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zoom RSS 【ドラマ】篤姫〜江戸城無血開城の陰に! 

<<   作成日時 : 2007/05/10 00:58   >>

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                                       初版: 2007.5.5 - 5.10
                                       改定第11版: 2007.10.13


荒野流転
パソコンテレビGyaO放送オリジナル・ブロードバンド・アニメ
幕末機関説 いろはにほへと』 オープニングテーマ
歌:FictionJunction YUUKA(南里侑香)


とても“和で古(いにしえ)な香りを抱かせゆく、
壮大かつ幻想麗美な楽曲”へと仕上がりましたね。
---YUUKAさんのインタビュー記事より---


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 5月連休、家でゆっくり読書をした。
読んだ本は、司馬遼太郎の短編小説『最後の将軍 -徳川慶喜-』。
優れた行動力と明晰な頭脳を持ちながら、抗しがたい時勢の流れに自ら幕府を放り去らねばならなかった慶喜の無念が綴られている。

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「最後の将軍 -徳川慶喜」 司馬遼太郎 文春文庫


 2008年のNHK大河ドラマは、宮尾登美子の長編小説『天璋院篤姫(てんしょういん あつひめ)』をドラマ化した幕末の物語『篤姫』とのことであるが、『最後の将軍』にも篤姫のことが語られていた。

 一部分を引用してみよう。
 「将軍(徳川家定)は常人におわさぬ。そなたにはふびんではあるが、天下のためだと思い、身を殺したつもりで嫁ってもらいたい。」
と、(薩摩藩主の)島津斉彬(なりあきら)はその娘に言いふくめた。名を敬子という。実子ではなく、島津一族の島津安芸(あき)という者の娘だった。容姿にすぐれ、そのうえに聡い。斉彬はそれに目をつけ、自分の養女にしたのである。名を大名の娘らしく篤姫(あつひめ)とあらため、さらに転じて近衛関白家の養女とした。近衛家養女ならば将軍家に輿入れしてもおかしくない。のちの天璋院(てんしょういん)である。
 この縁談は、幕府の首相格である阿部正弘(老中)によって軌道にのせられた。阿部正弘は、斉彬とは契盟の友であった。双方、たがいの賢を尊敬しあい、同時に利用しあっている。阿部正弘は薩南の島津氏と手をにぎることによって三百年来の幕府の禁忌を破ろうとしていた。(中略) さらに正弘は徳川家の獅子身中の虫といわれた水戸家とも握手し、その力を利用することによって列強の侵犯をふせごうとした。正弘が篤姫輿入れや一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)の将軍世子問題に力をつくしたのもむりはない。


江戸城無血開城談判
 江戸末期、徳川幕府と薩摩藩との関係が次第に悪化する。ついに薩摩は朝廷と組んで倒幕に立ち上がり、京都から江戸城へ進軍を開始した。旧幕府軍と薩長連合軍との間で戦われた鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は敗れ、幕府の運命はもはや風前の灯火であった。新政府軍参謀・西郷隆盛は打倒徳川を強行するため、日本全体を戦乱に巻き込む危険を冒してでも、江戸を攻撃しようとする。将軍徳川慶喜は、徳川家存続を第一に考え、恭順の姿勢を示した。それでも西郷は武力倒幕の為、江戸城総攻撃を決意していた。

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西郷隆盛


 徳川慶喜の家臣で、幕府全権陸軍総裁の勝海舟が立ち上がった。江戸を戦火から防がなければならない。内戦となれば苦しむのは人民。それは決して勝海舟が求める政治とは言えない。
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勝海舟


 西郷隆盛と勝海舟による江戸城無血開城に関する会談が慶応4年(1868年)3月13日と14日の2回行なわれた。第一回会談は芝高輪の薩摩藩邸、第二回会談は芝田町の薩摩藩邸である。

 しかし、この会談だけで江戸城の無血開城が決まったわけではない。確かに最終的には勝と西郷の話し合いによって無血開城となったのだが、徳川慶喜と勝海舟は、その前に根回しを行なっていた。それは、皇女和宮による新政府への徳川家存続嘆願、イギリス駐日特派全権大使パークスの斡旋、幕臣山岡鉄舟(山岡鉄太郎)による西郷への訴えである。

 新政府への嘆願については、徳川慶喜が静寛院宮(せいかんいんのみや)に仲立ちを頼んだ。静寛院宮は仁孝天皇の第8皇女として生まれ、和宮親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう)と称していたが、公武合体策により徳川第14代将軍家茂(いえもち)に降嫁したものの、家茂が慶応2年8月20日長州征伐の途中、わずか21歳で病没したため、髪を剃り静観院と称し江戸城にとどまっていた。西郷の幕府攻撃に際して、和宮は直筆の徳川家存続と慶喜処分寛大を求めた嘆願書をしたためた。和宮の密命を受けた和宮付の大奥女官・土御門藤子(つちみかどふじこ)は、京へ向けて旅立った。慶応4年2月6日、土御門藤子は嘆願書を新政府に提出した。この和宮の嘆願書により、新政府参与の岩倉具視は、内々であるが慶喜助命の沙汰を発した。慶喜は江戸城を出て上野寛永寺大慈院に移り謹慎した。

 慶喜は謹慎したものの、駿府(静岡市)に進駐していた西郷率いる新政府軍は、軍議を開き、3月 15日に江戸城を総攻撃することを決めた。勝海舟が動いた。

 勝海舟は、薩摩とイギリスとの貿易関係を早くから掴んでおり、そこに目をつけて江戸城無血開城に向けて西郷攻略を考えた。3月9日、勝海舟は通訳アーネスト・サトウと会見し、イギリスの駐日特派全権大使パークスが「戦火の波及が貿易に及ぼす悪影響を恐れる」という信念を持っていることを知った。勝海舟はパークスと会談し内乱回避について話し合った。

 3月11日に西郷の代理人の木梨精一郎が横浜でパークスに会った。勝海舟は、その結果を期待して3月13日の西郷との会談に臨もうと考えた。勝海舟の目論見通り、パークスは木梨に江戸攻撃反対を表明した。木梨のもたらしたパークスの表明は、西郷を驚かせ困惑させた。
 パークスは、「江戸で戦争が起れば、当然その火は横浜にも及ぶ。横浜には各国の公館・領事館や商社がある、在留外人の家族も多勢居留地に居る、それらの人たちの生命・財産の安全のためにも戦争は反対である。また、徳川慶喜は恭順の意を示している、恭順する者を攻撃するのは国際法に反する行為だ」という。これまで薩摩は、イギリスは自分たちの味方であると思っていたのに、驚くようなパークスの話だった。 これでは江戸城総攻撃はむずかしい。

 一方、慶喜は、山岡鉄舟に、勝海舟の代理人として西郷に会い無血開城について折衝するよう命じていた。 山岡は西郷に会う前に、勝海舟の腹を確認するために勝宅を訪ねた。その時、勝海舟から「何か策はあるのか」と問われて、「臨機応変は胸中にあり」と答えたという。山岡は、3月9日駿府に駐留する新政府軍本営にたどり着き、西郷と面会。このとき、新政府軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と堂々と乗り込んでいったという。西郷との談判において江戸開城の基本条件について合意を取り付た。

 徳川慶喜や勝海舟の工作の裏側にもう1人、女性がいた。天璋院篤姫である。天璋院は徳川家を滅ぼそうとする西郷隆盛に命がけで嘆願したのである。江戸城がいざ自らの故郷である薩摩によって攻め込まれようとしたとき、天璋院は旧知の西郷隆盛へ1300字なる捨て身の嘆願を書にしたためた。平和的解決と徳川家の存続を一命にかけて訴え、江戸城総攻撃を中止して欲しいと懇願した。天璋院の嘆願書をもった使者は3月11日に江戸城を出て新政府軍本営に赴いた。
 天璋院の嘆願書は西郷の決断に少なからず影響を与えたといっても間違いないだろう。

 こういった下準備を経て、3月14日、勝海舟は何食わぬ顔で田町の薩摩藩邸へ行き、西郷と二回目の会見をしたのである。西郷はパークスのことはオクビにも出さない。既にその時は勝海舟の方に勝ちがあった。
 会談で西郷は、慶喜の助命と徳川家に対する寛大な処分を求める勝海舟の申し出を受け入れ、慶喜の助命・水戸謹慎を決断し朝廷を説得することを約束したのである。西郷は、明日に迫っていた江戸城総攻撃の中止を決めた。

 3月20日、西郷は宮中に参内し、正式に徳川慶喜助命の天皇の決裁を得た。

  江戸城開城の決定により、静寛院宮と天璋院は4月9日に江戸城を出た。静寛院宮は清水邸へ移り、天璋院は一橋邸へ移った。そして、慶喜が上野で謹慎しているさなかの4月11日、江戸城は開城され新政府軍に明け渡された。慶喜は、新政府からの達しにより、その日の早朝上野を発ち、15日に水戸の弘道館に到着、水戸で謹慎を続けた。

 ついで、新政府の決定により、7月19日水戸を出て26日駿府の宝台院に到着、駿府で謹慎生活を続けた。

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明治神宮外苑聖徳記念絵画館 「江戸城開城談判」 画・結城素明
江戸城無血開城に向けて西郷隆盛と勝海舟による会談の場面


勝と西郷の談判の様子
口火を切ったのは勝だった。

勝「慶喜様ご恭順ということは既にご承知になっていると思う。
我々もどこまでも恭順ということでやっておる。
ゆえに明日の江戸城総攻撃はとにかく、見合わせて欲しい。」
西郷「ならば江戸城をすぐに渡されるか。」

しばらくの沈黙の後、勝ははっきりと答えた。

勝「城はお渡し申そう。」
西郷「武器弾薬は如何。」
勝「お渡し申そう。」

しかし、勝は徹底抗戦派が存在する実情を話して、
武器引渡しについては猶予を求めた。
今度は西郷が沈黙した。
これは引き伸ばし策なのかもしれない。
しかし、西郷は勝を信じた。

西郷「わかりもうした。明日の江戸総攻撃は中止する。」

(明治維新の証言集「史談会速記録」より一部分引用)


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西郷・勝会見の地
西郷隆盛と勝海舟が無血開城のための会見をした
東京三田の薩摩藩江戸屋敷跡に立っている碑。
現在は三菱自動車工業のビルが建っている。
東京都港区芝5-33-11(JR田町駅から徒歩2分)


天璋院の西郷への嘆願の言葉
 「今、国家の形勢はいかばかりかと朝夕心配しております。私は女で無力ですが、徳川に嫁ぎました以上は徳川家の土となり、この家が安全に永らえることを願ってやみません。悲嘆の心中をお察しいただき、私の一命にかけ、何卒お頼み申し上げます。」
                        『天璋院の西郷宛の書簡』より意訳。

徳川慶喜の行く末

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一橋慶喜(最後の将軍・徳川慶喜)


 徳川慶喜は、1837年に江戸小石川水戸藩邸に生まれた。1847年、11歳のときに水戸徳川家を離れ、徳川御三卿の一つである一橋徳川家を相続して一橋邸に移り住んだ。名は慶喜と称した(一橋慶喜)。
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一橋徳川家 屋敷跡
(千代田区大手町の丸紅、気象庁、大手町合同庁舎付近一帯)
一橋邸は江戸城一橋門内、現在の千代田区大手町1丁目4番地付近にあった。


 和宮の夫である徳川14代将軍・家茂は、第2次長州出兵のさなか、大阪城で病死する。家茂の死にともない、将軍後見職だった一橋慶喜が、一橋家から徳川宗家(将軍家)に入り、15代将軍に就任した(徳川慶喜)。

 現在の日本の議会制度はイギリス型議会制度であるが、徳川慶喜は、当時、そのイギリス型議会政治への転換を想定して、慶喜のブレーンの西周(にし あまね)の構想に基づいて、1867年に「大政奉還」に踏み切った。その思想は、皇室をイギリス王室に、大君(将軍)をイギリス首相になぞらえたものである。
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西周


 慶喜は、単なる政権返上は考えなかった。「開国の決着をつけず政権返上後の新政治体制を確立しないままでの政権返上論は無責任」と考えた。

 徳川幕府が「攘夷は不可能」と政権を投げ出せば、攘夷論者の長州藩毛利家が後任の征夷大将軍になり、毛利幕府の下で攘夷を断行するのでは、どうにもならない。幕府が政権返上(大政奉還)を実行するには、開国への道筋をつけ、政権返上後の新しい政治体制を準備しなければならない。それには、研究が必要だった。徳川慶喜は、将軍後見職だった一橋時代から幕政改革に取り組んでいたが、おそらく、自分の手で日本の近代化を成し遂げたかったのだろう。

 しかし、自分に課された最大の政治課題である開国の大業を成し遂げた後、薩長軍の勢いに抗しきれず、将軍在位1年にして政権を降りて、江戸を明け渡し、水戸、ついで駿府に謹慎した。さぞ無念であっただろう。この頃、まだ30歳ぐらい。

 徳川慶喜は、構想した新政治体制の確立こそ成就できなかったが、日本近代化のためあらゆる準備を行い、布石を打った後、政権から去ったのである。こうした責任感のある為政の心こそ、今日、求められているのではなかろうか。

 わが国の歴史教育では、「無為無策で統治能力を失った徳川幕府に代わって薩長等の若い志士が立ち上がり、明治維新を成し遂げ、輝かしい近代国家を建設した」と教え、ほとんどの日本人はこれを信じている。しかし、事実はそうではない。鳥羽・伏見の戦いに始まる薩長新政府軍と旧幕府軍との間で行われた戊辰(ぼしん)戦争で薩長新政府が勝利し、幕府と朝廷の共存をはかった「公儀政体論」はたちまち崩壊して、薩長による討幕開国という明治維新への道を進んでいった。

 薩長討幕派は、黒船が来航してから15年の長きにわたって、素直に開国に向かって進もうとせず、攘夷というヒステリックな空論を唱え続け、世の中を混乱に陥れてきた。薩摩藩は、薩英戦争の敗北で外国の近代軍事力の脅威を思い知って、開国論に宗旨を変更し、ようやく現実路線が動き出したのである。長州藩においては、高杉晋作は、最初はガリガリの攘夷論者だったが、土佐藩の坂本竜馬と同じく開国に転向したのである。彼の場合は、上海に行き西洋文明を目の当たりにしたことによって、こんなヒステリックで排他的な攘夷論ではダメだということに気づいたのである。いずれも、当初から徳川幕府の開国論に同調していれば、長年にわたる無用で無益な混乱は避けられたと思われる。

 ところが、戊辰戦争に勝った薩長新政府は自分達に都合のよい幕末維新史を書いて学校で教え、私たちはそれに洗脳されてきたのだ。「戦争に勝った者が正しく、負けた者が悪い」と勝者が敗者を裁くような歴史観では、真実は見えてこない。歴史は単に「戦勝者の作り話」にすぎないということになる。


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戊辰戦争 地図
地図クリックで拡大表示


 徳川慶喜は、明治2年に謹慎がとかれたのちも長く駿府に在住し、狩猟・謡曲など趣味の世界に生きた。徳川宗家から定期的に「御定金」が送られて生活したのである。相談相手と朝廷とのパイプ役は勝海舟で、勝海舟は後に慶喜の10男・精(くわし)を婿養子に迎えている。

 勝海舟は維新後、明治新政府に迎えられ、成立間もない明治政府の土台作りに協力し、参議兼海軍卿・枢密顧問官などを歴任し伯爵となった。一方で元幕臣の保護にも努め、水面下で、徳川家と朝廷との間の和解交渉を進めた。

 慶喜は明治30年、東京となった江戸にようやく帰住。翌年、皇居で天皇皇后に拝謁し、皇室と徳川氏の和解が成立した。徳川を倒した維新の元勲達の大半が死ぬと、慶喜の大政奉還が高く評価されるようになり、明治35年、66歳で華族に列せられ公爵を授けられた。また、明治40年、72歳で明治天皇から勲一等旭日大綬章を賜り、77歳で大往生した。

 なお、徳川慶喜が新政府に恭順したあとの3月29日、田安徳川家の田安亀之助改め徳川家達(いえさと)が慶喜から家督を譲り受け宗家を継ぐことで、徳川家の存続が許された。家達は徳川宗家16代当主となり、5月24日、駿府70万石に封じられた。そして、徳川家達は、明治2年、明治政府から任命され静岡藩知事になった。

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明治神宮外苑聖徳記念絵画館壁画 大政奉還(於:京都二条城)


今、徳川家の子孫は

 徳川の現在の子孫は、「徳川・松平一門の会」に所属し、会員数は約600名とのこと。
本稿執筆時点での徳川各家の当主は以下の通りである。

徳川宗家(将軍家):現在、徳川家広氏が第19代当主。慶應義塾大学経済学部卒業後、ミシガン大学で経済学修士号とコロンビア大学で政治学修士号を取得され、現在、経済書籍の翻訳に携わっておられる。父親は第18代当主の徳川恒孝氏で日本郵船顧問、徳川記念財団理事長。祖父は保科正之を祖とする徳川家御家門・会津松平家分家の松平一郎氏で、現・三菱東京UFJ銀行会長。祖母は徳川第17代当主徳川家正氏の娘・豊子さん。
徳川慶喜家(宗家別家):徳川慶朝氏が第4代当主。写真家兼静岡文化芸術大学講師、コーヒー研究家。平成16年に亡くなられた高松宮妃喜久子様は、徳川慶喜家第2代当主の徳川慶久氏の次女。

主な徳川親藩は以下の通り。
尾張徳川家(御三家):徳川義崇氏が第22代当主。豊島区目白の財団法人徳川黎明会会長。
紀伊徳川家(御三家):徳川宜子氏(女性)が第19代当主。建築家、東京建築士会評議員、東京YMCAデザイン研究所講師。
水戸徳川家(御三家):徳川斉正氏が第15代当主。水戸の水府明徳会(徳川博物館)の理事長。
一橋徳川家(御三卿):徳川宗親氏が第14代当主。水戸で施設園芸農業自営。
田安徳川家(御三卿):徳川宗英氏が第11代当主。石川島播磨重工業関西支社長を経て、現在、全国東照宮連合会顧問、社団法人霞会館評議員、社団法人尚友倶楽部評議員。
清水徳川家(御三卿):徳川豪英氏が第9代当主。
越前松平家(御家門): 徳川家康の次男結城秀康の子孫。
会津松平家(御家門): 第2代将軍徳川秀忠の庶子保科正之の子孫。
越智松平家(御家門): 第6代将軍徳川家宣の弟松平清武の子孫。
御家門については、資料の手持ちがないので、現在の当主名の記載は省く。分家は多数あり、NHKの元キャスターの磯村尚徳氏と現キャスターの松平定友氏は、徳川家康の異父弟・松平定勝を祖とする伊予松山藩久松松平家の分家の子孫で、いとこどうし。

御三家(ごさんけ)は、徳川宗家存続のために家康が遺したもので、宗家に次ぐ地位の尾張・紀州・水戸の徳川3家を指す。尾張家・紀州家は、将軍に継嗣のない際に将軍の後継者を提供する役割を担った。水戸家は、将軍家を継ぐことはできなかったが、江戸常勤の任務(定府の制:じょうふのせい)があり御三家とされた。御三卿(ごさんきょう)は、8代将軍吉宗の系統の田安家・一橋家・清水家の徳川3家を指す。将軍に継嗣のない場合、この血筋からも将軍職を継ぐことができるようになった。水戸家からは将軍は出さない原則であったが、一橋慶喜は水戸家出身でありながら、第十五代将軍に就任した。これは、あるとき一橋家に男子が生まれなかったので、男子が沢山いた水戸家から養子にもらったものである。あくまで一橋家から将軍を出したのであって、水戸家から将軍を出したわけではない。御家門(ごかもん)は、徳川親藩の中で、御三家・御三卿以外の家柄。御家門は徳川家康の旧姓である松平姓を名乗ることを許された。 徳川家康はもともとは松平姓であったが、三河統一に伴い、先祖得川義季の名字を復活させるとの名目で、松平から徳川に姓を改めている。徳川を名乗るのは徳川本流の家柄のみとされ、親戚筋の家は御家門と言われ、松平姓のままとされた。


小説『天璋院篤姫』について

 宮尾登美子の小説「天璋院篤姫」は女性の読者は多いと思うが、私は、天璋院の話は徳川慶喜と勝海舟の歴史や小説から得たものであり、宮尾登美子の小説は読んでいない。そこで、書評については、以下に引用文を記載する。

 宮尾登美子の文学は、過酷な運命を背負わされた女性たちの心の声を丁寧に掬い取る。たとえ将軍の正室といえども、その心の内はどのようであったかということを、小説「天璋院篤姫」で、読者は心地よい緊迫感とともに知ることができるだろう。
 (天璋院篤姫--故郷、鹿児島とゆかりの人物をたずねる〜NPO法人かごしま文化研究所 副理事長 三嶽公子さんの「文学作品としての魅力」より引用)

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「天璋院篤姫」(上下巻) 宮尾登美子 講談社

  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 1863年(嘉永6年)8月21日。萩の花さかりのこの日、鶴丸城を出、江戸へと向かう1つの行列があった。その列に護られた駕籠のひとこそが薩摩藩藩主島津斉彬の養女篤子、後の天璋院であった。
 篤姫=島津敬子は元は島津分家筋の姫であったが、その器量を見込まれ斉彬の養女となる。斉彬の秘命を受け、近衛篤子として江戸幕府13代将軍徳川家定の御台所(みだいどころ)となった篤姫だが、病身の夫とは一度も本当の夫婦になれぬまま、幕府内での様々な困難に直面しながらも己の使命を果たそうとする。が、やがてその「使命」に秘められた陰謀の真実に気付いてしまう…
 結婚後2年とたたずして家定は死去、若い未亡人「天璋院」となった篤姫は、大奥総帥として、14代将軍徳川家茂の義母として、家茂の御台所となった皇女和宮親子内親王の姑として、尊皇攘夷の時勢のなかで衰退していく幕府のために力を尽くす。女としての幸せとは無縁のまま、明治維新後も徳川宗家を守り抜いた天璋院篤姫の、波乱万丈の生涯を描く。


篤姫の心
 篤姫の心を表わすエピソードがある。戊辰戦争の火蓋が切られる直前、薩摩藩から天璋院の身柄を藩に引き取りたいと申し出があり、幕臣たちは、これに応じて天璋院に江戸城からの退去を求めた。しかし、天璋院は次のように応えたという。
 「何の罪あって、里にお還しになるか、一歩でもここは出ません。もし無理にお出しになれば、自害します」(岩波文庫『新訂 海舟座談』の中の『海舟余波』より)。
 天璋院は昼夜、懐剣を離さない。それは大奥には相応しくない決意であったが、この大奥における天璋院の心根は、周囲の人々にさぞ勇気を与えたことであろう。
 勝海舟は困って一人で説得に行ったという。海舟は、このとき天璋院に、「あなた方が、自害だなどと仰しゃっても、私が飛込んで行って、そんな懐剣などは引たくります、造作はございませんよ」と言い、それでも自害するようだったら「天璋院様がご自害をなされば、私だって済みませんから、その傍で腹を切ります。すると、お気の毒ですが、勝海舟と心中かとか何とか言われますよ」と言ったので、天璋院たちも思わず「ご冗談を」と笑い出し、なんとか説得することができたそうだ。

 勝海舟は天璋院や和宮に信頼されており、天璋院と和宮が二人で海舟の家を訪ねたという話が『海舟座談』にしるされている。

天璋院と和宮
 天璋院は西郷隆盛に徳川家存続の嘆願に尽力する一方、和宮は朝廷に徳川慶喜の助命と徳川家存続の嘆願にも尽力した。

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左:天璋院 右:和宮


 和宮と天璋院(篤姫)とは年の差10歳ながらも、言わば「嫁姑」の関係にある。勝海舟は「海舟座談」の中で、「和宮と天璋院とは嫁姑の関係にあり最初は仲が悪かった」と書いている。しかし次第に何でも相談するようになり、西郷の江戸城総攻撃を前にして、二人して相談して、和宮の使者土御門藤子を通じて、徳川処分寛大の嘆願書を朝廷に届けている。

 和宮は皇室出身、篤姫は武家出身で、生活習慣や身分の違いもあって当初対立があり、書籍によっては、「いじめ」があったと書かれている場合がある。育ちや境遇の違いによる感じ方や考え方の相違はあったのであろうが、天璋院付きと和宮付きの奥女中はともに200数十人いたというから、大奥内での両者のいざこざは絶えなかったのであろう。おそらく、それぞれのお付きの者たちの意見の相違に尾ひれがついて、いじめという言葉で話が広がったのではなかろうか。

 「海舟座談」には、天璋院と和宮の周辺の人たちの和合について、次のように書かれている。
…和宮がいらした初めは、みんな閉息して窺っていたのサ。するとある時、浜御殿(注:現在の浜離宮)へ天璋院と、将軍と、和宮と三人でいらしたが、踏み石の上にどういうものか、天璋院と和宮の草履をあげて将軍のだけ下に置いてあったよ。天璋院は先に降りられたがネ、和宮はこれを見て、ポンと飛んで降りて自分のを除けて、将軍のを上げてお辞儀なすったそうで。それで(天璋院と和宮の周辺のいがみあいは)ピタと静まったよ。
画像
浜離宮恩賜庭園 (かつての将軍家の庭園 - 浜御殿、浜御庭)
汐留シオサイトを望む


 天璋院は元御台所として、徳川家の為に和宮に親しく相談などをしていたようであり、徳川家茂が上洛していた際には、和宮と共に芝の増上寺でお百度参りしたとも伝えられている。
画像
増上寺 - 徳川家霊廟

 
 そのころの和宮の作とされる歌がある。
  「惜しなじま 君と民とのためならば 身は武蔵野の露と消ゆとも」
この歌から、当時の和宮のけなげで一途な心境をうかがい知ることができる。

 なお、薩長新政府への江戸城開城を前にして、天璋院は大奥の解散を見届け、身一つで江戸城を退去した。島津家の支援を断り、女中の再就職・縁談に奔走し、明治16年に48歳で逝去した(墓所:上野寛永寺)。静寛院宮となった和宮は明治10年に32歳で亡くなった(墓所:芝増上寺)。

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皇居東御苑付近 平川門
(かつての江戸城大奥通用門)

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皇居東御苑内 江戸城大奥跡地

                               
二人のヒロイン
 大河ドラマ『篤姫』のヒロインである13代将軍家定の正室篤姫(天璋院)を、同世代の女優の中でも抜きん出た演技力を持つ[宮崎あおい](21)が演じる。宮崎あおいは、NHK連続テレビ小説「純情きらり」で昭和の激動期を生きた桜子役を好演。宮崎あおいは、「桜子同様、篤姫という1人の女性をきちんと演じたい」と抱負を語った。

画像
篤姫(天璋院)役 宮崎あおい
1985年11月30日生まれ。東京都出身。ヒラタオフィス所属。
4歳の時、子役デビュー。主にCMを中心に活動。
本格的に女優業を始めたのは1998〜1999年頃。
< the source of the picture>
日本タレント名鑑 (VIPタイムズ社)


 また、公武合体で14代将軍徳川家茂の正室となるもう一人のヒロイン皇女和宮(静寛院宮)を、女優[堀北真希](19)が演じる。時代劇初出演という。発表会見で、大河ドラマ初出演となる堀北は「初めてなことばかりですが、歴史上の人物を演じられるのが楽しみ。和宮が持つ強さを伝えたいです」と気合十分。堀北真希は、2005年に公開された大ヒット映画「ALWAYS 三丁目の夕日」で星野六子役を好演し、日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞した。

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皇女和宮(静寛院宮)役 堀北真希
1988年10月6日生まれ。東京都出身。スウィートパワー所属。
< the source of the picture>
日本タレント名鑑 (VIPタイムズ社)



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荒野流転(こうやるてん)
    歌詞は、下記のサイトに書かれている。
     http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND49589/index.html

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リンク
NHKドラマホームページ 篤姫放送前情報
篤姫きらり旅

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天璋院篤姫とは-でつながるブログリング
天璋院篤姫とはに関するブログをまとめています。 ...続きを見る
blogring.org
2008/12/17 16:27
篤姫と近代史の奇跡
 視聴者に中高年層が多いと言われるNHKの大河ドラマだが、今年の「篤姫」は珍しく、若い女性層に支持されたらしい。全50回の放映を終わったが、このドラマのことがたくさんのブログで取り上げられていたので、若い女性に受けた人気の秘密は何だろうとそれらを読んでみた。    なかに写楽風・恵さんのブログに「女性の力」というトピがあって、  &lt;font size=&quot;5&quot;&gt;江戸無血開城は近代史の奇跡である&lt;/font&gt;と書かれていた。 ...続きを見る
女と男とアダルト・チルドレン
2008/12/22 21:22

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内 容 ニックネーム/日時
岩波文庫『新訂 海舟座談』は、幕臣でありながら広い視野を持ち、坂本龍馬、西郷隆盛らを開眼させ、また卓越した政治手腕をもって崩壊寸前の徳川幕府に重きをなし、維新後は、海軍卿・枢密顧問官として明治新政府に参与した勝海舟が、その50年におよぶ政治生活をふりかえって語る幕末明治の貴重な体験談である。
マチエール
2007/05/24 19:35
参照文献&出典

徳川宗英著  文春文庫『徳川家に伝わる徳川四百年の内緒話』 
司馬遼太郎著 文春文庫『最後の将軍 --徳川慶喜--』
巌本善治編  岩波文庫『新訂 海舟座談』 
池波正太郎著 角川文庫『戦国と幕末』 
井沢元彦著  徳間文庫『攘夷と護憲』 
鈴木荘一著  かんき出版『勝ち組が消した開国の真実』
マチエール
2007/08/22 21:27

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【ドラマ】篤姫〜江戸城無血開城の陰に!  matiere/BIGLOBEウェブリブログ
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