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早稲田大学の前身である東京専門学校は、1882年(明治15年)10月21日に大隈重信によって設立されました。1902年に早稲田大学と改称し、現在に至っています。今年2007年、 早稲田大学は、創立125年を迎えます。 記念日として125年というのは、中途半端な数字のような気がしますが、大隈重信は、常々「人生125歳説」を持説として語っていました。「人間は本来、125歳までの寿命を有している。適当なる摂生をもってすれば、この天寿をまっとうできる」というものです。その根拠は、「生理学者の説によると凡ての動物は成長期の五倍の生存力をもっているというのである。そこで人間の成熟期はおよそ二十五歳というから、この理屈から推してその五倍、百二十五歳まで生きられる」(大隈重信述「人寿百歳以上」)というものでした。この大隈重信の「人生125歳説」は非常な評判となり、当時のジャーナリズムに何度も紹介されました。 そのため、早稲田大学および大隈重信に関連する記念行事では、125という数字が、かねてから重要なエポックとして特別視されてきています。創立45周年(1927年・昭和2年)に竣工した大隈講堂の塔は125尺(約38メートル)に設計され、また、1963年(昭和38年)には、大隈重信の生誕125年記念行事が催されています。 今年2007年は、10月20日(土)に校友(卒業生等)中心の稲門祭、21日(日)に創立125年記念日として大学主催の記念式典が催されます。10月20日(土)は12時から大学内8号館大教室にて東国原英夫知事とマラソンの渡辺康幸監督、それに瀬古利彦さんが3人トークショーがあります。大隈庭園では、食べ物屋稲門会、酒造稲門会や大隈重信ゆかりの佐賀県による12の飲食店が出店されます。太鼓やバンド、フラダンス、チアリーダー演技、ジャズなどモリモリ沢山のお祭りです。振舞い酒もたくさんあります〜。卒業生だけでなく一般の方々も自由に散策できます。 早稲田大学創立125年記念のホームページは、こちらです。 http://www.waseda.jp/waseda125/index.html また、早稲田大学のホームページの中に、「創設者 大隈重信」のいうサイトがあります。こちらのアドレスです。 http://www.waseda.jp/jp/okuma/index.html 上記サイトの中の「大隈をめぐる人々」に、英学の師フルベッキ 、福沢諭吉 、岩倉具視 、大久保利通・木戸孝允、伊藤博文、板垣退助 、野口英世 、小泉八雲 のコラムがあります。 歴史の教科書等では、伊藤博文と大隈重信が対立したことを書かれていますが、二人は政治の場では対立したものの、心の中では、大隈は伊藤に敬意を払っていた様子が書かれています。 早稲田大学のホームページはこちら。 http://www.waseda.jp/top/index-j.html 今年2007年は早稲田の創立125年ですが、来年2008年はライバル慶応の創立150年で、慶応はそれに向けて準備に大忙しだそうです。早稲田の125年行事には、慶応から多くの人が見学に来られることでしょう。 2008年、慶応の創立250年記念の案内サイトはこちら。 『2008年 慶応義塾は創立150年を迎えます』 http://keio150.jp/ 慶応義塾のホームページはこちら。 http://www.keio.ac.jp/index-jp.html ------------------------------------------------------------------ 以下、大隈重信の盟友・福沢諭吉との交流をまじえながら、エピソードや歴史上の事件をいくつか・・・ 【大隈重信と母親】 大隈重信は、1838年(天保9年)年2月16日、佐賀城下会所小路(現・佐賀市水ヶ江)に佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれました。 大隈重信は、母三井子を回想して、「わが輩は母一人の手で育てられたが、十五、六歳の時分からすこぶる乱暴者で、まるでがき大将のようであった。友人が盛んに遊びにくるので、 わが輩の家はクラブの如きものであったが、母は大層人を愛し、客を好まれたから、友人が訪ねてくることを非常に喜んで、手料理をこしらえて馳走してくれた」といっています。(『大隈伯百話』) 大隈重信は大政治家になった後でも、ともかく人と会うことを好みました。これは、幼少時代から、人を愛し、慈善を施すことを好んだ、母・三井子の教えに従ったものでした。大隈重信にとって、母・三井子は原点であり、故郷の佐賀そのものでした。 【参議・大隈重信】 大隈重信は、幕末においては、佐賀藩の尊皇攘夷派の志士として活躍しましたが、やがて、尊皇攘夷の無謀な排外主義は、かえって民族の危機を深めることを悟りました。 幕末の政争に際しては、将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告しようとして脱藩、京都に入りましたが成功せず、佐賀に送還されました。 明治維新により、徳川幕府に変わって、有栖川宮熾仁親王を総裁、岩倉具視と三条実美を副総裁とする政府が組織されました。1871年(明治4年)8月に政府の改革が行われ、明治政府の最高機関として太政官制度が設けられて、太政大臣に三条実美、参議に西郷隆盛・木戸孝允・大隈重信・板垣退助が就任し、薩長土肥出身者によるいわゆる藩閥政府の基礎が確立しました。参議とはこの時代の政府における最高職のことを言います。 大隈重信は、参議の職を務めるとともに、1873年(明治6年)、大蔵卿(現在の財務大臣)に就任しました。1877年(明治10年)西南戦争で参議筆頭・西郷隆盛が戦死し、翌1877年(明治10年)に内務卿・大久保利通が暗殺されると、大隈重信は、参議筆頭兼大蔵卿として明治政府を主導しました。 【明治十四年の政変】 大久保利通といった強力な指導者を欠いた後、明治政府は、プロシア(ドイツ)流の君権主義国家を目指す参議・伊藤博文と、イギリス流の立憲君主国家を目指す参議・大隈重信を中心に運営されていました。その明治政府において内紛が生じました。 大隈重信は、憲法制定を説き、国会の即時開設を主張しましたが、伊藤博文はこれに激しく反対しました。憲法制定・国会開設に対する大隈重信と伊藤博文らとの対立で、政府部内の軋轢が高まっていきました。 折しも1881年(明治14年)に起きた北海道開拓使官有物払い下げ疑惑で世論の沸騰を招きました。これは、北海道開拓使長官の黒田清隆が政商五代友厚に、開拓使の官有物を格安の金額で払下げを行うことを決定したところ、世論の厳しい批判を浴び、払下げ中止となった事件です。伊藤博文は、この疑惑に大隈重信が関与しているとし、払い下げの中止と、大隈の免官を求めました。伊藤博文らによって、官有物払い下げ疑惑は、国会開設要求が結び付けられて論じられ、大隈重信は政府から追放されます。 これは、「明治十四年の政変」とよばれ、このとき、伊藤博文らを中心とする薩長派の政権が確立しました。この政権によって、わが国は君権のきわめて強い立憲君主制への道を目指すことになりました。 【自由民権運動の高まりと立憲改進党の結成】 薩長派による藩閥専制政治に反対し、国会開設・憲法制定などを要求した政治運動「自由民権運動」が高まりました。 藩閥専制政治に反対する土佐藩士の板垣退助が、1881年(明治14年)に、自由民権運動の代表的政党「自由党」を結成しました。一方、大隈重信も、1882年(明治15年)に自由民権運動の政党「立憲改進党」を結成しました。 自由民権運動は、人間は自由・平等であるとの基本思想に基づき、国会開設(参政権)・憲法制定・地租の軽減などを要求していきました(地租とは、土地所有者に対して、土地の広さや価格に基づいて課す税金のことです)。 【早稲田大学の開校】 大隈重信は、立憲改進党を結成した1882年(明治15年)に、念願の東京専門学校(後の早稲田大学)を開校しました。大隈重信による早稲田大学創立は、「自由民権」を学問によって達成しようとするものでした。時の権力に左右されない学問の研究と教育「学問の独立」が行われねばならない。これが大隈の考えであり、早稲田大学の原点でした。 「学問の独立」の早稲田のスタートにより、先に開校していた「独立自尊」の慶應義塾と共に、日本の近代の私学教育の礎が築かれたことになります。 【福沢諭吉との出会い】 大隈重信は、早稲田大学創立の際、既に創立されていた慶応義塾の創設者・福沢諭吉に大いに助けられました。福沢諭吉は、幕臣として徳川慶喜に仕え、薩長などの尊皇攘夷派に強い敵対心を抱いていました。維新後も、新政府から一定の距離を置き、再三の新政府への入閣の誘いも断っていました。 そんな立場の違う大隈重信と福沢諭吉の二人が最初に出会ったのは明治6年、知識人が集う親睦会の席上であったとされます。すでに、福沢は「西洋事情」の出版で世に知られ、片や、大隈も政界の中枢に躍り出ていました。 大隈重信の回想録によれば、それまで、互いに相手を「生意気なやつ」と見ていましたが、会ってみると目標とするところは同じで、一気に親密になったといいます。その後、交流は日に日に深くなり、互いの家を訪問するほどになったそうです。二人とも、新時代に適応するための学校が必要だと説いていました。 福沢諭吉は盟友の大隈重信が早稲田を創るときに、多くの慶応の優秀な人材を早稲田に送り込んでいます。大隈重信は「明治十四年の政変」が影響して、早稲田大学の開校式には出られず、替わりに福沢諭吉が出席して祝辞を述べました。 【慶応義塾の人材】 明治期、福沢諭吉は慶應義塾で多数の優秀な人材を生み出しました。著名なところでは、尾崎行雄、犬養毅らです。尾崎行雄は、護憲運動や普通選挙運動をリードした憲政の神様、犬養毅は、のちに総理大臣となった人です。 彼らは、慶応義塾に入学しましたが、事情で慶応を中退し、新聞記者の仕事をしていました。しかし、彼らはその後、福沢諭吉の影響を受けました。福沢諭吉は、彼らの才能を評価し、参議兼大蔵卿の職にあった大隈重信に推挙しました。大隈重信は彼ら福沢の門下生を譲り受け、やがて一流の人物に育て上げていきます。 大隈は、会計検査院を設立し、彼ら福沢門下生を会計検査院に登用します。彼らの人生は、議会政治と立憲主義の必要性を主張する大隈重信との出会いによって、劇的に変わっていきます。当時はほとんど無名に近かったこれらの若い官吏は、次第に大隈のブレーン的存在に成長していきました。 「明治十四年の政変」で、伊藤博文らは、立憲政治を目指す大隈重信を政府から追放しましたが、大隈重信は、将来の立憲政治を担う中堅国民の育成を目指して、早稲田大学の前身である東京専門学校を創設しました。大隈は、いつか自分も、福沢門下生のような日本を背負ってたてるような人材を育てたいと思ったのでしょう。 「明治十四年の政変」では、大隈重信は、伊藤博文らによって政府から追放されましたが、福沢諭吉も大隈の自由民権運動に結託したとして、福沢の推挙で政府入りしていた慶応出身の若手官僚である尾崎行雄、犬養毅らも一斉に罷免させられました。 しかし、尾崎行雄、犬養毅らは、大隈重信が「立憲改進党」を結党したとき、議会政治と立憲主義を掲げ、「立憲改進党」の党員として、大隈重信と共に歩みを進めていきました。 【福沢諭吉に見込まれ、大隈重信に育てられた尾崎行雄と犬養毅】 【第一次大隈内閣】 1896年(明治29年)3月、立憲改進党は他の小政党とともに「進歩党」を結成しますが、 大隈は引き続き党首として活動を続けていきます。 1898年(明治31年)、総理大臣を大隈重信とする第一次大隈内閣(隈板内閣:わいはんないかく)が誕生しました。 大隈内閣の前の内閣は、伊藤博文による第三次伊藤内閣。伊藤内閣は、日清戦争の勝利によって陸・海軍の軍備拡張要求が強まる中、地租の増徴案を議会に提出しました。初期の議会以来、地租の軽減を要求してきた進歩党(大隈重信)と自由党(板垣退助)は、これに反対し、合同して「憲政党」を組織しました。衆議院に絶対多数を持つことになった憲政党の出現により、伊藤内閣は議会運営の見通しを失って半年で退陣し、総理大臣を大隈重信、内務大臣を板垣退助とする初めての政党内閣である大隈内閣が誕生したのです。 【福沢諭吉の死】 大隈重信の盟友・福沢諭吉は、1901年(明治34年)に、69歳で亡くなりました。葬儀には、1万5000人もの会葬者が訪れましたが、諭吉は、平素からすべて質素を旨としていたため、香典など一切の供物が謝絶されました。 このとき、大隈家から福沢家に切花が届けられました。大隈は、政府に身を置きつつ、福沢と意見を同じくしていた旧友であり、51歳のとき暴漢の爆弾テロに遭い、右足を切断していました。供物は一切受け取らないという福沢家の受付に対して、大隈家の使者は主人が不自由な体で花束をつくったものであり、福沢の葬儀にぜひ供えてほしいと願い、こう言いました。 「この花は買って来たものではありません。大隈が手塩にかけて育てた温室の花を、訃報を聞いて涙ながらに自ら切り取ったものです。」 福沢家の受付は、その思いをくみ取って、大隈重信から送られた花束だけは黙って受け取り、福沢諭吉の霊前に供えました。 【早慶戦】 幕末、福沢諭吉は、徳川幕府の使節団の一人として、咸臨丸で勝海舟たちとともに、サンフランシスコに渡りました。そこで、福沢は野球という近代スポーツに出会いました。のちに、福沢諭吉は、この話を大隈重信に話し、大学野球の原型ともいうべき早慶戦を行うことにしました。 1901年(明治34年)秋、早稲田に野球部が誕生します。それは、東京専門学校が改組して、早稲田大学となる準備として創設された高等予科に、当時の中学校野球部の花形選手たちが入学したからです。 福沢諭吉は早慶戦を目にすることなく、既にこの年の2月3日に亡くなっていますが、2人の念願であったベースボール早慶戦が1903年(明治36年)に行われます。この時、始球式をつとめたのは大隈重信でした。早稲田と慶応は、当初から深い友情で結ばれていたのです。早慶戦だけでなく、今の日本の学生野球も各種のスポーツも大隈と福沢の交流から生まれたものといえるでしょう。 【太陽暦への変更と福沢諭吉】 明治になって、いろいろなことが新しく変わりましたが、それまでの太陰暦(天保暦、太陰太陽暦、旧暦)が太陽暦(新暦)になったのも、その一つ。1872年(明治5年)11月9日、参議・大隈重信は突如、詔書を以って太陽暦を採用する事を布告しました。同年12月3日を、1873年(明治6年)1月1日としたのです。したがって、明治5年の12月は、2日までで終わり、同時に、太陰暦もそこまで。翌日の明治6年元旦からは太陽暦。 なぜ、こんなことをしたのか。この理由として日本が行なってきた太陰暦では、欧米諸国で実施している太陽暦と合わず、外交上、通商上不具合を生じ、不便なためであるということでした。 太陽暦への切り替えについては、こんな裏話があります。 この時期、大蔵大輔だった大隈重信、明治5年もそろそろ暮れに近づいた頃、政府の金庫をあけてみたところ、ほとんどカラッポであることに気づきました。暮には官僚、軍人などに1年分の給料(年俸)を支払わなければならないのですが、金がなくては払うことができない。困った大隈重信、友人の福沢諭吉に相談しました。答えは、改暦。改暦すると、12月は2日でかわって、その年の給料日がなくなってしまう。いきおい、給料を払わずにすむ。これは名案と大隈! さっそく改暦の準備に着手しました。一方、福沢諭吉は『改暦弁』という本を書いて、太陽暦のほうが便利だろうとコマーシャル。こうして、太陰暦が太陽暦にかわることになったといいます。本当かどうか疑わしいところですが、大隈重信回想録『大隈伯昔日譚』に出ています。 改暦について、詳しくは、こちら。 http://jp.fujitsu.com/group/fasol/downloads/services/rest/refreshments/rm_097.pdf 『お茶うけ 第97話 (明治の改暦 天保暦(太陰太陽暦)より太陽暦へ (その2)』 ファイルタイプ:PDF/Adobe Acrobat 【第2次大隈内閣】 第2次大隈内閣は第17代内閣総理大臣の大隈重信によって組閣された内閣です。期間は1914年(大正3年)4月16日〜1916年(大正5年)10月9日。 1914年(大正3年)、ドイツのシーメンス社からの軍艦購入などに関する汚職事件がもとで、 山本権兵衛内閣が退陣しました。元老や陸軍は、言論界や民衆の間に人気のある大隈重信に組閣を求めました。それを受けて、大隈重信は2度目の内閣を組織しました。7月、第一次世界大戦が起こると、中国大陸での権益確保を求めて、8月23日に対独宣戦布告を行いました。 【人生125歳説】 大隈重信は、日頃から「人間は125歳まで生きられる」という、人寿125歳説を口にしていました。これは、当時のアメリカ医学界で唱えられていたものですが、大隈はそれに、「快活な精神が肉体を支配することによって、はじめて不老長生を得る」という自分の主張を織り込んでいました。 しかし、1921年(大正10年)に感冒で病床に伏すと、その後に膀胱カタルを起こし、病状が悪化しました。一進一退の日々が続き、それが報じられると、全国から見舞いの手紙や電報が届けられました。 【大隈の死 国民葬】 大隈重信は、1922年(大正11年)1月10日の早朝、苦痛の様子も見せず、早稲田で83年10ヶ月の生涯を終えました。大隈が人生の天寿と考えた125歳には遠く及ばず、数え歳で85歳でした。 大隈の訃報が伝えられると、弔意を述べるために各界の名士はもちろん、大勢の市井の人も大隈邸に足を運びました。1月17日に早稲田の大隈邸で告別式が行われたのち、儀仗兵(ぎじょうへい)の一個小隊に護衛された柩が、早稲田の教職員、学生、日本女子大学の学生らをはじめとする会葬者らの参列するなかを、日比谷公園に向かいました。市民たちは葬列が通り過ぎると、整然とその後に続きました。葬列は、東京市から無償で提供された日比谷公園に到着し、そこで未曾有の「国民葬」が催されました。 その名が示すように式には約30万人の一般市民が日比谷公園の斎場を埋めつくし、会場だけでなく沿道では150万人という市民が並んで柩を見送り、大隈との別れを惜しみました。 墓所は佐賀市の龍泰寺と東京都文京区の護国寺にあります。 --------------------------------------------------------------- 出典および参考にした資料: ・書籍『大隈伯昔日譚』大隈重信回想録(早稲田大学出版部) ・書籍『福翁自伝』福沢諭吉自叙伝(慶応義塾大学出版会) ・書籍『志立の明治人〈上巻〉福沢諭吉・大隈重信』(芙蓉書房出版) ・書籍『政治家の生き方』(文春新書)第1章 犬養毅と尾崎行雄 ・書籍『詳説 日本史』(山川出版社) ・書籍『知られざる日本史 あの人の「幕引き」』(青春出版社) ・写真『大隈重信国民葬写真』(早稲田大学図書館) ・早稲田大学校友会会報 ・早稲田大学絵葉書 ・Webサイト『早稲田大学創立125年記念のホームページ』 http://www.waseda.jp/waseda125/index.html ・Webサイト『創設者 大隈重信』 http://www.waseda.jp/jp/okuma/index.html ・Webサイト『早稲田大学』 http://www.waseda.jp/top/index-j.html ・Webサイト『2008年 慶応義塾は創立150年を迎えます』 http://keio150.jp/ ・Webサイト『慶応義塾』 http://www.keio.ac.jp/index-jp.html --------------------------------------------------------------- 当blogにて使用している画像・音楽・引用文の著作権は、その著作者・制作者・制作会社に帰属します。 |
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大学の校友会に出てみた
母校の校友会(近隣の支部会)に初めて参加してきた。私の出た大学は1学年何千人もい... ...続きを見る |
期間工から社労士開業! 2007/12/01 23:05 |
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