matiere

アクセスカウンタ

zoom RSS 貿易記念日 〜 開国・開港への道

<<   作成日時 : 2008/06/28 23:40   >>

面白い ブログ気持玉 19 / トラックバック 1 / コメント 1

画像
ペリー提督・横浜上陸の図
(1854年 ペリー艦隊 横浜・金沢沖停泊)
横浜開港資料館蔵


 今日6月28日は、「貿易記念日」だ。

 1963年(昭和38年)、自由貿易推進の為に閣議決定し、通商産業省(現在の経済産業省)が実施。1859年(安政6年)5月28日(新暦6月28日)、徳川幕府がロシア・イギリス・フランス・オランダ・アメリカの五か国に、神奈川(横浜)・長崎・箱館(函館)での自由貿易を許可する布告を出し、港を開港、同時に「運上所」(税関)が設けられた。貿易に携わる企業だけでなく、ひろく国民全般が輸出入の重要性について認識を深める日として設定したそうだ。


---それにちなんで、以下、幕末の開国に伴って国内各港が開港に至った歴史を私の歴史ダイアリーから編集---

 1853年(嘉永6年)、アメリカの提督(米国東インド艦隊司令長官)マシュー・ペリーが黒塗りの軍艦(世に言う”黒船”)4隻を率いて江戸湾の入り口浦賀沖に現れた。アメリカは、太平洋横断航路を実現するための石炭・薪・水・食糧等の補給基地と北太平洋上で操業する捕鯨船用の寄港地を日本に求めていたのである。徳川幕府(老中首座阿部正弘)はペリー一行の久里浜上陸を許し、ペリーは、開港を求めるフィルモア米大統領の親書を浦賀奉行に手渡した。ここに、明治維新(戊辰戦争)に至るまでのいわゆる「幕末」が始まった。

 翌1854年(安政元年)、ペリー艦隊がサスケハナ号やポーハタン号など9隻の軍艦を率いて来航し、武蔵国の金沢沖(現・横浜市金沢区柴町)に停泊した。幕府(老中首座阿部正弘)は、同3月3日(新暦3月31日)、日米和親条約(神奈川条約)を結んで、下田と箱館(函館)の開港を取り決め、下田港と箱館港が開港された。ここに、徳川家光以来200年以上続いてきた、いわゆる鎖国が解かれた。

画像
左は日本に来航したペリー艦隊の旗艦サスケハナ号、右は米艦コングレス
1857年 Naplesにて


 1856年(安政3年)、日米和親条約により下田駐在の初代総領事として来日したタウンゼント・ハリスは、通商条約の締結を強く求めた。幕府(老中首座堀田正陸)は、孝明天皇(明治天皇の父)に条約調印の勅許(ちょっきょ:天皇の許可)を求めたが、孝明天皇は極端な攘夷(じょうい)論者であり、その勅許は得られなかった。攘夷とは、外国人を追い払い国内に入れないことを言い、攘夷論とは、外国との貿易(通商)に反対し、外国を撃退して鎖国を通そうとする排外思想であった。

 2年後の1858年(安政5年)、ハリスはイギリス・フランスの脅威を説いて通商条約の調印を強く迫った。同年6月19日(新暦7月29日)、幕府(大老井伊直弼)は勅許を得られないまま、やむなくアメリカとの間で日米修好通商条約を結び、神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の開港を決定。続いて、イギリス、フランス、ロシア、オランダの四ヶ国とも修好通商条約を締結した。

 修好通商条約に基づいて、幕府は1859年(安政6年)、神奈川(横浜)・長崎・箱館(函館)での自由貿易を許可する布告を出した。 その布告が出された日が、1859年(安政6年)5月28日(新暦6月28日)で、これを記念して、通産省(現・経済産業省)は1963年(昭和38年)に、その布告日を太陽暦に換算した6月28日を「貿易記念日」として制定した。

以下、和親条約及び修好通商条約で開港となった各港を巡って、開国・開港の道を辿ってみる。

下田港 

 嘉永7年(安政元年−1854年)に再来日したペリーと幕府の間でもたれた日米和親条約の交渉過程で、開港地として下田港が提示された。ペリーはさっそく下田に調査船を派遣した。その結果、下田港が外洋と接近していて安全に容易に近づけること、船の出入りに便利なことなど要求している目的を完全に満たしている点にペリーは満足した。日米和親条約締結により、下田港は函館港とともに即時開港され、下田にポーハタン号を旗艦とする7隻のペリー艦隊が次々と入港した。下田は石炭・薪・水・食糧を供給する補給基地港となったが、日米和親条約は貿易を承諾したものではなかったので下田港は貿易港ではなかった。下田が開港場として栄えたのは短く、1859年(安政6年)に日米通商条約が発効して横浜が貿易港として開港されるまでの、わずか5年間だった。下田は江戸に遠く、けわしい天城山をひかえて、貿易港としては不便だったためであろう。横浜港が開港したことに伴い、下田港は開港が解かれた。なお、日米和親条約が締結された1854年3月3日(新暦3月31日)にちなんで、下田市は3月31日を「下田開港記念の日」としている。

画像
ペリー艦隊の旗艦として下田港に停泊したポーハタン号
ただし、図は横浜開港資料館蔵のもの

安政元年ペリーが来航したときの旗艦はサスケハナ号であったが、
サスケハナ号はマカオに戻ったため、下田にはポーハタン号が旗艦として向かった。
なお、下田港の遊覧船サスケハナ号は観光目的であり、
実際にはサスケハナ号は下田には来航していない。


函館港(箱館港)

 函館港(箱館港)は、1854年(安政元年)の和親条約の締結により、下田とともに石炭・薪・水・食糧などの補給基地港として開港されたが、続く1858年(安政5年)通商修好条約の締結により、横浜(神奈川)、長崎とともにわが国最初の貿易港として開港された。
 日米和親条約が締結された後、ペリーは旗艦ポーハタン号以下5艦を率いて1854年5月17日(嘉永7年4月21日)に「箱館湊」に入港して測量などを行なった。 この条約で翌1855年(安政2年)から石炭・薪・水・食糧の補給港として箱館が開港される事になったため、江戸幕府は箱館付近を直轄領として箱館奉行を置き、湊の防衛と外交のために奉行所移転を進めた。1859年(安政6年)の日米通商条約の発効により、函館港(当時は箱館港)はその年の6月2日に国際貿易港として正式に開港した。外国との貿易が始まるとスルメ、昆布などがイギリスやアメリカに輸出された。明治維新後は1869年(明治2年)に開拓使の所管となって、箱館港は「函館港」と呼ばれるようになった。函館市では、1859年(安政6年)6月2日を新暦に当てはめた7月1日を「開港記念日」と定めている。2009年7月1日は函館開港150周年の記念日に当たる。

画像
1854年ペリーが5隻の軍艦を引きつれ箱館港へ来函


横浜港(神奈川港)

 ハリスが日米修好通商条約で開港地として示していた神奈川は、現在の横浜市神奈川区東神奈川あたりの東海道の宿場であった。井伊大老が日米通商条約履行のため神奈川宿に港を建設しようとしたところ、思わぬ事態が発生した。「神奈川は遠浅で水深が浅く大型船の接岸に適さず、後背地が狭く奉行所や運上所(税関)の建設に不便で港湾に向かない。横浜村は、水深が深く大型船の入港が可能で、後背地が広く、今は寒村だが港町としての発展可能性が高い」とし、更に、「横浜村は、広域概念である神奈川の一部だから、横浜開港でも条約違反にならない」と主張し、一方的に横浜村に開港場を作ってしまった。幕府は土地が狭く交通が頻繁な神奈川宿を避けたのであろう。1859年7月1日(安政6年6月2日)のことだった。アメリカは、条約に「神奈川」と記されていることから条約違反だとして神奈川に固執した。しかし、商人たちは、横浜村の関内を整備し、商館や波止場を整備して既成事実化を進めていった。当時の横浜村は、港の施設がほとんどない小さな漁村だったが、開港により、現在の大さん橋の付け根の付近に2か所の波止場がつくられた。象の鼻地区といわれる地区で、横浜港の原点である。幕末、横浜の港はこの象の鼻地区から始まった。2か所の波止場とは、横浜港開港の際、港に作られた東波止場(イギリス波止場)と西波止場(税関波止場)の2つの波止場のことをいう。そのイギリス波止場が時代とともに少しずつ変化し、現在の象の鼻の原型となったのである。そして、開港とともに居留地の整備も開始された。こうして開港した横浜は、その後、貿易都市としてめざましい発展をとげていき、今日を迎えた。

画像
横浜開港の原点---象の鼻地区


画像
開港場横浜と神奈川台場
 東京湾の入口、港区の臨海副都心に、「お台場」という場所がある。フジテレビの本社ビルができるなどで人気の観光スポットになっているが、お台場という地名のみが一人歩きして、どういう場所だったのかを知る人は少ないかもしれない。あの場所はもともとは、江戸港(東京港)を黒船から守るための大砲の置き場「砲台場」だった。「砲台場(台場)」と言うのは、幕末に外国船の襲来に備えて防備を目的に設置されたところで、一種の要塞であった。江戸港は大変優れた港であったが、開国といっても、徳川幕府は、ついに江戸港は開港しなかった。その優れた港を外国人に使わせなかった理由は、江戸港まで黒船が入ってきてしまうと、大砲の弾が江戸城に届いてしまうからである。それでも一応、防備のため砲台を造った。それが、江戸の台場である。
 江戸の台場は、江戸の町を外国船から守るために江戸湾各所に多数作られた。臨海副都心に残っている台場跡、つまり「お台場」は、東京都港区台場(東京湾埋立13号地北部)にある「品川台場」(品海砲台)をいう。国指定文化財、史跡名勝天然記念物となっている。なぜ、台場に「お」を付けて「お台場」と言うのかというと、かつて徳川家の離宮だった浜離宮を浜御殿と言ったり、その庭園である浜離宮庭園を浜御庭と言ったりしたように、徳川将軍家に対する敬称である。品川台場は、ペリーが安政元年(1854年)に2度目の来航をするまでに完成している。ペリー艦隊は品川沖まできたが、この台場のおかげで横浜まで引き返し、そこでペリーが上陸することになった。
 横浜にも台場が存在していた。横浜の台場は神奈川台場といい、ペリー来日により締結された日米和親条約によって開港された横浜港と外国人居留地を警備する必要が生じ築造されたものである。神奈川台場は、伊予松山藩の立案で、勝海舟の設計により構築された海防砲台である。安政6年(1859年)5月に着工し、万延元年(1860年)6月に完成した。14門の大砲が備えられ、横浜港を警備した。明治32年に廃止されたが、それまでは、開港場で行われる外交イベントの祝砲と礼砲の発射に使われた。このような歴史のある台場だが、大正時代に埋め立てられ、現在はその石垣を一部残すのみとなっている。砲台跡は、横浜市神奈川区神奈川1丁目、JR貨物線の東高島駅の下にほぼ完全な形で眠っているという。
横浜市は、幕末に勝海舟が設計し、神奈川区沖に築かれた砲台「神奈川台場」の発掘調査を2008年6月30日から始めた。初の本格的な調査で、来年の開港150周年にあわせ、同区が市内にも台場があったことを広く知ってもらおうと企画した。掘り出された遺構は、市民が見学できるよう保存と整備を検討する。(2008年7月1日 読売新聞ニュースより)

 横浜港、長崎港、函館港が貿易港として開港したのは1859年(安政6年)6月2日(新暦7月1日)で、横浜市は6月2日を「横浜開港記念日」、函館市は新暦にあたる7月1日を「函館開港記念日」としている。長崎市は、6月2日を「長崎港記念日」としている。来年2009年に、横浜、長崎、函館は開港150年を迎える。
 
  横浜開港150周年事業ホームページ   http://www.yokohama150.org/y150/

画像
開港当時の横浜港


 神奈川県は、明治政府が地方制度の確立のため全国に府藩県を置いた際に、東海道の宿場名である神奈川を採用し神奈川府と命名したところである。その後の廃藩置県で神奈川県という県名が付けられたが、その要因の第一は、修好通商条約上の開港場が神奈川であったためである。


長崎港

 長崎市は、6月2日を「長崎港記念日」としているが、一方、4月27日を「長崎開港記念日」にしている。それは、長崎の開港は元亀元年(1570年)、実際にポルトガル船が入港したのは元亀2年(1571年)だが、一説によると入港した日がはっきりしなかったため、豊臣秀吉が鍋島飛騨守直茂に長崎初代代官を任じた1587年(天正15年)4月2日(新暦4月27日)にちなんで、4月27日を「長崎開港記念日」にしたという。
 江戸幕府の鎖国によって、長崎の出島だけが世界に開かれた港になっていたが、幕府の布告により、1859年6月2日、新しい長崎港として開港した。これにちなんで、6月2日を「長崎港記念日」としている。

画像
明治の長崎港全景(彩色写真、横浜開港資料館所蔵)


神戸港(兵庫港)

 神戸(兵庫)開港については、幕府(将軍徳川慶喜)は、すったもんだの結果、1868年(慶応3年)12月2日、開港の布告を出した。実際に開港したのは、同年12月7日(新暦1868年1月1日)で、12月7日を「神戸開港記念日」、1月1日は「神戸港記念日」としている。

 井伊大老が調印した通商条約は「兵庫開港」を定めていた。1867年(慶応3年)ようやく開港の勅許を得た兵庫は、実際には現在の神戸に開港された。当初、幕府が諸外国との間に調印した「修好通商条約」で 決められた開港地は、現在の神戸港の地ではなく、JR兵庫駅の東南部、奈良時代に「大輪田の泊(おおわだのとまり)」と呼ばれていた「兵庫津(ひょうごのつ)」と総称される一帯が対象だった。しかし、四ヶ国連合艦隊が兵庫に来た際に付近の海域を測量した結果、 英国公使パークスは兵庫港より神戸の入り江の方が港に適していると判断し、 その後方の土地が居留地に選定された。 居留地に選定された鯉川から生田川の間の土地は兵庫でなく神戸村に属していた。外国人にとっては修好通商条約上の「兵庫港」は神戸村の港であっても問題なかったため、幕府は、神戸村の港を条約上の「兵庫港」として開港した。実際には、湊川より西は「兵庫港」、それより東は「神戸港」と名付けられたが、その後、明治25年(1892年)勅令により、この「兵庫港」、「神戸港」の2港時代は終わり、以後は両方の港を一緒にして「神戸港」と呼ぶようになった。これに伴って、「神戸港」は 急速に近代化し、人・物・情報が行き交う拠点として、また、国際貿易港として、 世界を代表する港に発展した。そして、現在の神戸のモダニズム発展へとつながっていったのである。

 兵庫県の県名は、修好通商条約で兵庫港を開港することとなっていたが、徳川幕府は隣に神戸港を開削したため、両者がもめてしまった。結局、明治政府は廃藩置県の際、県名を兵庫県とし、兵庫港の地区は兵庫県神戸市兵庫区として決着させることとなった。神奈川県横浜市神奈川区も全く同じ事情。


画像
兵庫港開港(1868年1月1日)
神戸村に兵庫居留地を定める


画像
開港当時の神戸港



新潟港

 新潟港は、日米修好通商条約で開港五港の一つとして北海岸開港場に指定されたものの、水深不足や北越戊辰戦争などの影響で開港が遅れ、条約締結から10年余り経った1868年(明治元年)11月19日(新暦:1869年1月1日)にようやく外国船に開港、貿易が開始された。しかし、期待のうちに開港した新潟港は、河口の港であるため水深が浅くて外航船が入港できなかった。そして、港の改修が緊急課題となり、その後、治水や港の改修が続くこととなった。やがて、大正6年に着工した埠頭修築工事が完成し、近代的港湾としての機能が整備された。11月19日が、「新潟開港記念日」となっている。

画像
新潟港開港


---------------------------------------------------------------------------------------

各港の開港の歴史は、日本開港五都市観光協議会のHPに詳しく書かれている。
     http://www.5city.or.jp/index.html

---------------------------------------------------------------------------------------
「開国余談」

 安政5年(1858年)、二度目の黒船来航で、大老・井伊直弼の命により、目付岩瀬忠震と下田奉行井上清直が、下田においてアメリカの軍艦ポーハタン号艦上で、 通訳ヒュースケンを介してハリスと日米通商条約締結に向けての交渉に当っていたが、 このとき、応接当事者として日夜、ハリスと接していたのは下田奉行井上清直で、とても苦しんでいた。

 下田奉行井上清直は思い余って、井伊大老に「もしどうしても調印しなければならない際には、調印してもよいか」と尋た。井上清直の切羽詰ったこの質問に対し、井伊大老はついに決断を下し、「その際は仕方がない」と調印の内諾を与えた。井伊直弼は、「天皇の勅許が得られないといって条約調印を行なわず、アメリカと戦争になって 日本の国土がアメリカに領有されるのは恥である。そもそも国政は幕府に委任されている。 しかし勅許を得ない重罪は甘んじて直弼一人がこれを受ける決意である」と心の中を述べている(井伊家文書要約)。

 大老井伊直弼は、この決断に至った苦しい胸の内を、「春浅み、野中の清水、氷いて、底の心を、汲む人ぞ無き」との和歌に託し、為政者の孤独の決断を表している。

 こうした当時の幕府の高級官僚達の業績は、明治時代になってすべて無視されるか、明治政府の手柄にされてしまったが、少なくとも日米修好通商条約は、列強(英仏)による日本侵略の迫る中、米国との相互安全保障を含む条約締結に漕ぎつけたことによって、日本の独立を守り抜き、その後の発展の道を開いたとして高く評価されるべきであろう。幕府は潰れたが国は残ったのだから。

 大老井伊直弼の決断により、下田奉行井上清直は、「開国により幕府が潰れようとも、幕府より国が大事」「外国に侵略されるより内乱の方がまし」とまでの覚悟を持って、逆風の中でこの成果をつかみ取ったのである。井上清直の素晴らしい英断であった。昭和前期の指導者に井上清直のような為政の心があれば、後に昭和16年、日米が太平洋を舞台に繰り広げた不幸な事態は避けられたかもしれない。

 開国に至る日米通商条約は、朝廷からの勅許のないまま、大老井伊直弼の決断により、ハリスと目付岩瀬忠震、奉行井上清直との間で調印された。それは、内乱(薩長の尊皇攘夷派と幕府との間の動乱)を招くことになるが、やがて、1865年(慶応元年)、日米修好通商条約は、最後の将軍・一橋(徳川)慶喜の努力によって孝明天皇の勅許を得ることになる。

 安政6年(1859年)、日米修好通商条約の批准書交換のため、大老井伊直弼が派遣した遣米使節団が、ポーハタン号で横浜を出航した。槍持ちを先頭にチョンマゲ、二本差しで威厳を正して行進する幕府使節団をアメリカ側は大歓迎した。ブロードウェイを行進する使節団に対し、沿道には儀仗兵が並び、日米両国旗が飾られた。飾られた日本国旗はもちろん「日の丸」である。日の丸が初めて国際社会に登場した初舞台であった。この有り様は、ニューヨークの絵入り新聞に掲載されたという。そして、アメリカの詩人ホイットマンは、「若き自由人よ、古きアジア、全文化の母に思いやりあれ、いつまでも。熱心な自由人よ、なぜなら君等は全きものとなったのだ」との詩を作って、日本人を大歓迎する気持ちを表現した。

---------------------------------------------------------------------------------------

“幕臣随一の開明派” 勝海舟

画像
勝海舟


 嘉永6年5月3日(1853年5月3日)、ペリーが来航し開国を要求されると、老中首座の阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書を幕臣はもとより、諸大名、町人から任侠の徒にいたるまで広く募集した。このとき、海防意見書を提出した一人に海防参与の勝海舟がいた。勝海舟は、海防意見書を幕府の政治顧問をしている水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)へ提出した。

 勝海舟の海防意見書には、「貿易を行ない、その利益をもって国防費に当てる」と開国後の方針が述べられていた。開港し貿易を行うことで、艦船とそれを動かす人材が揃い、さらに利益を上げることができる」と、積極的な開国論を唱えたのである。勝海舟の意見書は老中首座・阿部正弘の目にとまることとなる。そして幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから念願の役入りを果たし、勝海舟は幕政の表舞台へと導かれていった。

 安政6年(1859年)年11月、大老井伊直弼は日米修好通商条約の批准書を交換するため、遣米使節団を渡航させた。派遣軍艦は咸臨丸(かんりんまる)。使節団が米軍艦ポーハタン号で渡航する際に護衛艦として随行した軍艦である。咸臨丸の提督には軍艦奉行並・木村摂津守喜毅(よしたけ)が、艦長には軍艦操練所教授方頭取・勝海舟が任命された。ちなみに通弁方(通訳)には中浜万次郎(ジョン万次郎)、木村摂津守の従者として福沢諭吉が乗船した。
 この渡航で、勝海舟は日本とは全く異なる世界を目の当たりにし、幕藩体制による封建政治下では世界の荒波を生き抜くことはできない、と幕閣のなかでも際立って進歩的な考えを持つようになった。

 文久2年(1862年)10月、尊王攘夷派だった坂本龍馬が、当時、軍艦奉行並の役職に就いていた勝海舟の赤坂氷川(現・地下鉄千代田線赤坂駅 元氷川坂下)にある屋敷を訪問した。勝海舟は、単純な攘夷論を強く批判し、海軍創設と開国論を説いていたので、坂本龍馬は、勝海舟は西洋に心酔する奸物だから、議論を吹っかけて斬ってしまおうと考えたのであった。このとき、海舟40歳、龍馬28歳。海舟は龍馬を見ると開口一番、「俺を斬りに来たのだろう。隠してもわかる。顔に殺気がみえる」と、いきなり図星をついた。龍馬が驚いて沈黙していると、海舟は世界情勢と攘夷論の愚かしさを説明し、海軍の創設とその費用を生み出す貿易の必要性を論じた。龍馬は海舟の話を聞くうちに、見識の広さ、人物の大きさに感服し、「実はお察しのように先生を討ち果たすつもりでしたが、ただいま先生のご高説をうけたまわり、自分の未熟を恥じています。願わくば今日から先生の弟子にして下さい」と切望した。海舟は、これを快諾し、龍馬の弟子入りを認めた。龍馬は海舟の新世界観に感激して、この日を期に攘夷論を棄て開国思考に転向した。そして、勝海舟を師と仰ぎ、門下生として航海術を学んだ。後年、海舟はこの時の様子を、「坂本龍馬。あれは、俺を殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。その時おれは笑って受けたが、落ち着いていて、なんとなく冒しがたい威厳があって、よい男だったよ」(『氷川清話』)と回想している。

 文久3年(1863年)、軍艦奉行並の勝海舟は、神戸の重要性と海軍の必要性を、14代将軍徳川家茂に力説し、その許可を得て、神戸・小野浜の地に軍艦建造と海軍兵学校・機関学校・造船所を備えた大規模な海軍操練所を建造した。この操練所は、後の日本海軍発展の礎となったと言われている。これに隣接して勝海舟の私塾「神戸海軍塾」(勝塾)が設けられ、その塾頭を坂本龍馬が務めた。神戸海軍塾には、薩摩や土佐の青年たちが塾生として出入りしたが、勝は官僚らしくない闊達さで彼らを受け入れた。坂本龍馬は、この神戸海軍塾で訓練を受けたのち慶応元年(1865年)、土佐藩の仲間を中軸に長崎で亀山社中(のち海援隊)を立ち上げた。海軍操練所跡地は神戸港の開港場となり、運上所(神戸税関)や外国人居留地が建設され、神戸は港とともに発展していった。

 幕末には寒村でしかなかった横浜に旧幕臣を約10万人送り込んで横浜港発展に寄与したり、静岡に約8万人送り込んで静岡の茶の生産を全国一位に押し上げたりしたのも勝海舟の功績である。

 勝海舟は、大奥においては天璋院(篤姫)や和宮に信頼されており、天璋院と和宮が二人で海舟の家を訪ねたという話が『海舟座談』にしるされている。

 やがて、勝海舟は、徳川幕府最後の15代将軍となる徳川慶喜のブレーンとして活躍することになり、西郷隆盛と渉り合い江戸無血開城を成し遂げた。

 勝海舟は幕臣であったが、維新後、明治新政府に迎えられ、成立間もない明治政府の土台作りに協力し、参議兼海軍卿・枢密顧問官などを歴任し伯爵となった。一方で元幕臣の保護にも努め、水面下で、徳川家と朝廷との間の和解交渉を進めた。

 明治32年(1899年)に脳溢血となり、「これでおしまい」といって眠るがごとく世を去ったという。

 筆者は、勝海舟という人を、幕末から明治維新のときに活躍した人の中では最も高く評価している。なぜなら、彼は、幕臣でありながら幕府にこだわらず、これからは日本という国を見なくてはいけないという考えを持っていたからである。

---------------------------------------------------------------------------------------

「日本の開国・開港を完成させた最後の将軍・徳川慶喜」

画像
一橋慶喜(最後の将軍・徳川慶喜)


 幕末、日本が抱えていた開国の難問を解決して、開国・開港を完成させたのは徳川幕府最後の将軍となる第15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)である。

 徳川慶喜はもともと水戸(徳川)家の出身であり、水戸家から一橋(徳川)家に入って将軍になった人物である。慶喜は、1837年に江戸小石川水戸藩邸に生まれた。1847年、11歳のときに水戸徳川家を離れ、徳川御三卿の一つである一橋徳川家を相続して一橋邸に移り住んだ。名は慶喜と称した(一橋慶喜)。父である水戸藩主の徳川斉昭(なりあき)は、当時の攘夷論の総元締めのような人であった。もちろん水戸光圀以来の過激な攘夷論を継いでいるので、当然のことながら開国には反対だった。しかし、息子の慶喜は、根っからの積極的開国論者であった。

 慶喜が将軍職を継ぐ前のことであるが、次のような話が残っている。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 1862年(文久2年)7月6日、一橋(徳川)慶喜が「将軍後見職」(第14代将軍徳川家茂の後見職)に任命され、福井藩主・松平春嶽:しゅんがく(慶永:よしなが)が「政事総裁職」に任命された。これにより、幕府の中軸は、この二人に委ねられた。一橋慶喜(将軍後見職)と松平春獄(政事総裁職)のコンビは、すぐに大胆な政治改革に着手した。
 (注:政事総裁職は大老と同じ役職であるが、松平家は徳川将軍家の親族(御家門)なので大老という役職名は避けられた。)

 同年9月30日に、幕議(勅旨を迎えるに先立って開かれた幕閣総集合の大会議)が催され、その席で幕府は外交方針を決定しなければならなかった。井伊大老が列強と結んだ修好通商条約を踏襲するか(開国か)、条約を一方的に破棄(破約)し、それによって起こるであろう戦争を遂行するか(攘夷か)、二者いずれかをとらなければならなかった。開国論を採れば国際社会に忠実であっても、京の朝廷には不忠になり、国内の攘夷世論の総攻撃を受けなければならず、攘夷論を採れば列強の軍事攻撃を受け、ついには日本は列強に分割され、植民地化されざるを得ない。松平春嶽は政事総裁職としては国内的世論を尊重し、国論の分裂を避けるために攘夷論を採り、条約を破棄しようとした。

 松平春嶽は、「井伊直弼政権が行った日米修好通商条約条約を一旦破棄し、あらためて公卿・大名の合意の元に条約を締結し開国を行う」ことを一橋慶喜に提案した。ところが、慶喜は、「これからの世界は各国と交わっていくのだから、日本のみ鎖国ということは出来ない。井伊直弼が勅許を待たないで独断調印した行為は正しいものとは言えないが、それは国内の問題であり、一旦締結した条約を破棄するなど、諸外国には通用しない考えだ。世界に日本の恥をさらすのみである。仮に条約を破棄し、戦争となっても所詮は名目のない戦いであり、後世ひとの笑いものになるだろう。まして負ければ恥のうわ塗りになる。朝廷を命がけで説得し、清国の二の舞にならないようにしなければならない。幕府の存続にこだわらず、日本という国を存続させることを優先に考えなければならない。それでも、春嶽はなおも押すか。」(渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』意訳)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 要するに、「攘夷などができるか」と言ったのである。このように、一橋慶喜は破約攘夷に反対し、自らが朝廷に「開国」を説得することを主張した。松平春嶽は本来開国論者である。春嶽は「卿の御説に従います」といい、即座に開国論に再転した。(注:ここで「卿」とは、一橋刑部卿慶喜のこと)

 1865年(慶応元年)10月4・5日、幕府・朝廷・在京諸藩代表が集まって朝議が開かれた。薩摩藩の大久保利通らは、違勅である幕府の通商条約は公認してはならないと主張した。公卿達は本能的に外国嫌いで、対外関係では幕府に頑固に拒否した。慶喜は「条約勅許しなければ列国は戦争を仕掛け、外国と戦えば必ず敗れて国家滅亡となる、その責任は全て朝廷にある」と論駁した。しかし、廷臣達は無言で抵抗した。これに対し慶喜は、「自分は責任取って切腹するが、家臣達は黙ってはいまい、その覚悟はあるのか」と言って席を立った。こうして、10月5日、徳川慶喜や英米仏蘭4ヶ国公使の要求・説得により、攘夷論者の孝明天皇はついに通商条約を勅許するに至ったのである。

 孝明天皇は強硬な攘夷論者であったが、公武合体幕権維持の一橋慶喜の政策を支持し、現実の政治は幕府に任せるとの考えであり、慶喜を信頼していた。天皇は、長州藩を主体とする、あまりにも過激な勤皇運動につくづくあきれ果ててしまわれ、徳川幕府と朝廷との協力によって、内外の動乱を切り抜けられようとされた。天皇の眼に映じた勤皇志士たちは、暴徒にすぎなかった。

 (注:公武合体〜朝廷と幕府の宥和策。大老井伊直弼の遺策。皇女和宮(孝明天皇の妹)と第14代将軍徳川家茂(いえもち)との婚儀。 1861年(文久元年)10月、和宮は京都を出立し、翌2年2月に婚儀が盛大に行われた。)

 孝明天皇が通商条約の勅許を出された後は、水戸藩・長州藩・薩摩藩などの攘夷急進派による異人斬りや外国公使館襲撃、外国船砲撃等はぴたりと止んだ。

 こうして、徳川(一橋)慶喜の活躍により勅許を得て批准された通商条約は、太平洋戦争前に破棄(通告)されて我が国が外交孤立化の道を進むまでの間、我が国の成長と発展を支えてきたのである。

 慶喜は、将軍徳川家茂の将軍後見職を務めていたが、家茂死去後、慶応2年12月5日(1867年1月10日)に徳川幕府第15代将軍に就任した。

 しかし、まだ問題が残っていた。井伊大老が調印した通商条約には「兵庫開港」が定められていた。その実施時期は、慶応3年12月7日(1868年1月1日)までと対外公約していた。しかし、兵庫開港は勅許が下りず、暗礁に乗り上げたまま手付かずの状態にあった。将軍慶喜は、この問題を一気に解決した。慶応3年(1867年)5月23日、朝議の場で慶喜は勅許を要請した。当日の会議では結論は出ず、会議は翌24日まで続いた。会議の席上「兵庫開港は絶対に不可である」と述べる公家もいたが、徳川慶喜は、「あなたがたの日本書紀や古事記から抜け出たような意見では、当世、間に合わない」とまで言って反論した。

 将軍慶喜は、「良きに計らえ」とか「そう致せ」などと言うような将軍ではなかった。慶喜は、強い意志をもって積極的に政局を切り拓いていこうとする能動的な将軍だった。慶喜は熱弁を奮って、開国に反対する公家や決断力のない摂政達を説き伏せた。

 慶喜の熱弁の前に反対者達もやがて反論に詰まり、ついに慶喜の弁論に屈服した。そして、慶喜は、まる一昼夜たった5月24日夜8時頃、ついに「兵庫開港の勅許」を獲得した。そこで、幕府は6月6日付けをもって、「慶応3年12月7日(1868年1月1日)から兵庫港を開港し、江戸・大坂両市に外国人の居留を許す」との布告を出した。

 慶喜は、井伊大老が通商条約を調印した際、やり残した2つの課題、すなわち、(1)日米修好通商条約の勅許を得て、国内的合意を形成すること。(2)兵庫(神戸)開港を行い、国際公約を実現すること。この2つを実現し、通商条約を完成させた。徳川慶喜は、通商条約の国内的課題と国際的課題を解決して、「第一の開国」を完成させたのである。これによって、国内の攘夷運動は鎮静化し、列強からの苛烈な要求圧力は沈静化した。

 徳川慶喜は、自分に課された最大の政治課題である開国の大業を成し遂げた後、幕府を倒そうとする薩長軍の勢いに抗しきれず、慶応3年10月14日(1867年11月9日)に、明治天皇に対して大政(統治権)の返上を上奏し、翌15日に明治天皇はその上奏を勅許した。これによって政権は徳川幕府から天皇に明け渡された(大政奉還)。徳川慶喜は、日本近代化の為のあらゆる準備を行い、布石を打った後、政権から去ったのである。さぞ、無念であっただろう。思うに、幕末から明治維新に至る薩長の尊皇攘夷の志士たちは、暴力団組織以外の何者でもない!

  明治維新後、徳川慶喜のブレーンである勝海舟による皇室と徳川家との和解交渉が実を結び、慶喜は明治30年、謹慎先の駿府(静岡)から、東京となった江戸にようやく帰住。翌年、皇居で明治天皇皇后に拝謁し、皇室と徳川家の和解が成立した。徳川を倒した維新の元勲達の大半が死ぬと、慶喜の大政奉還が高く評価されるようになり、明治35年、66歳で華族に列せられ公爵を授けられた。また、明治40年、72歳で天皇から勲一等旭日大綬章を賜り、77歳で大往生した。

---------------------------------------------------------------------------------------

「第三の開国」

 幕末の開国を「第一の開国」とすれば、太平洋戦争(大東亜戦争)以後を日本の「第二の開国」とする見方がある。その開国は、敗戦による日本の「民主化」をいう。サンフランシスコ講和条約が発効し、日本の主権が回復した1952年4月28日が、「第二の開国」の日であろう。

 『若き北一輝』で注目される評論家・歴史家・思想史家・麗澤大学大学院教授の松本健一の著作に【日本の失敗―「第二の開国」と「大東亜戦争」】(岩波現代文庫)という本がある。この中で筆者は、「第二の開国」の問題性と「第三の開国」の重要性を語っている。何故日本があの愚かな選択、すなわち太平洋戦争をしたのかについて迫った傑作である。

 (以下、松本健一の講演録「第三の開国とナショナルアイデンティティの再構築」より抜粋)
 今、冷戦構造が終わった時点で世界史に起こっていることは、自分の国は自分で守るという、百年近く前のナショナリズムの時代にさかのぼったかのような歴史の回帰現象である。しかし、現在はテリトリーゲームの時代とは全く違っており、軍事力や経済力ではなく、より文化的なもの、あるいはその国だけがつくってきた歴史、あるいはその国の持っている形、文化というものが明らかにされねばならないという新しい歴史のステージである。つまり、自分の国とは何かということ、あるいは我々の民族はどのように生きていくのかということが世界史の全体で問い直されているといえ、とにかく自分の国は自分で守るというふうな新しいステージが始まったのである。現在はグローバリズムの時代でもあるが、そういう時代であるからこそ、自分の国とは何なのか、自分の民族はどのようにして生きていこうとするのかという「ナショナルアイデンティティー」を再構築しなければ、その国は世界史の中で埋没する。

---------------------------------------------------------------------------------------
Copyright© 2008 Matiere



テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 19
面白い 面白い 面白い 面白い 面白い 面白い 面白い
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた 驚いた 驚いた
ガッツ(がんばれ!) ガッツ(がんばれ!) ガッツ(がんばれ!)
ナイス
かわいい

トラックバック(1件)

タイトル (本文) ブログ名/日時
VISVIM 通販
貿易記念日 〜 開国・開港への道 matiere/ウェブリブログ ...続きを見る
VISVIM 通販
2013/07/09 21:53

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
 貴ブログの次の記述を信じまして、長崎市に、何故、長崎港記
念日を7月1日にしないのかと尋ねました処、何と、6月2日を
長崎市で記念日に制定した記録は無いとの回答が有りました。
 貴ブログの、長崎市は、6月2日を「長崎港記念日」としてい
るという記述は何を根拠に、お書きになっているのでしょうか。
お聞かせ戴ければ幸いです。

 「横浜港、長崎港、函館港が貿易港として開港したのは1859年
(安政6年)6月2日(新暦7月1日)で、横浜市は6月2日を「横浜
開港記念日」、函館市は新暦にあたる7月1日を「函館開港記念日
」としている。長崎市は、6月2日を「長崎港記念日」としている
。」
kmsirjp
2014/06/10 10:24

コメントする help

ニックネーム
本 文
貿易記念日 〜 開国・開港への道 matiere/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる