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zoom RSS 【音楽】タンゴのお話

<<   作成日時 : 2007/03/22 22:58   >>

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タンゴのお話 

本稿は、かつて筆者のホームページ内に記載していたものを移行したものです。

アルゼンチン・タンゴの名曲中の名曲「ラ・クンパルシータ」


スタートボタンクリックで演奏が開始されます。
演奏の著作権は、千葉ギターアンサンブル様に属します。


画像
ダニエル・ビネリ楽団
「タンゴ・メトロポリス(TANGO METROPOLIS)」
2002年7月 日本公演のポスターより

                       
 現在のタンゴは、かつてのイメージとはまるで異なる様相を呈しています。

 2002年7月6日に、板橋区立文化会館にダニエル・ビネリ楽団の日本公演を鑑賞に行きました。この公演は、今までにない新しいスタイルのタンゴ公演であり、2002年7月6日板橋区立文化会館に始まり、全国公開を経て、8月4日東京国際フォーラムに至るタンゴダンスショーでした。ダニエル・ビネリは、ポスト・ピアソラと言われる21世紀のタンゴ界をリードするバンドネオン奏者であり、公演は、彼が率いる五重奏団と10人のダンサーによる、これまでになかった全く新しいスタイルのショーでした。

 演奏とダンスを一体化し、演劇性・ユーモア・情熱・哀愁などを織り込んで、劇場空間をダイナミックに使った今までにない画期的なショーだったと思います。こんなタンゴショーは初めて見ました。照明効果もすばらしく、色と光が織りなすエンターテインメントでもありました。

 ステージ内容は、アルゼンチンのブエノスアイレスにおけるタンゴ発祥の時代を演劇化しながら、ユーモアと過去のノスタルジーを彷彿させたもので、大いに楽しみました。クラシックのエレガントさ、ワルツの軽快なリズムとジャズのスイング・・・これらを伝統的なタンゴに取り込み、音楽の領域を広げた現代的なそのアレンジに魅了されました。

 かつて一時下火にあったタンゴは、およそ10数年ほど前から静かなブームを生んできました。それは、1983年に、モダンタンゴの創始者である「アストル・ピアソラ」が率いる「タンゴ・アルゼンチーノ」の舞台が大ヒットしたのが始まりといわれています。そのショーは、ヨーロッパ、アメリカ、日本と公演されたダンスが主体のタンゴショーでした。ヒットの理由は、舞台におけるエキサイティングなダンスが、世界のダンス界に大きな衝撃を与えた画期的なタンゴショーだったからです。社交ダンスに飽きたダンスファンも、この新しいタンゴダンスに目を向けました。

 そして今回、オーケストラとダンスを融合させたビネリの「タンゴ・メトロポリス」によって、また新しいタンゴの世界が展開されました。

 歌の世界では、ピアソラは、1984年にパリで「エル・タンゴ」というライブを行い、イタリアの歌姫「ミルバ」と共演して世界中を驚かせました。そして、ピアソラ亡きあと、ミルバとの共演はビネリが引き継ぎました。ビネリ五重奏団とミルバは1998年に来日し、日本各地で素晴らしい演奏を聴かせてくれました。このカンツォーネの世界的歌手ミルバは、今、ビネリに全幅の信頼をおいています。

 19世紀末、アルゼンチンの場末の街で生まれたタンゴは、今や世界的な芸術へと進化を遂げたのです。


以下は、LPレコード・CDの解説書、コンサートパンフ、音楽の参考書籍、及びいくつかのホームページの記事等を参照させていただき、手元の記録も含めて構成し、ストーリーを組み立てました。タンゴを例に、文化や芸術や芸能が、いかに政治や経済や社会の変化に伴って変遷するかということも、理解できるかと思います。)

    
----- 目 次 -----

[タンゴの本質]
[タンゴの発祥]
[タンゴのふるさとブエノスアイレス]
[バンドネオンとの出会い]
[タンゴの発展--第一の黄金時代]
[アルゼンチンタンゴとコンチネンタルタンゴ]
[タンゴの隆盛--第二の黄金時代]
[ネオクラシック--第三の黄金時代]
[新しいタンゴ--モダンタンゴの時代]
[モダンタンゴ---ピアソラ以後]

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[タンゴの本質]

 タンゴは、もともとは歯切れのよい二拍子のリズム(律動)を持つ舞曲です。
このリズムにメロディー(旋律)やハーモニー(和音)が加わり、情熱や哀愁などの情感を表していきます。

[タンゴの発祥]

 日本からみてちょうど地球の裏側にある国アルゼンチン。この私たちから最も遠い位置にある国で生まれたタンゴが、私たち日本人にこれ程までに親近感を抱かせるというのは誠に不思議なことです。
 しかし、その創世期は、現在私たちが馴染んでいるタンゴのイメージとは少し違っていました。それは今から100年ちょっと前、19世紀の終わり頃のことでした。

 タンゴは、19世紀の終わり近く、アルゼンチンの首都であり南米屈指の貿易港でもあったブエノスアイレスの下町ラ・ボカ地区の一角「カミニート」で発生した踊り、およびその音楽であると言われています。ここは船の着く港のあるところで、ヨーロッパから多くの移民たちが集まった場所でした。そこは、いわば「根無し草」のはびこる地域でした。酒場では荒くれ男や娼婦たちが、郷愁や貧困からその「喜怒哀楽」を歌い踊ったのがタンゴの起源と言われています。

 この頃、南米はヨーロッパから移住してきた白人たちと、アフリカから労働力として連れてこられた黒人たち、そして原住民のインディオ系の人々とがごっちゃになって、一種カオス的な(混沌とした)雰囲気を作り出していました。別に、これは南米だけの話ではなく、今はアメリカ合衆国が栄華を極めている北米でも同じような状況だったのでしょう。ただ、北米と南米で決定的に異なっていたのは、北米がアングロサクソン系の移住者が多かったのに対し、南米はラテン系の国の移住者が多かったということです。

 このような19世紀末の南米というカオス的状況の中で、タンゴは生まれました。いわれは諸説ありますが、そのリズムの起源は、ヨーロッパのフォークダンスが変形したキューバの「ハバネラ」にあると言われます。これに南アメリカの原住民インディオのメロディーや、ヨーロッパからアルゼンチンに移住した人々の音楽が混合してタンゴが生まれました。キューバのリズム「ハバネラ」、それがブエノスアイレスで変化したと言われる「ミロンガ」、黒人系移民が持ちこんだリズム「カンドンべ」、ヨーロッパから入ってきた「ポルカ」など、様々なリズムが影響しあって出来たものなのです。すなわち、黒人たちの持ってきたアフリカ系音楽の強烈なリズム(律動)と、白人たちの持つヨーロッパ的クラシックのメロディー(旋律)が混じり合ってできた音楽なのです。このことは、何もタンゴだけに当てはまる話ではなく、お隣ブラジルの「サンバ」や「ルンバ」、キューバの「サルサ」、「レゲエ」、アメリカの「ジャズ」も同じような起源を持つ音楽です。アメリカ大陸には混血の人が多いのですが、音楽もこれと同様にかなり混血的なものが生まれたのです。

 また、タンゴダンスは、スペインの「フラメンコ」の一種であったものが、アルゼンチンのセクシーで激しいダンス「ミロンガ」と混ざって、1880年頃、ブエノスアイレスの貧しい移民街に生まれたといいます。それは、男女が抱き合って踊るところに特徴がある革新的なダンスでした。フラメンコ自体は南スペイン・アンダルシアの貧民街で生まれました。中東や印度の詠唱の流れを汲むアラブ系の歌が、ジプシー(起源は印度だがエジプト人と誤解されてジプシーと命名)、アラブ人、ユダヤ人に伝わり、14世紀にイベリア半島で Andalus ( -> Andalucia英語は-sia) と呼ばれたイスラム人の勢力が西欧勢力に征服された時、はみ出し者となったアラブ系やジプシーが歌い続け、ジプシーが土地を追われて職業として踊るようになった19世紀にフラメンコダンスが完成しました。なお、フラメンコという名前は、ジプシーを呼ぶ名Flemingから名付けられたといわれています。

 さて、このようにタンゴが生まれたのは、あくまでもブエノスアイレスという一都会の場末の出来事です。貧しい「クリオージョ」(移民の子で南米生まれの人たち)や「ポルテーニョ」(ブエノスアイレス生まれの人たち)のやるせない感情の発露、荒々しい踊りの伴奏音楽としての生い立ちでした。


[タンゴのふるさとブエノスアイレス]

 タンゴの生まれたブエノスアイレスという街は、南米でももっとも大きな都会であり港町であります。とりわけ、19世紀末のブエノスアイレスは、国際貿易港としてかなり栄えました。そもそもアルゼンチンという国は、広大なパンパ(平原)を持った国であり、穀物や牛肉などの大輸出国として栄えていたのです。穀物の収穫など仕事も山のようにありましたから、ヨーロッパの貧しい国や地方から渡ってくる出稼ぎや移民も後を絶ちませんでした(「母を訪ねて三千里」のマルコのお母さんを思い出してください)。
 しかし、こうした港町にはいつの世も多少うさん臭いところがつきまといます。定住の地を持たない船乗りたちが一夜の夢を追い求めて売春宿に出入りしたり、大麻の貿易や密輸入、はては人身売買までいろんなことが行われていたようです(「ネイキッド・タンゴ」という映画はこの辺りのことをよく捕らえている作品です)。

 ブエノスアイレスの街は繁栄を極めていたので、表通りにはヨーロッパばりのきらびやかなカフェや店が建ち並び、「南米のパリ」とまで言われるようになりました。しかし、一方で貧富の差はどんどん広がっていき、貧しい小作や労働者は過酷な労働を強いられました。その結果、裏通りの方は世界でも最も危ない地域として恐れられるようになったのです。

 前にも書きましたが、タンゴが生まれたのは、ブエノスアイレスのボカ地区の一角だと言われています。このボカ地区は、港町ブエノスアイレスの中でも、このような貧しい「裏町」でした。この裏町の、貧しい労働者や娼婦たちのたむろするカフェで、ギターを伴奏に踊られていたのがタンゴだというわけです。まさにカオスの中から生まれた音楽なのです。

 タンゴの底には、いつも失ったものへの憧れや、悲しみがあります。それが、タンゴの情熱を生み出す土台なのです。


[バンドネオンとの出会い]

 このように、貧民街のあやしげなダンス音楽としてして生まれたタンゴですが、20世紀になると、その音楽も踊りも自らを洗練させ、同時に一般社会に根付き始め、ダンスホールなどを中心に盛んに踊られるようになりました。もとより、ラテン系の移民が多いアルゼンチンですから、踊り好きなのは言うまでもないでしょう。人々の娯楽としてタンゴはブエノスアイレスの風物詩になっていき、果てはそれを見たヨーロッパの人たちによって、ヨーロッパ大陸へと伝えられていきました。

 この過程で、初めはギターやバイオリンで細々と演奏されていたタンゴも、次第にダンスホールなどの大きな場所でも演奏できるように、ピアノなどの音の大きな楽器が求められるようになりました。そんなときに出会ったのが、今ではタンゴの中心的な楽器となっている「バンドネオン」です。このバンドネオンの採用はタンゴに一大変革をもたらしたのです。

 「バンドネオン」という楽器を知らない人もいるかと思いますので、ちょっと説明しますと、バンドネオンとは、もともと携帯用オルガンとして19世紀にドイツで考案された楽器です。ドイツ人音楽家のハインリッヒ・バンドという人が「コンサーティーナ」という小型アコーディオンを改良して作り上げたリード楽器で、要するにアコーディオンの一種です。かつてはアコーディオンと呼ばれていた事もありました。アコーディオンのようなじゃばらのついた楽器です。大きさはアコーディオンよりも小型で、箱形をしています。アコーディオンと大きく異なるのは、鍵盤が付いていなくて、代わりに幾つものボタンが両脇についているということです(右手に38、左手に33のボタン、合わせて71個)。当時ヨーロッパの教会で持ち運び用オルガンとして使われていました。

 このバンドネオンを、1880年頃、誰かがアルゼンチン(ブエノスアイレス)に持ち込み、これがタンゴと出会ったのです。バンドネオンの音色はとても哀愁に満ち重厚でしたので、ロマンティックで感傷的なアルゼンチンタンゴのメロディにぴったりだったのです。しかもそのころのタンゴはダンスのための音楽だったわけですから、小回りの聞くバンドネオンはきっと重宝がられた事でしょう。当初、タンゴのオルケスタ(オーケストラ:楽団)は3人位でバイオリン、フルート、ギターが標準編成で演奏されダンスは踊られていましたが、今ではバンドネオン、バイオリン、ピアノ、ベース(コントラバス)と言った楽器が基本になって編成され、バンドネオンによってアルゼンチンタンゴには神秘的な音色が加わり音楽のもつ感情表現が一層強調されるようになりました。

 ハーモニーを奏でことができ、メロディーも弾けるこのバンドネオンは、1900年頃には、それまでタンゴの主流楽器であったフルートやギターに代わって、タンゴのメロディ楽器として定着していきました。やがてそれは、タンゴ表現の変化に伴って、タンゴを象徴する楽器にまで成長しました。なお、バンドネオン(Bandoneon)という名称は、ハインリッヒ・バンド(Heinrich Band)氏が発明したことにより、バンド(Band) + アコーディオン(Accordion) = バンドネオン(Bandoneon)と名付けられたものです。

 ちょうどこの頃(1914年)、第一次世界大戦が起こり、アルゼンチンでは軍需景気となります。おかげでそれまでは下層民の音楽だったタンゴも、アルゼンチンの文化の一つとして認められるようになってきました。 バンドネオンの発展により、この頃になるとタンゴに本格的な歌詞も付けられ始めます。本来タンゴに内蔵されていた、人の心の奥底からほとばしり出る”何か”が、バンドネオンと歌詞という強烈な表現手段を得て、一気に吹き出しました。初期のひたすらに明るい陽気な表現に代わって、タンゴは人生に付きものの熱情、誠実、期待、裏切、激怒、失望、哀感を詠いあげるようになりました。それまで、ほとんど長調だったタンゴは、この頃から短調の世界になります。単にダンスの伴奏だったタンゴに「歌」がつくことによって、より感情表現が深くなったといえるかもしれません。「歌」はタンゴにとって欠かせないものとなり、いい歌手のいないオルケスタは人気が出ないといわれるほどでした。

 1917年に、ドラマティックな歌詞の「わが悲しみの夜」という曲が登場してから、タンゴは本格的に歌の時代に入りました。 当時の代表的なタンゴ歌手に「カルロス・ガルデル」という人がいます。ガルデルは「タンゴの英雄」と言われています。

 同時期に、「ラ・クンパルシータ」というタンゴを語る上では忘れる事の出来ない曲も生まれています。

 こうして、バンドネオンは、哀愁を帯びた「メロディ」を弾くのにも、歯切れのよい「リズム」を刻むのにも適した楽器として、タンゴに不可欠の楽器となっていったのです。まさしくここに、距離を超えた日本人とタンゴの親和性があるような気もします。

 最近は弾ける人が少なくなったバンドネオンは、ボタンの配列がバラバラという極度に難しい指の運びに加え、蛇腹を開く時と閉じる時で同じボタンを押していても違う音が出る、ディアトニック(押引異音)という不思議な特性を持っています。音域は全部で5オクターブほどにもなります。アルゼンチン・タンゴに使われるバンドネオンはディアトニックタイプという押し引きで音階が違うタイプで(押し引き同音のものはクロマティックタイプ)、ボタン(キィ)の配列も単に続けて並んでいるわけではなく、左右の配列も全く異なっていて、演奏するには少々苦労がいります。レガート奏法とともに、アコーディオンでは出せない鋭いスタッカート演奏が可能で、深みのある魅力的な音色が特徴です。だからこそ、アルゼンチン・タンゴ独自の楽器としての位置を確立して行く事にもなりました。

 こうしてバンドネオンが普及するにつれ、タンゴは音楽性を高めていきます。最初は場末の下町で、船乗りらが一夜の憂さをはらすために、踊ったり歌ったりするというような場面で聴かれていたようですが、バンドネオンが使われるようになり、名曲といわれるような曲が作られるようになったりして、だんだんとその地位を確立して行くようになりました。すでに、「エル・チョクロ」「エル・ポルテニート」「ラ・モローチャ」など、いくつかの名曲も生まれてはいたのですが、バンドネオンの名手と呼ばれる人たちが生まれ、自分のオルケスタを持ち、作曲家としても活躍するようになったのです。

 古典タンゴといわれる曲の多くがこの時期に生まれました。このころの演奏家としては「ビセンテ・グレコ」「エドゥアルド・アローラス」「ロベルト・フィルポ」などがいます。曲目としては「ロドリゲス・ペニャ」「デレーチョ・ビエホ」「インデペンデンシア(独立)」「エル・アマネセール(夜明け)」などがあります。


[タンゴの発展--第一の黄金時代]

 1920年代になると、タンゴは音楽的にも高度な発展を遂げます。それまでの既存のオルケスタの活躍に加え、新しい人材もどんどん進出してきました。

 代表的な演奏家は「フリオ・デ・カーロ」で、バンドネオン2台、バイオリン2台、ピアノ、ベースという6重奏団の形を取り、その音楽性も上品さとそれまでの下町の音楽をうまくミックスしたような形で、評判となります。この新しい演奏スタイルは後のタンゴ演奏家に大きな影響を与える所となり、「近代タンゴの祖」と呼ばれるほどです。

 フリオ・デ・カーロは、ある意味で現在のアルゼンチンタンゴの元を築いた演奏家です。同時代に活躍していた「フランシスコ・カナロ」(後述)と比較されることが多いのですが、カナロがヨーロッパへ渡り華麗で上品な(ある意味スノッブな)タンゴを花開かせたのに対し、デ・カーロのタンゴは、タンゴのふるさとであるブエノスアイレスに根ざした、泥臭いタンゴを確立したという特徴があります。ただし、「泥臭い」とは言っても、粘っこいとかそういう感じではありません。ブエノスアイレスという南米の都会に漂う、優雅さや明るさ、そして哀しさみたいなものを、彼はタンゴの曲にして演奏し続けました。だから、デ・カーロのタンゴはまさにブエノスアイレスそのもの、とよく言われ、アルゼンチンでは広く愛されたのです。

 デ・カーロの音楽的な功績についてはいろいろ言われていますが、一言で言うなら「明るくて、ノリがよくて、そしてちょっぴり哀しい」というタンゴを演奏した人です。もちろん、こうしたキーワードはすべてのタンゴに通じて言えることではありますが、デ・カーロの演奏こそが、まさにこうしたタンゴのエッセンスをもっとも感じさせてくれるものなのです。もちろん、バイオリニストでもあったデ・カーロ自身や、仲間のバンドネオン奏者「ペドロ・マフィア」などによる演奏技巧のすばらしさも挙げることはできるでしょう。しかし、デ・カーロ楽団のもっともすばらしい点はやはり、ブエノスアイレスという街で生まれたタンゴという音楽を、もっともこの街らしく、つまりタンゴらしく演奏したという、その演奏スタイルにつきると思います。

 もう1つだけ、デ・カーロ楽団のすばらしさを挙げるとするならば、リズムの持つ力を最大限に生かし、そこにいわゆる「ハモリ」の要素をのせたタンゴを作り出した、という点になるでしょう。もちろん、今日ではこうした曲作りは全く目新しくもなんともありません。ピアソラが現れた現代ではむしろ古めかしく映るかもしれません。しかし、1920年代のタンゴ界は、まだタンゴがただのダンス音楽であった時代です。この頃に、主旋律とそれに対する副旋律というハーモニーの要素を取り入れ、音楽としての厚みを持たせたのはデ・カーロです。彼は6重奏団というスタイルで活躍しましたが、その編成は、バンドネオン×2、バイオリン×2、ベース、ピアノという6重奏団でした。リード楽器であるバンドネオンとバイオリンを2名ずつにしてあるのは、それぞれ別々の音を弾いて、バンドネオンならバンドネオンだけで、バイオリンならバイオリンだけで、ハモれるようにしたためです。こうした概念は、そのころのタンゴにはまだありませんでした。カナロ楽団ですら、ハーモニー自体はシンプルだったのです。そして、デ・カーロの6重奏団というスタイルは、その後、タンゴの演奏の最小編成という形になっていきます。そう言う意味でも、いまのタンゴのスタイルを確率したのはデ・カーロなのです。彼のスタイルは、当時のタンゴ少年たちの憧れとなり、後の「アニバル・トロイロ」や「ダリエンソ」、さらには「ピアソラ」にまで大きな影響を与えています。

 タンゴを世界に広め、「タンゴの王様」と言われたのは、前述の「フランシスコ・カナロ」です。カナロは、1925年にパリで公演を行い大成功を収めました。それまでフォルクローレ(民族音楽)の1つであったタンゴをヨーロッパに持ち込み、世界的に大流行させたのです。カナロのパリ公演を契機に、ヨーロッパ製のタンゴが盛んに作られていきます(ヨーロッパのタンゴについては後で述べます)。この時期、たくさんの名曲が生まれていますが、上記のパリ公演により「カナロ・エン・パリ」(パリのカナロ)という名曲が生まれています。

 カナロの音楽の特徴は、何と言ってもその歯切れの良さにあります。まさに「タンゴ」というようなその軽やかなスタッカートは、聴くものを圧倒するわけではなく、ただ流れるように、あくまでも華麗に踊っています。カナロの音楽を一言で言うなら、まさに「踊れるタンゴ」なのです。軽やかなスタッカートをバックに、華麗に流れる優雅なメロディー。これが、20世紀初頭のヨーロッパを席巻したのです。タンゴのふるさと、ブエノス・アイレスは「南米のパリ」の名で親しまれている美しい街。まだ、ベルエポックの香りが漂うこの街の雰囲気をカナロはよく伝えています。そして、こうした彼のタンゴに、当時のヨーロッパ人は魅了されたのでしょう。

 1920年代後半は、本家アルゼンチンでも優秀な音楽家たちが輩出し、ここにタンゴの第一次黄金時代と言われる状況を迎えました。
 
 前述したタンゴ歌手である「ガルデル」もアメリカの映画界へ進出して世界的なスターとなりましたが、タンゴが爛熟期を迎えていた1935年、ガルデルは飛行機事故で急逝します。もともとタンゴのような形式を重んじる音楽は、ある程度隆盛を極めるとどうしても形式化が甚だしくなって飽きられるという宿命を持っているわけですが、ちょうどそう言う時期にさしかかっていたときにスターであるガルデルが亡くなったわけですから、タンゴ界は急速に衰えていきました。1930年代の大恐慌やトーキー映画の登場もタンゴの発展に暗い影を落としたのでしょう。


[アルゼンチンタンゴとコンチネンタルタンゴ]

 タンゴと一口に言ってきましたが、実はタンゴにはヨーロッパを中心に発達した「コンチネンタル・タンゴ」と、本場アルゼンチンで発達した「アルゼンチン・タンゴ」とがあります。ここまでに語ってきたタンゴは、アルゼンチン・タンゴのことですが、この2つはどのように違うのでしょうか。

 1910年前後から、アルゼンチンからヨーロッパに渡って活動するタンゴの演奏家や踊り手が増え始めたことで、フランスやドイツなどにもタンゴの種が蒔かれ始めました。そして、前述の通り、1925年のフランシスコ・カナロ楽団によるパリ公演の成功を機に、大きなブームが起こりました。ヨーロッパ独自のタンゴ文化が生まれ、1920年代後半から30年代にかけて、各国でオリジナルのタンゴが作られるようになったのです。当時の演奏家としては、ドイツのヴァイオリン奏者「バルナバス・フォン・ゲッツィ」率いるオルケスタが特に有名です。こうしたヨーロッパ製タンゴのことを、「コンチネンタル・タンゴ」と呼んでいます。実は、この「コンチネンタル・タンゴ」という呼称は日本人が勝手に付けたもので、日本でしか通用しない名称です。世界的には、どちらも「タンゴ」といいます。

 コンチネンタル・タンゴは、前述の通り、フランシス・カナロがパリで公演したアルゼンチン・タンゴが大変好評を博し、ヨーロッパ の音楽家がそのリズムや、形式をまねて、ヨーロッパ流のタンゴを作りあげたものです。広くアルゼンチン・タンゴ以外のタンゴを指すこともあります。「アルゼンチン・タンゴ」本来のダイナミックさやパワーには欠けますが、メロディの美しさを重視しているため親しみやすく、だんだん世界各地で流行することとなりました。有名な曲には、「ジェラシー」「碧空」「夜のタンゴ」「真珠採りのタンゴ」「奥様、お手をどうぞ」など日本人にはなじみの深い曲がたくさんあります。なかでも「ジェラシー」と「碧空」は双璧でしょう。

 ヨーロッパで独自に発展したタンゴは、まさにヨーロッパ的と言える優雅で美しいメロディーを特徴とするものが多いのですが、反面、アルゼンチン・タンゴが本来持っていたリズムの面白さはほとんど感じることができません。曲の構造も違えば、演奏スタイルも異なり、弦楽器が主体で、通常バンドネオンは入らず、代わりにアコーディオンが入ったりします。もともとの「情熱的」「野生的」なアルゼンチン・タンゴをより「洗練して」「上品に」した感じとなっています(もちろん、当時のヨーロッパのブルジョア風な感覚です)。一言で言うなら「派手な」タンゴ、「華麗な」タンゴという形容があっているかと思います。

 ヨーロッパでは、コンチネンタル・タンゴによるダンスが社交界の花形にまでなりました。コンチネンタル・タンゴは、ダンスホールで踊るために、多くは大編成のバックバンドで演奏されます。音楽的には、よりクラシックに近く、指揮者が立って、バイオリンのシンフォニーやドラムなどの入ったビッグバンドを指揮する形となります。音が厚いのでダンスホールやコンサートホールには向いているのかもしれませんが、やや洗練され過ぎて「骨抜き」になってしまっている気がします。

 1940年代、ブエノスアイレスでは「フアン・ダリエンソ」や「アニバル・トロイロ」、「オスバルド・プグリエーセ」らの台頭などによってタンゴが音楽的に成熟し、大衆の幅広い人気を得たのに対し、ヨーロッパのタンゴは第二次世界大戦の影響などもあり、音楽的に発展することが出来ず、大衆音楽としては明らかに衰退していきました。現在ヨーロッパには多くのアルゼンチン・タンゴ演奏家が住み、世界的な活動を行っている事から、コンチネンタル・タンゴは、やはり本来のアルゼンチン・タンゴの魅力には勝てなかったという、ことではないのでしょうか。

 そのコンチネンタル・タンゴが、いささか歪んだ形で紹介されたのが、戦後の日本でした。日本では戦前(1930年代)からタンゴが親しまれていましたが、アルゼンチンのタンゴもヨーロッパのタンゴもひとまとめにしてヨーロッパ経由で紹介されることが多く、コンチネンタル・タンゴのファンが多かったようです。そうした経緯があったことから、一部のレコード会社やプロモーターが、ヨーロッパでは既に落ち目のコンチネンタル・タンゴを盛んにプッシュしたのです。そのピークは1960年代半ばのことでした。

 日本でのコンチネンタル・タンゴ・ブームの立役者となったのが、ドイツの「アルフレッド・ハウゼ」と、オランダの「マランド」です。例えば、ハウゼは本国では放送局のオーケストラの指揮者をつとめていて、タンゴはレパートリーの一部に過ぎなかったのですが、日本ではタンゴ専門のオーケストラとして売り出され成功したのです。しかし、ハウゼやマランドの音楽はムード音楽(イージーリスニング)に過ぎず、タンゴ本来の魅力からは極めて遠い位置にありました。そして、日本でのコンチネンタル・タンゴ人気は、更なる弊害をも生み出しました。日本の制作サイドが、例えば「エンリケ・マリオ・フランチーニ」のようなアルゼンチンの一流のタンゴの演奏家に、日本向けにコンチネンタル・タンゴのレパートリーを演奏させる現象まで起きてしまったのです。本人たちは、普段とは違うレパートリーを楽しんで演奏したのかも知れませんし、それなりにアレンジの面白さも感じられるものの、やはりどこか本質を見誤っていた気がしてなりません。当時は、私は20 才代半ば、そのことに気が付かなかったのですが・・・・

 このように、かつて、日本に入ってきたタンゴはほとんどコンチネンタル・タンゴでしたし、したがって、日本ではコンチネンタル・タンゴの人気が高く、本家アルゼンチン・タンゴよりもレコードが売れた時代もあったほどです。一般に、日本人が「タンゴ」と言ってイメージするのはこのコンチネンタル・タンゴの場合が多いのですが、やはりその性格上、現在では日本でもコンチネンタル・タンゴは衰退の傾向にあります。とは言うものの、CDショップにはアルフレッド・ハウゼもマランド楽団も置いてあり、それなりのファンがいることは否めません。


[タンゴの隆盛--第二の黄金時代]

 さて、話をアルゼンチンに戻しましょう。

 ガルデルが亡くなったあと、「古典タンゴ」への回帰をうたってリズムを強調したスタイルを打ち出して人気を博した演奏家がいます。「リズムの王様」とも呼ばれている「ファン・ダリエンソ」です。1930年代終わり頃に、ファン・ダリエンソが打ち出した「電撃のリズム」によって、タンゴはその苦境から脱することになったのです。

 アルゼンチン・タンゴを聴こう、踊ろうという人たちをたちまち釘付けにしてしまうのが、ダリエンソの不思議な魅力です。かつて、日本のタンゴファンの99%までが、ダリエンソ楽団のファンだったといわれた時代がありました。もちろん、レコードでしかダリエンソの音に触れることができなかった頃のことです。

 ダリエンソの魅力は、タンゴのビートを強烈なリズムで表現し、バンドネオン、バイオリン、ピアノのソロを巧みに配置して、コントラバスの響きを最大限に活用しているところにあります。「リズムの王様」「電撃のリズム」と言われる所以は、ここにあるのです。

 「電撃のリズム」という異名を持つ彼のタンゴの特徴は、まさにそのリズムにあります。古典タンゴのもっとも大きな特徴ともいえる4ビートのスタッカートを、軽快かつ切れ味のあるスタッカートで攻めていく彼のオルケスタの演奏方法は、電撃のリズムにふさわしいパンチ力を秘めています。通常のタンゴは、2ビートを基調とした「強弱強弱」というリズムによって形作られる場合が多いのですが、彼の音楽はすべてが強拍であるといっても過言ではありません。では、それがうるさいかというと、そうでもありません。なぜなら、彼のオルケスタの作り出すメロディーは、ピアニッシモ(最弱音)からフォルテッシモ(最強音)までの斬新的な移行を常とするからです。つまり、リズムはあくまでもきっちりとした4ビート、しかしそこに流れるメロディーは大きな波のうねりのように、じわじわと大きくなったり、やがて小さくなったりと、変幻自在なのです。このダイナミズムこそが、ファン・ダリエンソ楽団の、もっとも大きな魅力となっているのです。

 ダリエンソと並び称される古典タンゴの雄ともいうべき巨匠に「ディ・サルリ」がいます。ダリエンソのタンゴが軽快で力強いリズムを貴重にした「踊るタンゴ」だとすれば、彼のタンゴはこれとはある意味で対極に当たる「歌うタンゴ」であったと言えるのではないでしょうか。

 ディ・サルリのタンゴには独特のグルーヴがあります。そのグルーヴとは、まず、1小節内の「強弱強弱」と繰り返される2ビートのリズムが織りなす、粘り強いスタッカートがあります。そして、その小節がまとまってできるワンフレーズごとに繰り返されるピアノ(弱音)とフォルテ(強音)。さらに、そのフレーズがまとまって楽曲となったときに、フレーズ単位でドラマティックに更なるピアノとフォルテを作り出します。こうした、二重、三重の畳みかけるような構成による「うねり」なのです。浮いては沈み、また浮いては沈み、そしてそのうねりがだんだん大きくなっていって弾けるかと思うと、また沈んでいく。彼の音楽を一言で表すならこんな感じになるのでしょう。だから、人は彼のタンゴを聴くと「まるで、波のうねりに包まれているよう」に感じるのです。これが、ディ・サルリのグルーヴであり、歌でもあるのです。

 このように、彼のタンゴには詩的な情緒が溢れています。それは歌と言ってもいいでしょう。しかし、その奥底には、タンゴの持つ暗く重い悲しみがいつも隠されているのです。名曲「バイア・ブランカ 」や、「ラ・カチーラ」などは悲哀と激しさを表し、逆に「ミロンゲーロ・ビエ」や「ドン・ファン」などでは、それと裏腹な明るさと優しさを見せるディ・サルリ。彼の詩的な魂は、その後のタンゴ演奏家「アニバル・トロイロ」、そして「アストル・ピアソラ」までも続いていくものでありましょう。


[ネオクラシック--第三の黄金時代]

 1940年代になると、アルゼンチンの社会・経済状況の好転もあって、いわばタンゴの第三の黄金時代を迎えます。低迷の中から、さらに新しい演奏家も生まれていくようになったのが1940年代です。この時期に、編曲法や演奏技術など、音楽的には今日のアルゼンチン・タンゴの基礎がほとんど築かれたといえましょう。

 「アニバル・トロイロ」「オスバルド・プグリエーセ」など、タンゴを永遠普遍の音楽に完成させた多くの演奏家が、この時期に本格的に活動を始めました。彼らは独自のオルケスタ・スタイルを持ち、そのリズムも、ハーモニーを強調したそれまでのタンゴとは違う斬新なものでした。聴くタンゴの本格的な誕生と言えるかもしれません。 この時期は、様々なオルケスタがその個性を競い沢山の新しいタンゴの名曲が生まれた第三の黄金時代となりました。なかでも、「トロイロ」と「プグリエーセ」は、音楽としてのタンゴを最高潮まで高めた第三期の古典タンゴ、いうならば「ネオ・クラシック」とでもいうべき音楽家であるといえます。

 「トロイロ」のタンゴは、一言で言うならば「華麗なメロディとハーモニー」がその真骨頂です。歌うような、たゆとうような優雅なメロディを、カナロゆずりの大編成オルケスタのそれぞれのパートが包み込むように、厚みのあるハーモニーで奏でていきます。このハーモニーの美しさがトロイロ楽団の最大の魅力です。今でも、トロイロのこの美しいタンゴを愛好するファンは数多くいます。

 そのハーモニーの厚さを実現しているのが、オルケスタのメンバー構成です。たとえば、バイオリンだけを取ってみても、主旋律、副旋律、さらにハーモニーの厚みを増すためのいわゆる「ハモり」パートまでを含め、4種類ほどの異なる音がトロイロのハーモニーを形作っています。バンドネオンにしても同様に3〜4パートの編成を取り、さらにタンゴのオルケスタとしては比較的珍しいチェロパートの存在なども含めると、全部で10以上の異なる音が1つのタンゴの曲を形作ることになるのです。これだけ、音の多いオルケスタも珍しいと思います。トロイロ楽団のハーモニーの厚さは、こうしたパートと音の多さから作られているのです。

 しかし、トロイロ楽団が単にメロディアスなだけのオルケスタであると思うのは間違いです。メロディやハーモニーもさることながら、トロイロのタンゴを強く印象づけているのは、デ・カーロやカナロがそうであったように、ブエノスアイレスの陽気さと哀しさを表現するような、その強烈なリズムなのです。中でも、トロイロのタンゴでよく聴かれるリズムは「ズチャッチャ、チャ」あるいは「ズチャッチャ、チャッチャ」というリズムです。このリズムはときには軽快で切れのよい踊りたくなるようなものでありながら、ときには引きずるように重く、心をグサッと刺すようなものにも変貌します。前出のディ・サルリやカナロもこのリズムをよく使っていますが、トロイロほど、このリズムに執着した人はいないのではないでしょうか。それくらい、このリズムはトロイロのタンゴを特徴づけているものであり、それによってトロイロの曲は、歯切れの良さとダイナミズムを失うことなく、ハーモニーを印象強く聴かせることができるのです。

 「プグリエーセ」は、現代タンゴの最高峰といわれた大楽団指揮者でありピアニストです。頑固一徹、妥協を許さない音楽への姿勢の表れか、彼のオルケスタには常に一流のアーティストが参加していました(「ダニエル・ビネリ」、「フアン・ホセ・モサリーニ」などもいました)。ピアソラの曲をいち早く取り上げ、またピアソラもプグリエーセの影響を大きく受けていました。作曲家としても「ラ・ジュンバ」、「想い出」など名曲を残しています。晩年のピアソラとの共演作「ファイナリー・トゥゲザー」では、互いに尊敬し合う2人の感動的な共演が聴けます。

 様々な苦労を重ねたプグリエーセが、自らのオルケスタを率いての演奏活動を軌道に乗せたのは1939年、33歳の時のことですが、それ以前のいわば下積み時代に共演した重要なミュージシャンに、「エルビーノ・バルダーロ」と「アルフレド・ゴビ」がいます。バルダーロもゴビもバイオリン奏者であり、どちらもピアソラに多大な影響を与えた人物としても知られています。プグリエーセとバルダーロは1926年、フリオ・デ・カロ楽団出身のバンドネオン奏者「ペドロ・マフィア」の新オルケスタに参加、1929年には揃って脱退し共同名義でオルケスタを結成しました。幻の「バルダーロ=プグリエーセ楽団」(六重奏団)の誕生です。何故“幻”かと言うと、関係筋での評価は高かったものの、不況のあおりを受けて、レコーディングを果たせぬまま1931年には解散の憂き目にあったからです。二人の後の軌跡を考えれば、記録が残されなかったことは誠に残念。しかも、1930年にメンバーチェンジした際に参加したメンバーには、アニバル・トロイロとアルフレド・ゴビもいたのです。録音がないためにそのサウンドについては推測するしかありませんが、フリオ・デ・カロからの流れを汲むものだっただろうことは想像できます。

 このころのオルケスタの多くは、「オルケスタ・ティピカ」という楽団スタイルを持っています。基本的にはピアノ・ベース・バイオリン・バンドネオンの4種の楽器ですが、バンドネオン、バイオリン4台ずつ等、編成がかなり大きいのが特徴です。時にはチェロやビオラなどの弦楽器、管楽器や打楽器も加わる事もありましたが、全てそれらはオルケスタ・ティピカの範疇に入ります。

 このように盛り上がりを見せていたタンゴ界でしたが、再び、衰退の波が押し寄せました。もちろん各オルケスタはそれまでどおりに演奏を続けておりましたし、多くの新人達も現れて、新しいタンゴへの試みも途絶えてはいなかったのですが、やはり成熟してしまったタンゴ界を支えて行くだけの力には成り得なかったのでしょうか・・・しばらくは停滞の時代に入るのです。


[新しいタンゴ--モダンタンゴの時代]

 そのような1950年代の半ばに現れたのが「アストル・ピアソラ」でした。ピアソラは、アルゼンチン・タンゴに革命的な進化をもたらした、たぐい稀なアーチストでした。彼は、既成の枠にとらわれることなく、クラシック音楽やジャズの手法も吸収して、新たな分野を開拓し、タンゴを最も現代的な音楽として、全世界に開放したのです。 ピアソラ はバンドネオンの名手であるとともに、作曲家でもありました。幼い頃からバンドネオンに親しみ、バンドネオンの神様ともいわれる「アニバル・トロイロ」のもとでバンドネオン奏者をつとめていたピアソラは、作曲者としても数曲をものにし、編曲者としても既に名が売れていました。しかし、それまでのタンゴに飽き足らず、自らクラシックを学ぶなどして、独自の音楽性を高めていきました。

 しかし、自分自身のアイデンティティ(独自性)はタンゴにあると悟り、「モダンタンゴ」を実践して行くのです。それまでのオルケスタ・ティピカの形を取らず、八重奏団や五重奏団での演奏は独自の音楽とあいまって、それまでのタンゴの殻を破るものでした。そのため、本国では「異端児」扱いされ、他国へとその活動を移して行くことになるのです。その結果、世界に(ピアソラの)タンゴが支持されていくようになりました。

 ピアソラの曲はかなりの数に上っています。有名なものとして「アディオス・ノニーノ」「ブエノスアイレスの春・夏・秋・冬」「天使のシリーズ」「プレパレンセ」「ロケ・ベンドラ」などや、小オペラ「ブエノスアイレスのマリア」「きちがい男のバラード」などです。

 後にブロードウェイを席巻し、タンゴ・ダンス・ショーのブームの先駆けとなったピアソラの「タンゴ・アルゼンチーノ」のスタートは、1983年のパリでした。1984年には、イタリアの歌姫でありカンツォーネの世界的歌手である「ミルバ」とピアソラ五重奏団とのショー「エル・タンゴ」がパリでスタートし、スイスの室内楽団「イ・サロニスティ」がアルゼンチンのバンドネオン奏者「オスカル・ギディ」をゲストに迎えて秀逸なタンゴ・アルバムをリリース…。もはやここまでくると、かつてのコンチネンタル・タンゴの面影は微塵もありません。アルゼンチン・タンゴの世界的な展開といった感じです。

 天賦の才能とあくなきチャレンジ・スピリットを武器に極めて個性的な音楽を作り上げたピアソラは、20世紀が生んだ最高の音楽家のひとりに位置づけられるでしょう。

 残念ながら生前は、必ずしも正当に評価されなかったようですが、没後5年の歳月を経てその真価が再認識され、他のジャンルの歌手や演奏家が争ってピアソラの作品をとりあげて、時ならぬブームが巻き起こりました。

 もちろんこの時期モダンな要素を取り入れたタンゴを作った人はピアソラ以外にもいます。「マリアーノ・モーレス」や「フリアン・プラサ」などという人達ですが、やはり、タンゴの枠を破り、全く新しいタンゴを作り上げたという点で、ピアソラは特筆すべきだと思います。まさにピアソラは、「モダンタンゴの鬼才」なのです。


[モダンタンゴ---ピアソラ以後]

 アルゼンチンタンゴの世界を改革し、今も世界中の人々を魅了するアストル・ピアソラ。しかし、惜しくも1992年に他界しました。

 ピアソラ亡きあと、ミルバとの共演はどうなるのだろう、バンドネオンは誰が演奏するのだろうという疑問が生まれます。すばらしい演奏家がいました。ピアソラが最後に編成した六重奏団で、ピアソラ本人のバックアップにあたっていた人物・・・・その人の名は「ダニエル・ビネリ」です。

 ダニエル・ビネリは、ポスト・ピアソラの最右翼として挙げられる演奏家です。彼は、1968年から1982年にかけて「オスバルド・ブグリエーセ楽団」のソロ・バンドネオン奏者およびアレンジャーとして活躍しました。1989年、ピアソラが最後に編成したニュー・タンゴ六重奏団の公演に特別に招かれたりして、ヨーロッパ、アメリカを回りました。また自らダニエル・ビネリ七重奏団を結成し、自作品を中心としたプログラムで公演を行いました。ソリストとしては、テアトロ・コロン、オタワ交響楽団、メルボルン交響楽団などのオーケストラに招かれました。1995年、タンゴ・プレーヤーとしてコネックス賞を受賞しています。

 当代きってのバンドネオン奏者であり、すぐれた作・編曲家でもある彼は、1997年から自分自身の五重奏団を率いてミルバとともに世界各地で公演をしています。1998年には、ミルバと共に来日し、素晴らしい演奏を聴かせてくれました。ミルバとビネリ・・・いまや互いに認め合うトップスターです。ピアソラ亡きあと、世界的な歌手ミルバが全幅の信頼をおいているのが、このビネリなのです。

 もっとも、ピアソラの後継者とは言っても、ビネリの音楽が、決してピアソラの亜流というわけではありません。たしかに、現代的な感覚や手法は踏襲しながらも、両者の間には明らかな相違点が見出されます。すなわち、かなり攻撃的だったピアソラに対して、ビネリのスタイルには叙情的な要素も含まれています。ダイナミックなリズム感に加えて充分な情感をこめたメロディー、モダンなハーモニーの底にうかがえる郷土の香り・・・等々。要するに、古典から前衛に至るタンゴの流れをひとつにまとめ、未来へとつなぐのがビネリであるとも言えるでしょう。

 ピアソラの後を受けて現在では、このダニエル・ビネリのほかに、「レオポルド・フェデリコ」や「ネストル・マルコーニ」、「フアン・ホセ・モサリーニ」、国内では数少ない若手の「小松亮太」などの優れたバンドネオン奏者が活躍中です。

 このように、19世紀末にブエノスアイレスの場末の街で生まれたタンゴは、今や世界的な芸術へと昇華したのです。

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貴氏のタンゴの話を興味良く拝見しました。ただ、ブロードウエーで公演されたタンゴ・アルヘンティーノはピアソラではなくホセ・りベルテーラとルイス・スタッソらの楽団ですので念のため。ピアソラはミルバとの共演ではこの名前を使用しませんでした。
Ei Bohemio
2010/09/17 05:43

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