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zoom RSS 【歴史】風林火山

<<   作成日時 : 2007/02/12 15:05   >>

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                                        初稿:    2007.02.12
                                        新訂第10版:2007.04.29



武田節(尺八:高橋泉水)
 スタートボタンをクリックすると演奏されます。
  http://www.ne.jp/asahi/minyou/shyakuhachi/main.html
 曲は、下記サイト「清里高原の歴史」からダウンロードしました。
  http://www.kiyosatokougen.jp/kiyosato.htm
 歌詞は、このページの一番下に書きました。
なお、演奏に関する著作権は高橋泉水様に属します。

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          疾如
               徐如
                    侵掠如
                          不動如


 井上靖原作「風林火山」は、かつて2度読んだが、今回NHKの大河ドラマの放送に際し、再度読んでみた。

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井上靖『風林火山』新潮文庫


 井上靖の作品『風林火山』は、武田信玄の軍師・山本勘助の生きざまを描いた物語である。

 大河ドラマの展開は、小説とは若干異なるが、内容としては、独眼の軍師・山本勘助が甲斐(山梨県)の戦国大名・武田信玄に仕えて、知力をふるって、信濃(長野県)の北部・川中島で、越後(新潟県)の戦国大名・上杉謙信と戦うまでの話であり、その点ではほぼ同じだと思われる。

 NHK大河ドラマ「風林火山」2007年1月7日(日)〜12月 毎週日曜日
 山本勘助(内野聖陽)、武田信玄(市川亀治郎)、由布姫(柴本幸)


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山本勘助役 内野聖陽(うちの まさあき)

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武田信玄役 市川亀治郎(いちかわ かめじろう)

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由布姫役 柴本幸(しばもと ゆき)


  「風林火山」という言葉は、もともと中国三国時代、魏の曹操が書写したという兵法書『孫子(そんし)』に記されている言葉である。武田信玄が軍旗に大書して「孫子の旗」と称して有名になった。
 「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山
 [疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、 侵(おか)し掠(かす)めること火の如く、動かざること山の如し]の各文節の末尾から作った成語である。

 その旗印のもと、信玄の右腕として活躍した天才軍師こそが、この物語の主人公・山本勘助である。

 この小説は、勘助が武田の家臣となるために策を巡らすところからスタートする。一方、大河ドラマの方は、それ以前の勘助をめぐる話から始まっている。ドラマは1年間の長丁場であり、原作の短い物語だけでは時間が持たないので、武田家軍学書『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』などを史料として、原作の趣旨を生かしながらストーリーを追加しているのだと思われる。これにより、山本勘助像はより具体化されている。

 小説「風林火山」は、山本勘助の謎に包まれた半生を、文豪・井上靖が創作した時代文学の傑作である。 誰からも愛されず誰をも愛すことなく闇の中を生きてきた男が、その殺伐とした人生の最期に見つけた、“命を賭して守るべきもの”とは何だったのか…。

 山本勘助は信州諏訪家攻略に際して、凛として気高く清潔な諏訪家の姫・由布姫と出会う。そして、由布姫を思い慕い、命がけで由布姫を守る。その格調高い描写で編まれたこの物語は、読む者の胸を熱く打つ。

少し抜粋してみよう。
「みんな死んでいく。せめてわたし一人は生きていたい」
姫は言った。その言葉は勘助が今まで耳にしたことのないきらきらした異様な美しさを持ったものであった。武家の女なら誰も口に出すのを憚(はばか)る言葉だったが、心を直接打って来る何かがあった。
「わたしまでが死んでどうなるの。 わたしは生きて、このお城や諏訪の湖がどうなって行くか、自分の目で見たい。 死ぬのは厭。どんなに辛くても生きているの。 自分で死ぬなんて厭!」
憑(つ)かれているように、言葉が姫の口から飛び出した。
「お放し」
姫は叫ぶと、勘助の腕の中で身をもがいた。勘助は姫を放した。姫は倒れた。玉の鎖がばらばらになって飛び散ったような、そんな感じだった。美しい少女は気を喪(うしな)っていた。
「お連れ申せ!」
勘助は二人の侍女に命令的に言った。二人の侍女も自刃する気持は失ってしまったらしく、言われるままに、姫を両側から抱きかかえた。


●原作本のカバーから抜粋してみよう。
 「自ら謀殺した諏訪頼重の娘由布姫を武田信玄の側室とし、子供を生ませることによって諏訪一族との宥和を図る独眼の軍師山本勘助。信玄の子供を生みながらも、なお一族の敵として信玄の命をねらう由布姫。輝くばかりに気高い姫への思慕の念を胸にして川中島の激戦に散り行く勘助の眼前に、風林火山の旗はなびき、上杉謙信との決戦の時が迫る・・・。ロマンあふれる華麗な戦国絵巻。」


●2006年1月8日夜9時に、テレビ朝日で放送された新春番組「風林火山」
 (山本勘助=北大路欣也、武田信玄=松岡昌宏、由布姫=加藤あい)
 の解説を抜粋してみよう。
「武田家の当主となったばかりの晴信(後の信玄)に召抱えられた勘助は軍師としての能力を発揮、その中で、己が謀殺した諏訪頼重の娘・由布姫を思い慕うようになる。しかし、由布姫に心を寄せたのは晴信もまた同じだった。それを知った勘助は自らの思いを押さえ由布姫のもとに行き、晴信の側室となって男子を産み、諏訪の血を残すべきだと説得する。自分を信頼してくれる信玄と、その信玄を仇敵と憎みながらも激しく愛する由布姫。この二人を支え続けることが、勘助にとって生きる上での原動力だった。
 原作は、昭和28年から29年にかけて小説新潮に連載され好評を博した井上靖の同名小説で、歴史の大きな流れの中に生きた男の生涯を、飾りのない骨太な表現で描き出している。戦国の世に生きる武将の気骨、戦略と奇略、正義と謀略、善悪を超越した生存のための戦い。そして、その妻や娘、取り巻く家臣たちの生き様。人々が、食うか食われるかの攻防を繰り返し、まさに命がけで生きていたこの時代は、どこか現代社会に通じるものがあるのではないだろうか。合戦は経済戦争と名を変えて、今も確かに存在している。
 過酷な時代の中で、人が生きるために必要なものは何なのか? そして愛とは? 信頼とは? 時代を超えて人々に問い続けるこの問題に、答えはあるのだろうか。このドラマの中に、その答えの一端が潜んでいることは間違いない。」
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山本勘助(北大路欣也)
武田家軍師。もとは参州の浪人。勘助は五十歳にして巡り合った主君・武田晴信に心酔し、この若き武将に天下取りの夢を託そうと決意する。武田が着々と領地を広げる中、勘助は己の策謀によって亡き者にした諏訪頼重の息女・由布姫を思い慕うようになる。そして、その思慕は由布姫が晴信の側室になったあとも続き、姫が晴信との間のもうけた勝頼を武田家の嫡子とするのが生甲斐となる。

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由布姫(加藤あい)
諏訪頼重の息女。由布姫が十五歳の時、晴信によって諏訪氏は滅ぼされる。その後晴信から側室に望まれたとき、そのような辱めは到底受け入れられないと拒絶するが、諏訪氏の血を残すためという勘助の説得に応じて側室となり勝頼をもうける。


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●風林火山の軍旗
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 「風林火山」は、武田信玄の旗指物(軍旗)に記された「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」の通称。
 「疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、 侵(おか)し掠(かす)めること火の如く、動かざること山の如し」 という。

 これは、「移動するときは風のように速く、静止するのは林のように静かに、攻撃するのは火のように、防御は山のように」と言う意味である。

 大菩薩峠の近くの山梨県甲州市塩山(旧:塩山市)に、雲峰寺(うんぽうじ)という寺と恵林寺(えりんじ)という寺がある。
 武田信玄の風林火山の軍旗は、6つ現存していて、この雲峰寺に4つ、恵林寺(信玄菩提寺)に1つ残っている。あと1つは民間人がもっているとか。

 雲峰寺は、大菩薩峠登山口バス停徒歩5分のところ、甲州市塩山上萩原にある。雲峰寺の旗は、武田勝頼が一族とともに天目山麓で滅びたとき、家臣が再興を期して武田家の重宝である「日の丸の御旗(わが国最古の日章旗)」「孫子の旗(風林火山の旗)」「諏訪神号旗(諏訪明神の旗)」などを山伝いに運んだといわれ、寺宝として4旗が保存されている。

 恵林寺は、甲州市塩山小屋敷にある。武田信玄の菩提寺で甲州随一の名刹。織田信長から焼討ちにあったが、徳川家康が復興した。信長の焼き討ちにあったときの快川国師(かいせんこくし:恵林寺の住職で、信玄の禅の師匠)の言葉、「心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」は有名。武田軍旗である「孫子の旗(風林火山の旗)」と「諏訪神号旗(諏訪明神の旗)」が保存されている。

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武田信玄の鎧兜 甲冑


●武田信玄の本当の名前は?
 1521年11月3日、甲斐武田家第18代当主・武田信虎と大井夫人との間に嫡男が誕生した。後の武田信玄である。幼名を「太郎」といった。太郎という名前は、武田家嫡男の伝統的な幼名である。幼名とは、成人前の名前のことをいうが、幼児の頃の名前という意味ではない。成人した後も、幼名は愛称・通称として名のられることが多かった。

 太郎が誕生した年1521年の月を遡った2月から、武田氏は今川氏親の命を受けた遠州土方城の城主・福島正成が率いる軍勢に攻められていた。しかし、武田軍は嫡子の誕生を知って士気を奮い立たせ、11月23日に上条河原(山梨県甲斐市島上条)の合戦で今川軍(福島軍)を撃退したといわれている。戦に勝った事から、太郎は「勝千代」とも称された。

 貴族や武士の男子は、十二歳から十六歳位までの間に成人となり、元服(げんぷく)を迎える。元服とは、男子が成人となった証として、成人の装束を着て髪を結い、冠をかぶる儀式である。元服の際には、幼名とは別に新たに名前(実名:じつみょう)がつけられた。その名前には、先祖代々使われる自分の家系を示す字(通字、系字)や、主君から一字を拝領したり、縁起の良い好ましい字が選ばれ、組合されたりした。

 主君から名前を与えられることを、「偏諱(へんき)を賜(たまわ)る」といい、その名前のことを、「諱」(いみな)という。「諱」とは元服名であり本名のことである。「忌み名」の変化であり、文字通り口に出すのを憚(はばか)れることを意味している。諱で呼んでよいのは、主君か親だけである。諱は、自分から名乗ったり、死後呼ばれることはあっても、基本的には、生存中に人から諱で呼ばれることは無かった。

 1536年、太郎は元服し、室町幕府第12代征夷大将軍足利義晴から偏諱を賜り、諱を「晴信」とつけられた。晴信の「晴」は足利義晴の晴であり、「信」は父信虎の信である。小説やドラマ等では、「晴信様」と平気で呼ばせていることがあるが、たとえ「晴信様」と様を付けたとしても、大変失礼なことになる。
 
諱という漢字は、日本語では「いむ」と訓ぜられるように、本来は口に出すことがはばかられることを意味する動詞であるが、古代に貴人や死者を本名で呼ぶことを避ける習慣があったことから、人の本名(名)のことを指すようになった。諱に対して普段人を呼ぶときに使う名称のことを、字(あざな)と謂う、時代が下ると多くの人々が諱と字を持つように為る。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 平安時代中頃以降、武士等多くの人々は、諱(本名)とは別に「字」(あざな)と呼ばれる愛称(通称)を持ち、元服後も普段呼びかける際は、通称である「字」には、幼名が用いられた。

 信玄は、武田が「名字」、太郎が「字(通称)」、源が「氏」、朝臣が「姓」、晴信が「名」あるいは「諱」であって、正式には武田太郎源朝臣晴信となる。信玄というのは出家後に名のった法名であり、本名は晴信である。したがって信玄の正式な呼称や書き方は、源朝臣を省けば、武田太郎晴信である。

 武田信玄の場合は、普段は「太郎様」か「勝千代様」と呼ばれていたはずである(家臣からは「御館様(おやかたさま)」と呼ばれる)。なお、現代の人には、「武田太郎」とか「武田勝千代」と書いても誰のことかわからないので、一般向けには「武田晴信」とか「武田信玄」と書かれるのである。

 ただ、武家の場合、ある程度の地位に上がると、幼名をそのまま「字」として使っていては威厳が保てない。そこで、たいていの場合は幼名の代わりに官職名(右大臣等)・受領名(XX守・XX助)が「字」として用いられた。信玄の父信虎の呼称は武田左京大夫信虎でり、「左京大夫様」と呼ばれていた。この「左京大夫」などの官職名が武家の「字」に用いられ、庶民層にも普及し、農民や商人の一生ものの名に使われたのである。

 また、戦国時代では出世の著しい人間の場合、官職名・受領名を次々と呼称を変えたようである。「字」も武士の場合は成長に従って変えているようである。例を秀吉にとってみよう。秀吉の足軽時代の名前は、「木下藤吉郎秀吉」である。木下が「名字」、藤吉郎が「通称(字)」、秀吉が「本名(諱)」である。秀吉が信長直参の家臣として出世した頃は、「羽柴筑前守秀吉」となった。羽柴が「名字」、筑前守(ちくぜんのかみ)が「官位(字)」、秀吉が「本名(諱)」である。この場合、「おい、秀吉」と呼んでいいのは、主君である信長と、親だけである。よく、戦国ドラマで秀吉の先輩である柴田勝家が、「おい、秀吉!」と呼んでいる場面があるが誤りである。本来であれば、「筑前(守)」と呼ばなくては、いくら先輩でも失礼である。なお、あだ名(通称)には、「猿」「はげ鼠」「豊太閤」などがあった。また、秀吉の幼名は日吉丸であったとされる場合があるが、歴史書にそのような記録はなく、これは後世の『絵本太閤記』の創作とされている。なお、豊臣というのは、関白・太政大臣になったとき朝廷(後陽成天皇)から賜った姓であり名字ではない。名字は最後まで羽柴である。

 源義経の場合、通称(字)は、幼名を牛若丸、稚児名を遮那(しやな)王としていたが、元服を迎え一人前の武士として大人の名前を名乗って、通称を九郎、諱を義経とした。フルに書くと「源九郎判官義経」。九郎が通称(字)で源義朝の九男という意味。判官(ほうがん)は、字であり朝廷(後白河天皇)から与えられた官職名(官位による呼称)、義経は元服名(諱)である。普段は、「九郎殿」と呼ばれていた。官位を貰ってからは、「判官殿」と呼ばれたはずである。義経は兄頼朝の許可を得ることなく後白河天皇から官位を受けたことで頼朝の怒りを買い朝敵とされ、全国に義経討伐の命が発せられた。義経が天皇から官位を受けたことは、まだ官位を受けることができる地位になかった頼朝にとって、その存在を根本から揺るがすものだった。ちなみに源頼朝は「鎌倉殿」と呼ばれていた。

 小説やドラマ等では、同一人物の場合、名前を変えずに物語を展開していることが多いが、それは、名前を次々に変えても、読者や視聴者や役者にそのことを理解させることが難しいとの判断からだと思われる。身分や立場・時期により名前を変えれば一番リアルなのだが、複数の名前が次々に飛び出せば一般の読者や視聴者は意味がわからなくなると思う。時代考証として間違っているとは思うが、現代の知識しか無い大半の読者、視聴者を混乱させないために、小説やドラマ等では歴史に詳しい人たちの常識をあえて無視していると理解するのがよいかと思う。

 晴信は、長尾景虎(のちの上杉謙信)との川中島第三次合戦のあとの1559年に39歳で出家し、法名(法諱:院号)を「信玄」とした。出家直後の院号は「徳栄軒信玄」であったが、1569年に「法性院信玄」と改めた。 「信玄」という法名を贈ったのは、禅宗・甲斐五山の一寺である臨済宗妙心寺派長禅寺の和尚・岐秀元伯(ぎしゅう・げんぱく)。岐秀は信玄の学問の師である。なぜ信玄という名を用いたかについては、晴信の「晴」が玄と同義であるからその置き換えであるとの説があるが、明らかではない。

 現在では、武田信玄の名前は、本名の晴信より、後年になって付けられた法名の信玄の方が教科書や小説、ドラマ等で多く用いられている。これは、正確ではないのだが、一般の人にわかりやすくするために、いつの日にかポピュラーになった名前が書かれるようになったものであろう。

 なお、晴信の亡くなってからの法名(戒名)は、「恵林寺殿機山玄公大居士」である。

脱線するが、姓と氏と名字(苗字)について・・・
 姓も氏も名字も、現在では同一の言葉として使われているが、元は別々の意味を有していた。「姓」(本姓)は貴族や武家が天皇から下賜される公的なものであり、「氏」は血縁または職業を同じくする人々によって構成された部族の公称であった。しかし、やがて姓は単なる家名となり、姓と氏の区別が曖昧になり混同してしまった。「名字」は、天平十五年(743)、開墾地の私有が認められたことから、地名を家名としたことに由来し、この家名のことを名字とよばれた。「苗字」のほうは、稲の苗が分かれて増殖するように、平安時代になって子孫が繁栄することを期待して、吉祥(きっしょう:繁栄・幸運)を意味する文字を選んで家名とする風習が生まれ、これがのちに苗字と呼ばれる語源になった。現在と違って近代までは誰でも名字(苗字)を自由に名乗ることが出来た。


●武田信玄はなぜ信濃を攻略したのか
 1526年、室町幕府将軍・足利義晴は甲斐武田家当主・武田信虎に上洛を求めた。しかし、信虎はまだ甲斐国の統一をしておらず、上洛をすることはできなかった。やがて、武田家の家督を継いだ晴信(信玄)は甲斐を統一して、1542年、信濃侵攻を開始した。父信虎が将軍足利義晴から要請されながら成し得なかった上洛とその前提となる信濃侵略。甲斐は貧しい山国であり、武田家が京に上洛して天下を臨むには、通り道である物資豊かな信濃を領有することが急務であった。しかし、信濃には諏訪、高遠、小笠原、村上、高梨など多くの豪族が勢力を蓄えており、信濃平定は困難をきわめた。足利将軍から求められている上洛を果たすためには、これらの信濃国人を攻略していくほかはなかった。
 長野県人の一部には、場合によっては、今でも武田家を怨みに思っている人もいるかもしれないが、450年以上も前のことなので、はるか昔の歴史上の出来事だったと捉えられたほうがいいように思う。

●武田信玄はなぜ進路を南に変えたのか
 1570年頃、武田信玄のもとに、織田信長の傀儡政権と化していた室町幕府第15代将軍・足利義昭から数度にわたり、上洛の要請、信長征討の御教書が届いていた。1560年代前半を北関東や信濃、ときには越後に侵入することで長尾景虎(上杉謙信)と川中島の死闘を演じてきた信玄は、ここで大きく進路を南に向ける。まずは、今川攻めであった。1568年、信玄は駿河の今川氏真への攻撃を開始した。1569年、今川家は徳川家と武田家の進攻によって滅ぼされ、武田家は駿河を支配した。信玄が進路を南に取った理由は、天下をとる=上洛する=京都へ向かって攻め上がる、そのためには、山に囲まれた信濃や、扇状地で米作りには向かない甲斐よりも、海が開け平野を持つ駿河を手中にしたかったからである。また、山国の武田氏にしてみれば、「今川水軍」をも「武田水軍」として併呑できることは、魅力的に映ったのであろう。
 進路を南に移した信玄は、さらに同年、後北条家へ進軍し北条氏康の本拠地・小田原城を包囲、その後に撤収を装って、追撃してきた後北条軍を撃退し周辺を征圧した。1572年、信玄は上洛のため22,000の兵を率いて甲府を進発、京を目指して遠江(とおとうみ:静岡県西部)へ向かった。しかし、武田信玄軍の先には、織田信長と連合を組んでいる徳川家康軍が位置している。武田軍はこの徳川軍を、浜松北方の台地・三方ヶ原で打ち破った。しかし、1573年、信玄の持病が悪化したため、武田軍の上洛は中止され撤退することとなる。ところが、軍が甲斐に引き返す途上、信玄は信濃国駒場(長野県下伊那郡)で病死した。

●M&A
 武田信玄の周辺諸国攻略には、現代の経済戦争における企業のM&A(Mergers and Acquisitions:合併と買収)と共通するものがあるように思われる。

●武田信玄の名言
「人は城 人は石垣 人は堀 情は見方 仇は敵なり」
 人を大切にすることこそ人間管理の基本ともいうべきという信玄の言葉である。家臣がいざというときに死力を尽くす士気を保つ為に普段から情をかけておく・・・ 本拠である甲州に大きな城を築かなかった信玄には、まさにピッタリなのであるが、一方で戦場の一人一人が城であり、堀である、「帰る城はない・・・」という厳しい言葉と解釈される場合もある。優しいだけでは生き残れない戦国時代の「情」と「非情」の基本理念の傑作といってよい。

●企業も城と同じ
「人は城 人は石垣 人は堀 情は見方 仇は敵なり」
 企業も城と同じで、企業を運営・管理するのは人であり、そこで働く人の考えや行動が企業の品格や風格を決めるのである。この当たり前のことである原点に、いま一度立ち帰る必要がある。

●信玄は人事の天才
 武田信玄の政治力はピカいちで、部下を掌握することにかけては天下一品だった。
 例えば、今でも何ヶ所かに残る信玄の隠し湯。これは傷ついた将兵をいたわるために、信玄が作ったものである。
 将兵たちが負傷すると、信玄自ら出費して湯治をまかなった。
 「むだ働きはさせないし、負傷したら責任をもって治してやる。もし死んだら跡をちゃんと息子にとらせてやる」というのが信玄の政策だった。
 信玄の名将たるゆえんは、部下の使い方のうまさにあったといわれている。
 信玄は部下の性格をよく観察し、それぞれに合った役目を与えることに長じていた。

●信玄は城を築かなかったのか
 「人は石垣 人は城 情けは見方 仇は敵」と武田節で歌われているように、武田信玄は城を築くことがなかったと、一般には思われている。
 『名将言行録』には、信玄が生涯、甲斐国のどこにも城を築かなかった、とあり、居館の粗末なのを心配する家臣を次のようにさとしたと書いてある。

 「史実を見ると、国持ちが城にこもって運を開いたといことはめったにない。ただし主人持ちの武士が、後方の援軍を頼みにして堅固な城を築くことは大切だ。 三カ国を支配する大将が、大きな城にぎっしりたてこもるような軍勢をもっているならば、敵味方の国境で決戦をして、勝利を得るべきである。 大軍をもちながら合戦もできぬようなら、堅固な城に籠城したとしても、妻子を捨てて逃げてしまうだろう。大将たるものは兵士を敬い、法度(禁令)・軍法を定め、戦をすることを朝夕の仕事と心得、作戦を考えることが、城をつくるよりもはるかに大切なのだ。」
言葉を置き替えると、現代にも通じるように思う。

 実際には信玄の館であった躑躅ケ崎館(つつじがさきのやかた:甲府市にある現在の武田神社)は、城と呼んでおかしくない堅固な造りだった。さらにその近くには、城(石水寺城)がある。重臣たちにも国内の要所に城を築かせている。
 信玄が城を築かなかったというのは、信玄が家臣の心をつかむために、常日ごろ、城よりもお前たちが頼りなのだと説いていたことを誇張した逸話なのだ。
 
●武田氏の興亡

ここに書いていた記事「武田氏の興亡」は、加筆の上、「【歴史】風林火山 (武田三代の興亡)」と題して、下記のアドレスのページに移動しました。
 http://matiere.at.webry.info/200703/article_4.html


●御諏訪太鼓
 信玄は戦に際し、指揮・命令系統の重要性を認識し、その手段として和太鼓を用いていた。御諏訪太鼓である。1561年の川中島の第四次合戦において、武田信玄は、諏訪人の雄叫びである御諏訪太鼓で将兵の士気を鼓舞し有利な戦を展開したことが伝えられている。武田信玄の配下には「御諏訪太鼓21人衆」と呼ばれる陣太鼓を奏でる者達がおり、武田の本陣では、武田軍の信濃隊が御諏訪太鼓の音と共に前面に出て頑強に戦った。これが現在の御諏訪太鼓の源流となっている。

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御諏訪太鼓


●甲州流軍学
 武田信玄の兵法のことを、甲州流軍学(武田流軍学)という。武田家が滅亡した後、徳川家康は、武田家の旧臣の多くを徳川家の家臣として迎え入れた。武田家臣団の築いた戦略、戦術、治民政策、文化等は、実質的に徳川に受け継がれ、徳川長期政権の基礎を据えるのに大いに用いられた。

 1585年に徳川氏の重臣・石川数正が秀吉に引き抜かれる事件があった。徳川の筆頭家老は酒井忠次と石川数正であったが、石川数正を失った事により、徳川軍の軍法が豊臣に筒抜けになってしまった。家康は戦時の指揮系統を見直す必要にせまられた。そこで武田信玄の甲州流軍学を導入し、これを徳川軍の新しい軍法とした。

 武田家臣の山県昌景(やまがた まさかげ)は、戦国最強の武田軍の中でも目覚しい活躍をした武将であり、武田家の滅亡後は、徳川家康は山県の遺臣をそのまま召し抱えた。徳川家臣の井伊直政は、山県の遺臣百二十名を配下にすることを家康から命ぜられ、山県昌景の「赤備え(あかぞなえ)」を継承した。赤備えは戦国時代の軍団編成の一種で、具足、旗差物などのあらゆる武具を朱塗りにした部隊編成のことをいう。山県隊は部隊の軍装を赤一色に統一し編成したことから、「赤備え」として諸大名から畏怖された。
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『山県昌景〜武田軍団最強の「赤備え」を率いた猛将』
PHP文庫 小川由秋/著


 井伊直政は、家康の命により、この旧武田軍の山県隊を従えて、山形昌景の赤鎧をそのまま井伊家の鎧として用い、山県の赤備えを「井伊の赤備え」 として復活させた。山県の遺臣は、山県時代と変わらず赤備えで身を固める名誉を与えられた。こうして、井伊直政は、武田の軍法や部隊の指揮方法を採り入れて、徳川軍団の新編成の中心としていった。
 関が原の戦いの後、井伊氏は戦功により35万石に加増され大大名となり、「井伊の赤備え」の兵の強さは天下一と言われた。家康の命令にはじまった「井伊の赤備え」は、その後、幕末にいたるまで、江戸時代を通じて井伊家に受け継がれた。
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彦根藩井伊家に伝わる赤備えの具足

 ついでのことであるが、この直政から数えて13代目の藩主が、NHK大河ドラマの第1号である『花の生涯』(原作・舟橋聖一 主演・尾上松緑 昭和38年放送)で知られる井伊直弼(なおすけ)。歴史の教科書には、井伊直弼は、幕末期に大老(特別のときに設けられる幕府の最高職)に就任し、勅許(ちょっきょ:天皇の許可)を待たずに日米修好通商条約に調印。安政の大獄で橋本左内や吉田松陰をはじめ多数の尊王攘夷派の志士達を処刑。独断的な政治が反発を生み、1860年3月24日、尊王攘夷派の水戸藩士・薩摩藩士によって江戸城桜田門付近で暗殺されたと書かれている(桜田門外の変)。このことで、彦根藩祖の直政が尊敬の念で「井伊の赤備え」と言われたのに対し、直弼は尊王攘夷派の志士達から憎まれ、「井伊の赤鬼」と言われた。
 よく、勅許を得ずに日米修好通商条約に独断で調印したとして大老井伊直弼が攻撃材料にされることがあるが、そのことを責めるのは誤りだと思う。もともと当時は外交権は完全に幕府が持っていて、天皇や朝廷が口出しすることではなかった。鎖国は幕府の政策であり、開国するのも幕府の自由で、条約の調印に勅許など必要なかったのである。
 井伊直弼は、歴史小説や教科書などでは悪役の感が強いが、後世に名を残すほどの人物が並の人間であるはずがない。井伊家の地元・彦根の町では、直弼は尊敬の念を持って受け入れられている。この時代に攘夷の世論を押しのけて、大老としての判断でアメリカと条約を締結し、日本の開国をおしすすめた井伊直弼は評価に価する。
 井伊直弼が暗殺されたテロ事件「桜田門外の変」によって時世は大きく動き、やがて日本は、井伊直弼から重要な使命を任されていた勝海舟(のちの軍艦奉行)や小栗上野介(のちの勘定奉行)、そして勝海舟から教えを受けた坂本龍馬たちの努力によって開国への道を歩いて行った。攘夷に燃えていた薩摩藩も長州藩も、やがて世の中の趨勢から攘夷は不可能であると判断し、開国に論を変えざるを得なかった。数々の難局をくぐり抜け無事開国を果たした主役は、薩長の討幕派の志士たちではなく、先見の明を持った井伊直弼をはじめとする徳川幕府の開国派の素晴らしい閣僚たちにあったと筆者は思う。

●武田信玄の力
 信玄は、天下を治めるだけの実力と人格を備えた立派な大名で、国が甲斐のような不便なところではなく、もっと京都に近いところであったとしたら、きっと織田信長より先に天下を取っていただろうと思われる人物だ。 

●武田信玄、浮気の弁明
 「甲斐に武田あり」「甲斐の虎」と恐れられた武田信玄(晴信)は、名高い騎馬軍団を組織して近隣諸国を手中に収め、川中島の合戦で上杉謙信との戦いを繰り広げるなど、勇猛果敢な武将というイメージが強い。
 しかし、実際の晴信は美少年に目がなくホモ(衆道)の一面があったようだ。戦国時代において、戦いに明け暮れる武将たちが、女性の代わりに美少年を戦場に伴うのはごく当然のことだったようだが。
 甲斐石和の豪農・春日大隅の子に源五郎(のちに源助と改名)という名の美童がいた。16歳の時に父が死去し、身寄りがなくなって晴信に仕えるようになり、奥に召し寄せられた。若き晴信の衆道(ホモ)の相手も務めたと言われる。
 晴信が25歳のとき19歳の源助(源五郎から改名)へ送った誓詞(手紙)が残っており、そこから二人の関係を読み取ることができる。「浮気の弁明状」である。晴信は女性だけでなく衆道もお盛んで、源助以外にも弥七郎という名の美青年へも言い寄っていた。それを源助に問い詰められて、
 『弥七郎伽に寝させ申し候事これなく候。この前にもその儀なく候。
  いはんや、昼夜とも、弥七郎とその儀なく候。なかんづく今夜、存知よらず候のこと。』
と言っている。
 内容は、晴信が弥七郎という少年と寝床を共にしたのではないかと疑う源助の嫉妬に対し、誓ってそのような事実はなかったと言い訳しているのである。このあと、「言い寄ったことはあるが、彼が虫気(腹痛)を理由に断ってきたため、寝たことはない」などと、言い訳にもならないような詫びを述べている。そのうえ、武田家ゆかりの神仏に誓って偽りではないと結んでいる。ホントかな?
 なお、この話は大河ドラマでは取り上げられることはないと思うが・・・
 源助は、のちに高坂弾正昌信(または虎綱)と名乗る武田家きっての武将へと成長している。武田流軍学の集大成ともいえる『甲陽軍鑑』を著したのも、この高坂弾正といわれている。
 当時は男女の愛情より、男同士の愛のほうがむしろ崇高とする考え方があった。そう考えれば、晴信がラブレターともいえそうな手紙を書き送ったことも納得できる。

●武田氏族(清和源氏武田氏族)
 愛州  愛祖  青木  秋山  浅原  浅利  甘利  石黒
 穴山  安藤  逸見  市部  今井  岩手  石橋  一宮
 一條  岩崎  石禾  石木  石和  伊澤  板垣  飯室
 上田  泉   植木  小笠原 於曾  大幡  大津  大井
 大桑  大勝  巨海  落合  於佐手 上條  上総  上曽禰
 幸徳  加々美 蛎崎  方原  勝沼   葛川  葛山  金丸
 河内  河窪  川窪  栗原  熊谷  倉科  黒坂  黒駒
 駒井  小松  巨勢村 境   下曾禰 下條  白須  神宮寺
 志摩  塩部  曾禰  武田  田中  田井  高畠  津金
 東條  常業  奈古   那胡  長淵  南部  中條   長手
 二宮   西村  仁井   仁科  八條  波沙  鼻和  坂東
 早川  馬場   初鹿野 平井  平田  深津  布施  別府
 北條  萬為  鞠屋  松尾  馬渕  間淵  圓井  円井
 増坪  牧原  松原  丸井  丸山  三好  御宿  御本
 武川  武藤  安田  安井  山崎  山宮  屋代  八福寺
 八代  保田  山田  油川  湯川  吉田  米倉  横根寺
 利見  小倉  井澤  折井  小佐手 尾喜  岡   海野

●諏訪氏族(信濃神家党)
 有賀  一瀬  笠原  上原  神原  関屋  四宮  原
 諏訪  金刺  手塚  北原  千野  茅野  深澤  藤澤  
 保科  皆野  八木坂 若尾  向山  真志野 元沢  武居  
 藤森  宮坂  早出  中沢  神沢  三塚  神    神野  
 花岡  宮所  岩波  金子  高家  高遠  中島  小坂  
 矢崎  平出  松島  座光寺 風間  小島  祢津  浦野  
 平井  神田  知久  安倍 
 (清和源氏などいくつかの氏族との混交があり、これ以外にも
  多数の派生氏族がありうる)

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●「武田節」
            米山愛紫作詞 明本京静作曲 昭和33年発表

    甲斐の山々 陽に映えて 我れ出陣に 憂いなし
    おのおの馬は 飼いたるや 妻子(つまこ)につつが あらざるや あらざるや

    祖霊(それい)まします この山河 敵に踏ませて なるものか
    人は石垣 人は城 情けは見方 仇は敵 仇は敵

    (詩吟)疾(はや)きこと風の如く 静かなること林の如し
        侵略すること火の如く 動かざること山の如し
        (疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山)

    躑躅(つつじ)ヶ崎の 月さやか 宴を尽くせ 明日よりは
    おのおの京を目指しつつ 雲と興れや 武田節 武田節 




武田節スイング(Feeling Jazz Orchestra)
 スタートボタンをクリックすると演奏されます。
Feeling Jazz Orchestra は甲府市を活動拠点にしているバンドです。
   http://jazz.page.ne.jp/fjo/index1.html 
  曲は、下記サイトからダウンロードしました。
  2002年4月6日「第1回 武田節FVC全国大会」で演奏されたものです。
   http://www.takeda-singen.com/
  なお、演奏に関する著作権はFeeling Jazz Orchestra様に属します。


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●リンク
  【歴史】高遠と高遠城址
  【歴史】風林火山 (武田三代の興亡)
  2007年NHK大河ドラマ公式ホームページ

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 従来、山本勘介は武田家の軍学書である『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』によって創造された人物であるとする説がなされていた。しかし、北信濃の豪族で上杉氏に仕えた市川氏の子孫に伝わる『市川文書』によって、勘介が実在した人物であったことが証明された。 (出典:「武家家伝_山本氏」)
マチエール
2007/04/29 22:10

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