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zoom RSS 【名字】福井姓の話題とルーツめぐり

<<   作成日時 : 2010/08/08 20:01   >>

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福岡県民謡 黒田節(想夫恋 そうふれん) 
スタートボタンをクリックすると演奏されます。
曲は、大正琴MP3様( http://miyaken.huu.cc/mp3.htm )からダウンロードしました。
幻想的な曲調となっています。
なお、演奏に関する著作権は「みやび大正琴研究会」様に属します。

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筆者の本名は、マチエールではなく福井といいます。
自分の名字のルーツを辿ってみましたので、全国の福井さんにご披露します。
お気づきの点や、他に何らかの情報がありましたら、ご一報いただければ幸いです。
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福井という姓は、武家に多い。
福井姓の発祥は、いくつかの流れがある。
1.播磨国揖保郡福井庄発祥の出雲臣姓。
2.阿波国伊賀郡福井庄発祥で安芸国守護・武田氏族の水軍。
3.摂津国島下郡福井村発祥の福井大工組。
4.美作国勝田郡を拠点とした武士団で菅原道真を祖とする美作菅家党。
5.そのほか、清和源氏、桓武平氏、藤原南家など各地にこの姓。

【播磨国発祥の福井氏】

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兵庫県南西部(播磨国)


播磨国(はりまのくに:播州[兵庫県南西部])発祥の福井氏は、古代氏族である出雲臣(いずものおみ) の流れを組む豪族である。播磨国揖保郡(いぼぐん)福井庄に居住した出雲臣が、地名の福井を名乗った。ここが播磨福井氏の発祥の地となっている。

出雲臣は、出雲大社(いずもおおやしろ)の祭官で、出雲国(島根県松江市)の豪族である。出雲大社は、縁結びの神・福の神として、全国の人々に親しまれている。「大国主神(おおくにぬしのみこと)」を祀り、本殿は国宝になっている。日本で最も古い神社建築の形式をもった大社造りで、伊勢神宮の神明造りとともに代表的な神社建築である。

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出雲大社
http://www.highlight.jp/izumooyashiro/06.html


播磨国揖保郡は、奈良時代の行政区画であったが、平安時代末期頃迄には揖東(いっとう)郡と揖西(いっさい)郡に分割されていたようである。両郡の境は揖保川(いぼがわ)であったと考えられる。明治29年に至り、揖東郡と揖西郡は合併し揖保郡となった。揖保郡は、現在は姫路市、たつの市、揖保郡太子町(たいしちょう)に分かれている。

福井庄は、上古の揖保郡が東西に分割された東部分の揖東郡にあった。福井庄の庄域は、現在の姫路市の南西部に位置する大津区・勝原区・網干(あぼし)区 から一部揖保郡太子町に及ぶ。一帯は、西側を揖保川が、東側を大津茂川が、それぞれ南流して播磨灘へ注ぐ。

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姫路市南西部(旧・福井庄)
大津区・勝原区・網干区
地図クリックで拡大


福井庄は、平安時代最末期の寿永2年(1183年)10月22日の官宣旨案(裁決状)に、「揖東郡内福井庄」と書かれている。このことから、平安時代末には揖保郡は揖東郡と揖西郡に分かれていたことが窺い知れる。「庄」の字は、かつてこの地が荘園だったことを物語っている。福井荘が史料に登場するのは仁平2年(1152年)のことで、領主は藤原頼長であった。頼長は福井荘を興福寺に寄進したが、やがて保元の乱で敗れ、後白河天皇(のちの後白河法皇)が勝利を得た。そして福井荘は後白河天皇と結びついていた平氏が領有し、平清盛の5男重盛が統治した。平氏滅亡後、福井荘は後白河法皇の荘園となったが、法皇は福井荘を高野山真言宗(こうやさん しんごんしゅう)に寄進した(和歌山県:高野山文書)。鎌倉時代の天暦2年(1185年)正月19日に真言宗の僧・文覚上人(もんかくしょうにん)によって書かれた起請文(きしょうもん:神仏への誓約書)によれば、福井荘はその後、後白河法皇の寄進により、高野山領から神護寺 (じんごじ)領になったとある(京都府:神護寺文書)。

福井庄の一部であった姫路市網干区に、播磨地方で最大の24町(1万数千戸)の氏子を抱える神社がある。魚吹八幡(うすきはちまん)神社といい、もとは福井庄の荘園鎮守の神社であった。この神社の祭祀圏を氏子24地区といい、その氏子地区はほぼ福井庄の庄域を中心とした地域である。氏子24地区で、毎年、10月の21日(宵宮)・22日(昼宮or本宮)に、魚吹八幡神社の例祭が催される。「播州秋祭り」の終盤を飾る壮大な祭りであり、播磨地域屈指の祭礼となっている。祭りには、広大な氏子地区のほとんどが何らかの練り物をもって参加する。有名なのは宵宮の「提灯練り」で、提灯祭とも呼ばれている。門の前で提灯を掲げた青竹を、迫力満点に空高く激しく叩き合わせる。平成19年に、兵庫県指定無形重要文化財に指定された。2日目の本宮では、播州で最大の18台の屋台と3台の壇尻が繰り出す。

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魚吹八幡神社の提灯祭り
写真出典:http://www.todays.jp/cgi-bin/matsuri/detail.cgi?matsuri_no=221


網干区に福井という地名がある。最寄駅は、山陽本線 姫路駅の2つ先の網干駅。網干区福井は、網干駅より南約1kmのところ。社寺は、皇神社、荒神社、浄土真宗本願寺派常行寺。

播磨は昔から浄土真宗の盛んな土地で、加賀(石川県)、安芸(広島県)と並んで「真宗王国」とも評され、「本願寺の台所」とも呼ばれている。浄土真宗は、親鸞聖人が、鎌倉時代、師である法然上人の開いた浄土宗の教えを一歩進め、煩悩の深い人間こそが阿弥陀仏の救おうとする相手であるという教えを説いた日本独自の宗派であり、その教えは農民や地方武士の間に広がっていき、日本における最大級の宗派に発展していった。浄土真宗の本山は、京都の本願寺である。本願寺は、江戸時代になって幕府の政策により東西に分かれ、本願寺派(西本願寺)と大谷派(東本願寺)の2つに分かれた。播磨には本願寺派(西本願寺)に属する寺の数が多い。その本願寺派の寺は播磨福井氏の菩提寺でもある。浄土真宗本願寺派は別名、一向宗、門徒宗ともいわれる。

戦国時代に一向宗の信徒たちが起こした一揆を一向一揆という。畿内・北陸・東海地方などでさかんにおこされた。 「一揆」とは、一致団結して行動をとるために結成した同志的な集団のことをいう。ときに、その集団がとる武装蜂起などの行動のことをいう場合もある。

JR西日本の新快速が、長浜駅(北陸本線/琵琶湖線)・近江今津駅(湖西線)から、姫路駅・網干駅・播州赤穂駅(赤穂線)まで走っている。新快速とは、JR西日本が京阪神地区(アーバンネットワーク)の東海道・山陽本線系統で運行する快速列車の一種別で、京阪神圏都市間輸送の基軸を担う最速達列車であるとともに、アーバンネットワークを代表する列車である。アーバンネットワークは、JR西日本が大阪近郊路線群をまとめて呼ぶ愛称。URBAN(都市)とNETWORK(ネットワーク)を合わせた造語である。近畿一円で「網干」と言えば、JR西日本「アーバンネットワーク」の西の拠点として有名である。

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JR西日本「アーバンネットワーク」新快速 (網干総合車両所)


奈良時代の播磨の国、現在の姫路市を中心とした地域の気候、風土、歴史が書かれている書物に『播磨国風土記』がある。風土記とは、奈良時代に地方の文化風土や地勢などが国ごとに記録編纂されたもので、その編纂は、元明天皇の和銅6年(713年)5月2日の官命によるものだった。土地の有様や産物も詳しく記されており、天皇がそれらの記述を命じたのも、地方の実態を把握したかったからであろう。

『播磨国風土記』の揖保郡条に、出雲の関係する伝承が多い。このことから、この地に出雲の人々が出入りしたことが想定できる。出雲臣一族や出雲の人々は畿内やその周辺に移り住んでいたのであろう。畿内は、もともとは大化2年(646年)の改新の詔で範囲を定めた特別行政区で、当時の日本の中心地であった。大和(奈良)、山城(京都)、摂津(大阪北部・兵庫東部)、河内(大阪南部)で、後に河内から分かれた和泉(大阪南部)も含む。畿内5カ国のことをいい、五畿内ともいう 。今の近畿地方という呼び方はこの「畿内」から転じたものである。

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播磨風土記


播磨には、薩摩島津氏と同族の島津氏が統治していた時代がある。

鎌倉時代、モンゴル帝国のフビライ皇帝は、北京に都を置いて、国名を「元」とし、日本へも手を伸ばしてきた(元寇)。文永11年(1274年)、元軍は大挙して博多湾に上陸した。当時、島津家初代島津忠久と子の忠時は鎌倉幕府に仕えていたが、忠時の子久経は、文永12年、鎌倉幕府執権北条時宗から筑前(博多)の守備を命じられ九州に赴いて元軍をむかえ討った。幕府軍は元軍の集団戦法・火薬兵器に苦戦した。しかし大風雨により元軍は多くの軍船を失い、退却した(文永の役)。元は、ふたたび日本の征服を目指し、弘安4年(1281年)、大軍をもって九州北部にせまった。島津久経は九州地方の武士を率いて参戦し、大いに活躍して武功を挙げた。元軍は、博多湾岸への上陸を阻まれているあいだに、暴風雨が起こって大損害を受け、再び敗退した(弘安の役)。

一方、島津忠久のもう一子の忠綱は守護代として越前に移り住んだ。以後、忠綱の系統は越前島津氏と呼ばれるようになる。そして、弘安2年(1279年)、越前島津家の忠綱の子・忠行が、下揖保庄と布施郷の地頭に任命されて播磨に下向し、播磨島津氏の祖となった。

室町時代、播磨国は室町幕府から守護職に任じられた赤松氏が治めていた。

戦国時代に、赤松義村と家臣の浦上村宗との間に争いが起きた。赤松氏と浦上氏の争いで、地頭の越前島津氏第15代島津忠長は赤松方に味方し浦上勢と戦い、天文3年(1534年)、赤松氏家臣の福井次郎時家の居城・勝城(すぐるじょう)での合戦(播州朝日山の合戦)で、赤松二郎と共に討ち死にした。これによって鎌倉時代より300余年、15代続いた越前島津氏は滅亡した。
「越前島津氏」というと、初代忠綱から15代忠長までを指すことが多い。

一説には播磨島津氏は、天正3年(1575年)15代島津忠行まで続いたとも言われるが、越前島津氏の敗北により、忠長後の播磨島津氏の動向は不明な点が多い。

播磨国時代の越前島津氏は赤松氏の味方。播磨の福井氏も赤松氏の家臣。

島津氏の家紋は、薩摩島津氏、越前島津氏、播磨島津氏とも轡(くつわ:丸に十字)の家紋であり、播磨国人の福井氏の家紋もこれと同じである。これは、福井氏が播磨福井庄で、島津氏に属していたことによる因縁だとも推測される。
十字の紋は、もとは島津氏の始祖島津忠久が平氏討伐の恩賞として主君源頼朝から授けられたものといわれている。昔は外郭の丸はなく、単に筆書体の「十」だけであったが、徳川期になって、礼装用の紋に転化したために、多くの武家が外郭に丸を付けるようになった。島津氏もこれにならい以後、定着したものである。

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轡(くつわ:丸に十字)の家紋


16世紀前半、播州平野に御着(姫路市御国野町御着:みくにのちょうごちゃく)を中心とした赤松支族の小寺氏が台頭し、御着城主及び姫路城主だった小寺政職(おでらまさもと)が赤松氏の再興に尽力した。政職は多くの家臣を登用し、その中には浪人であった黒田重隆(しげたか)・職隆(もとたか)親子が含まれていた。彼らの能力を認めた政職は彼らを家老職に引き上げ、姫路城代を任せた。

黒田重隆は、若いころは山陽地方随一の商業都市として繁栄していた備前福岡郷(岡山県瀬戸内市長船町福岡)に在住し、家伝薬の目薬の製造・販売で暮らしをたてていたと伝えられている。しかし、豪族である浦上則宗の侵入で福岡郷を逐われ、播磨国福井庄(姫路)へのがれる。そこで播磨国総社の広峯神社の御師の協力を得て、目薬の製造・販売を行って財を成し、金貸し業を経て豪族(播磨国人)への道を歩んでいく。はじめ竜野城主赤松政秀に仕えたが、ほどなく御着城主小寺政職に主を替え、重用され、姫路城の城代となった。重隆の子職隆は、小寺政職に仕え、天文12年(1543年)には政職の敵であった揖保郡北端の香山城主香山重道を討ち取った。職隆は、それらの功績から天文14年(1545年)、政職の養女を娶って家老に列せられると共に、小寺の姓氏を与えられ、姫路城の城代にまでなったという。

姫路城は、JR姫路駅の北約1km、播磨平野の中心に位置する「姫山」と呼ばれる丘を利用して構築された平山城で、築城以来、戦火に遭うこともなく、老樹の間から優雅な姿をみせてそびえている。5層7階の大天守閣をはじめとする諸楼閣は、全体の形が翼を広げて飛び立とうとする白鷺の姿に似ているところから、白鷺城とも呼ばれる。名古屋城・熊本城とともに、わが国を代表する名城として広く海外にまで知られ、平成5年(1993年)には、奈良法隆寺とともに、日本で初めて世界文化遺産に登録された。なお、姫山は、播磨国風土記に日女道丘(ひめじおか)と書かれており、これが姫路という地名の起こりとなっているという。

姫路城の築城の歴史は古く、南北朝時代、元弘元年(1331年)、播磨国守護職赤松則村(のりむら)が、護良(もりなが)親王の令旨(りょうじ:命令書)を奉じて、北条氏追討の兵を挙げた際、東上の途中、姫山に陣を構えた。その後、正平3年(1348年)、則村の次男貞範(さだのり)が、南朝方に備えるために縄張りをし、城柵をめぐらせて砦を築いたのがはじめと伝えられている。以来、赤松氏の家老・小寺氏が代々この城を守った。小寺氏(黒田氏)が城代だった頃の姫路城は地方の小城にすぎなかったが、信長の家臣で後に家康の天下取りに貢献した池田輝政が、関ヶ原の功により播磨52万石を与えられ、関ヶ原の戦いの翌年の慶長6年(1601年)から8年の歳月を費やして姫路城の大修復をし、後に世界遺産になるほどの巨大で壮麗な城とした。なお、TVドラマ「暴れん坊将軍」に出てくる城の天守閣の映像は、江戸城ではなく姫路城である。江戸城の天守閣は3代将軍家光の時に焼失しており、テレビ効果上、姫路城を江戸城として撮影しているようである。

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世界文化遺産 姫路城


小寺氏家臣の姫路城代黒田職隆の子が、「黒田節」で有名な筑前(福岡県)黒田家の家祖となる黒田官兵衛考高(よしたか:のちの黒田如水)である。

黒田官兵衛は、天文15年(1546年)、姫路城で生まれた。織田信長の命により中国征伐(毛利征伐)のため播磨に下ってきた羽柴(豊臣)秀吉を迎えるが、自らの居城であった姫路城を、中国攻めの拠点として秀吉に提供する。これに対して、天正8年(1580年)、秀吉は官兵衛に福井庄のうち1万石を、続いて天正9年(1581年)にも福井庄1万石を与えた(黒田文書/竜野市史5)。

こうして官兵衛は、播磨福井の武士団を自身の組織に組み入れていき、秀吉の軍師として中国征伐(毛利征伐)に従軍した。毛利軍と対峙する秀吉のもとへ、織田信長が明智光秀に討たれた知らせが入る。この事件を主君秀吉の天下取りの好機ととらえた官兵衛は、天下人の座につくには、何を優先してでも信長の弔い合戦の勝者になることであると見抜いた。官兵衛は、信長の死を悲しみ泣き叫ぶ秀吉を説得し信長の仇討ちをさせようとする。司馬遼太郎の「功名が辻」に、官兵衛が秀吉に進言する言葉がある。「これは千載一遇の好機にございます。天下をお取りなされ!」。

本能寺の変の後の明智光秀との戦いは、官兵衛の智謀が光った一戦であった。官兵衛は、本能寺の変が起こるや、秀吉に進言して毛利氏と講和し、中国地方から神業と思えるような速さで京に引き返した「中国大返し」を実現した。一万八千余の大軍が昼夜をわけず川を渡り山を駆け、備中高松城から姫路城までを二日間で走り抜けたという。こうして、山城国山崎(京都府大山崎町)の天王山東麓で戦い、明智光秀軍をみごと打ち破った。 光秀は敗走中に土民に殺害された。

この「中国大返し」から明智光秀征伐の「山崎の戦」に至る一連のファインプレーは、官兵衛の好判断によって実現したとみてよいだろう。この戦いにより一気に秀吉を天下人に押し上げた。この官兵衛の時流を的確に読む能力は名軍師と言って違いないのだが、皮肉にも切れすぎるその頭脳が、かえって秀吉に恐怖感を与えてしまった。

秀吉が天下を取ったのちは、官兵衛は九州に移った。この時、播磨福井氏のほか、多くの播州の人々が官兵衛に付き従い、九州に移動した。

天正14年(1586年)、秀吉は九州の島津征伐を組織し、軍奉行に官兵衛を任命した。官兵衛は九州攻めの先方として、毛利氏、長宗我部氏などの中国・四国の兵を率いて、豊前国(ぶぜんのくに:北九州地方〜大分県北部)の諸城を攻撃した。また、島津氏側についた香春岳(かわらだけ)城主・高橋元種の支城である豊前小倉城を攻略し、官兵衛は小倉城に入城した。天正15年(1587年)、官兵衛は、島津方の秋月氏の居城・日向国(ひゅうがのくに:宮崎県)財部城(高鍋城)を攻略した。
官兵衛は九州攻めにおいては、播磨国揖東郡宮本村出身で当時16歳だった宮本武蔵を含む9千人を集め、加藤清正と共に九州を制圧した。
これらの功により、官兵衛は豊前国を与えられ、豊前中津12万石の城主となった。

なお、宮本武蔵は、親族とともに九州に定住し、武蔵の養子である宮本伊織の子孫は、代々、小倉藩の家老を務めた。また、宮本武蔵は57歳のとき肥後(熊本)藩主・細川忠利により客分として招かれ、晩年を熊本で過し、武蔵の集大成と言うべき「五輪書」を著した。

官兵衛が秀吉の天下取りに重要な働きをしたことは、当時から衆目の一致するところであった。そのわりに官兵衛が得たのは、豊前の12万石に過ぎなかった。太閤秀吉に対し、さる人が「なぜに官兵衛殿をあのような地位に止めておかれるのか」と意見したところ、「あいつに百万石も渡してみろ。天下を取られてしまう」と言ったという逸話が残っている。秀吉の見るところ、官兵衛は単なる参謀に満足しない野心家であったのかもしれない。

関が原の合戦に至る豊臣西軍(石田三成派)と豊臣東軍(徳川家康派)の対立の裏には、秀吉側室の淀殿(よどどの/茶々)と秀吉正室の北政所(きたのまんどころ/ねね/おね/高台院)の対立があったといわれるが、秀吉の死後、黒田官兵衛は、次の天下人は家康であると判断して、秀吉の直参で伊予宇和島の大名だった藤堂高虎(とうどう たかとら)と共に、家康やねねに急接近。家康・ねねと光成・淀との争いを予測し、息子長政を東軍の武将として関ヶ原に送り込んだ。

黒田長政は、関ヶ原の戦いにおいては小早川秀秋(こばやかわひであき)や吉川広家(きっかわひろいえ)ら西軍主力の毛利勢へ巧みな事前工作を行うとともに、猛き勇将として徳川方を勝利に導いた。その恩賞で長政は家康に封じられて、筑前52万石の大名となり、博多の西の丘陵沿いの筑前福崎の地に移った。そして、この地に城を建てる際、黒田氏祖先の里である備前福岡にちなんで、福岡城とし、地名を福崎から福岡に改名した。こうして誕生した城下町筑前福岡は、やがて九州最大の都市に発展していくことになる。
 
現在の福岡市は、明治22年に博多と福岡が合併して誕生した都市である。福岡市は、昔からの商人町「博多」と、黒田藩の城下町「福岡」とが一緒になって成立した町であり、いわば、博多と福岡は「ふたご」都市である。

福岡市内を流れる那珂川の東側は「博多部」と呼ばれ、西側は「福岡部」と呼ばれていた。
明治22年、市制定の時にどちらの名称にするかで福岡部と博多部が互いが譲らずもめ、投票時に数が多い博多部の市議3人が監禁されて採決では同数。福岡部出身の議長の採決で「福岡市」と決まった。翌23年の市議会において博多地区出身の議員から博多市に市名変更したいとの動議が出されたが、すったもんだの末1票差で否決され福岡に決まったそうである。この両部の対立は続き、その年の12月に国鉄が開業し駅名を「博多」にすることで折り合いがついたそうである。空港は福岡空港であるが、福岡駅というJRの駅はない。駅名で福岡という名前がついているのは、福岡市中央区の西鉄・福岡(天神)駅である。

「博多部」は、その歴史は古く、地名は奈良時代から登場した。博多は、遣隋使や遣唐使など国際交流・商業貿易の拠点として、また戦国時代には日明貿易の港町として、繁栄を重ねてきた。このような背景から、博多は、古くから多くの貿易商人を生み出す商港都市として発展してきた。豊臣秀吉の時代から博多は町人の自治が認められていたところである。
「福岡部」は、前述のように、播磨の黒田氏が転封で豊前から移ってきた時につけた地名で、福岡城の城下町、すなわち武士と町人の町である。
博多と福岡は言葉も違い、博多では「きんしゃい言葉」を使い、福岡では「がっしゃい言葉」を使った。民謡の「正調博多節」は商人の町博多の唄であり、一方「黒田節」は城下町福岡の唄である。博多の住人の多くは昔からの地元の商人であり、福岡の住人の多くは黒田氏が播磨から連れてきた武士と商人である。

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郵便切手 黒田節(福岡県)


播磨国人の福井氏は、黒田氏に従って播磨福井庄から、この筑前福岡に移り住んだ黒田武士である。

福岡には、今も播磨の血が流れている。

播磨時代の黒田氏の菩提寺は浄土真宗心光寺であった。黒田如水夫人・照福院は、播磨時代からの浄土真宗の信者で、大手門(現・福岡市中央区大手門)に浄土真宗の寺・照福山円応寺を開き、播磨の心光寺から住職を呼びよせた。なお、福岡黒田藩士の菩薩寺も浄土真宗の寺が多い。 東京・北烏山(きたからすやま)の浄土真宗本願寺派浄因寺は、もともと福岡黒田藩士の菩提寺であったという。そのためこの寺の墓には、士族のものが多い。

(黒田氏の菩提寺)

 黒田氏は播磨の出身で、黒田官兵衛(如水)は、いち早く織田信長の成長を見込んで織田方につき、さらに豊臣方について戦ってきた武将です。九州攻めの先方として豊前に上陸し、宇都宮氏を滅ぼして中津12.5万石の城主になります。さらに島津征伐や博多復興に活躍しますが、関ヶ原の戦では、息子の長政が徳川方について大活躍をします。その恩賞で筑前52.3万石に大成長します。

 そこで父母子3人の宗教上の微妙な差が、3つの菩提寺を持つ結果になります。

 当時の武将は禅宗の信仰が多く、如水も中津時代から曹洞宗の信者で、中津の安国寺をそのまま博多に移し、中津の天翁全補和尚にも博多に移動してもらいます。和尚は博多(天神)の太湖山安国寺の壮大な伽藍の発展を祈って、弟子の腎雄文啓和尚に開祖を務めてもらい、自らは後見役となります。この寺に黒田家累代の墓があります。

 如水夫人照福院は、播磨時代から浄土宗の信者で、福岡城の完成まで安国寺に住まわせられますが、別途に浄土宗の菩提寺を希望し、照福山円応寺(大手門)を開きます。此処の和尚には播磨時代の黒田家菩提寺であった心光寺の住職が呼ばれます。

 真誉和尚は播磨の赤松氏の出身で、黒田家とは古くからの交流があったようです。急成長した長政は、藩内のブレーン不足を補うために、多くのの僧侶と交流をもち、平和な時代の行政上のアドバイスをとりいれます。そのなかで、52万石の格式にあった菩提寺をいろいろと選択し、栄西禅師を開祖とする臨済宗の聖福寺(室町時代の10刹の3位の官寺)を候補としますが、鄭重に断られます。これは甥が急死したときの葬儀でトラブルが起きたのが原因かと思われます。そこで同じ臨済宗で太宰府の崇福寺(太宰府横岳に665年建立)を菩提寺として博多に移して建立することにします。京都より江月和尚をよんで開祖とし、箱崎松原に広大な境内を与えます。この寺に如水、長政、4代綱政、6代継高の墓があります。(長政の夫人大涼院は曹洞宗の宗誕和尚に帰依して、吉塚の明光寺に埋葬をしてもらったということですから、臨済宗と曹洞宗の2派に分かれたことになります。)

 寺院の歴史は複雑で、場所が変わったり宗派が変わったりしています。しかし同じ宗派であれば横の連携があるので、黒田氏の菩提寺と古賀地区の臨済宗や曹洞宗や浄土宗の寺とは歴史的繋がりがあったと思われます。黒田長政が古賀にきたとき、雨宿りで立ち寄ったと言われている泉林寺(久保)は、浄土真宗ですが、もとは筵内にあり天台宗であったということです。

出典 http://www.koga.org/history/f11tokug.htm



黒田官兵衛(孝高、如水)の生涯は、司馬遼太郎が『播磨灘物語』(講談社文庫 全四巻)に、史実にそって物語を展開している。『播磨灘物語』は、豊臣秀吉の軍師として戦国時代を才知でかけぬけた智将の物語である。

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司馬遼太郎著『播磨灘物語』(講談社文庫 全四巻)


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筑前福岡城(黒田氏居城)



<<勝城>>(すぐるじょう)

勝城は、播磨福井氏の居城だった。
場所は現在の姫路市勝原区朝日谷19。朝日谷は姫路市の南西部。西は揖保郡太子町に接し、東は大津茂川で限られる。町の南部をJR山陽本線が東西に走る。JR網干駅を降りて、山道を北へ20分ほど歩いたところに、標高86mの高さの朝日山がある。山全体が公園(朝日山公園)で、潅木を縫って広い道があり格好の散歩道になっている。姫路市の「緑の十景」の一つであり、桜の名所でもある。山頂に播磨西国三十三霊場第七番札所「大日寺(真言宗)」がある。山門からは南に播磨灘を一望できる。

大日寺の解説板によると、寺は大化年間(645〜650年)に法道仙人が開基したと伝えられる古刹で、盛時には30余の坊舎が建て並んだと言われる。鎌倉時代には浄土宗の布教の拠点となった時期があった。戦国時代に播磨守護赤松氏と家臣で守護代の浦上氏の内紛による争いで、朝日山は3度の合戦の舞台となり、寺は全焼した。本尊の観音像だけは戦火をまぬがれた。境内の五智如来石仏は、龍野城主赤松政秀の寄進による。十三重塔は室町時代のものである。

その朝日山に城跡がある。勝城跡である。勝城がいつごろ築城されたのかは不明だが、勝城は赤松氏家臣の福井次郎時家が拠ったとされている。城郭は、大日寺の境内にある岩山上の削平地にあったようだ。

                    出典『日本の中世城館調査報告集成15』東洋書林


播磨風土記にも記され開けたところ
『朝日山と大日寺』

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JR網干駅の北に朝日山があります。
『播磨国風土記』に「応神天皇がこの山で大法(おおのり:重大な法令)を発したので大法山(おおのりやま)という。斉明天皇の時(7世紀中頃)大倭の千代勝部らが田をひらいて住んでいたので、いまは勝部岡(すぐりべのおか)と呼ぶ」と由来が記され、周辺一帯は「大家里(おおやのさと)」「大田里(おおたのさと)」と表記され古くから開かれた地域です。
山頂の大日寺は大化年中(645〜650)、法道仙人の開基と伝える真言宗の古刹で、盛時には30余の坊舎がたち並び、鎌倉時代には信寂上人(法然上人の弟子)が招かれるなど、一時は播磨における浄土宗布教の中心地でした。
天文から元亀(1532〜1570)の3度にわたる朝日山の合戦で寺は全焼。本尊の観音像だけは戦火をまぬがれたと言われています。境内の五智如来石仏は龍野城主・赤松政秀の寄進と伝えられ、十三重石塔(現在は十一段)は室町時代の造立とみられています。
(姫路市教育委員会資料より)

出典 http://www.ja-hyogonishi.com/tanken/shosai14.html



【阿波国発祥で安芸国の福井氏】

先祖が阿波国伊賀郡(徳島市伊賀町)福井庄発祥の福井氏で、安芸国(広島県)守護・武田氏族の水軍に、福井十郎兵衛尉元信がいる。

安芸武田氏は、甲斐・安芸守護を兼ねた武田信武の子信成が甲斐守護を継承して甲斐武田氏の祖となり、氏信が安芸守護を継承して安芸武田氏の祖となった。安芸武田氏は戦国期は尼子氏に属し、大内氏と争う。後に毛利元就の攻撃を受け、敗北。

福井氏は、武田水軍の指揮官の一人だったが、安芸武田家滅亡後、毛利家に移り、毛利水軍に属して、川の内警固衆の一員として瀬戸内で活躍した。

水軍とは、海賊衆のことをいう。もともと海民だったもの達が、豪族化し半島や大陸などで略奪行為を行なった(倭冦)。南北朝時代から、陸の大名と結びつき勢力を持った。村上水軍などのように海の大名と称されるほどの勢力を持つ者も現れた。室町期に海賊取締りが厳しくなると、海上交通権などを掌握して、航行する船から通交料を徴収し、代りに護衛などを行っていた。

また水軍という言葉には、村上水軍、九鬼水軍など、その海賊大将の名を付した水軍名と、武田水軍、毛利水軍、織田水軍など大名麾下の、後の海軍と同義語的に呼ぶ水軍名がある。

【摂津国発祥の福井氏】

淀川の対岸にあたる摂津国島下郡(しましもごおり)・島上郡(しまがみごおり)を支配範囲とした大工組に福井大工組がある。発祥地は、摂津国島下郡福井村(大阪府茨城市福井)である。

大工組は、現在でいう総合建築会社(ゼネコン)にあたる。築城や社寺建築などを行った。その福井大工組の棟梁(組長)が摂津国福井氏のルーツ。

【美作国発祥の福井氏】

美作国(みまさかのくに:作州、岡山県)勝田郡を拠点とした活躍した武士団で菅原道真(みちざね)を祖とし美作菅家(みまさかかんけ)党をルーツとする。福井氏は、現在の岡山県英田郡(あいだぐん)美作町が拠点の福光氏の後裔。

平安時代、菅原道真は、33歳のときに文章博士に任じられ、宇多天皇に重用されて右大臣にまで昇るが、左大臣藤原時平に讒言で九州・大宰府へ権帥として左遷され、2年後に配所で死去。道真の死後、都では様々な事件が多発し、それらは道真の祟りと畏れられ、道真は左大臣正一位、太政大臣と位階を上げられて復権した。道真の復権をうけて、子孫は文章博士、侍講(じこう)として学者一門として続くことになった。後に、高辻、東防城、西防城、唐橋などの諸家が分出している。道真の曾孫資忠の次男良正は正暦年中に遁世して美作国勝田郡香爐寺に移り住んだ。良正から数代を経た知頼は美作守となり、在職中に作州勝田郡で死去。その子真兼は都に帰らないまま押領使(兵士を管理統率する役)となって作州に住み着き、美作菅家党の祖となった。美作菅家党は、一大勢力をもつ武士団に成長していった。

【福井県の地名「福井」の由来】

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福井城(別称福居城)天主台跡 福井県庁


福井県や福井市の地名の福井は、福井姓の名字のルーツとは関連がない。福井県は、かつての地方行政区分だった「越前国」のほぼ全域と、「若狭国」三方、遠敷、大飯郡に相当する。福井市はかつての荘園であり、平安時代のころから「北ノ庄」と呼ばれていた。

「北ノ庄」は、織田信長の重臣・柴田勝家が築城した「北ノ庄城」で知られている。戦国期、室町幕府・将軍足利義政より任じられた越前国の守護は朝倉氏第10代当主朝倉孝景(たかかげ)であった。子の朝倉義景(よしかげ)は守護職を継ぎ、同盟関係にあった近江国(滋賀県)の浅井長政とともに尾張国(愛知県)から侵攻した織田信長と対立し、天正元年(1573年)、信長によって滅ぼされた。その後、越前国は朝倉氏と同盟関係にあった一向宗(浄土真宗本願寺)による一向一揆が支配していた。柴田勝家は、本願寺による一向一揆を平定し、その功績により、天正3年(1575年)信長から越前国北ノ庄(福井市)が与えられ、前田利家・佐々成政・佐久間盛政らが付属されて北陸地方の平定を任された。勝家が越前国支配の拠点として築いたのが北ノ庄城である。

本能寺の変の後、信長後継の体制をめぐって羽柴秀吉と柴田勝家が対立。勝家は、天正11年(1583年)、近江国伊香郡(滋賀県伊香郡)の賤ヶ岳(しずがたけ)附近で行われた賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、北ノ庄城は攻められた。勝家は、落城の最中に、妻お市の方(信長の妹)と共に天守閣に登り火を放って自刃した。なお、お市の方には前夫・浅井長政との間に生まれた3人の娘(茶々、お初、お江)がいた。長女・茶々は秀吉の側室(淀殿)、次女・お初は若狭小浜藩主の京極高次の室(常高院)、三女・お江は2代将軍徳川秀忠の室(崇源院)となって、それぞれ数奇な運命を辿っていった。

関ケ原の戦いの後、北ノ庄に封ぜられたのは、徳川家康の第二子であった結城秀康で、文武を愛した名君だったが、弟である二代将軍秀忠に従うのを嫌ったため、暗殺されたともいわれている。

柴田勝家が築城した北ノ庄城は、勝家の死後、丹羽・堀・青木の各氏が短期間在城したが、慶長6年(1601年)、結城秀康が新たな北ノ庄城を築城する際に廃された。旧・北ノ庄城は、新・北ノ庄築城により完全に消滅しており、現在では旧・北ノ庄城の遺構を見ることは出来ない。福井駅側にある柴田神社の境内が旧・北ノ庄城本丸天守跡と言われ、柴田勝家とお市の方の銅像が建てられている。

慶長12年(1607年)に結城秀康の後を継いだ藩主・松平忠直は名高い暴君で、その乱行ぶりは、後に菊池寛が小説『忠直卿行状記』に描いたことでよく知られている。

松平忠直は祖父が徳川家康。父結城秀康は将軍徳川秀忠の兄で、本来なら徳川家を継ぐはずだった名門の家に生まれた。大坂冬の陣では越前の兵を率いて戦うが、兵力の損失が多く大御所徳川家康から叱責された。大坂夏の陣では豊臣側の将真田信繁(幸村)らの首を取り、大坂城へ真っ先に攻め入り、徳川方で一番の戦功を上げた。しかし褒美は茶道具ひとつだけ。本来なら「俺が将軍のはず」なのに思ったほどには遇されなかった。積み重なった不満が乱行におよび領民を次々と惨殺したり、家臣の家に軍勢を差し向けて討ち、その妻を奪うなどの乱行が目立ち始めるようになった。忠直は、乱心を理由に元和9年(1623年)、豊後国(ぶんごのくに:大分県)へ流罪となった。

松平忠直改易後の翌寛永元年(1624年)、忠直の弟、忠昌が松平家を踏襲し越前北ノ庄に封じられた。松平忠昌は、二代にわたる城主の不幸を悲しみ、「北ノ庄の"北"というのは"敗北"の"北"だ。柴田勝家もここで羽柴秀吉に負けてしまっている。これは縁起がよくない!」として、あれこれ考えた末、「福の居すわる町ということで"福居"にしよう」と名前を改めた。当然、城の名前は福居城と改名した。しかし、元禄14年(1701年)、幕府が越前国絵図を作成する際に、「福居城」の名を誤って「福井城」と書いてしまい、それが定着してしまった。これが現在の「福井」の地名の由来となっている。

一説には、慶長6年(1601年)、結城秀康による新・北ノ庄城新築工事の際、築城以前からその地に「福の井」という井戸があり、その井戸から清水が福のように湧き出て、水の心配がないことから、寛永元年(1624年)に、松平忠昌がこの井戸の名を取って、それまでの呼び名「北ノ庄」を「福井」に変えたとされており、そのように書かれている文献やホームページもある。しかし、これは、後付け設定ではないかとも言われている。

現在は福井城の外堀は埋められているが、石垣、内堀などの遺構が残り、御殿の一部は移築されている。本丸跡には福井県庁などがあり、公園としても整備されている。


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♪想夫恋(黒田節)
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2004年12月9日「宮崎ねんりんフェスタ2004」
前浜剣舞教室様の剣舞「黒田節」

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コメント(8件)

内 容 ニックネーム/日時
福井十郎兵衛元信とは阿波の国ではなく、安芸のふくいである。
元信の祖父武田豊後守信方の代に安芸の福井に住み福井と称した。
ゴロー
2007/06/14 23:10
荘園(庄園)について
「荘園」と「庄園」の表記については、意味的にはほぼ同じで、どちらで書かれている場合もある。奈良時代の743年(天平15年)に墾田(自分で新しく開墾した耕地)の永代私有が公認され、寺院・貴族・豪族はきそって墾田を得ることにつとめた。これら墾田の所有地には、墾田を管理する事務所や倉庫が設けられ、「庄所」と呼ばれた。やがて、この庄にその土地の名をつけて何々の庄とよび、庄は、管理事務所のある土地全体を指されるようになった。これが荘園(庄園)のはじまりといわれている。なお、荘園の名称には、庄のほかに御厨・御園・牧・保・別符などもあった。
マチエール
2007/07/09 19:00
揖保

 6〜7世紀頃の古代播磨では、揖保郡(いぼぐん)は「いひぼのこおり」と呼ばれ、18の里を擁して播磨最大の行政単位であった。

 「揖保(いひぼ)」の由来は「播磨国風土記」によると、播磨の国神「伊和大神(いわのおおかみ)」と渡来神「天日槍(あめのひぼこ)」が国を争ったとき、伊和大神が大慌てに食事をしながら川をさかのぼる途中、口から飯粒(いひぼ)がこぼれた。その地を「粒丘(いいほのおか)」と呼ぶようになり、転じて「揖保」となったとある。

 伊和大神は、揖保川上流一宮町の伊和神社に祀られている。
マチエール
2007/09/30 16:38
出雲臣(いずものおみ)

 出雲大社に祀られている神を、「大国主大神」(おおくにぬしのおおかみ)という。「大国主命」(おおくにぬしのみこと)ともいう。「大黒様」(だいこくさま)として慕われている。

 大国主神は日本の国土を開発した神様で、「日本書紀」の記録によると、大国主大神は国づくりが完成すると、天照大神(あまてらすおおみかみ)に、物質的な物事について日本の支配権を譲った。これを「国譲り」と言う。

 天照大御神は、大国主大神の「国譲り」に感激し、大国主大神のために「天日隅宮」(あめのひすみのみや)を造って、子の「天穂日命」(あめのほひのみこと)に祭祀を司るように命じられた。この天日隅宮が今の「出雲大社」である。

 以後、天穂日の子孫が大国主大神の祭りを行うようになった。その後裔が「出雲臣」である。出雲臣は、天穂日命の後裔・「鵜濡渟命」(うかつくぬのみこと)を祖とし、称号を「出雲国造」(いずものくにのみやつこ、いずもこくそう)と称して、代々、出雲大社の祭祀を司るようになった。
マチエール
2007/09/30 18:55
宮崎市に住む「福井」さんです。
日向を攻めたときの官兵衛の兵の一部が宮崎に住み着いたのだと思われます!びっくりです!福井県に由来する苗字だとずっと思ってきました。兵庫の武士のながれだったのですね・・・。しかもこんなにすっきりした答えがここに。ありがとうございます。胸を張って福井姓を名乗りたいと思います(*^_^*)
とおりすがり
2009/09/18 21:03
nklmxzrayrosfrirhgrz, <a href="http://www.mqolaklypv.com">kqyczfzrmc</a>
tessmtjzns
2011/06/06 22:44
宍粟市一宮町生栖梶原の世良家親戚らしい福岡家は、如水興産(株)黒田社長と共に播磨をSPRING8-KAMIOKANDE=NUTRINO-J-POWER原発推進派から守護可能でしょうか? 福井県を朝倉家と鹿島晃久氏子孫達でMRA,IC原発推進派から守護可能?

氏名 世良 康雄
住所 神戸市中央区古湊通り2-2-10GSハイム802(一昨年「全ての男チンピク」昨年「先祖立証協力しない」山岸舞彩アナは六師外道ジャイナ教森泉影響で変態逆賊化し、スーパーライフ高速神戸店で男子トイレ覗き有村実樹と共に長島派徳光化し、思考盗聴超低周波音波兵器後藤真希、西条秀樹、爆笑問題、八木宇田アンテナ、滝川クリステル、古谷徹、木村拓哉、広末涼子、美輪明宏犯罪激化で、稲川会たけし軍団、在日朝鮮系暴力団東亜会和田アキ子逮捕至急必要)
誕生 1970/12/28
学歴 関学商学部1994年3月卒業
資格 1996年宅建
http://my.ameba.jp/menu.do
http://yaplog.jp/groundstlork/
http://twitr.jp/user/blockermachine4http://m.mixi.jp/show_profile.pl?&id=26504156&mhome=1&
FAFNER
2013/03/18 03:12
私は神奈川に住んでいる福井さんです。田舎は富山の高岡市内にあります。私のルーツを20年前の50歳位から調べていましたが、戸籍とか過去帳(お寺の住職は
火事で焼けたそうでないとのこと)等ではせいぜい江戸の末期位しか判りません。昔から言われていたことは、先祖は京都から来たなど聞いたことがありますが定かではありません。
マチエールさんのブログによると、播磨の福井庄には浄土真宗の信者が多いと書かれていますが、私の福井家の宗派も浄土真宗です。又現役のころ親戚でもない福井さんから、福井姓は浄土真宗のみであるといわれたことがありましたが。
確かにうなずけました。
このブログには書いてないですが、「平家物語」の巻第五の奈良炎上には、・・・夜戦になって、暗さは暗し、大将軍頭中将、般若寺の門の前にうつ立って、「火を出だせ」と宣ふこそありけれ。平家の勢の中に、播磨国の住人、福井庄の下司、ニ郎太夫友方といふ者、楯を割り、松明にして、在家に火をぞかけたりける。・・・・とあります。
又播磨の国の福井庄は藤原頼長の領地であったとも書かれていますが、私の田舎は
藤原家の平蔵が開拓して現地名が藤平蔵村になったとも言われていましたが、これもなるほど?です。
今後、我が祖先について、播磨の福井庄のだれかが越中の高岡(この名前は前田利家の息子 利長が命名した)にきて住み着いた時期はいつごろか、もう少し詳しく判れば調べてみたいと考えます。
いずれにしても、過去を調べることは なるほどと思わせますね。マチエールさん有難うございました。 神奈川の福井さん
福ちゃん
2015/04/13 11:09

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