matiere

アクセスカウンタ

zoom RSS 【歴史】風林火山 (武田三代興亡記)

<<   作成日時 : 2007/03/17 15:46   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 3 / トラックバック 0 / コメント 0

                                         初稿:    2007.02.12
                                         新訂第7版: 2007.09.03

御諏訪太鼓
おすわだいこ
画像


曲目:JAPAN 演奏:信濃国松川響岳太鼓
ライブ録音
音楽著作権は信濃国松川響岳太鼓様に属します
プレイボタンクリックで演奏開始


御諏訪太鼓は武田信玄が川中島の戦いにおいて武威を高めたと伝えられている。


-----------------------------------------------------------------------

画像



(1) 武田 信虎

 〜〜戦国大名・武田氏の基盤を築いた人物〜〜

 武田氏は鎌倉幕府の創設などにも尽力した源氏の流れ(甲斐源氏)に位置し、長く甲斐(山梨県)の守護職(今でいう県知事の職)にあった。戦国時代初期の甲斐には他にも多くの勢力が乱立していた。そんな甲斐を圧倒的な武力で制圧していき、まとめあげたのが、武田信玄の父で、武田家第18代当主・武田信虎(のぶとら)である。

画像
武田信虎像(甲府市大泉寺)


 信虎の時、国府を石和(いさわ:山梨県笛吹市石和町)から府中(現在の山梨県甲府市古府中)に移し、居館を府中の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた:現在の武田神社)に定めて、甲斐で勢力を広げていった。

画像
山梨県甲府市古府中(旧・甲斐国府中)


 1515年、武田一門の甲斐上野城(山梨県中巨摩郡)の城主・大井信達(のぶさと)が、駿河(するが:静岡県東部)の今川氏親(うじちか)を後ろ盾に信虎に反乱を起した。しかし、今川氏親は武田信虎の反撃に合い和睦を申し出た。これによって大井信達も降伏に応じ、信虎は1517年、信達の娘を室として迎えた。御北様とも大井夫人とも言われる。

 1521年、信虎と大井夫人との間に嫡男が誕生した。後の武田信玄である。幼名を「太郎」といった。

 その年、武田氏は、今川氏親の命を受けた遠州土方城(静岡県掛川市)の城主・福島正成率いる軍勢に攻められていた。信虎の勢力拡大により、甲斐各地の領主たちと武田氏との間に摩擦が生じており、今川氏は、その混乱に乗じて甲斐に入り込んできた。しかし、武田軍は嫡子の誕生を知って士気を奮い立たせ、今川軍を撃退したといわれている。戦に勝った事から、太郎は「勝千代」とも称された。

 1524年に、相模国(神奈川県)小田原の北条氏康(うじやす:後北条氏)は、父・北条早雲の後を継いで、関東を攻略するため、関東管領(かんとうかんれい:室町幕府の閣僚で関東地方の統括者)である扇谷上杉(おうぎがやつ うえすぎ)家の当主・上杉朝興(ともおき)と戦い、上杉朝興の江戸城を攻めた。朝興は武蔵野国河越城(埼玉県川越市)に逃れた。このとき、武田信虎は上杉朝興と同盟した。そのため、氏康は、信虎を攻めた。

 1526年、室町幕府将軍足利義晴(よしはる)は信虎に上洛を要請した。この時信虎が将軍の要請に応えた形跡はない。信虎自身まだ甲斐国の統一を果たしていなかったためであろう。しかし、この頃から信虎は既に京を睨んでいたのである。

 1528年、諏訪一族の内紛がもとで、信虎は諏訪惣領家の当主で、本拠・上原城(長野県茅野市)の城主・諏訪頼重を攻撃した。両者の小競り合いは、その後も続いたが1535年に和睦し、信虎は息子・勝千代(信玄)の妹である禰々(ねね)を頼重に嫁がせて縁戚となった。

 信虎は、1533年には、北条氏に対抗するために、勝千代(信玄)に、上杉朝興の娘をめとるなどの政略結婚と軍事力を背景に勢力を伸長させた。

 上杉朝興の娘は、武田家に嫁いだ翌年の1534年に、勝千代(信玄)の子を身ごもった。しかし、病気で母子とも死亡してしまった。

 武田家と敵対関係にあった北条家はずっと今川家と主従関係にあり、その今川氏親は武田信虎と敵対していたが、1536年、今川義元が家督を相続した。義元は、外交方針を 「親北条・反武田」 から「反北条・親武田」 へと180度ひっくり返し、武田信虎と和睦して甲駿同盟が成立した。ここに、武田信虎・上杉朝興・今川義元の3者連合と北条氏康は敵対することとなった。

 この年、信虎は今川義元の斡旋を受けて、公卿・三条公頼の娘を勝千代(信玄)の室に迎え入れた。世に言う「三条夫人(三条の方)」である。また、同年、勝千代は元服して、名を「晴信」とし、号を「徳栄軒」とした。なお、「信玄」という名前は、1559年に出家してから付けた法名(号)であり、本名は晴信である。(筆者注:以下、法名命名までは、武田信玄の名は信玄と記さず、「晴信」と本名で記す。)

 同じ年、晴信は、父信虎の信濃攻めに初めて加わった。信虎は、信濃国佐久地方の剛勇・平賀源心が守る海の口城(うんのくち:長野県南佐久郡)を34日間攻めた。しかし、大雪のために落城させることができなかった。源心は、武田氏の帰陣を知ると、城の守りを解いて兵をくつろがせていた。この時、晴信は隊列の殿軍(しんがり)にいて、父の許可を得て300の兵を率いて引き返し、すでに祝宴に酔っていた海の口城を奇襲した。晴信の奇襲を受けて、さすがの源心もあえなく戦死し、海の口城は落ちた。晴信はこの時、若干16才で初陣の手柄をたてたという。しかし、父信虎は晴信の力量を評価しなかった。なお、この合戦は武田家の軍学書である『甲陽軍艦』に記されているが、架空のものであろうというのが定説のようである。 

 1541年、晴信は今川義元のもとに父・信虎を追放してしまう。信虎は、次男の信繁(のぶしげ)を偏愛し、嫡男の晴信を疎んじたため、信虎と晴信とが対立し、ついには信虎は晴信の廃嫡を考えるようになった。また、信虎は性格が高慢・横暴で、国内の疲弊をよそに無理な外征を行い、領民の信頼を失っていた。このため、信虎に仕えていた板垣信方(いたがきのぶかた)、甘利虎泰(あまりとらやす)ら武田の重臣は、晴信を擁護して信虎を駿河に追放してしまったのである。追放とはいえ、何人かの側室や世話係、生活費用などは晴信が全て面倒を見たわけで、強制的な隠居といった方がいいかもしれない。信虎は今川義元の庇護を受けて駿河で暮らした。

(2) 武田晴信(武田信玄)

 〜〜部下の掌握は天下一品〜〜

画像
武田 晴信(信玄)


 晴信は、1541年6月、21歳の時、武田家第19代当主として家督を相続した。晴信は、父信虎と違って政治を重視し、流通を整えた。甲斐は平野部が少なく、年貢収入に期待ができなかったため、新田開発を精力的に行った。それまで河川が氾濫して農地に向かなかったような土地でも農耕が可能なよう、「信玄堤」と呼ばれる堤防を、1542年から約17年かけて築き上げ、河川の流れを変えて、開墾ができるようにした。

 晴信は、1542年から信濃侵攻を開始した。父信虎が将軍足利義晴から要請されながら成し得なかった上洛とその前提となる信濃制覇。甲斐は貧しい山国であり、武田家が京に上洛して天下を臨むには、通り道である物資豊かな信濃を領有することが急務であった。しかし、信濃には諏訪、高遠、小笠原、村上、高梨など多くの豪族が勢力を蓄えており、信濃平定は困難をきわめた。

 先ず、晴信は、父信虎が和睦していた諏訪家に対する方針を侵略政策に転換した。諏訪氏内部で、諏訪総領家の諏訪頼重と、諏訪一族で上伊那の高遠城(たかとう:長野県伊那市高遠)の城主・高遠頼継(よりつぐ)が、諏訪宗家を巡る問題で争いを起こしていた。1542年、晴信は高遠頼継と手を結んで、諏訪総領家の本拠・上原城を攻めて諏訪頼重を自害させた。ここに信濃の名族・諏訪惣領家は滅亡し、晴信は諏訪地方を併合した。

 晴信に滅ぼされた諏訪頼重に娘がいた。頼重が討たれたあと、晴信の側室となり、1546年に勝頼(幼名:四郎)を生む。絶世の美女にして薄幸の女性として有名である。実名は不詳で諏訪御料人(または諏訪御寮人)とよばれる。単に諏訪姫という場合もある。井上靖の小説「風林火山」では「由布姫(ゆうひめ)」、新田次郎の小説「武田信玄」では「湖衣姫(こいひめ)」と呼ばれている。

 諏訪の姫を武田に迎えるにあたって、武田家中から、攻め滅ぼした諏訪領民の武田に対する反感は強く、その領主の娘を武田に迎えるのは危険であるとの反対が巻き起こった。しかし、いずれ生まれる武田と諏訪の血を引く子に諏訪の地を任せ、諏訪の領民との宥和を図るべきと主張したのは、武田の軍師・山本勘助だったという。この物語は井上靖の小説「風林火山」に格調高く描かれている。

画像
山本 勘助


 諏訪惣領家滅亡後、諏訪の地は武田晴信と高遠頼継とが二分したが、両者は諏訪領の分割問題をめぐって対立した。晴信は、1545年に高遠頼継を高遠の地から追うなど信濃進攻を進めて諏訪・上伊那方面を攻略した。そして1545年、武田軍は小淵沢(こぶちざわ:長野県北杜市小淵沢町)で高遠軍を破った。こうして晴信は高遠を奪取し、諏訪・上伊那一帯の全ては武田氏の領有に帰した。

 1547年、晴信は東信濃を平定すべく、志賀城(長野県佐久市)の笠原清繁(きよしげ)を攻めた。清繁は時の関東管領で上州平井城主の上杉憲政(のりまさ)に援軍を要請した。3千人の援軍が碓氷峠を越えて小田井原(長野県北佐久郡)に陣を敷いたが、武田勢は上州軍と合戦におよび、これを撃破した。このとき、晴信は敵兵の降伏を許さず、3千人の敵兵全てを虐殺し、首級を夜間のうちに、兜首は槍にかざし、平首は棚に掛け並べさせて志賀城を囲んだ。志賀城の兵はそれを見て戦意を阻喪し、ついに志賀城は陥落した。志賀城に籠城していた男女の多くは、黒川金山(甲州市塩山の武田家の隠し金山)の坑夫や娼婦、奴隷として人身売買にするなど過酷な処分を下した。この小田井原の戦で戦功を挙げた武田家重臣の小山田信有は、城主笠原清繁の夫人を晴信から買い受けて妾とした。

 今でも、佐久の人々の間には武田への恨みが残っているという。戦争で負けたからではない。黒川金山で一生働かせたり娼婦や奴隷として人身売買をしたことに怒っているのだ。

 この事件は信濃の国人衆に甲斐武田への不信感を植え付け、武田の信濃平定を大きく遅らせる遠因となったといわれている。なんとも無残な仕打ちではあるが、信濃を征服するにはこうするしかなかったのかもしれない。

 この年、晴信は分国法である「甲州法度之次第(信玄家法)」を発布した。分国法は、戦国時代に戦国大名が領国内を統治するために制定した法律規範である。家臣団の編成と統制、検地・治水等、領国経営にみるべき施策が多い。

画像
甲州法度之次第


画像
出典:http://kamurai.itspy.com/nobunaga/takeda.htm


 武田の信濃制覇は全てが順調だったわけではない。1548年、晴信は上田原(長野県上田市上田原)で、信濃北東部に勢力をもつ「北信濃の雄」こと葛尾城(かつらおじょう:長野県埴科郡坂城町)の城主・村上義清(よしきよ)に攻められ敗北し、重臣の板垣信方・甘利虎泰らを討たれた(上田原の合戦)。

 安曇・筑摩両郡を押さえていた信濃守護・小笠原長時は、上田原の合戦によって武田氏が大打撃を受けたことを知り、村上義清らと連合して、信濃から武田勢力を駆逐するべく諏訪地方に攻め入り、諏訪下社を占拠した。これと並行して佐久地方でも土豪の一揆が頻発し、反武田勢力が勢いを盛り返したのである。

 武田晴信は軍容を整えて甲府から諏訪へと進軍、諏訪総領家の本拠である上原城に入った。小笠原長時は、5千余の兵を率いて塩尻峠(長野県岡谷市と塩尻市の境)まで駒を進めた。晴信は密かに全軍の移動を命じ、塩尻峠に登らせ、小笠原勢の寝込みを襲ったのである。不意の襲撃を受けた小笠原勢は軍装の準備をする暇もなく敗れ去り、長時は本拠である林城(長野県松本市)を目指して落ちていった。この敗戦で小笠原勢は1千余の戦死者を出したという(塩尻峠の合戦)。

 1550年、晴信は小笠原領に侵入した。小笠原長時はもはや抵抗する力は無く、林城を放棄して村上義清のもとへ逃走した。

 勢いに乗った晴信は、村上義清の居城の葛尾城の支城である砥石城(戸石城;といしじょう:長野県上田市)を攻めた。村上義清が北信濃の飯山城(長野県飯山市)に本拠をもつ高梨政頼(まさより)と対陣している隙を衝いて砥石城を攻撃したのだが、落とす事は非常に困難で、撤退する途中を高梨政頼と和睦した村上義清の攻撃を受けて、千人以上の戦死者を出し、重臣の横田高松(たかとし)まで討ち死にさせるといった惨敗を喫してしまった。横田高松は混乱する自軍を殿軍(しんがり)として支えて村上軍を一手に引き受けて戦死した。その死は晴信を大いに嘆かせた。この横田家の末裔は江戸幕府の旗本の最高位として9,500石を領している。なお、この戦いは、本来ならば砥石城の戦いというのが正確だが、晴信にとって惨敗とも言える戦いであることから、のちに「砥石崩れ」と呼ばれる事になった。

 晴信の信濃侵攻に強い味方がいた。北信濃小県郡(ちいさがたごおり)の豪族・海野(うんの)氏の一族であり、信濃国小県郡真田郷(さなだごう:長野県上田市真田町)の海野幸隆(ゆきたか)という在地領主(国人)である。村上義清から真田の地を追われ、上野(こうずけ:上州)に逃れていたが、晴信の才能をいち早く見抜いて晴信に仕えることにした。幸隆は、数々の軍功によって晴信から、本領真田郷と「六紋銭」の旗印を与えられ真田を姓とし、海野幸隆から真田幸隆と名を変えた。幸隆は、敵方に内応者をつくり、敵を内部から壊す謀略戦に長け、信濃国人でありながら、晴信の信濃攻略に度々戦功を立てて武田家の名だたる武将となった。

画像
真田 幸隆


画像
真田鉄砲隊
"上田真田まつり"より


 真田の庄と上田の間に立ちふさがっている砥石城を落とすことは、真田幸隆の悲願だった。1551年、真田幸隆の工作により、葛尾城の北方の清野左衛門(村上家臣)が武田方に寝返り、難攻不落を誇った砥石城は一夜にして陥落した。晴信は砥石城を真田幸隆に与え、幸隆は真田郷全体の領土回復に成功した。

 武田勢は、続いて1553年、安曇・筑摩郡から葛尾城に侵入した。村上系の諸領主は動揺し次々と武田方に降った。村上義清は、武田勢力の圧迫に耐え切れず、葛尾城を捨てて逃げた。晴信にとって義清は、上田原の戦いで一度は辛酸をなめさせられた相手だけに、晴信のリベンジに燃えた葛尾城総攻撃だった。1559年、晴信は北信濃をほとんど占領し、越後境へ乱入し、翌年には北信濃支配の拠点として海津城(松代城:長野市松代町)を築いた。
 
 「信州に真田あり」と評された真田家は、のちに関が原の戦いで西軍(石田光成方)と東軍(徳川家康方)とに分かれた。真田家の家督を継いだ昌幸とその次男信繁(幸村)は西軍に、長男信幸は東軍についた。戦いは東軍の勝利となり、戦後に昌幸と信繁は紀伊の九度山に蟄居となったが、東軍についた信之(信幸改め)は上田藩主となった。次いで1622年(元和8年)、信之は徳川幕府職として上田から松代に移封された。この松代城は、その後明治の廃藩までの間、真田氏10万石の居城となった城である。松代の町は、真田氏に与えられた信濃随一の広大な城下町だった。徳川家康は真田氏を評して「日本一の強兵」と賞し、譜代大名として待遇した。明治に至り真田氏は伯爵に列せられた。

 晴信は北信濃をほとんど占領したが、そこには一つの大きな代償が待っていた。それは晴信によって北信濃を逐われた村上・小笠原らの領主らが組んで、旧領回復のため、越後の長尾家と縁戚関係にある高梨政頼を介して、長尾景虎(かげとら:のちの上杉謙信)に支援を求めたのである。甲斐の隣は信濃、信濃の隣は越後だから、武田の信濃への侵略は早晩こういう結果を見ることは明らかだった。景虎は、信濃の状況に危機感を募らせ、晴信と戦うという作戦を決意した。こうして景虎は川中島に出兵し、長尾景虎(上杉謙信)対武田晴信(武田信玄)の宿命のライバル対決が火蓋が切っておとされた。川中島の戦いでは、武田軍の真田隊は、対長尾(上杉)軍の最前線に置かれ果敢に戦った。

画像
長尾景虎(上杉謙信)


 川中島とは、長野県更埴市の東北、千曲川と犀川(さいがわ)が合流する三角州あたり一帯を総称していう。川中島の合戦の主な戦闘は、1553年の第一次合戦、1555年の第二次合戦、1557年の第三次合戦、1561年の第四次合戦、1564年の第五次合戦と計5回、12年余りに及んだ。単に「川中島の合戦」と言った場合には、一番の激戦であった第四次の戦いを指す。

画像
川中島の合戦(左は村上義清隊)


 この間の1554年、武田晴信は長尾景虎に対抗するため、娘を北条氏政に嫁がせて北条氏と同盟を結んだ。また、長男の義信の正室に今川義元の娘を迎えた。北条氏と今川氏は、武田氏を仲介として、北条氏康の娘が今川義元の長男・今川氏真に嫁ぐことで同盟を結び、駿河国善徳寺において、甲相駿(甲斐・相模・駿河)三国同盟が結ばれた。

 この年、晴信は、かねてから長尾景虎に通じて反抗していた木曽義康(よしやす)・木曽義昌(よしまさ)父子を攻めた。木曽勢は敗れ、木曽氏は武田氏と和睦した。木曽義康は娘の岩姫を人質として甲府に送り、代わりに晴信の三女を義昌の妻とする縁組を得た。義康・義昌父子は甲府に赴いて臣従の礼をとり、以後、木曽氏は武田氏の親族衆として厚遇されることになり、木曽谷の領知権は従前通り木曽義康に安堵された。

 第三次合戦のあとの1559年、晴信は出家し、号を「信玄」とした。

 信玄は戦に際し、指揮・命令系統の重要性を認識し、その手段として和太鼓を用いていた。御諏訪太鼓である。1561年の第四次合戦において、武田信玄は、諏訪人の雄叫びである御諏訪太鼓で将兵の士気を鼓舞し有利な戦を展開したことが伝えられている。武田信玄の配下には「御諏訪太鼓21人衆」と呼ばれる陣太鼓を奏でる者達がおり、武田の本陣では、武田軍の信濃隊が御諏訪太鼓の音と共に前面に出て頑強に戦った。これが現在の御諏訪太鼓の源流となっている。

 第四次合戦で、武田軍は上杉軍を前後から挟み撃ちする戦法をとった。この戦法は一般に「キツツキ戦法」と呼ばれている。野鳥のキツツキは、樹木の反対側をクチバシでつつき、驚いた虫が反対側の穴から頭を出したところを捕らえる。こういったキツツキの習性になぞらえたものである。『甲陽軍鑑』には、山本勘助が信玄に提案した戦法と書かれている。武田軍は、上杉軍が布陣する妻女山(さいじょざん:長野市)攻撃に際し、兵を二手に分けて、別働隊が妻女山の裏手に回りこんで上杉軍を奇襲し、上杉軍を川中島の八幡原(はちまんばら:長野市小島田町)に追い落として、あらかじめ配しておいた主力軍により攻撃するという戦法だった。

 しかし、上杉謙信は、武田の陣から普段より多く飯を炊く煙があがるのを見て、武田の別働隊が妻女山の背後に回り込む作戦を見抜いていた。そして、別働隊が戻ってくる前に決着をつけるべく、上杉軍は夜に千曲川の雨宮の渡しを渡って陣営を移動した。なお、江戸時代の漢詩人・頼 山陽(らい さんよう)が、「鞭声粛々(べんせいしゅくしゅく) 夜河を渡る」と表現したのは、この渡河(とが)作戦をさす。

 翌朝、周囲に立ち込めていた深い霧が、昇る朝日とともに突然晴れた。信玄が目にしたのは、朝靄の中から突如として姿を現した上杉方の一万数千の軍勢であった。不意を襲われた恰好の武田軍は、組織だった防戦もできないほどの苦戦を続けた。裏をかかれた武田軍は上杉軍の猛攻に混乱を極め、多くの武将が戦死した。その中には信玄の実弟・武田信繁や武田の重臣・諸角虎定(もろずみとらさだ)、そして軍師・山本勘助などがいた。なお、この第四次合戦は八幡原で戦われたため、別名を「八幡原の戦い」という。

 川中島の合戦の勝敗については諸説あるが、「引き分け」というのが、順当なところであろう。

 1560年、武田氏と盟友の今川義元が織田信長によって桶狭間の戦いで討たれたことにより、今川家が衰退の兆しを見せ始めた。そのため、信玄は今川氏との同盟を破棄して駿河に侵攻しようと計画したが、今川義元の女婿である嫡男武田義信とその傳役(もりやく:附家老)飯富虎昌(おぶとらまさ)が激しく反対した。そのため、晴信は、1565年、虎昌を切腹させ、1567年には義信を廃嫡し、自殺に追い込んだ。

 川中島の戦いは、1565年頃に沈静化、その後、武田家は今川義元の死によって弱体化した今川家への進攻を開始する。1569年、今川家は徳川家と武田家の進攻によって滅ぼされ、武田家は駿河を支配した。さらに北条家へ進軍し小田原城を包囲、その後に撤収を装って、追撃してきた北条軍を撃退し周辺を征圧した。

 1570年頃、武田信玄のもとに、織田信長の傀儡政権と化していた室町幕府将軍・足利義昭(よしあき)から数度にわたり、上洛の要請、信長征討の御教書が届いていた。

 1572年、信玄は上洛のため22,000の兵を率いて甲府を進発、京を目指して遠江(とおとうみ:遠州、静岡県西部)へ向かった。しかし、武田信玄軍の先には、織田信長と連合を組んでいる徳川家康軍が位置している。家康は、1570年に居城を三河(愛知県東部)の岡崎城から遠江の浜松城に移し、遠江の平定に全力を挙げていた。信玄は、この浜松城を攻略しようとしたのである。

 武田軍は、一旦浜松城を衝く構えをみせた後、方向を変えて浜松北方の台地・三方ヶ原(みかたがはら:浜松市)に陣取った。武田軍は遠征途中に城攻めが長引くのを嫌い、徳川方を誘き出そうとした。そうとは知らない家康や徳川の重臣たちは、信玄が城を素通りにし、三河へ攻め込もうとしていると考えて焦燥感にかられた。三方が原から三河へ向かう途中に祝田(いわいだ)という坂があるが、家康はここで武田軍を殲滅するべく行動を開始した。

 しかし野戦に長けた武田軍は、祝田の手前で全軍を反転させた。武田軍は、三方ヶ原に上っていたが祝田の坂にかかる手前で止まり、急に向きを変えて布陣し徳川軍が飛び込んでくるのを待ち構える形に布陣を整えたのである。結果として、武田方が万全な構えで待ち受けるところへ、徳川方が策もなく攻め込んでいく恰好となった。戦端が開かれた。兵数は、武田軍2万5000(内、北条氏からの援軍2000)、徳川軍1万1000(内、織田氏からの援軍3000)といわれている。

 徳川軍は鶴翼(かくよく)の陣に対し、武田軍は魚鱗(ぎょりん)の陣で迎え撃つ。序盤戦は徳川軍が優位だったが、兵力の違いにより、徳川軍は全軍が退却することになる。徳川軍は武田軍の反撃に度肝を抜かれた。「ひけい。ひきあげよ!」徳川軍は突き崩され、ばらばらになりながら撤退した。この時、家康は、あまりの恐ろしさに馬上で脱糞したと言われている。 1000人以上の死傷者を出して、家康は何度も死線を越えながら、浜松城にたどり着いた。武田軍が織田・徳川連合軍を打ち破ったこの合戦を、「三方ヶ原の戦い」という。



画像
鶴翼の陣

かくよく【鶴翼】
鶴が左右の翼を張ったような「V」字形の、敵兵を中にとりこめようとする陣形。両翼に鉄砲隊を配置。【広辞苑】

画像
魚鱗の陣

ぎょりん【魚鱗】
魚のうろこのような形に並ぶ「人」字形の陣形で、中央部を敵に最も近く進出させる。【広辞苑】

出典: K'sBookshelf http://ksbookshelf.com/index.html


 なお、家康は大敗直後の自身のぶざまな姿を絵師に描かせ、時折それを眺めては自らの増長を戒めたといわれている。「短気は損気、及ばざるは過ぎたるに勝れり」。この戦いで得た教訓を、家康はその後の天下取りへ存分に発揮する。信玄は家康の生きた師であった。後に、甲斐を制した家康は、信玄の施政、国作りに改めて感服して、その政(まつりごと)を領国経営に取り入れている。

 武田軍は織田・徳川連合軍を破ったものの、1573年、信玄の持病が悪化したため、上洛は中止されることとなる。ところが、軍が甲斐に引き返す途上、同年4月、信玄は信濃国駒場(長野県下伊那郡)で病死した。享年53歳。菩提寺は甲州市塩山の恵林寺。

 信玄は、信長が最も恐れ、家康が密かに師事した人物だった。信玄の死を知った家康は、「今の我は信玄公あって。隣国に名君がおればこそ、身を正して政を行ったものだ。喜ぶ気にはなれぬ」と語ったという。

 信玄は死ぬ直前、息子の勝頼に自分の死後は上杉謙信を頼るよう遺言したといわれる。その謙信も業半ばにして、1578年に急死した。まさに謙信と信玄は良きライバルであった。なお、信玄五女の菊姫は、1579年、謙信の後を継いだ上杉景勝の正室となった(甲斐御前)。のちに武田一族が天目山で散った後、菊姫を頼ってきた弟の武田信清は、上杉家臣として温かく迎え入れられている。

(3) 武田勝頼

 〜〜若武者の過剰な自信と人心離反〜〜

 信玄没後、28歳の勝頼が家督を相続し、武田氏第20代当主となった。

画像
武田勝頼


 勝頼は、武将としては優れていたが、自分の力を過信して、信玄以来の老臣たちがすすめる穏健策を嫌い、強硬策ばかりを採りつづけた。老臣たちは嘆いた。「武田の家滅亡疑いなし」(甲陽軍鑑)。やがて、この恐れは現実となる。武田の将であった奥平貞能(さだよし)・信昌(のぶまさ)親子が、勝頼の統率力や部下の扱いに疑問を感じて家康に寝返った。

 勝頼は老臣たちの非戦論を無視して、奥平親子を討伐するために、1575年、兵1万5000を率いて三河国に侵入し、奥平信昌が立てこもる三河・長篠城(ながしのじょう:愛知県南設楽郡)への攻撃を開始した。対するは織田・徳川連合軍。

 たとえ信長であっても、まともに戦っては勝頼が率いる精強な武田の騎馬隊にはかなわない。 しかし、今や信長は多数の鉄砲を装備した兵を動員できる。織田・徳川連合軍は、武田騎馬軍団を、騎馬戦に不利な起伏の多い長篠城外の設楽ヶ原(しだらがはら:愛知県新城市)に謀略を用いておびき出した。信長は世上名高い「馬防柵(ばぼうさく:騎馬隊の進撃を阻止するために信長が考えた馬防ぎの防御陣地)」を用い、殺到する騎馬隊に3,500挺の鉄砲を三手に分けて射撃させた(三段銃陣)。

 しかし、織田軍のこの有名な「三段銃陣」は、敵が正面から突っ込んで来てくれないと機能しない戦法だった。そこで、武田の古くからの重臣達は、正面を囮にした側面攻撃や、一時後退して戦いの場を改める事を勝頼に提案した。しかし 「武田の騎馬隊」 に絶対の自信を持つ勝頼は、重用していた新しい家臣達の進言もあって、旧臣たちの側面攻撃や後退案を却下、正面からの突撃でこれを打ち破る事を決めてしまう。

 そのため、圧倒的な数量の鉄砲の前に、武田軍は総崩れとなり敗北、1万人以上もの死傷者を出し、ここに戦国最強と言われた武田騎馬軍団はついに潰滅したのである(長篠の合戦)。

 この合戦の名称は、一般に「長篠の合戦」といわれているが、決戦が設楽ヶ原で行われたため、「設楽ヶ原の合戦」という場合もある。厳密に言うと「長篠の合戦」は、長篠城の攻防戦のことをいい、「設楽ヶ原の合戦」は、織田の鉄砲三段撃ちなど設楽ヶ原での決戦のことをいう。

 武田軍は無残なありさま。ついに勝頼自身も近習わずか六騎をしたがえ、逃げ走らざるを得なくなった。家臣の離反も相次いで武田家は衰退する一方だった。このような人心離反の結果は、家康を監視する役目だった穴山信君(のぶきみ)が家康に寝返るなど有力武将たちの相次ぐ寝返りとなって現れた。こうして、武田家の上洛作戦は頓挫した。

 武田信玄(晴信)の五男に仁科五郎盛信(もりのぶ)という武将がいた。仁科五郎盛信は、長野県歌「信濃の国」に歌われている「仁科五郎信盛(正しくは盛信)」である。勝頼の異母弟であり、信玄五女の菊姫、六女の松姫の同腹の兄である。母は信玄(晴信)の側室で、武田一門の油川信守(あぶらかわのぶもり)の娘、油川夫人。井上靖の小説「風林火山」では「於琴姫(おことひめ)」、新田次郎の小説「武田信玄」では「恵理」と呼ばれている。盛信は、北信濃の名門・仁科家の養子に入り、仁科家を継いでいた。信玄(晴信)が高遠城の仁科家を攻略した際、名門仁科家が没落するのは勿体ないということで、仁科を名乗るようになった。父信玄没後の1581年、高遠城の城主となった。多くの武田家臣が勝頼のもとを離反していった中、盛信は最後まで勝頼に忠節を尽くし要害高遠城を守った。のちに、盛信の子達は、信玄六女の信松院の計らいで徳川家康と目通り全て徳川家の旗本として召抱えられて、信玄の血はこの仁科家に繋がっていった。

 1581年、勝頼は本拠地を、甲府躑躅ケ崎館から韮崎(山梨県韮崎市)に建築中だった新府城に移した。勝頼の最後の期待は、高遠城だった。高遠城が20〜30日もちこたえてくれれば、その間に新府城を完成させて決戦できると考えていた。しかし、その期待は空しかった。やがて、織田信長の嫡男信忠軍により、高遠城は一日にして落とされることになるのである。
 
 1582年、武田氏の親族であって木曽領の領主である木曽義昌が謀反したとの知らせが届き、勝頼は直ちに制圧のため出兵した。義昌は信長に救援を求め、信長は嫡男信忠を先陣として甲州攻めを開始した。

 1582年、信長は、武田氏攻略のため大軍を率いて安土城(滋賀県安土町)を出発し、伊那から武田の領内に入った。家康は、駿府(静岡市)から甲斐の国へ攻め入った。武田家は、織田家と徳川家の攻勢によってその最後の時を迎える。

 こうした状勢は、武田信玄の娘を妻にもつ小田原の北条氏政のもとにも知らされた。北条氏政は、すでにこの時点で武田氏の滅亡を見通し、北条方もこの機に乗じて武田領へ進出する構えをみせている。

 木曽に向った勝頼は、木曽勢の抵抗にあい、織田信忠の出陣の知らせに動揺し、一旦新府城へ戻って善後策を協議することにした。伊那へ入った信忠は逃亡する南伊那衆を追って、伊那の拠点城であった高遠城を包囲した。仁科盛信は、兄武田勝頼の命により、高遠で織田軍と戦かった。織田軍の侵攻に対して、武田家家臣・保科正直は城主の仁科盛信を助けて、織田軍に対して頑強に抵抗した。しかし、織田軍の猛攻撃によって高遠城は救援のないまま落城し、仁科盛信は壮烈な討ち死を遂げ、保科正直は小田原の北条氏直を頼って落ちていった。高遠城の落城により、武田氏の信濃支配は終わった。

 武田勝頼一行の最後は、頼った家臣の小山田信茂に裏切られて路頭に迷うという悲惨なものであった。家臣に背かれた勝頼は、高遠城の落城の9日後に、織田軍に攻められて甲府の天目山の麓(甲斐大和の先、大菩薩峠の南)まで追い詰められ、長男の信勝、妻の北条院(北条氏政妹)ら一族とともに自殺して果てた。勝頼は、親族にも有力武将たちにも愛想をつかされて、華々しく散ることすらできなかった(天目山の戦い)。このとき救い出された勝頼の遺児が、真田幸村に仕え、真田十勇士の一人として知られる猿飛佐助だとされるが、これは立川文庫で設定されている架空の物語である。

 三方ヶ原の戦いで敗れた織田信長は、「こんどこそは、根こそぎ、武田の力を滅ぼしてやる」と、逃げ散った武田の将兵をさがしては、首を切ってしまった。女たちは慣れない草鞋(わらじ)を血に染めて歩き、希望なき逃避行を続けた。信長は、意気揚々と甲斐を出発し、安土へ凱旋した。

 このとき徳川家康が、信長には内緒で、武田の遺臣895人をかくまい、徳川家の家臣にしていったのは有名な話である。この武田の旧家臣たちが、後に徳川長期政権を支えることになるのである。武田の旧臣たちの多くは、徳川幕府の高家や旗本、諸藩の藩士となって現在まで続いている。なお、織田信長は、安土に戻ったあと約40日後に京都の本能寺において家臣・明智光秀の攻撃を受けて自害した。

 天目山の麓に景徳院という寺がある。これは江戸幕府が開府されてから家康が建立したもので、武田勝頼一族の菩提を弔ったものである。この武田家菩提の建立は、武田氏滅亡後、「人は石垣」と説いた信玄と、家族をことのほか大切にした勝頼の、かつての武田の家臣たちへの家康の配慮からと見られる。

 武田信玄(晴信)の六女に松姫(お松御寮人)という姫がいる。母は晴信の側室で、武田一門の油川信守の娘、油川夫人。勝頼が天目山で滅びると、松姫一行4人は大菩薩峠を越えて落ちのび、当時北条領だった武州八王子(東京都八王子市)に入った。山梨県の大月市と小菅村の境に、富士山や大菩薩峠が見渡せる景観の良い峠がある。この峠は松姫一行が落ちのびたとき通ったとされ、松姫峠と呼ばれる。

画像
武田信玄六女 松姫(お松御寮人)


 家康は信玄を崇拝していたので、松姫にも庇護の手を差し伸べた。家康から八王子を任された大久保長安が松姫を保護した。長安は元武田家の家臣だったため、松姫の周囲に武田の遺臣たちが多く集まってきた。長安はこれを組織して、甲州街道の武蔵と甲斐の間の国境警備を任務とする「八王子千人同心」の元を作った。長安は八王子の自宅の近くに、松姫のために信松院(しんしょういん)を建立、松姫はこの寺を営んだ。そして松姫は八王子に絹織物の技術を広め、八王子の発展に多大な貢献をした。

-----------------------------------------------------------------------
●リンク
  【歴史】高遠と高遠城址
  【歴史】風林火山
  武田信玄詳細年譜
  武田二十四将(信玄を支えたブレーンたち)

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 3
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
【歴史】風林火山 (武田三代興亡記) matiere/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる