なおえ かねつぐ)
 戦国時代、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。直江兼続は戦国の知将といわれ、永禄3年(1560年)に、名門・長尾家の家臣である樋口兼豊の長男として、越後国魚沼郡上田庄坂戸(現在の新潟県南魚沼市坂戸)の上田庄坂戸城下で生まれた(当時の名乗りは樋口与六)。

 生家である樋口家は源義仲に付き従った木曽四天王の流れを汲む一族であり、父樋口兼豊は、坂戸城を本拠地とする長尾家の当主長尾政景、越後上杉家を継いだ長尾景虎(のちの上杉謙信)臣下の武将であった。

 兼続は、永禄7年(1564年)に長尾政景が死去すると、上杉謙信の養子となった上杉景勝(当時の名乗りは長尾喜平次顕景)に従って、上杉謙信の居城だった越後国頸城郡春日山(くびきぐん かすがさん:現在の新潟県上越市中屋敷字春日山)の春日山城に入り、そのまま景勝に仕えた。

 天正9年(1581年)、景勝の側近である直江信綱と山崎秀仙が、恩賞を巡ってのトラブルなどで上杉家家臣毛利秀広に殺害されるという事件(御館[おたて]の乱)が起きると、景勝の命で直江景綱の娘で直江信綱の妻であったお船の方の婿として結婚(お船の方にとっては再婚)し、跡取りのない直江家を継いで直江姓を名乗る。

 天正16年(1588年)、主君上杉景勝に従って上洛。このとき従五位下山城守に叙任。文武経世に長けた人物で、豊臣秀吉からも知遇を受けた。上杉景勝は秀吉から会津120万石を与えられたが、その時、兼続は秀吉より、特別に米沢30万石を与えられた。

 関が原の戦後、徳川家康の老臣本多正信の子政種を養子とするなどして、主家上杉家の安泰を計った。兼続は生涯の主君を景勝ただひとりと決め、義を貫き利に傾かない人物とされ、兜の前立の「愛」の一字がそれを象徴しているという。上杉氏米沢移封後は、家老として6万石を得た。

 直江兼続の墓は、新潟県上越市と山形県米沢市の春日山の林泉寺の2箇所にある(林泉寺の項、参照)。

上杉景勝(うえすぎ かげかつ)
 戦国時代、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。米沢藩主上杉氏の祖。

 上杉景勝は弘治元年(1555年)、越後国魚沼郡上田庄坂戸(現在の新潟県南魚沼市坂戸)の坂戸城で生まれた。越後の長尾政景の子で叔父長尾景虎(上杉謙信)の養子となり、上杉家の跡目を継ぐ。長尾氏は越後守護上杉氏の家臣であったが、上杉謙信の死後、同じく謙信の養子(北条氏康の子)上杉景虎と相続を争い(御館[おたて]の乱)、武田勝頼の援助を受けて景虎を滅ぼした。

 武田勝頼が織田信長に敗れて以降、武田氏の勢力が衰退し、上杉氏と武田氏は、信長に対抗するため甲越同盟を結んだ。ここに、川中島の合戦以降、対立関係にあった武田家と上杉家に同盟関係が生まれた。両家の同盟の証として景勝は、武田信玄六女の菊姫を正室とした。

 菊姫は、上杉家中から甲州夫人もしくは甲斐御寮人といわれ敬愛され、以後、上杉家の歴代藩主たちも武田家を丁重に扱ったといわれる。

 天正7年(1579年)、景勝は、謙信の遺領を継いで越後・春日山城(現在の新潟県上越市中屋敷字春日山)の城主となり、直江兼続を執政とした。上杉氏と対立状態にあった北越後の新発田重家が織田信長と通じて造反した上、織田家譜代柴田勝家率いる織田軍に越中にまで侵攻され、また、同盟関係にあった武田氏が織田軍に破れ滅亡したため、武田家の後ろ盾を失うなど、上杉家は滅亡の危機に立たされた。しかし、織田信長が本能寺の変で自害したため、織田軍の北征は頓挫し、上杉家は九死に一生を得た。

 以後、上杉景勝は、豊臣秀吉に臣従し秀吉政権下の大大名として越後統一を実現。秀吉晩年五大老に列し、慶長3年(1598年)、会津120万石を与えられて若松城に移り、引きつづき直江兼続を重用して領国統治を強化した。
 秀吉の死後、いったん上洛したものの帰国し、石田三成と連携して会津で挙兵、徳川家康の会津討伐が関が原の戦の引き金となった。戦後、家康に降伏、出羽米沢30万石に減転封された。大阪冬の陣・夏の陣においては徳川方として奮戦した。

 なお、「忠臣蔵」の敵役吉良上野介義央の子、吉良綱憲(上杉綱憲)は、第3代米沢藩主上杉綱勝の急逝を受けて養子になり上杉家を継いだ人物であり、吉良家と上杉家は姻戚関係にある。

 上杉景勝の墓所は2箇所あり、和歌山県高野町の高野山清浄心院に遺骨が、山形県米沢市の上杉家御廟所に遺灰と衣冠が納められている。上杉家御廟所には、上杉謙信と米沢藩中興の祖・上杉鷹山の遺骨も納められている(なお、謙信と鷹山は米沢市の上杉神社に合祀されている)。

お船の方(おせんのかた)
 戦国時代、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。弘治3年(1557年)、長尾景虎(上杉謙信)の重臣で越後与板城主である直江景綱の一人娘として、越後国三島郡与板(現在の新潟県長岡市与板町)の与板城で生まれた。

 与板城は直江家の本拠である。直江家は、藤原鎌足の末裔といわれ、直江荘を賜って名字にしたとされる。直江氏は直江津にその名を残すが、いつの頃から与板に領地を得、当初は本与板城を本拠とし、後により便利の良い与板城に移った。当時の与板は信濃川沿いの水運の拠点であり、日本海経由で直江津に至ることもできる水上交通の要衝だったのである。

 お船(船姫)の父・直江景綱は、上杉謙信の父・長尾為景の代からの長尾家の家臣で、謙信の家督相続を実現させた股肱の重臣である。船姫は、北条政子にも比肩される器量をもった聡明な女性であったといわれている。最初の夫直江信綱が、謙信亡き後の跡目争い「御館の乱」で暗殺され、その後、三歳年下で幼馴染だった樋口与六(のちの直江兼続)に嫁いだ。兼続は藩主上杉景勝の命令で、お船の実家である直江家を相続し、直江兼続と名乗る。ここから二人の運命は大きく動き始めた。

 兼続と妻お船の仲は大変良かったようであり、兼続は生涯、側室を持つことがなかった。文禄4年(1595年)、豊臣秀吉の人質となった上杉景勝正室の菊姫とともに京都伏見の上杉邸に移り、慶長3年(1598年)、直江兼続が豊臣秀吉より米沢30万石(実際は6万石との説もあり)を与えられると、船姫は兼続に従って米沢に移った。

 船姫は、山形県米沢市の春日山の林泉寺の墓に夫・直江兼続とともに眠っている。

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直江家の発祥地「直江津」(新潟県上越市)
 新潟県に直江津(なおえつ)というところがある。直江家から名付けられたとされる。

 2009年のNHK大河ドラマ「天地人」の主人公、直江兼続ゆかりの街として一躍脚光を浴びている。直江津(上越)は、大河ドラマ「天地人」の前半の舞台となる。

 直江津市は1971年(昭和46年)に高田市と合併し、上越市となっている。上越市の北部である。

 直江津は、かつての越後の国府(現在でいえば県庁)であり、様々な食料や物資が集散する拠点として今以上に栄えていた。

 JRの直江津駅が上越市東町にある。JR東日本とJR西日本の共同使用駅で、JR東日本が管轄している。上越市の海側、直江津地区(旧直江津市)の中心駅である。

 直江津の津は、港という意味であり海上交通の要衝として発展した。直江津は古くから、そして現在でも貿易港として有名な港町である。直江津港は日本海沿岸の中央部にあり、新潟港と伏木富山港のほぼ中間に位置している。直江津港の歴史は古く、遠く古代にさかのぼり、古代から交通の拠点としての港があったと推測されている。奈良時代から越後国府の要港として栄えていた。ことに戦国時代の武将上杉謙信が春日山城に居城していた頃には人口6万人を数え、京都に次ぐ大都市の港として厚い保護を受け、米・塩鮭・越後上布等を特産として京阪地方及び遠く九州、北海道の諸港と交易していた。

 現在、直江津港は、佐渡・小木港と結ぶ佐渡フェリー航路の港となっており、佐渡観光の拠点となっている。また、北海道、九州への重要航路の拠点として賑わうとともに、中国・天津新港や大連港、 韓国・釜山港とを結ぶ定期コンテナ航路が開かれ、日本海側の拠点港として環日本海国家との貿易を司る国際貿易港として大きな役割を担っている。

 直江津漁港からは、日本海の海の幸が届く。料理店や旅館では、日本海のカニ魚料理を堪能できる。直江津港は、上越地方で柏崎港に次ぐ大きな港で、休日になると多くの釣り人で 賑わっている。釣れる魚の種類は、アジ・サヨリ・キス・スズキ・クロダイがメインである。
(春日山城跡)
 直江津地区から約4kmの距離のところに、春日山城跡がある。直江津駅からバス16分中屋敷下車。春日山城は大河ドラマ「天地人」に登場すると思われる。越後守護上杉氏の戦時の要害として南北朝の頃に築かれたもので、関東・北陸・信濃への交通を監視する要衝に位置し、城は守護代の長尾氏が代々守っていた。

 現在のように規模が拡大され、名実ともに天下の名城と呼ばれるようになったのは上杉謙信の普請によるものである。続く上杉景勝、堀氏によっていっそう強固な城になった。

 城は、天正7年(1579年)上杉景勝に引き継がれ、慶長3年(1598年)正月豊臣秀吉の命で景勝は奥州会津に転封され、跡には堀秀治が封じられ越後上杉氏の時代が終わった。さらに慶長12年(1607年)堀氏が福島城を築いて移ると、春日山城は城としての役目を終え廃城となった。

 春日山は、城跡だけでなく豊かな自然の宝庫として四季折々の表情を訪れる人に見せてくれる。

(林泉寺)
 直江津駅からバスで20分ほどのところに、越後国守護代長尾氏およびその後裔である上杉氏の菩提寺がある。林泉寺(りんせんじ)という。

 林泉寺は長尾氏及び上杉氏の居城・春日山城の山麓に建立された曹洞宗の寺院で、山号は春日山(かすがさん)。上杉謙信の曾祖父長尾重景が、名僧雲英恵禅師を開山として創建。寺号「林泉寺」は長尾重景の法名、山号「春日山」は謙信公が上杉家を相続した折、上杉家の氏神である春日大明神を祭ったことによるものである。上杉謙信が幼少の頃学んだことで有名。入り口の惣門は春日山城から移築されたもの。墓所には上杉謙信、堀秀政、堀秀治の墓と川中島戦死者の供養塔がある。また、宝物館には上杉家関連史料が多数展示されている。上杉氏後の越後領主堀氏、高田城主松平・榊原氏の菩提所として宝物館は必見。

 林泉寺は2箇所あり、上杉氏の本拠地の越後国直江津(現在の新潟県上越市)春日山城の山麓と、江戸時代初期に上杉氏が移封先の米沢城下(現在の山形県米沢市)に移転建立したとされる林泉寺がある。

 米沢市の林泉寺は、上越市の春日山林泉寺を母体としている。林泉寺は、関が原の合戦の後に越後から米沢に移された上杉景勝の実母(上杉謙信の兄、長尾政景の妻)仙洞院が、元和2年(1616年)に、林泉寺14世の万安大悦を招聘して同号の寺を建立したとされる。上杉氏の転封にともない謙信の遺骸、上杉氏関係の文書、重宝の大半が越後から米沢に移された。

 開山以来の袈裟と持鉢は上越市の林泉寺に残されており法統上の正統を伝えている。このため、以後、米沢と春日山(上越)双方にそれぞれ「春日山林泉寺」が存在することになった。

 米沢市の林泉寺には直江兼続と妻・お船のお墓や、上杉景勝の正室で武田信玄の六女・菊姫(甲州夫人)の墓もある。他には武田信玄の六男で上杉家に仕えた武田信清や上杉家の重臣の墓もあり、墓地の裏側には米沢三大名園の庭がある

上杉家の城下町「米沢」(山形県米沢市)
 2009年放送のNHK大河ドラマ「天地人」の後半の舞台になっている米沢市は、山形県南部にある上杉家の城下町である。Apple(館山りんご)、Beef(米沢牛)、Carp(米沢鯉)のABCで有名である。

 米沢は、鎌倉時代は長井氏の領地、室町時代初期から伊達氏の領地となり、戦国時代(天文の乱の後)に伊達氏の本拠地となる。仙台藩主「独眼竜」こと伊達政宗は米沢城で生まれ、岩出山(現在の宮城県大崎市)へ移転するまで米沢を支配した。ついで、上杉謙信の跡を継いだ上杉景勝が、慶長3年(1598年)豊臣秀吉の命を受け、それまで居城としていた越後の春日山城56万石から会津120万石に転封された。この際、豊臣秀吉は上杉家の家老・直江兼続に米沢30万石を与えて米沢に入れ上杉景勝の補佐役とする特命を出し、伊達氏及び山形の最上氏に対する抑えとした。しかし、上杉景勝は、天下分け目の関ヶ原の戦いで西軍に味方し徳川家康に敵対したため、慶長6年(1601年)に会津120万石を30万石に減封され、居城を会津から米沢に移転させられた。直江兼続は米沢城を景勝に譲り、これにより上杉景勝を初代米沢藩主とする米沢藩が誕生した。

 米沢30万石に移封となった上杉家はこの地に根を下ろし、家老・直江兼続の辣腕により一度の改易もなく、米沢は明治の廃藩置県まで上杉氏の城下町として発展した。なお、会津120万石から4分の1の石高に減った上杉家中を支えた直江兼続を有名にした人物は、米沢藩第9代藩主の上杉鷹山(ようざん)である。上杉鷹山は、領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られている。鷹山が兼続を手本にして米沢藩を立て直していった。

 上杉氏のつながりで、米沢市は、越後(新潟県)の上越市(旧直江津市+旧高田市)との関係も深い。米沢城は、幕末の第13代藩主・上杉茂憲まで上杉氏の居城として発展し、今日に伝わる上杉士魂を育み続けたのである。

 米沢では最近は、細打ち縮れ麺とあっさりとした醤油味のスープが特徴のChinese Noodle(米沢ラーメン)も人気があるとか。もう一つのABCのCとなるかもしれない。

 山形大学工学部機能高分子工学科の研究レベルは全国トップ4といわれており、旧帝大クラスという。

 上杉謙信公と上杉鷹山公を祀った上杉神社、初代・謙信公以来の藩主が眠る上杉家廟所、直江兼続とその妻・お船の方や上杉家に嫁いだ武田信玄の四女・菊姫、武田信玄の六男・武田信清、上杉家の奥方や家臣が眠る春日山林泉寺などが米沢の町を見つめている。

 慶長6年(1601年)年上杉景勝が、米沢移封となり、それに伴って、林泉寺も越後から米沢に移ってきた。
上杉氏歴代藩公の崇敬篤く、奥方や子女(26基)、上杉氏支候(16基)の廟所となっている。また、米沢城下創設の恩人直江山城守兼続の墓や、武田信玄の6男信清(共に県指定の史跡)など、上杉家重臣の墓が数多くある。斜平山を借景とした庭園は、米沢三名園の一つに数えられている。

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直江山城守兼続夫妻の墓(山形県指定文化財)
米沢 春日山林泉寺
写真提供:旅太郎様


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直江山城守兼続夫妻の墓の看板
米沢 春日山林泉寺
写真提供:旅太郎様

 1586年、兼続は、主君景勝と共に初めて上洛する。秀吉と会見の後、同年中に帰国する。その後も何度か上洛し、秀吉と交誼を結ぶ。秀吉は、兼続をとても高く評価していたようで、「天下の政治を安心して任せられるのは、直江兼続など数人にすぎない」というようなことを言っている。自己の姓である「豊臣」姓を与えたり、景勝の会津120万石移封の際、兼続に米沢30万石を与えている。

 米沢は、大河ドラマ「天地人」の舞台の一つなので、上杉家・直江家の縁で結ばれている姉妹都市の新潟県上越市とともに、これから大勢の観光客が訪れることは必至であろう。

上杉家の転封地「会津」(福島県会津若松市)
 会津藩[芦名家→伊達家→蒲生家→上杉家→加藤家→保科家(松平家)]
 会津の地は、源頼朝の奥州遠征に従い所領を得た芦名氏の、後には米沢に生まれ育った伊達政宗の割拠するところであったが、秀吉の奥州処分で、秀吉配下の武将・蒲生氏郷(がもう うじさと)の所領となる。

 蒲生氏郷没後、慶長3年(1598年)に、豊臣秀吉の命で会津の地を拝領した上杉景勝が120万石をもって越後春日山より移った。関が原当時であり、上杉家は徳川家康とは反対の石田三成の陣営だった。上杉景勝は石田三成と連携して会津で挙兵、徳川家康の会津討伐が関が原の戦の引き金となった。

 関ヶ原は家康の勝利に終わり、本来なら上杉家家老直江兼続も切腹のはずだったが、名家老・兼続の筋の通った態度が家康をも魅了し、120万石から30万石に減封されながらも、上杉家は存続することとなり、米沢(家臣の直江兼継の領地)に転封された。

 上杉氏が去った会津には、宇都宮から蒲生氏が帰るが嗣子なくして絶え、加藤嘉明が伊予松山より入封するがこれも家中騒動で、徳川家の直轄地として収公。

 寛永20年(1643年)に、2代将軍徳川秀忠の子で、3代将軍徳川家光の異母弟であり、信濃国高遠藩主だった保科正之が23万石で入封し、保科正之を始祖とする会津松平藩(御三家に継ぐ格式で徳川家親族の御家門)になった。ここに、会津藩は藩主家の安定を見た。

 会津は保科正之を始祖とする会津松平藩となったため、会津には上杉家の遺跡は殆ど残っていない。直江兼継のものも、会津には何も残っていない。この時代、上杉家の家臣には、加賀百万石藩主前田利家の義理の甥の武将であり、直江兼続に惹かれて会津上杉家に仕官した前田慶次郎も存在したのだが、やはり会津には何も残っていない。上杉家の諸物は、転封先の米沢に移されたのである。
 
 上杉家は、3代藩主が世継がないまま急死したため廃絶の危機に陥ったが、会津藩主保科正之の尽力もあり15万石に半減され、その後幕末まで続いた。この意味で、上杉氏の恩人は保科氏であろう。

 会津若松は奥羽の外様各藩を押さえる扇の要であり、信頼篤い家門大名を配置する必要があったのである。保科正之は、叔父として幼い四代将軍徳川家綱を実直に補佐し、幕政でも活躍。この保科正之を藩祖として、幕末の松平容保(まつだいら かたもり)まで、ご家門親藩の中でも越前松平家に次ぐ家格の大名家として、幕府の柱石となる。保科正之は将軍家綱からの松平姓の下賜を再三辞退しており、松平姓を名乗るのは三代正容(まさかた)[保科正容/松平正容]からである。

 保科正之については、各種手頃な読み物がある。直木賞作家の中村彰彦の「名君の碑―保科正之の生涯」(文春文庫)や、同じく中村彰彦の「保科正之―徳川将軍家を支えた会津藩主」 (中公新書) がお勧め。数奇な運命をたどった保科正之の清廉実直な人物が理解できる。会津藩の幕末の悲劇の藩主、松平容保については司馬遼太郎の「王城の護衛者」(講談社文庫)が素晴らしい。

 会津は徳川家の直轄地であり、幕末、会津藩では若松城(鶴ヶ城)を死守すべく16・17歳の少年からなる白虎隊が新政府軍との戦いの中で自刃していったのは有名な話である。

 なお、会津近くに上杉家の遺跡が残っているのは米沢市内である。会津若松市から米沢市まで国道121号線経由で約70km位であり、経由地には日本三大ラーメンの一つ、喜多方ラーメンで有名な喜多方市がある。会津・喜多方・米沢ルートで旅をするのも興味深いかもしれない。

 東京駅から会津・喜多方・米沢に行く観光バスが出ている。朝は会津若松で、山菜やキノコをのせて蒸しあげた郷土料理「わっぱ飯」を食べて、昼は喜多方で、札幌ラーメンや博多ラーメンと一味違う「喜多方ラーメン」を食べて、夜は米沢で厳しい自然の中から生まれた美味しい「米沢牛ステーキ」を食べて・・・食べすぎかな?

画像
会津若松―喜多方―米沢
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「奥羽の覇者・伊達政宗」
http://matiere.at.webry.info/200901/article_3.html
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直江兼続
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山形旅行や観光名所と地図や直江兼続 について(山形県)
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「天地人」直江兼続やまがた情報局(山形県)
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愛と勇気を〜天地人花火テーマ曲〜(作曲:池端信宏)
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「天地人」観光モデルコース(山形県)
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天地人ゆかりの地を訪ねて〜2008.12-2009.4(日本旅行)
http://www.daypak.co.jp/spl/tentijin.htm
 直江兼続が幼少期過ごした南魚沼市周辺・春日山城の「上越市」と
 上杉神社の「米沢市」の地を自由に散策するプラン。

上杉家武将名鑑(信長の野望 Online)
http://kamurai.itspy.com/nobunaga/uesugiSS/index.htm#naoekane

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
 はじめまして
ずいぶんお詳しいので、越後の方でしょうか?
実は自分も越後人です(^^ゞ
越後人にとっても
謙信公や兼続公は、大恩人ですよね。
謙信公は強くて慈悲深く、領民にも善政をしてくれました。
兼続公も16年も掛けて、治水工事や新田開発をしてくれて、今の農業国の基礎を築いてくれましたね(涙)。
大感謝です!
 失礼しました
お早うございます
2009/11/15 06:21
徳之島方言学者直人氏は、直江兼続子孫ですか?

【ameba blog Casshern】
http://my.ameba.jp/menu.do?guid=ON
【Gree RAMBO】
http://m.gree.jp/?mode=home&act=top&from=footer&gree_mobile=f2d6927ff0720dbbd78ac1556a00b302
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徳之島方言学者
2015/08/20 19:43

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