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zoom RSS 【歴史】ヘレニズム世界を背負った美女〜クレオパトラ

<<   作成日時 : 2004/09/02 00:51   >>

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古代エジプトの3大美人、それはネフェルティティ王妃、ネフェルタリ王妃、そしてクレオパトラ女王(7世)である。しかし、ネフェルタリ以外はエジプト人ではない。

 クレオパトラはマケドニア出身のアレクサンドロス大王の武将プトレマイオスの流れを汲むギリシャ人なのである。さらに今日に伝わる女王像はどれも「おそらく?」という注釈付きで、彼女の容貌については本当のところ謎である。

 しかし、カエサル(英語読み=シーザー)、アントニウス(英語読み=アントニオ)と次々に時の支配者たちを虜(とりこ)にしていったのだから魅力的であったことは疑いないだろう。そして、牛乳風呂で育まれた白い肌に施した化粧はもちろん美しかっただろうし、彼女はバラを大変好み、いつもかぐわしい芳香に包まれていたという。またクレオパトラには才能もあった。特に語学の才能はすばらしく、当時、地中海世界で話されていた言葉をすべて流暢に操ることができた。その才能はやがて外国との交渉で威力を発揮することになる。さらに、ユーモアに富んだ会話を楽しんだとも言われている。そういった高度な演出がクレオパトラを2000年もの間、絶世の美女として語り継がれている所以なのである。

だが、絶世の美女と言い伝えられる彼女の真の魅力は、その容貌ではなく、知性の高さと教養の深さにあったという。それが、「美」という言葉に象徴されているのではなかろうか。クレオパトラの時代、学校が一番力を注いだのは文学の授業であった。クレオパトラも、ホメロスやヘシオドスの詩に親しみ、エウリピデスの悲劇やメナンドロスの喜劇で人間を理解し、ヘロドトスやトゥキディデスの書物で歴史を学んだ。修辞学はギリシャの雄弁家デモステネスの演説集を使って勉強した。また、肉体的な鍛練も怠らなかった。クレオパトラは、乗馬の名手であった。彼女はまた科学にも興味を示していた。

彼女の美しさに対する批評はさまざまではあるが、彼女がはかりしれない魅力を持った女性であったことは否定できない。クレオパトラの魅力は、彼女が話をするときに最大に発揮された。声の魅力に加えて豊かな知性と生き生きした態度が彼女をいっそう魅惑的にする。だが、彼女は外見的な魅力も備えていた。自分を美しく見せるために、彼女は宝石や香水を利用し、髪型や化粧も工夫した。それに衣装・・・純白の衣装をまとい、金のブローチや真珠のネックレスをつけた彼女は、さぞかし見るものの心を惑わせたに違いない。

クレオパトラは、その政治的手腕もすばらしかった。彼女は王位につくと、歴代の王たちと同様、ピラミッド型に形成された官僚組織の上に君臨して、政治を行った。クレオパトラの仕事は、財務長官の補佐を受けて、官僚たちの仕事を監督することである。だが、自ら請願書に目を通し、王としての判断を下すことも多かった。

クレオパトラを取りまく状況は厳しかった。官僚組織は硬直化していたし、民主主義の台頭によって、土着のエジプト人の反乱も起こっていた。また、前50年と前49年の飢饉は、農民の一揆を誘発していた。国際的に見ても、通貨の価値が下がり、エジプトは半ばローマの属国化していた。こういった内憂外患に加えて、お家芸の内紛がある。弟のプトレマイオス13世は、後見人に操られてクレオパトラを王座からひきずりおろそうとしていた。また妹のアルシノエもひそかに王位を狙っていた。

 そういったなかで、クレオパトラはすばらしい政治的手腕を発揮した。まず平価を3分の1に切り下げ、エジプト経済を支えていた輸出を容易にした。また、急速に勢力を拡大していた神官階級や、土着のエジプト人に向けて新しい宗教政策をとり、国内の安定をはかった。対外的には、東方世界のほとんどに軍を駐屯させていたローマの力を考え、ローマと対立することを避けた。

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 彼女は、プトレマイオス12世の娘として紀元前69年に生まれた。前51年、プトレマイオス12世が死んだあと、父12世の遺言によって、18歳の姉クレオパトラは、10歳の弟プトレマイオス13世と結婚して共同で即位した。このときから10年間、プトレマイオス朝のなかでも最も波瀾に満ちた終幕の舞台が繰り広げられる。強大になったローマがまさにエジプトを飲み込もうとする時代のことである。

 エジプトの王室では、古くから、兄妹・姉弟が結婚して王位につく慣習があった。これは、ファラオと最もつながりが近い姉妹から王妃をえらび、神の化身であるファラオの神聖さを保とうという考えにもとづくものである。この伝統に従ったプトレマイオス朝のしきたりにより、クレオパトラは弟と形の上だけの結婚をして即位したのである。

 だが、王位をめぐる争いはたちまち起こった。王位継承から3年後の前48年、幼いプトレマイオス13世の後見人であった教育係テオドトス・陸軍司令官アキラス・宦官ポティノスの陰謀によってクレオパトラは王宮から追放されてしまう。クレオパトラはアレクサンドリアから東方に逃げ、アラブ人兵士を集めて反撃に出ようとした。

 この頃には、プトレマイオス王朝初期に繁栄していた国の面影は、もはやエジプトにはなく、地中海世界の勢力の中心は、ローマへと移っていた。その強国ローマは、豊かな国土を持つエジプトを征服すべく機会をうかがっていた。ローマは、不安定なプトレマイオス朝の弱みにつけこんで、思いのままに王をあやつるようになった。

 ちょうどその頃、ローマでは、政権をめぐって、カエサル(シーザー)とローマの実力者ポンペイウスが正面衝突した。クレオパトラが王になった5年後、ポンペイウスがカエサルに敗れてエジプトに逃れてきたことで、エジプトはローマの政争に巻き込まれてしまうのである。

 ガリア(今のフランス)を征服してローマにもどったカエサルは、ポンペイウス軍をギリシャで打ち破った。ポンペイウスは、エジプト王の援助を受けようとアレクサンドリアに逃げてきた。だが、ローマに反感をもつプトレマイオス13世は、助けるとみせかけて迎えの小舟を出し、このローマ第一級の政治家が小舟にのり移ったとき、そこに潜ませた刺客に殺させた。その3日後、ポンペイウスを追ってきたカエサルも、初めてアレクサンドリアに上陸し、暴徒化した民衆に襲われながらも、やっとのことで王宮に入った。その時、クレオパトラは自分の若さを武器にカエサルの権力を利用する決断をしたのである。

 2週間の間にエジプトの状況をのみこんだカエサルは、まずクレオパトラを呼びよせた。宮殿の内外はみなプトレマイオス13世の一派である。クレオパトラは、自ら裸体になってじゅうたんに包ませ、腹心の従者に命じて夜陰にまぎれ、カエサルの部屋に運ばせた。見張りの者は誰もあやしまなかった。

 カエサルは、王からの贈物だというそのじゅうたんを広げさせた。中からあらわれた女性の魅惑のまなざし、高い鼻、きれいな歯、なめらかな肌は、52歳の分別にとんだ政治家カエサルの心さえ、劇的な出会いの一瞬においてたちまち捉えてしまったのである。52歳のカエサルが21歳のクレオパトラの若さと、洗練された身のこなしの虜になったことはいうまでもない。クレオパトラの見事な演出であった。

 翌朝、姉と弟を和解させようと、カエサルは13世を呼びだしたが、13世は姉を見るなり怒って王宮を飛び出した。次の日、カエサルは首都の群衆にむかって、13世とクレオパトラがエジプトの共同統治者であると宣言した。

 しかし、その数日後、エジプト軍と群衆がカエサルたちを包囲した。戦闘がはじまった。多勢に無勢、カエサル軍はさんざんな目にあったが、やがてシリアから援軍がかけつけ、形勢は逆転した。プトレマイオス13世は、小舟で逃げようとしたが、人が乗り込みすぎて舟は転覆し、溺死してしまった。

 戦争が終わり、クレオパトラはカエサルの保護を受けて、エジプト王の地位をしっかり手に入れた。翌年、クレオパトラは、カエサルの子を身ごもり、出産する。子の名前は、カエサリオンといった。後のプトレマイオス15世である。カエサルがローマに凱旋すると、クレオパトラとその子カエサリオンも呼び寄せられ、客としてカエサルの妻と一緒の生活に入ったのだ。

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 しかし、波瀾はなおつづく。

 カエサルは、かつてアレクサンドロス大王(アレキサンダー大王)が建設したギリシャからインドの境界までに及ぶヘレニズムの帝国に匹敵する、ローマを中心にした帝国を夢見ていた、共和国ローマの最高の地位は、コンスル(執政官)という官職であったが、前44年に、カエサルはコンスルよりも権限の大きいディクタトル(終身独裁官)というポストを新設して自ら就任すると、すぐれた手腕を発揮して数々の政治改革を実現させた。

 カエサルは、実質的には皇帝となり、共和制から帝政への移行を図ったのである。しかし、たとえそれが市民の支持を受けた善政であったにせよ、共和国の伝統を守ろうとする元老院にとっては許されないことであった。カエサルは、その独裁を許さない姪の息子オクタヴィアヌス(カエサルの養子)によって、ブルータスらの手にかかり暗殺された。

 このときカエサルは、「ブルータス、お前もか」と叫んだといわれるが、これはシェークスピアの悲劇「ジュリウス・シーザー」の台詞で、史実ではない。また、「わが息子よ、お前もか」と叫んだという説もある。カエサルの片腕だった部下のブルータスは、彼の実子だという噂をもとにしたもので、これも根拠はない。

 カエサルの死によって、ローマは内乱に突入する。それは、カエサルの養子オクタヴィアヌスと、カエサルの部下でコンスルであったアントニウスとの地中海を2分しての争いであった。その争いのもとは、アントニウスが、教養と野心に富むクレオパトラに惑わされたためである。

 アントニウスはエジプトに赴き、そこでクレオパトラと恋におち、妻のオクタウィア(オクタヴィアヌスの姉)を離縁して、クレオパトラと結婚した。アントニウスは、クレオパトラに贈物として、エジプトと、当時ローマの支配下にあったシリアの一部を与えた。アントニウスは、クレオパトラと組んで東方帝国を建設し、ローマから分離することを画策する。プトレマイオス朝の玉座を死守しようとするクレオパトラは、新しくエジプトの実力者となったアントニウスのもとに、エジプトの支配者となり、息子カエサリオンを王位継承者とし、エジプトの領土を回復し、王国の存続に尽力するのであった。

 アントニウスから東方領土を譲り受けたとき、クレオパトラは35歳にすぎなかった。クレオパトラは若くして、プトレマイオス帝国を復活させたのである。だが、その帝国もアントニウスの後ろ盾なしには維持することができない。一方、アントニウスも、オクタヴィアヌスと対抗するのにエジプトの力が必要だった。ローマでは、オクタヴィアヌスが攻撃の機会を狙っていた。両陣営は静かに刃を研いでいた。戦争は避けられなかった。

 アントニウスとクレオパトラの結びつきに、すぐさまローマは反応した。オクタヴィアヌスは二人の野心を許さず、ライバルを取り除くこの好機をとらえ、前31年、ギリシャ西部のアクティウムでアントニウスと会戦した。これが世にいう「アクティウムの海戦」である。クレオパトラは、夫アントニウスとともに参戦したものの、アントニウスはあえなくオクタヴィアヌスに敗れてしまう。オクタヴィアヌスの操船に優れた艦船は、アントニウスの部隊に優り、アントニウスはクレオパトラとともに逃走した。指揮官を失って取り残されたエジプト艦隊はローマ軍のなすがままとなり、完全に潰滅した。

 クレオパトラはアクティウムの海戦で敗戦は喫したものの、惨めな姿でエジプトに戻りたくなかった。艦隊を花輪で飾ると、あたかも勝利を収めたかのようにアレクサンドリアに帰港した。だが、オクタヴィアヌスの手がすぐそこまで迫っていることは、よくわかっていた。

 そのころ、オクタヴィアヌスは東方に進撃を開始していた。西からはガイウス=コルネリウス=ガルスが攻め込んでくる。エジプトは、両側から挟み撃ちにされた。アントニウスとクレオパトラはオクタヴィアヌスと交渉することにし、使者を送った。アントニウスは、あらゆる権力を放棄し、普通の市民としてエジプトかギリシャで暮らすつもりだと申し出た。だが、オクタヴィアヌスはその申し出を無視し、使者を遣わして、クレオパトラに交渉を持ちかけた。正式に退位するなら、命は助けよう、そのかわりアントニウスを処刑してくれ、というのである。クレオパトラは拒否した。この間におそらく死を覚悟したのだろう、クレオパトラはさまざまな種類の毒薬を集めたと同時に、代々の王たちにならって、霊廟を作らせた。

 アントニウスは王宮に戻ると、思いがけない知らせを耳にする。クレオパトラが霊廟にたてこもって、命を断ったというのである。アントニウスは自ら腹に剣を突き刺した。そのとき、クレオパトラの秘書が現れ、女王は生きていると告げた。アントニウスは虫の息で、クレオパトラの霊廟に運んでくれといった。だが、霊廟は固く扉を閉ざしてあったので、クレオパトラが明りとりの窓から綱をおろし、侍女たちに手伝わせてアントニウスを運び入れた。アントニウスは、悲しまずに生きてくれ、自分の死は不名誉なものではないのだからと言うと、クレオパトラの腕の中で息をひきとった。前30年のことである。アントニウスの自殺により、クレオパトラの野望は露と消えた。

 オクタヴィアヌスは、クレオパトラを生きたままローマに連れて行けば、凱旋式がさぞかし華やかなものになるだろうと考えていた。だが、クレオパトラは死ぬつもりでいた。ローマに出発する日は3日後に迫っている。もう、時間はない。クレオパトラはアントニウスの墓にお参りをすると、最後の支度をすませた。それから、豪華な食事をとり、オクタヴィアヌスに手紙を送り、自分の遺体はアントニウスのそばに葬ってほしいと伝えた。オクタヴィアヌスはすぐに部下を遣わしたが、そのときはもう遅かった。女王は静かにベッドに横たわっていた。その近くでは、二人の侍女が息をひきとろうとしていた。女王はどうやって死んだのか、その真相は誰にもわからなかった。一説には、失意のクレオパトラは、王宮で、毒蛇に胸を噛ませて命を自ら絶ったといわれている。

 このときクレオパトラは39歳、まだまだ女盛りの年齢である。最後の策略を用いて巧みにオクタヴィアヌスを欺くと、クレオパトラは、たった一つ残された自由、すなわち死を選んだのである。オクタヴィアヌスは憤激したものの、女王の立派な態度に感服し、遺言どおり、その亡骸をアントニウスの傍らに葬った。

 命がけでエジプト王国をローマから守ろうと、その一生涯を捧げた伝説の女王クレオパトラ。しかし、その努力の甲斐もむなしく、約3000年にわたる古代エジプト王朝の歴史は、ついに幕をおろしたのである。この古代エジプトの終焉をもって、ヘレニズム三国はすべて滅亡したわけである。

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
クレオパトラ7世について、興味深く読ませていただきました。
タイムマシンがあればその容姿を見てみたいものです。
たま
2010/03/22 15:31

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