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zoom RSS 【歴史】渋沢栄一 〜 日本の将来を決定づけた明治の大実業家

<<   作成日時 : 2005/11/30 21:16   >>

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★ 渋沢栄一 ★

 明治時代には大物が二人いるといわれている。
 政界では西園寺公望(さいおんじきんもち)、経済界では渋沢栄一(しぶさわえいいち)である。

飛鳥山公園内の渋沢史料館「渋沢栄一像」
 
 渋沢栄一は、天保11年(1840年)2月、武蔵国榛沢郡血洗島"はんざわぐんちあらいじま"(現・埼玉県深谷市)で麦作と養蚕そして藍の栽培と売買を営む豪農の長男として生まれた。雅号を青淵(せいえん)といった。栄一の生家の裏に青々とした水をたたえている深い淵があり、この淵にちなんで命名したと言われている。

 父の晩香は教育熱心な人で、幼い頃から栄一に漢詩や論語を教え、栄一が七歳になると近所に住む従兄弟の尾高惇忠(あつただ)につかせて論語を本格的に学ばせた。この尾高からの教育を受けたことが、後の栄一の人格形成に大きな影響を与える。

 渋沢は実家の主業でもあった深谷名産の藍玉(染色原料)の売買を手伝い、少年期から大人顔負けの取引により大きな利益を上げ、後の大実業家につながる「理財に対するすぐれた能力」を発揮している。

渋沢栄一 生家(埼玉県深谷市)
現在の家屋は、明治28年に妹夫婦が再建(県指定文化財)


 彼の成長期は、幕末の風雲が日本全土を襲っていた。渋沢の少年期は黒船の来航、開国などにより、それまでの鎖国で長く続いた平穏な時代の末期の揺籃期であり、多感な栄一は政治に関心を持ちはじめる。渋沢は、若い頃から反骨精神旺盛であった。武士というだけで学問の才能もなく、ただ威張り散らす連中への反感、またアヘン戦争をめぐる英国の清国に対する理不尽な要求を知るにつれ、渋沢は次第に「尊皇攘夷」思想を抱くようになる。

  24歳の時には、土地の代官の度重なる寄付の強要などに反発していたこともあり、尾高をリーダーとし在郷の仲間と語らい、「身近な幕府」 である高崎城を襲撃する計画を立てる。しかし、実行直前に京都から戻った尾高の親戚に強く諫められて直前で計画実行を断念する。

 渋沢は熱くなった頭を鎮めるために江戸に上がり、かねてより懇意の平岡円四郎を訪ね、京都に遊学する。平岡円四郎は、徳川御三郷(ごさんきょう:田安家・一橋家・清水家)のひとつ一橋徳川家の重臣であった。元治元年(1864年)、渋沢は、平岡円四郎の勧めで一橋家に仕官することになった。

 尊皇攘夷から一転して幕府方の一橋家に仕官したのである。直前まで討幕計画を練っていたので、180度の転換であるが、幕末から明治維新にかけ攘夷と開国、勤皇と佐幕など様々な思想と立場が渦巻いていた時代であり、渋沢の仕官は、運命を切り開いて行くのに必要な決断だった。

 渋沢は、一橋家の財政を受け持ったが、歩兵の募集、新しい事業の運営などみるみる頭角をあらわしていった。このころ、薩摩藩の大物、西郷隆盛と豚鍋をつつきながら天下国家を論じ合ったり、新撰組の近藤勇土方歳三と接触したこともあった。
 
一橋徳川家 屋敷跡
(千代田区大手町の丸紅、気象庁、大手町合同庁舎付近一帯)
一橋邸は江戸城一橋門内、現在の千代田区大手町1丁目4番地付近にあった。

 予想外のことが起きた。大老・井伊直弼(いいなおすけ)の公武合体策により、孝明天皇の妹・和宮内親王が徳川家に降嫁し、徳川14代将軍となる家茂(いえもち)と結婚していたが、第2次長州出兵のさなか、家茂は大阪城で病死する。家茂の死にともない、将軍後見職だった一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)が、徳川宗家(将軍家)を継いで15代将軍に就任したのだ。江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜である。慶喜は渋沢の当主である。慶喜に従って幕臣となれば討幕ができなくなると、渋沢は一橋家を離れる決心をする。

一橋慶喜(最後の将軍・徳川慶喜)

 倒幕思想に固まった渋沢に、またもや大きな転機が訪れる。 
 慶応2年、将軍徳川慶喜の代理として、慶喜の実弟で当時14歳の徳川昭武(あきたけ)がパリ万国博覧会に出席し、その後、イタリア、イギリス、スイス、ベルギーを歴訪することになった。その視察旅行団の中に、渋沢栄一が御勘定役(総務・財務担当)として随行することになったのだ。渋沢栄一、24歳のときであった。

画像
徳川昭武

 約1年におよんだヨーロッパにおける異文化体験は、渋沢の考え方を尊皇攘夷や倒幕思想をはるかに超えた地点に導いた。見るもの聞くもの全てが新鮮で、驚きだった。渋沢は、当時の日本とヨーロッパ諸国との文明、産業、軍事力の圧倒的な差に驚き、使節団業務の傍ら積極的にヨーロッパの先進技術、社会・経済に関する組織・制度を学んだ。渋沢は、資本主義の制度、精神を徹底的に学んだのである。

 その中で特に渋沢が関心を示したものがあった。ヨーロッパでは、利益を追求することは卑しいこととされず、商人が政治家や官僚と対等に競い合える。商人は、株式会社という組織をつくり営利事業をしていること、そして、銀行のもとに強固につくられた金融システムが産業の潤滑油としての役割を果たしていること。日本でも商人がビジネスを武器に武士と対等に渡り合える世の中をつくる、渋沢はそう決意した。
    
徳川昭武パリ万博一行
(千葉県松戸市「戸定"とじょう"歴史館」)


  渋沢は、昭武に付き添った銀行家を通して、日本ではただの「商人」にすぎない『実業家』が社会をリードする存在であり、軍人(日本に置き換えれば武士)と対等に会話をし、かつ軍人に尊敬されている光景を見て、いたく感動した。なぜなら、日本の「商人」は士農工商の末端の卑しい存在であり、商売は家業・生業にすぎず、商人は私利を追うばかりで、世の尊敬を集めることとはほど遠い存在であったからである。

 日本と違って、ヨーロッパでは産業・経済が発展し、それが国富の源泉になり強国を形成している。ヨーロッパでは「商売」は生業を離れ、組織化されたビジネスとして発展し、経済が一国の推進力になっている。産業・経済から生み出される税収により、政府が運営され軍も存在できるのである。

 世に尊敬されるビジネスマンとなるためには、私利私欲に走らず高い志が必要であり、渋沢の中に「道徳と経済の一致」の理念が生まれた。

  渋沢が、ヨーロッパ旅行で見聞したもの、学んだものは、その後の彼および日本の将来を決定づけるものになった。富農の子に生まれ、幼くして論語を学び、染料の商いで商才を磨き、京都で幕臣となったそれまでの「農業を知り、学問を知り、商を知り、武士を知る」----渋沢のそれまでの体験と ヨーロッパ近代文明に触れた貴重な体験が合わさり、明治維新後の日本経済の勃興に大きく関わる基礎をなしたのである。

 昭武の視察団がヨーロッパ旅行中に、びっくりすることが起きた。
主君の徳川慶喜が大政奉還を行なったのである。その際の顛末を以下に記す。

大政奉還

 慶応3年9月、薩摩・長州の両藩は「討幕挙兵」の盟約を結び、武力による討幕を考えていた。薩摩藩士の西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀(たてわき)たちは、討幕について、長州藩士の木戸孝允(桂小五郎)・伊藤博文・井上馨・広沢真臣たちと会談を重ねた。

 土佐藩は、その年の6月に、坂本龍馬が考えた「船中八策」(公議政体論)を主張し、平和的に将軍が政権を返上することを政治路線として考えていた(公議政体とは、一言で言えば新政府のことである)。そこで、土佐藩士の後藤象二郎は、坂本龍馬の「公議政体論」をもとに、前藩主の山内豊信を通じて、将軍慶喜に、討幕派の機先を制して政権の返還を行なうように勧めた(10月3日、慶喜に大政奉還の建白書を提出)。

 討幕派の動きを察知した慶喜は幕藩体制の限界を悟り、土佐藩の意向に沿って、10月12日、京都二条城において大政奉還の上奏文の提出を決定し、10月14日、上奏文を朝廷へ提出した。翌15日、朝廷は上奏文を受理し、大政奉還が成立した。ここに、徳川家康が江戸に開いた徳川幕府は、約260年間をもって、形式上その幕を降ろすことになった。 

 一方、薩摩藩の武力討幕派である西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀は、徳川家が力を温存したままの大政奉還に反対し、朝廷内の岩倉具視らと結んで、大政奉還が奏上された同じ10月14日に、天皇からの「討幕の密勅」を入手して討幕の大義名分を得た。

 10月24日、慶喜は将軍職の辞退も奏上したが、26日、朝廷はしばらく政務を慶喜に委任するという決定を下した。長い間武家政権が日本を支配してきたため、政権を返されても朝廷には行政機構が備わっていなかったのである。

 このような中、11月15日、京都四条河原町の醤油商近江屋で、土佐藩士で海援隊長の坂本龍馬(33歳)と、陸援隊長の中岡慎太郎(30歳)が、奉還後の政治体制について会談中に、何者かによって命を狙われた。龍馬は切り込まれて即死。中岡は、その場では一命をとりとめたが、後に死亡した。犯行は、幕府見廻組実行説、薩摩藩(西郷隆盛・大久保利通)陰謀説、岩倉具視謀略説などがあるが、定かではない。暗殺の理由は政治体制の意見の相違からだと思われる。2人は、平和的に新生日本の礎を築きたいと望んでいただけに、残念なことである。坂本龍馬は、慶喜の大政奉還の英断を評価し、慶喜に新政府の副関白の地位を与えようとしたほどである。坂本龍馬が木戸孝允(桂小五郎)に言った言葉がある。「まだその藩なるものの妄想が覚めぬか。 薩州がどうした、長州がなんじゃ。 要は日本ではないか。 小五郎!」

 大政奉還により,討幕の名分を失った薩長などの討幕派は,岩倉具視ら急進派の公家と連携して巻き返しをはかった。薩長藩士の西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允らの一派が中心となり、ク−デタ−の形をとって新政権から慶喜を排除すべく画策した。「王政復古の大号令」である。12月9日、陛下(のちの明治天皇)は、15歳に満たない御年で、ついに(幕府)将軍職を廃止し「王政復古の大号令」を発し、天皇を中心とした新政府を樹立したのである。翌慶応4年1月3日、国内史上最大の内戦となる鳥羽伏見の戦いで薩長軍が勝利し、9月に明治と改元された。明治維新である。

大政奉還(京都二条城)


 慶応3年、朝廷は、徳川慶喜の処置として、駿河・遠江の譜代大名及び天領を併せて静岡藩に移封し、駿府(現在の静岡市)に住まわせた。

 ヨーロッパ旅行中の徳川昭武の視察団に、新政府から大政奉還のことが伝えられ、帰国が命じられた。一行は急ぎ帰国。渋沢栄一は、駿府に移り住み、静岡藩に退いていた徳川慶喜を支えた。渋沢は、慶喜のもとで静岡藩の発展のために尽力することとなる。

 豊富な人材がいる静岡で藩の資金により念願の「組織だったビジネス」を開始した。ヨーロッパ諸国に打ち勝つためには、農業社会から抜けだし、経済の振興を図らねばならない。渋沢はヨーロッパで学んだ経済理論をそのまま導入するのではなく、日本文化の特性を加味して定着できるように移植を開始した。

 すなわち、渋沢は、日本で最初の合本(株式)組織「商法会所」を静岡に設立し、株式会社の概念を導入したのである。「商法会所」は銀行と商社をミックスした組織であり、うまく機能させ地域経済の活性化に成功した。これによって、渋沢は、のちに、日本の資本主義の祖と言われることになる。

 明治政府は、近代国家をつくるため優秀な人材を欲していた。静岡藩で成果を上げた渋沢を、明治政府は見逃しはしなかった。もとは明治政府の敵側の旧幕臣であっても、日本は彼を必要としていた。旧幕臣といえども、このような逸材を明治政府が放っておくわけがない。

 明治政府は渋沢を招いたが、渋沢は断固としてこれを断る。しかし政府は再三の招聘を行ない、最後には、大蔵卿(おおくらきょう:現在の財務大臣)の職にあった大隈重信が説得にあたった。

大蔵卿 大隈重信
   
 大隈の説得は、渋沢が静岡で作った「商法会所」日本全体に及ぼして欲しいというものであった。渋沢は新政府に入るつもりは全くなかった。旧幕臣であったからであり、民で実業の世界で生きる決意をしていたからでもある。しかし大隈の説得は渋沢の決意を鈍らせた。小さい頃から、国家のために「何事かなさんとする志」を持ち続けてきた渋沢の中の熱い思いが大いに刺激され、国家に奉仕する道を選択するに至ったのである。

 こうして、明治2年、渋沢栄一は、大隈重信のヘッドハンティングにより、自分が仕えていた徳川幕府を倒した明治政府に用いられ、その後の日本の経済界を背負って立つ人間になるのである。

 渋沢は、大蔵省(現・財務省)に迎えられることになる。大蔵権大丞(おおくらごんのたいじょう:今の財務省局長級)となって、大蔵官僚としての手腕を発揮し、大蔵大輔(おおくらたいふ:財務省次官)の井上馨の片腕として、財政改革・金融改革に取組んだ。明治初期の税制、貨幣などの国家財政の基盤の確立を行なっていったのである。

 具体的には、
  ・江戸時代から続く「大福帳」を廃し「複式簿記」を導入
  ・全国の測量の実施
  ・租税制度が米及び物納となっているのを金納にかえる
  ・度量衝の統一
  ・駅伝法制定(運輸・通信)
  ・鉄道の敷設案
  ・政府間でバラバラな諸規則の統一
等々、立て続けに実施した。

 大隈重信が渋沢栄一を評した記述がこちらに記載されている。大蔵省就任当時の渋沢栄一をよく表している。

 渋沢の大蔵省での官僚生活は3年半に及んだ。しかし、台湾を征討し国威高揚を主張する外務省と、財政の健全化を主張する大蔵省の対立の中で、渋沢は政府を去ることを決意した。明治6年、官を退き実業界に入る。

 大蔵省を辞任することで、彼は自由を得た。日本の実業界の振興のために活躍する場を得たのである。水を得た魚のように、渋沢の本領は遺憾なく発揮されることになる。以降は一貫して「初志通りの」民間実業家の道を歩み、民にあっては、銀行制度、株式会社制度の立ち上げに尽力した。のちに、勅命により貴族院議員になったが、これは直ぐ辞め、大蔵大臣になれ、東京市長(今の都知事)になれ、との誘いもすべて拒絶した。昭和6年、91歳の天寿を全うするまでに、500余の民間事業、600余の社会公共事業に力を注ぎ、資本主義的経営の確立に大いに貢献した。

 渋沢は、実業の道を歩むにあたり 「論語とそろばんの一致」 を理念とした。それまで長く続いた士農工商の身分制のため、商人は「読み書きそろばん」以外は学んでいなかった。商業を活性化させるため、商人の地位を高めるため、生業を離れ組織化を図るため、商売に論語の精神を植え付け、「商売は多くの人に利益をもたらすものでなくてはならない。自己本位の儲け主義に走ってはならない。」と諭したのである。

 まず最初に、日本最初の銀行となる第一国立銀行(後の"第一銀行"、現在の"みずほ銀行") を設立し、頭取として産業の育成に力を注いだ。みずほ銀行に限らず、渋沢栄一は全ての日本の銀行にとって原点とも言える人物である。

 また、東京商工会議所東京証券取引所の前身を設立。 さらに、三井銀行、王子製紙、日本赤十字社、帝国ホテル、帝国劇場、日本郵船、石川島播磨重工、東京ガス、東京電力、札幌ビール、東京海上など約500社に及ぶ企業を設立し、その発展に貢献した。まさに、日本の資本主義の基礎を築いた人物である。

 渋沢栄一は、明治11年に東京に商工会議所を設けた。そのときの名称は「商法会議所」だった。東京の渋沢栄一、大阪の五代友厚、神戸の神田兵右衛門などの実業界の実力者が主唱して作ったのである。

●渋沢栄一と岩崎弥太郎との死闘(「三井」対「三菱」の死闘の元凶)
 明治11年8月、三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎と渋沢栄一との間で、壮絶な舌戦が繰り広げられた。隅田川の屋形船の上での舟遊びでのことである。口論は、渋沢が岩崎の経営思想を批判したことに始まる。三菱の社規「会社ノ体ヲナストイエドモ、ソノ実マッタク一家ノ家業」を鋭く突いたのである。岩崎は会社組織をとりながら、実質的、精神的にはそれを否定していた。これに対し渋沢は、合本主義、経済道徳合一主義を唱えていたから、「会社ノ利益ハマッタク社長ノ一身ニ止マルベシ」という岩崎の思想に我慢がならなかったのだ。岩崎は、「一家の事業ではなぜいかん、合本主義とはなんだ。人間をだめにする思想ではないか」と反駁した。そういう岩崎を渋沢は冷ややかな眼で見ていた。仲裁がとりなして事なきを得たが、二人の間には抜き差しならぬヒビが入った。渋沢と岩崎との対立はやがて「三井」対「三菱」の社運を賭けた死闘へと発展する。
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旧岩崎邸庭園(岩崎弥太郎の邸宅と庭園:銀座線上野広小路(台東区池之端))


 明治11年といえば、西南戦争の翌年で日本の夜明けだった。眠れる子供が目をさましたように、日本は、文明開化、殖産興業を旗印に国の歩みを進めはじめた。そのとき、幕末の開国に際し、諸外国との間に結ばれていた不平等条約を改正しろという声が、国内に起こりはじめ、その折衝には内務卿の伊藤博文、大蔵卿の大隈重信たちが当たっていた。

内務卿 伊藤博文

 英国公使パークスに、伊藤博文や大隈重信たちが「条約改正は国民の世論です」というと、パークスは「それはおかしい。いまあなた方は、条約改正は国民の世論であるといわれたが、国会も商工会議所もない日本が、どこでどのようにして国民の世論を聞く方法があるのか、そのような便利な方法があれば、不肖パークス後学のために教えていただきたい」と詰めよった。

 さすがの伊藤博文や大隈重信たちも、これには返す言葉もなかった。そこで伊藤博文と大隈重信たちは、さっそく欧米の商工会議所制度や、また寛政年間に松平定信が寛政の改革に際して江戸で始めたという町会所(現在の町内会・自治会)の制度などを調べさせてみると、どうしても商工会議所が必要だと考えるようになった。そこで、伊藤博文と大隈重信たちは相談してそういう機関、つまり「商法会議所」つくることを考え、実業家と協力して、全国の主な都市に次々と商法会議所が設立されることになった。

 渋沢栄一を中心として、大倉喜八郎、益田孝、福地源一郎、五代友厚、神田兵右衛門等の尽力があって、明治11年に、東京、大阪、神戸で商法会議所が設立された。東京では、渋沢栄一と大倉喜八郎の2人が発起人となって東京商法会議所が設立されている。その後、国内のほとんどの主要な産業都市に相次いで商法会議所の設立がみられ、明治18年には、その数は32にのぼったといわれる。

大蔵財閥の祖 大倉喜八郎
虎ノ門 ホテルオークラ 大倉集古館



 渋沢の出生地の深谷は、良い粘土が採取できるため瓦産業が盛んであり、渋沢はこれに着目し、明治20年に「日本煉瓦製造株式会社」を設立し、煉瓦(レンガ)の製造に手がけて、洋風建築を次々に作って行った。もともとレンガは、幕末まで日本にはなかった。レンガは、この時代、ヨーロッパの文化とともにもたらされた新しい建設材料だった。渋沢は、故郷の深谷で瓦製造に使われている赤土でレンガを焼くことに成功した。

  その工場で作られたレンガは、東京駅、東京大学、立教大学、日銀旧館、旧警視庁、法務省、赤坂離宮迎賓館、鹿鳴館(明治時代の迎賓館)など明治期の日本の数多くの近代建築で使われた。当時の日本には近代建築に必要な煉瓦は無く、原材料から経済を興していったのである。

 なお、東京駅や赤坂離宮迎賓館等は関東大震災にも倒壊しなかったし、現在の補強等がされたレンガ建築は関西地区において阪神地震の際にも10数棟の内、1例がひびが入った以外は被害が無かったそうである。

鹿鳴館

 JR深谷駅には、深谷のレンガが使われている。平成8年、深谷市は「レンガのまち」をPRするために、東京駅のレンガの故郷ということにちなんで、深谷駅を東京駅に模してレンガ造りに建て替えた。

 渋沢自身が経営に深く携わったのは第一銀行の他数社であり、500もの企業に関与出来たのは、企業を立ち上がると「後進」に明け渡すという手法に徹したからである。
 そして、「後進」には企業経営の規範・基準は「論語」に照らして作るように諭し、判断の悩みは「論語の物差し」に照らして決断するよう指導した。

 渋沢が三井高福・岩崎弥太郎・安田善次郎・住友友純・古河市兵衛・大倉喜八郎などといった他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「渋沢財閥」を作らなかったことにある。「渋沢財閥」 を作り巨富を得ることも当時の渋沢には簡単に出来たのであろうが、「私利を追わず公益を図る」考えを自身も生涯に渡って貫き通したのである。

 渋沢が設立に関わった企業の中には、100年たった今日まで続いている企業が数多い。これは、組織化と公益性を説いた渋沢の功績によるものでもあろう。

 渋沢は商業教育にも力を入れ、森有礼文部大臣とともに銀座尾張町(現在の松坂屋付近)で、一橋大学の前身である商法講習所の開校に努力した。商法講習所の設立は、明治8年、森有礼の私塾という形で、渋沢栄一のほか、福沢諭吉、勝海舟、大倉喜八郎、益田孝、富田鉄之助、大鳥圭介、福地源一郎、大久保一翁、箕作秋坪たちの政財界人が協力した。彼らは皆、見識と知識を備えた実業人を養成することが急務であるという点において、意見を同じくしていた。

一橋大学の前身・商法講習所跡(銀座松坂屋付近)

 慶應義塾大学の創設者である福沢諭吉は、商法講習所の設立に深く携わっており、かつてから一橋大学と慶應義塾大学は所縁の深い関係であったことが窺い知れる。

慶応義塾創始者 福沢諭吉
 
 商法講習所は、明治18年に文部省直轄となり、神田一ツ橋(現在の千代田区一ツ橋)に移転した。

 更に渋沢栄一は、慶応義塾福沢諭吉とも親交のあった大隈重信との関係で、早稲田大学の建学に協力した。こうして、明治15年、「学問の独立」の早稲田のスタートにより、「独立自尊」の慶應義塾とともに、日本の近代の私学教育の基礎が築かれたのである。

 福沢は盟友の大隈が早稲田を創るときに、多くの慶応の優秀な人材を早稲田に送り込んだ。そして、福沢は既に亡くなっていたが、2人の念願であったベースボール早慶戦が明治36年に行われ、始球式では大隈が球を投げた。慶応と早稲田は、ライバルであり、また校風は違うが、当初から深い友情で結ばれていたのである。そして、そこにはいつも渋沢栄一がいた。

『幕末早慶戦! 大隈重信と福沢諭吉』
グローバルネットワーク 平成世直し劇 第四弾
(2005/9/4 日比谷公会堂)


 また、渋沢は、大倉財閥の大倉喜八郎との関係で大倉商業学校(現・東京経済大学)の設立に協力、さらには、女子教育にも力を注ぎ、伊藤博文との交友から東京女学館の創立に参画、新島襄・福沢諭吉とともに明治の三大教育者の一人 と言われる成瀬仁蔵に協力して日本女子大学を創立するなど、人材の育成に努めた。

 こうして、渋沢栄一によって、明治時代、今日の日本経済と教育の基礎が確立されたのである。

 近代自由主義経済の基礎を築いた渋沢は、少年時代から愛読していた「論語」を基に、「道徳経済合一説」を唱え、相愛忠恕(そうあいちゅうじょ:真心と思いやり)の心をもって、国民生活の向上のために生涯をかけて行動した。
  
 渋沢は、大正5年、70歳で実業界から引退するが、その後も社会公共事業国際親善に力を注いだ。

友情の人形(青い目の人形と日本人形)

 野口雨情作詞、本居長世作曲による『青い目をしたお人形はアメリカ生まれのセルロイド、日本の港に着いた時、一杯、涙を浮かべてた。私は言葉がわからない、迷子になったら何とせう? 優しい日本の嬢ちゃんよ、仲良く遊んでやっとくれ』という童謡がある。

 大正天皇の崩御により、欧米で勉強しておられた三笠宮殿下が、昭和2年に帰国されたが、そのとき同じ船に乗って、12,739体の人形が、アメリカから日本の幼稚園や小学校へ寄贈された。この童謡「青い目の人形」は、そのときに盛んに歌われたという。

 当時、世界的な不況で日米間の関係が悪化し、日本人を対象にした「新移民法」などが出来たが、これを憂えた渋沢栄一と親日家のギューリック牧師とが提唱して、日米外交の一環としてアメリカから日本に人形が贈られたのである。これらアメリカから来た人形はベティちゃん、メリーちゃん、ヘレンちゃんなどの名前が付けられていたという。
    
 日本側では、アメリカのように沢山の人形は作れないものの、数は少なくても最高の人形を答礼として用意しようということになり、アメリカ全州と6大都市には行き渡るように、日本代表、各都道府県、六大都市などあわせて58体の高級な日本人形が製作された。人形にはそれぞれの県の名前をつけられ、「ミス広島」「ミス岡山」などと呼ばれた。「友情の人形」である。
 
 童謡「青い目の人形」は、この「友情の人形」とは関係なく、その6年前、大正10年に野口雨情が発表し広く歌われていたものであるが、「やさしい日本の嬢ちゃんよ なかよくあそんでやつとくれ」という歌詞は、人形歓迎にぴったりで、盛んに歌われたという。

渋沢栄一は、このように人形を通じて日米の関係改善に努めた。

青い目の人形

 明治33年(1900)男爵、大正9年(1920)子爵。

 1931年(昭和6年)11月11日、王子飛鳥山の自宅で永眠。91年の生涯であった。

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みずほ銀行本社ビル(千代田区内幸町:旧第一勧業銀行)

 第一国立銀行は、1896年に第一銀行と改称。古河財閥のメインバンクとなる。1943年に三井銀行と合併し帝国銀行となるが、旧三井銀行との内部対立などから1948年に分離し、第一銀行に戻る。1971年に日本勧業銀行と合併し第一勧業銀行(DKB)となる。2002年に、富士銀行(旧 安田財閥)、日本興業銀行(興銀:元 国策銀行で日鉄日産日立系)と分割合併し「みずほ銀行」、及び興銀を母体とする「みずほコーポレート銀行」となった。

 ちなみに、「みずほ(瑞穂)」は、「みずみずしい稲の穂」をあらわす言葉であり、「みずほの国」は、実り豊かな国を意味する日本国の美称として用いられている。

一橋大学"兼松講堂"(東京都国立市)

一橋大学同窓会館"如水会館"(千代田区一ツ橋)

 商法講習所は、東京都国立市及び小平市にある一橋大学の前身である。1920年に、商法講習所を東京商科大学に改称。1923年、 関東大震災により神田一ツ橋の校舎が被災。1933年に予科を小平市に、専門部などを国立市に移転した。1949年、新制大学となり、旧所在地の地名にちなんで一橋大学と改称した。

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●渋沢邸
 以下、3つの渋沢邸について記す。

(1)三田邸--青森県三沢市の古牧温泉(こまきおんせん)に移設
   明治9年に渋沢栄一は東京三田に最初の屋敷を建てた。屋敷は、現在のスーパーゼネコン清水建設
   の創業者である名棟梁・清水喜助の手になった。その後、孫の渋沢敬三(元日銀総裁)が洋館を増築
   している。
   三田の旧渋沢邸は、昭和36年に「古牧旧渋沢邸」として、青森県三沢市の「古牧温泉・渋沢公園」に
   移設展示された。三田の跡地は渋沢敬三の寄贈により全省庁共用の三田共用会議所となっている。
   「古牧温泉・渋沢公園」は、かつて「にっぽんの温泉百選」で9年連続1位に輝いたところである。 
   青森の観光の拠点であり、ここで青森観光の半分は楽しめるという。
(2)飛鳥山別邸--現在の渋沢史料館
   明治11年、 渋沢栄一は飛鳥山(現在の北区王子 飛鳥山公園)に別荘「曖依村荘(あいいそんそう)」を
   設けた。昭和57年、「曖依村荘」跡に渋沢史料館が建てられた。そして、清水建設の施工により平成10年
   に史料館本館が新築開館した。渋沢栄一に関する登録博物館である。
   日本の近代経済社会の基礎を築き生涯にわたる渋沢栄一の資料を収蔵、展示している。
   曖依村荘の敷地は、現在約半分が都立飛鳥山公園の一部に、半分が渋沢栄一記念財団の管理する
   渋沢庭園となっている。
(3)飛鳥山本邸--現在の晩香廬と青淵文庫及び渋沢庭園
   明治34年、渋沢栄一は三田の本邸から王子の飛鳥山に移り、亡くなる昭和6年迄ここを本邸とした。
   本邸は、昭和20年に太平洋戦争の戦火で建物の大部分を焼失したが、
   焼け残った「青淵文庫(せいえんぶんこ)」と「晩香廬(ばんこうろ)」という大正期の二つの建物が
   東京都歴史的建造物として保存されており、渋沢庭園と共に一般公開されている。
   晩香廬は、大正6年に建てられたもので、渋沢栄一の喜寿を記念して清水組(現・清水建設)から贈られた
   木造の洋風茶室である。
   様々な建築様式を取り混ぜ趣向を凝らした小建築で、賓客の接待に用いられた。
   青淵文庫は、大正14年に建てられたもので、渋沢栄一の傘寿と子爵昇爵を祝って、
   渋沢栄一の門下生の会である竜門社会員から贈られた鉄筋コンクリート造2階建ての書庫である。
   焼失した本邸跡地は「渋沢庭園」となっており、2つの文化財(晩香廬、青淵文庫)と共に、飛鳥山公園内に
   一般公開されている。

飛鳥山公園の渋沢庭園「青淵文庫」
  

 ●飛鳥山公園
飛鳥山公園

  飛鳥山公園は、JR京浜東北線王子駅南口から歩いて6分のところにある。都内屈指の桜の名所であり、江戸時代の物見遊山のメッカ。徳川吉宗が1000本を越える桜を御殿山(井の頭)・小金井・隅田川ともども移植したのが始まりとされる。

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タイトル (本文) ブログ名/日時
【龍馬伝】 龍馬と弥太郎
♪ 土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし買うを見た      よさこい よさこい ...続きを見る
matiere
2010/01/08 19:52

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
渋沢栄一の「相愛忠恕」(そうあいちゅうじょ)の言葉

  「人情を理解し、己の欲せざる所は これは人に施さず、
   いわゆる相愛忠恕の道をもって相交わるにあり。」

「相愛忠恕」は、真心と思いやりを意味する。
渋沢栄一は「論語と算盤」の中で、随所に「忠恕の道」という言葉を使っている。
Matiere
2009/09/03 20:20
あなたは、いい人だ
鳩山ゆきお
2010/02/23 14:29

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【歴史】渋沢栄一 〜 日本の将来を決定づけた明治の大実業家 matiere/BIGLOBEウェブリブログ
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