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zoom RSS 一期一会の縁(えにし) 〜 井伊直弼の心

<<   作成日時 : 2008/08/21 00:55   >>

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一期一会の縁(えにし)

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一期一会の提唱者・井伊直弼の銅像
横浜市西区紅葉坂・掃部山公園


 「一期一会」という四字熟語がある。「いちごいちえ」と読む。「一期」は仏教語で人が生れてから死ぬまでの間の意味である。「一会」とは、一つの集まりとか、一度の出会いを意味する。

 毎週日曜日、午後10時からTBSをはじめとする全国の毎日放送系のテレビで放送されている番組に、「世界ウルルン滞在記」という人気ドキュメンタリー番組がある。その中で、「一期一会」という曲が流れる。中島みゆきが歌っている番組の主題歌ある。その歌詞の一節を抜粋してみよう。

  一期一会の はかなさつらさ
  人恋しさを つのらせる。
  
  忘れないよ 遠く離れても、
  短い日々も、浅い縁(えにし)も
  忘れないで私のことより、貴方の笑顔を忘れないで

 「世界ウルルン滞在記」は、「海外旅行」という観点からの情報を、より深く、広く伝えていく番組である。行ってみたい憧れの地、自分ではなかなか行くことの出来ない場所から、視聴者がもっとも興味のある情報をピックアップ。海外旅行に役立つ情報も満載だ。1995年4月から始まった番組である。2008年3月までは「世界ウルルン滞在記"ルネサンス"」という番組名であった。2008年4月より現在の番組名「世界ウルルン滞在記2008」にリニューアルされたが、2008年秋には放送終了予定と一部スポーツ新聞が報じた。このことから、およそ13年6ヶ月続いたウルルンシリーズは、その歴史に幕を下ろす事となった。不況による海外旅行者数の激減による視聴率の低下が原因なのだろうか? これにより、あの中島みゆきの「一期一会」も終わりを迎える。

 自宅に家内が使っていた茶道具一式があるが、「一期一会」とは、もともとは、その茶道におけるお茶会の心得であり、"一生に一度出会うこと" また、"それを自覚して、 日々の出会いを大切にすること" をいう。転じて、"これから先も会うことはあるかもしれないが、もしかしたら二度とは会えないかもしれないという覚悟で人には接しなさい" ということである。

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 一期一会の心は、信長、秀吉に茶人として仕えた茶道の開祖・千利休(せんの りきゅう)の教えと言われている。千利休の弟子の山上宗二(やまのうえ そうじ)の著書「山上宗二記」の中の「茶湯者覚悟十躰」に、「一期に一度の会」というものがある。

 その考えを、幕末の大老・井伊直弼(いい なおすけ)が自分の茶道の一番の心得として「一期一会」という言葉にして世の中に広めたものである。一期一会は、茶人にとっては第一の心構えである。現在は茶道の世界だけでなく、一般的にもよく使われ、一生に一度の出会いとか、一生に一度限りのこととか、日々の出会いを大切にすることというような意味に使う。

 独自の茶の湯を確立した稀代の茶人である井伊直弼の学んでいた茶の流派は、「石州流(せきしゅうりゅう)」である。この石州流は、裏千家や表千家ほどメジャーな流派ではないが、秀吉の下で勇名を馳せた片桐且元(かたぎり かつもと)の甥、片桐石州(かたぎり せきしゅう) が流祖となり、江戸時代は武家の茶の湯として、幕府から広められた流派である。井伊直弼は、石州流宗猿派(そうえんは)を極めた大茶人井伊宗観(いいそうかん)として有名である。

 井伊直弼の言葉を引用しよう。
直弼が書き記した茶道の名著に「茶の湯一会集(ちゃのゆいちえしゅう)」という書がある。茶の総合行事である茶事について、その心構え、準備、実行等そのプロセスのすべてについて、わかりやすい名文で具体的に述べている。現在でも、流派を問わず茶の湯のバイブルとして珍重されている。その中で直弼は、茶会の心得を「一期一会」の言葉に託して、「そもそも茶の湯の交会(こうえ)は、一期一会といいて、たとえば幾度同じ主客夜会するとも、今日の会に再びかえらざるを思えば、実に我一世一代の会なり、さるにより主人は万事に心を配り、いささかも粗末なきよう深切実意を尽くし・・・これを一期一会という」と述べている。

 「茶会に臨む時、その機会を一生に一度のものと心得て、全身全霊で誠意を尽くせ」という意味で、もてなすという行為を通じて己を高めるという、直弼の目指す境地を表している。

 その意味するところは、明日をも知れぬ現世(幕末)において、今集まっている主客は明日は会えるかどうかは知れぬ。したがって、一回一回の会をこよなきものと大切にして、全身全霊をこめて客をもてなすことの大切さ、ひいては、何事をなすにあたっても、全身全霊を打ち込む、という人生哲学になろう。

 こうして、一期一会の茶会が終わると、「今日一期一会済みて、再びかえらざることを観念し、あるいは独服をも致すこと、これ一会極意の習いなり」という思い残し無しの心境にひたる。

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一期一会(1) 井伊直弼茶書
入門記 茶湯一会集 茶湯をりをり草
井伊直弼著 燈影舎


 井伊直弼は、36歳で近江彦根藩の第13代の藩主となり、8年後、開国か鎖国かで揺れる江戸幕府の大老職を務めた。「茶湯一会集」は直弼が30歳頃に書きはじめ、その後推敲に推敲を重ね、清書本が完成したのは桜田門外で暗殺された46歳の直前頃かといわれている。

 井伊直弼は彦根藩第11代藩主井伊直中(いい なおなか)の14男として1815年(文化12年)に生まれた。 17歳になると300俵の扶持(ふち)をもらい、彦根城から北の御屋敷と呼ばれる住まいへ移った。庶子であったため、養子の口も無く、世に出ることのない自らの境遇と掛けて、そこを「埋木舎(うもれぎのや)」と名付け、32歳までの15年間を捨扶持の部屋住みとして過ごした。この間、国学者長野主膳(ながの しゅぜん)に師事し国学を学んだほか、禅、居合、兵学、書画、能などを学びながら、世捨て人のように暮らした。この頃、熱心に茶道を学んでおり、茶道に秀でていたという。

 その直弼が政治の表舞台に登場するのは1850年(嘉永3年)、時の第12代藩主で兄の井伊直亮(いい なおあき)が亡くなった後に第13代藩主の座についてからだ。時代は1853年のペリー来航を迎えようとしていた時だった。 (注:井伊直中を彦根藩第13代藩主、直亮を第14代藩主、直弼を第15代藩主とする場合もある。)

 この時、幕政は将軍後継問題に揺れていた。時の第13代将軍徳川家定(とくがわ いえさだ)は病弱な人物で実子がなかった。御台所・篤姫との間には子は儲けていなかった。慣例として御三家から後継が選ばれるわけだが、前水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の七男・一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)(のちの第15代将軍徳川慶喜)は英明との評判が高く、これを支持し諸藩との協調体制を望む一橋派と、血統を重視し、現将軍に血筋の近い紀州藩主徳川慶福(よしとみ)(のちの第14代将軍徳川家茂:いえもち)を推す保守路線の南紀派とに分かれ、激しく対立した。

 一橋慶喜を推す島津斉彬(なりあきら)、松平慶永(よしなが)、徳川斉昭らに対して、井伊直弼は譜代大名らと大奥とを味方につけて紀州藩主徳川慶福を擁立した。一橋派と南紀派の対立が激化する中で、1857年(安政4年)、一橋派であった老中阿部正弘が病死、翌安政5年(1858年)4月、将軍職に徳川慶福を推す南紀派に推挙されて井伊直弼が大老に就任する。井伊直弼は大老に就任すると、将軍後継を慶福に決定し、慶福は徳川家茂と名乗り第14代将軍に就任した。井伊直弼は、その強権をもって一橋派を左遷処罰した。一橋派は、13代将軍徳川家定の継嗣問題について、一橋徳川家の当主・徳川慶喜を推した一派である。一橋派には、慶喜の実父である前水戸藩主・徳川斉昭を筆頭に、実兄の水戸藩主・徳川慶篤(よしあつ)、越前藩主・松平慶永、尾張藩主・徳川慶勝(よしかつ)などの親藩大名や、開明的思想で知られた外様大名である薩摩藩主・島津斉彬、宇和島藩主・伊達宗城(だて むねなり)、土佐藩主・山内豊信(やまうち とよしげ)らがいた。

 この頃、米国総領事ハリスが通商条約の調印を迫っていた。老中・堀田正睦(ほった まさよし)は朝廷の権威を借りて事態の打開を図ろうとしたが、梅田雲浜(うめだ うんぴん)ら在京の尊攘派の工作もあり、孝明天皇から勅許を得ることは出来なかった。実質的な幕閣最高位の地位を得た井伊直弼はその政策を断行。条約締結のアメリカとの交渉で、応接当事者として日夜、ハリスと接していたのは下田奉行井上清直(いのうえ きよなお)であり、とても苦しんでいた。下田奉行井上清直は思い余って、井伊大老に「もしどうしても調印しなければならない際には、調印してもよいか」と尋た。井上清直の切羽詰ったこの質問に対し、井伊大老はついに決断を下し、「その際は仕方がない」と調印の内諾を与えた。井伊直弼は、「天皇の勅許が得られないといって条約調印を行なわず、アメリカと戦争になって 日本の国土がアメリカに領有されるのは恥である。そもそも国政は幕府に委任されている。 しかし勅許を得ない重罪は甘んじて直弼一人がこれを受ける決意である」と心の中を述べている(井伊家文書要約)。

 井伊直弼が日本の将来を案じて決断した「日米修好通商条約」の調印。しかし、それは天皇の勅許を得ないまま調印であったため、反幕的な公卿や志士たちが反発した。そのため、井伊直弼は、その政策に反対した尊皇攘夷派の公卿・学者・志士(活動家)など抵抗勢力をことごとく弾圧していった。「安政の大獄」である。橋本左内(はしもと さない)、吉田松陰(よしだ しょういん)が処刑されたのもこの時だった。

 大老井伊直弼は、勅許を得られないまま条約調印の決断に至った苦しい胸の内を、「春浅み、野中の清水、氷いて、底の心を、汲む人ぞ無き」との和歌に託し、為政者の孤独の決断を表している。井伊直弼のいう底の心とは、果たして「通商(貿易)の必然性」のことを指していたのか、あるいは直弼が形にして顕すことが出来なかった「崇皇の念」のことだったのか?、今となっては、最早、論ずる人さえも居ない。

 1860年(安政7年)、雪の中を登城途中であった井伊直弼は江戸城桜田門外で水戸浪士ら18名の襲撃を受けて惨殺される。世に言う「桜田門外の変」である。享年46歳であった。 墓所は世田谷区の小田急線沿線・豪徳寺(ごうとくじ)。

 井伊直弼は生前、幕府と朝廷の宥和を図るため、「公武合体」を考えていた。孝明天皇の妹・和宮(和宮親子内親王:かずのみや ちかこ ないしんのう)と第14代将軍徳川家茂との婚儀である。世に和宮降嫁(かずのみや こうか)という。和宮降嫁は、井伊直弼がを提唱したものであるが、桜田門外の変後は老中・安藤信正(あんどう のぶまさ)、久世広周(くぜ ひろちか)が主導した。大老・井伊直弼が桜田門外の変で暗殺された後、幕府の実権を握った老中・安藤信正と久世広周は、井伊派を罷免し、安政の大獄で処分された一橋派の復権を図るなど、反井伊勢力との和解を図った。公武合体の運命を受諾した和宮は、東下の心を、「惜しまじな 君と民との、 ためならば、 身は武蔵野の、 露と消ゆとも」との和歌に託した。

 周囲の猛反対、悪評を押し切っての「開国」や、それに反対する人に対して「安政の大獄」などを断行した井伊直弼のやり方は、独裁と酷評する人もいるが、国の行く末を思い、自分の信ずるところは命を賭けても成し遂げるという、「一期一会」の精神を実践したもので、自身の悲劇的な最期を覚悟していたのではなかろうかとも思える。

 しかし、直弼はどんな境遇にありながらも茶道・石州流を続け、自分自身を見失わないよう、精神修養に勤めた。
見方によっては、井伊直弼を「井伊の赤鬼」と酷評する人もいるが、地元・彦根では開国の恩人として高く評価されている。ある意味では、私も評価している。

 先日放送されたNHK大河ドラマ「篤姫(あつひめ)」で、対立する篤姫(天璋院:てんしょういん)と大老井伊直弼が四畳半の茶室でお茶を飲みながら心の中を打ち明ける場面があった。大茶人でもあった井伊直弼が「一期一会」と直接口にはしないものの、茶の心得を語る言葉のなかに一期一会の心を見た。大老・井伊直弼の美しき最期の余韻に浸る・・・

 彦根藩主・井伊直弼と彦根の人々との「一期一会」の出会いは色あせることなく、直弼が求め続けた「もてなし」の心は今も、彦根の人々に受け継がれている。

 井伊家は、徳川四天王の一人・井伊 直政(いい なおまさ)を先祖に持つ。直政は、織田・徳川連合軍と武田氏との戦いで、徳川家康の武将として、高天神城の攻略を初めとする数々の戦功を立ててその名を轟かせた。武田氏滅亡後、家康は武田氏の旧領である信濃、甲斐を併合すると、武田家の旧臣達を保護し、その多くを井伊直政に付属させた。武田家臣の山県昌景(やまがた まさかげ)の朱色の軍装を復活させて、井伊直政は「井伊の赤備え」と呼ばれる精鋭部隊の大将となった。関が原の戦いの後、家康の命によって、直政は石田光成(いしだ みつなり)の近江佐和山藩を受け継ぐが、藩の名前は彦根藩と改められ、それ以来、この地は明治時代になるまで井伊氏の藩として大いに栄えることとなった。

 井伊直弼の生涯を描いた小説に、舟橋聖一原作の「花の生涯」がある。舟橋聖一が1952年〜1953年に毎日新聞紙上で連載していた歴史小説で、NHKの第1作目の大河ドラマになった。私が20〜21歳の頃、昭和38年(1963年)4月7日から12月29日にかけて放送されたものである。

 来年2009年は、横浜開港150周年だが、現在の横浜の基をつくったのは井伊直弼であるといえる。そのため、横浜開港150周年記念イベント会場の「横浜みなとみらい」の近くに「掃部山(かもんやま)公園」(横浜市西区紅葉坂)という公園があって、井伊直弼の銅像が立てられている。掃部山というのは、井伊直弼の官職「掃部頭(かもんのかみ)」からとられたものである。

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そして相手と会うのも、今生でこれっきりかもしれない、という「一期一会」の気持ちで、人と接します。相手との生涯に一度の、しかも一瞬のつきあいを、いかに美しいものにするか、そこから「束の間付き合い」というマナーが発達しました。

"Tabi-taroの言葉の旅「今こそ江戸に学ぼう!」"より転載
  http://www11.atwiki.jp/hibiki/pages/162.html

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新刊書 『自分を生きてみる 一期一会の心得』
 著者:千 宗室 (せん そうしつ:茶道裏千家第16代家元)
 出版社:中央公論新社
 発行年月:2008年05月
 価格:1,470円(税込)

 茶道裏千家16代家元が、茶の湯の根本にあるとされる「一期一会」の精神を柔らかく解きほぐす。面倒なしきたりを説くわけではなく、譲り合いやもてなしの心などを通じ、限られた時間を豊かに過ごせるよう、気持ちのあり方を教える。背筋がすっと伸び、すがすがしくなる一冊。(2008年6月2日 読売新聞 書評)

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乾杯の語源 〜 下田奉行井上信濃守の機転
 http://shikioriorilog.at.webry.info/200807/article_6.html

貿易記念日 〜 開国・開港への道
 http://matiere.at.webry.info/200806/article_4.html

街の灯りが とてもきれいね ヨコハマ 〜 「開港の道」バーチャル散歩
 http://matiere.at.webry.info/200805/article_1.html

篤姫〜江戸城無血開城の陰に! 
 http://matiere.at.webry.info/200705/article_1.html

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 桐生スバル☆座
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