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zoom RSS 【歴史】高遠と高遠城跡

<<   作成日時 : 2006/05/15 00:09   >>

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                                         初版:     2006.5.15
                                         改定第4版: 2007.3.18



長野県歌「信濃の国」


画像
郵便切手 高遠の桜(長野県)



 高遠は、「たかとう」と読む。現在の住所は、長野県伊那市高遠町。高遠町は、2006年(平成18年)3月31日に、旧・伊那市と高遠町及び長谷村が新設合併し、新たに伊那市となった。それまでは、長野県上伊那郡高遠町であった。

 高遠町は、中世から近世において、高遠城の城下町として発展した。江戸期には、高遠藩内藤氏3万3000石の本拠として、上伊那地方の政治・文化・経済の中心を成した。明治期の作家、田山花袋が「高遠は山すその町 ふるき町 行きかう子等の美しき町」とうたったように、高遠の町には、今も街路や家並みに藩政時代の面影を色濃く残っている。主産業は、町内を流れる三峰川沿岸の稲作、果樹栽培などを中心とする農業で、林業にも依存する。

 見どころとしては、桜の名所高遠城跡や建福寺・遠照寺、高遠湖などがある。 高遠湖北畔の高遠町郷土資料館には、明治維新関係の文書や、絵画・彫刻・工芸品などを収蔵展示。 高遠城は、明治維新の際に廃城とされ、現在高遠城跡公園として一般に開放されている。高遠城跡には今も城門・太鼓櫓や、石塁・空堀などが残っており、城跡全体が昭和47年(1972年)4月、国の史跡に指定された。城跡に植えられている小彼岸桜(コヒガンザクラ)は、天下の名桜といわれており、国史跡の城跡とともに、高遠町を象徴するものとして、また「関東の吉野」とも例えられ、全国に広く知られている。

 鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」によると、長谷村と高遠町は「黒河内(くろごうち)藤沢」と言われ、黒河内藤沢庄という庄園(荘園)の庄域(荘域)とされていた。庄(荘園)は黒河内郷と藤沢郷の2郷から成り、この2郷は代々諏訪大社(上社・下社)の領地となっていた。このうち、黒河内郷は長谷村の村域であり、藤沢郷は高遠町の町域である。この地域は、明治の廃藩置県前までは信濃国更級郡(さらしなごおり)に属していた。時代を遡る飛鳥・奈良時代の律令制下においては、諏訪郡に属していたものと推定される。

 黒河内藤沢は、寿永2年(1183年)頃、諏訪大社の大祝(おおほおり:神主の職)に属する藤沢氏が領していた。藤沢氏は鎌倉期に藤沢郷(高遠)を支配した豪族で、鎌倉幕府の御家人として幕府に勤仕していたことが「吾妻鏡」に書かれている。出自は、前田家本神氏系図によると、諏訪大社の神主の職にあった大祝貞方の子光親の子神次親貞が、高遠の藤沢谷に入って藤沢氏の始祖となったといわれている。 藤沢氏発祥の地については、「藤沢村史」は御堂垣外(みどがいと)、中町の保科屋敷跡を示している。

 藤沢郷について、諏訪大社文書には藤沢七郷とある。藤沢七郷には2説あり、片倉・御堂垣外・荒町・野笹・四日市場・弥勒・板町の7郷とする説(下伊那史)と、松倉・片倉・御堂垣外・水上・荒町・北原・台の7郷とする説(上伊那誌)がある。

 元弘3年(1333年)5月、鎌倉幕府が倒れ北条氏が滅んだ後、高遠(藤沢郷)を支配したのは、諏訪氏一門の高遠頼継(諏訪頼継)である。高遠氏は諏訪上社に大祝として奉仕した諏訪氏の一族である。高遠城を本拠とし、天文年間に甲斐の武田晴信(信玄)に攻められるまで、7代およそ200年続いた。

 晴信は、1542年から信濃への侵攻を開始する。上原城主・諏訪頼重を自害させ、諏訪地方を併合した。

 甲斐武田の諏訪侵攻の口実を与えることになったのは、諏訪一族(諏訪上社の諏訪惣領家と諏訪下社の金刺家)の内紛によるという。内紛により社殿などを焼かれ居城を落とされた下社の金刺昌春(かねさしまさはる)は、晴信の父・武田信虎を頼って落ち延びた。これが信虎に信濃侵攻の口実を与えるところとなり、上社の諏訪惣領家は武田氏から攻撃を受けることになったのである。諏訪氏と武田氏の小競り合いは、その後も続いたが1535年に両者は和睦し、信虎は息女の禰々(ねね)を頼重に嫁がせて縁戚となった。

 1541年、信虎の嫡男・晴信(信玄)は駿河・今川義元のもとに父・信虎を追放してしまう。信虎は、次男の信繁を偏愛し、嫡男の晴信を疎んじたため、信虎と晴信と対立し、ついには信虎は晴信の廃嫡を考えるようになった。また、信虎は性格が高慢、横暴で諫める家臣を手打ちにするなどし、国内の疲弊をよそに無理な外征を行い、領民の信頼を失っていた。このため、信虎に仕えていた板垣信方、甘利虎泰らは、晴信を擁護して信虎を駿河に追放してしまったのである。

 父・信虎を追放した晴信は、諏訪に対して侵略政策に方針を転換し、天文11年(1542年)には伊那郡を支配する高遠頼継と手を結んで、妹婿諏訪頼重を討伐し、諏訪惣領家を滅亡させた。

 高遠の地は、もともと諏訪上社の領地であったが、金刺昌春が甲斐国に落ち延びた頃、諏訪一族である高遠頼継が統治していた。高遠頼継は諏訪上社の惣領家の地位を狙い、下社の金刺氏と結んだ。これに武田晴信が力を借し、諏訪惣領家を攻撃したのである。天文11年(1542年)、武田氏と高遠氏の両面攻撃にあった諏訪頼重は降伏し、信濃の名族・諏訪本家は滅亡した。

 諏訪の城主頼重は甲府に連行され、武田家臣板垣信方の屋敷にとらわれの身となり、自害を迫られた。自害にあたり諏訪頼重は、
   「おのづから 枯れ果てにけり 草の葉の 主あらばこそ 又も結ばめ」
と辞世の句を残し弟と共に自害した。ときに頼重27歳の若さであった。

 晴信の軍師・山本勘助は、諏訪を足場として、信濃一円を攻略することを晴信に勧めた。晴信は、上原城を拠点として伊那・筑摩・佐久間・小県への攻略を本格化させると、武田氏対信濃国人との戦いに発展していった。信州各地に甲州武田の「風林火山」の軍旗が棚引き、信濃は蜂の巣をつついたように大混乱を引き起こしていった。

 諏訪惣領家滅亡後、諏訪の地は武田晴信と高遠頼継とが二分したが、晴信と頼継とは諏訪領の分割問題をめぐって対立した。そして天文14年(1545年)、武田軍は小淵沢(こぶちざわ:長野県北杜市小淵沢町)で高遠軍を破った。こうして晴信は伊那を奪取し、諏訪・上伊那一帯の全ては武田氏の領有に帰した。

 武田晴信は、保科正俊ら高遠氏の遺臣に対しては、知行を安堵するなどの措置をとった。保科氏は、信濃国高井郡保科(穂科)から発祥し、いつの頃か上伊那の藤沢郷に移住し、高遠城主諏訪氏(高遠氏)に仕えた信濃国人である。保科正俊の父は保科正則で、高遠頼継の重臣であった。正俊は最初は武田晴信の信濃侵攻に抵抗したが、1549年頃に降伏してその家臣となった。高遠城主となり、武田家の信濃先方衆120騎持ちとなった。

 高遠氏の居館であった高遠城は、天文16年(1547年)、武田晴信が伊那地方への進出の拠点として、家臣の山本勘助・秋山信友に命じて大規模な改修を行い、今に見る城構えを完成し、保科正俊・秋山信友など武田の諸武将が居城した。

 井上靖の創作であるが、小説「風林火山」によると、武田の軍師・山本勘助は、諏訪一族の武田に対する怨恨が残るのをおそれた。武田が手にかけた諏訪頼重に娘がいた。勘助が救った女児で、名を由布姫(諏訪姫)といった。勘助は由布姫を武田晴信の側室とし、諏訪一族との宥和を計ることに心を尽くした。やがて、晴信と由布姫の間に子が生まれた。後に武田の家督を相続することになる武田勝頼である。生まれたばかりの赤子・勝頼の顔を見ながら、武田と諏訪の行く末を案じる勘助の夢は、甲斐と信濃の山野を駆け回った。やがて、合戦騒ぎのない明け暮れが、甲斐と信濃の山峡の村々にも訪れた。

 勝頼誕生後、諏訪姫は故郷の諏訪に帰り若く美しい悲運の生涯を閉じたと伝えられる。1555年に死去。墓は晴信(信玄)と勝頼が厚く保護した高遠の建福寺にある。

 武田氏と信濃国人の戦いは、天文22年(1553年)の村上氏の居城・葛尾城の落城によって決着をみ、武田氏の信濃支配はほぼ達成された。しかし、北信濃を追われた村上義清が越後の長尾氏を頼ったことから、長尾景虎(上杉謙信)と武田晴信(武田信玄)との戦いへと形を変え、千曲川を境とした川中島の戦いは、天文22年(1553年)から永禄7年(1564年)にかけて12年間の5回にわたった。

 武田晴信は、永禄5年(1562年)、嫡男武田勝頼を諏訪四郎勝頼と名乗らせ、高遠城の城主とした。ちなみに勝頼の「頼」は、諏訪氏の当主が襲名してきた字である。

 その後、元亀元年(1570年)、勝頼を自分の後継者として甲斐国に戻らせ、晴信の実弟の武田信廉を高遠城の城主とした。

 天正元年(1573年)晴信(信玄)が没したあと勝頼が家督を継ぎ、天正3年(1575年)、織田・徳川連合軍と長篠で戦い武田騎馬軍団は潰滅的敗北を喫した。この敗戦で武田軍の勇将、壮士らが多く戦死したが、高遠氏遺臣の保科正直は高遠城の守りにあって合戦に参加しなかったため一命をとりとめた。

 武田信玄(晴信)没後の天正9年(1581年)、晴信の五男で、勝頼の異母弟の仁科五郎盛信(もりのぶ)が高遠城主となった。仁科五郎盛信は、長野県歌「信濃の国」に歌われている「仁科五郎信盛(正しくは盛信)」である。母は晴信の側室で、武田一門の油川信守(あぶらかわのぶもり)の娘、油川夫人。盛信は、仁科家に養子に入り、仁科家を継いでいた。信玄(晴信)が高遠城の仁科家を攻略した際、名門仁科家が没落するのは勿体ないということで、仁科を名乗るようになった。多くの武田家臣が勝頼のもとを離反していった中、盛信は最後まで勝頼に忠節を尽くし要害高遠城を守った。のちに、盛信の子達は徳川家康と目通り、全て徳川家の旗本として召抱えられ、武田信玄の血はこの仁科家に繋がっていった。

 1581年、勝頼は本拠地を、甲府躑躅ケ崎館から韮崎(山梨県韮崎市)に建築中だった新府城に移した。勝頼の最後の期待は、高遠城だった。高遠城が20〜30日もちこたえてくれれば、その間に新府城を完成させて決戦できると考えていた。しかし、その期待は空しかった。やがて、織田信長の嫡男信忠軍により、高遠城は一日にして落とされることになるのである。

 天正10年(1582年)、武田氏の親族であって信濃木曽領の領主であった木曽義昌が謀反したとの知らせが届き、勝頼は直ちに制圧のため出兵した。木曽義昌は織田信長に救援を求め、2月11日には信長が嫡男信忠を先陣として甲州攻めを開始した。

 こうした状勢は、武田晴信の娘を妻にもつ小田原の北条氏政(後北条氏)のもとにも知らされた。北条氏政は、すでにこの時点で武田氏の滅亡を見通し、北条方もこの機に乗じて武田領へ進出する構えをみせている。木曽に向った勝頼は鳥居峠で木曽勢の抵抗にあい、織田信忠の出陣の知らせに動揺し、一旦新府城へ戻って善後策を協議することにした。伊那郡へ入った信忠は逃亡する南伊那衆を追って、2月29日に伊那郡の拠点城であった高遠城を包囲した。

 仁科盛信は、兄武田勝頼の命により、天正10年(1582年)3月、高遠で織田信長軍と戦かった。織田軍の侵攻に対して、保科正直は城主の仁科盛信を助けて、織田軍に対して頑強に抵抗した。しかし、織田軍の猛攻撃によって高遠城は救援のないまま3月2日に落城し、城主仁科盛信は壮烈な討ち死を遂げ仁科氏は滅亡、石田系小山田氏の小山田備中守昌行・昌貞兄弟らは戦死した。保科正直は小田原の北条氏直(後北条氏)を頼って落ちていった。

 高遠城の落城により、武田氏は瓦解、武田氏の信濃支配は終わった。武田勝頼の最後は、頼った家臣の小山田信茂に裏切られて追い詰められるという悲惨なものであった。家臣に背かれた勝頼は、高遠城の落城の9日後に、甲府の天目山の麓まで追い詰められ織田軍に攻められ大敗北。 勝頼は長男の信勝、妻の北条院(北条氏政妹)ら一族とともに自殺して果て、ここに武田氏は滅亡した。勝頼は、親族にも有力武将たちにも愛想をつかされて、最後の一戦の末に華々しく散ることもできなかった。ここに、「甲斐に武田あり」とうたわれた甲斐源氏の嫡流・武田一族はついに滅亡したのである(天目山の戦い)。

 保科正直は小田原の北条氏直の案内役として、後北条勢を導いて高遠城の奪還を図り成功、城主として同地に返り咲いた。のち、徳川氏と後北条氏が甲斐国で対陣したとき、正直は近郷の士を集め、徳川の重臣酒井忠次を仲介として家康に付くことを明らかにし、伊那郡の半分を領知すべき朱印状を与えられた。

 保科氏は、もとは高遠家(諏訪家)の家臣、次いで武田家の家臣であったが、武田家滅亡後は徳川家の配下に移り、高遠は、徳川家康に手厚く保護された。ついでの話だが、徳川家康は、武田家の家臣の多くを徳川家の家臣として迎え入れ、重用した。武田家臣団の築いた戦略、戦術、治民政策、文化等は、実質的に徳川に受け継がれ、徳川長期政権の基礎を据えるのに大いに用いられた。ちなみに、家康は武田の軍制を採用しており、江戸期に「甲州流軍学」がもてはやされたのは、たぶん、旗本に武田の旧臣が多かったためであろう。

 織田信長が本能寺で明智光秀に攻められ自刃した後、徳川家康は甲斐と信濃の大部分を領有することになった。諏訪氏は徳川家康のもとで旧領が安堵され、江戸幕府滅亡まで譜代大名に準じた立場で忠勤をはげんだ。

 江戸時代に入ると、毛利秀頼が高遠城に入城するが、秀頼は本拠を飯田に置き、高遠城の城代には勝斎を置いた。毛利秀頼の没後は、京極高次・保科正光・鳥居忠晴と城主が変わった。

 保科氏で初めて徳川幕府の大名になったのは正直の子正光である。正光は駿府在城時の家康の側近に仕え、「小牧・長久手の戦い」にも従軍した。「小田原の陣」では父正直とともに出陣し、家康の関東入国後は下総国多胡で1万石を与えられた。慶弔5年(1600年)の関ヶ原の戦いのときは浜松城を守り、さらに越前国北ノ庄城(福井)を守護し、領内の政務を裁断した。関が原の戦いの後、保科正光は旧領高遠に移され、2万5000石の高遠藩が成立した。

 慶長16年(1611年)、徳川二代将軍秀忠と側室お静との間に子が生まれ、幸松と名付けられた。しかし、秀忠は正室お江与の方(近江小谷城主・浅井長政の三女で、秀吉の養女)に頭が上がらず、幸松は高遠城主・保科正光の養子として預けられた。この幸松が後の名君・保科正之であり、寛永8年(1631年)、高遠城主となった。

 三代将軍家光は、保科正之を、いずれは徳川の天下を支えてくれる器量の持ち主であると認め、会津に転封して松平姓を与えた。これが徳川御家門の会津松平家の始まりである。以来、会津藩は徳川親藩の中でも特に幕府に忠実で、幕末に重要な役割を果たすことになる。

 なお、保科氏が転封になった会津藩には、「高遠以来」という言葉があった。「高遠以来」とは、保科正之の高遠藩主時代から仕え続けた最古参の家柄の事で、ほとんどは武田家の遺臣たちである。井深、簗瀬、田中、西郷、内原、梶原、北原、小原、三宅の九家は家老職に昇り得る名門とされていた。

 保科氏が会津に転封した後、高遠に入ったのが、もと三河の武士で、家康の実家・三河松平家の古くからの家来だった内藤氏である。元禄4年(1691年)に、内藤清枚が3万3千石で高遠に入り、以後高遠城は内藤氏の居城として、明治4年(1871年)の廃藩置県で廃藩となるまで続いた。

 内藤氏の江戸下屋敷は、今の新宿区にある新宿御苑の地にあった。新宿の地が内藤新宿と呼ばれた由縁は、ここにある。この縁から、高遠町と新宿区は友好提携を結び、青少年から高齢者までの幅広い交流を続けている。

 高遠の桜は新宿御苑の桜の範になっている。また、平成元年(1989年)、新宿歴史博物館の開館時に、高遠町から新宿区に桜の苗木が贈られ、今はとても大きくなって、春の博物館を美しく彩っている。

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【絵島生島事件】

 1714年(正徳4年)、江戸城大奥で最大のスキャンダルが起こった。大奥に勤める多数が処罰された風紀粛正事件であり、絵島生島事件という。
 その事件の中心人物が大奥女中の絵島であり、スキャンダルの相手が歌舞伎役者の生島新五郎である。事件が起きた時の二人の年齢は、絵島が33歳位、生島が43歳位であった。
 絵島の名前は、「江島」が正しいともされている。絵島は旗本白井平右衛門の娘で、江戸時代中期の江戸城大奥で御年寄(おとしより)として強大な権力を握った。
 ちなみに、御年寄は老女と呼称される事もあるが、年齢のことではない。江戸時代の大奥女中の役職名で、大奥総取締役という意味あいである。
 絵島は、三河国刈谷の生まれとも,江戸生まれともいう。徳川綱豊(後の家宣)の側室お喜世の方(後の月光院)に仕えていた女中で、綱豊が6代将軍家宣として江戸城に入るのに従い、お喜世の方とともに大奥入って御年寄として出仕した。
 1714年正月12日、絵島は月光院の名代として寛永寺と増上寺に参詣した帰りに、江戸山村座に生島新五郎の芝居を見物し、徒目付の目に止まって問題となる。この事件が大奥の風紀を正そうとしていた老中の耳に入り、取調べの結果、絵島は高遠藩内藤家にお預けの身となる。生島新五郎は三宅島へ流罪に、さらに絵島の兄にあたる白井平兵衛勝昌は死罪となるなど大疑獄事件になった。
 絵島は火打ち平らの囲み屋敷に幽閉され、質素な生活の中で日蓮宗に帰依して精進の々を送った。絵島は28年を高遠で過ごし、二度と江戸の土を踏むことなく61才で病没した。 後に、この事件は絵島と生島新五郎と密通したとされ、芝居などに書かれるようになり有名になった。

 高遠城址公園の中で「絵島囲み屋敷」を見ることができる。絵島が高遠で流刑生活を送った屋敷を当時そのままに復元したもので、格子などで厳重に囲まれた質素な屋敷である。当時、絵島は昼夜を問わず10人近くの武士・足軽たちに見張られていたという。

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【石工の里・高遠】

 城下町高遠は、 「桜の高遠」として知られ、 絵島生島の哀話で知られる地でもある。
また、石工 (いしく) の里としても知られている。
 石工とは、石材を加工したり組みたてたりする職業のこと。人類文明の初期からある職業のひとつとして知られる。高遠の石工は、江戸時代、全国にその名を馳せた。
 江戸時代の高遠藩は小藩であり、財政的にも非常に苦しかった。そのため、 藩の政策として、耕地面積の少ない山間部の農民に対して、石工の旅稼ぎをすすめていた。高遠藩の藤沢郷や入野谷郷などの人々は石切の技術を習得し、石工となって全国各地へ旅稼ぎに出た。そのため、石工が全国各地へ散り、高遠石工の名声を高めた。
 最初は、冬の間の農閑期だけの稼ぎだったが、旅先での評判が良いので、長期にわたって逗留する者や、ついには旅先に定住して石切稼業を続ける者もいた。
 その中で特に有名な石工に、守屋貞治(もりやさだじ:1765〜1832年)がいる。守屋貞治は、高遠町に生まれ、14,5歳の頃から石工の修行に励み、 20代で自立して以来、 68歳で大往生するまでの間に、340体余の石仏を残した。
 貞治に大きな影響を与えたのは上諏訪の温泉寺の住職・願王和尚で、貞治の彫技と人物を深く愛し、彼の大作には偈や讃を書き与えて彫りつけさせ、布教の先々では彼を推薦紹介した。貞治は仏門に帰依し、香を炊き、念仏を唱えながら、ひたすら彫像に励んだという。
 そのような貞治の姿勢が、彼の天性の素質と培われた彫技とあいまって、次々と傑作を生みだしたのである。
 高遠の城下町を見下ろす高台にある建福寺は、城主保科氏の菩提寺であり、臨済宗の名刹として知られている。この建福寺には、貞治の石仏として、西国三十三ヶ所観音や延命地蔵尊・願王地蔵尊などがある。西国三十三ヶ所観音は貞治、50代の秀作である。願王地蔵尊は願王和尚を偲んで貞治が66歳の時に万感をこめて完成させた傑作である。
 高遠城跡の東にある桂泉院にも延命地蔵尊と准胝観音の二体の貞治の石仏がある。貞治56歳の時の作である。 
 全国に散った高遠の石工の血と技は受け継がれ、今でも各地の石工が祖先である高遠の石工を誇りに思っているという。

リンク:長野県の文化財 技の集団、高遠の石工

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年中行事
 だるま市(2月11日)、桜まつり(4月)、絵島まつり(7月)、灯ろう祭(9月23日)

特産品
 高遠城址まんじゅう 絵島そば 凍豆腐 木彫工芸品 シイタケ 信州味噌 清酒 
 高遠焼 漆器工芸 リンゴ

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      ♪ 長野県歌 「信濃の国」
                               浅井  洌 作詞
                               北村 季春 作曲


  一.信濃の国は十州に 境連ぬる国にして
    聳(そび)ゆる山はいや高く 流るる川はいや通し
    松本伊那佐久善光寺 四つの平は肥沃(ひよく)の地
    海こそなけれ物さわに 万(よろ)ず足らわぬ事ぞなき

  二.四方(よも)に聳ゆる山々は 御嶽乗鞍駒ヶ岳(おんたけのりくらこまがたけ)
    浅間は殊(こと)に活火山 いずれも国の鎮めなり
    流れ淀まずゆく水は 北に犀川(さいがわ)千曲川(ちくまがわ)
    南に木曽川天竜川 これまた国の固めなり

  三.木曽の谷には真木茂り 諏訪の湖(うみ)には魚(うお)多し
    民のかせぎも豊かにて 五穀の実らぬ里やある
    しかのみならず桑とりて 蚕飼い(こがい)の業の打ちひらけ
    細きよすがも軽(かろ)からぬ 国の命を繋ぐなり

  四.尋ねまほしき園原や 旅のやどりの寝覚の床
    木曽の棧(かけはし)かけし世も 心してゆけ久米路橋(くめじばし)
    くる人多き筑摩(つかま)の湯 月の名にたつ姨捨山(おばすてやま)
    しるき名所と風雅士(みやびお)が 詩歌に詠てぞ伝えたる

  五.旭将軍義仲(よしなか)も 仁科の五郎信盛(のぶもり)も
    春台太宰(しゅんだいだざい)先生も 象山(ぞうざん)佐久間先生も
    皆此国の人にして 文武の誉(ほまれ)たぐいなく
    山と聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽(つき)ず

  六.吾妻はやとし日本武(やまとたけ) 嘆き給いし碓氷山(うすいやま)
    穿(うが)つ隧道(トンネル)二十六 夢にもこゆる汽車の道
    みち一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき
    古来山河の秀(ひい)でたる 国は偉人のある習い

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リンク
【歴史】風林火山
http://matiere.at.webry.info/200702/article_7.html

【歴史】風林火山 (武田三代興亡記)
http://matiere.at.webry.info/200703/article_4.html

高遠の歴史
http://www.h5.dion.ne.jp/~hanami/rekisi/Takato.files/takatonorekisi.htm



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高遠城址公園のタカトウコヒガンザクラ見物とセット。 前回も行ったので二度目である。 絵島囲み屋敷自体は復元されたもので、当日は無料で見る事が出来た。 お金を払ってまで、有料で見る人が居るのか甚だ・・・である。 ...続きを見る
週末を原村で
2008/05/01 05:47
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2013/07/10 04:53

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